壊れた人形のように
「それで……何しに来たの……ハル」
低い声で途切れ途切れに言われ、ギクリとする。
慌ててミシュア姉さんの様子を窺うと、特に怒っているわけではなさそうだった。相変わらず無機質な、暗い目をしている。
「何しにって……その、報告というか……」
「そう。元気?」
「え、あ、はい。姉さんは?」
「……いつも通りよ……」
いつも通りと言われると反応に困る。
ミシュア姉さんの場合いつもが鬱状態なので、どうにも言いようがない。
「そ、そう……。僕がいない間、何か変わったこととかなかった?」
「別に……」
ぼそりと呟くと、興味がなさそうに下を向く。ミシュア姉さんの態度に余計に何を言ったらいいかわからず、僕も口を閉ざす。
しかし、重い沈黙は一瞬でぶった切られた。
「おい、あんた達!私を差し置いて何話してんだ!」
「……ああ、ステラまだいたの……」
「まだってさっきからいるわよ!何!?私に喧嘩売ってんの上等だ買ってやるわ!」
「だから喧嘩はやめてよ姉さん!」
「黙ってろクソヘタレの出来損ないの愚弟!」
とんでもない罵詈雑言と殺気のこもった睨みに負けて押し黙る。
ステラ姉さんはきつい双眸をぎりぎりいっぱいまでつり上げ、ミシュア姉さんに掴みかかった。
「私よりハルの方が好きなのは知ってるわよ!ブラコンだからねあんたは!でも、私の目くらい見なさいよっ」
ステラ姉さんが怒鳴っても、ミシュア姉さんは顔色一つ変えない。それどころか、迷惑そうに唇を歪め、
「何」
「えっ」
「用があるならさっさとして。邪魔なの」
さっきまでの危うい話し方が嘘のように、声が鋭くなる。
嫌な予感がする。
出来れば逃げだしたい。
ステラ姉さんは驚いた異様に目を見張り、ついでキッと睨んだ。
「お姉ちゃんは知らないだろうけど、今日はお客様が来るのよ。ハルの婚約者候補のね」
「なっ……ステラ姉さん!それは」
「黙ってろって言ってんでしょ!」
僕を怒鳴りつけ、すぐにミシュア姉さんの方に向きなおる。
「相手はネーフェ侯爵家の娘。今日、パーティーが開かれるわ」
「姉さんっ!」
「だから、お姉ちゃんも参加して」
ステラ姉さんの顔がくしゃりと歪んだ。
「ハルのことは嫌いじゃないんでしょ。だったら、せめて弟のために出なさいよ。……いつまでも重荷を背負わせるな」
ズキリと胸の奥が痛んだ。
ステラ姉さんが僕をミシュア姉さんのところへ連れてきた理由が、やっとわかった。
僕のトラウマを、一つでも減らそうとしてくれていたんだ。
だから、わざとミシュア姉さんにきつく当たっている。
いつもそうだ。
僕ら姉弟は、いつもいつも歪んでいる。
僕もミシュア姉さんも欠落品だから、その分ステラ姉さんが頑張らなきゃいけなくなってしまった。僕達の、せいで。
姉さん、ごめん。
「……ステラ姉さん」
ぼそりと呟くと、ステラ姉さんはきつい眼差しを僕に向けた。
「シケタ面を私に見せないでくれる?……いいからすっ込んでろ」
「でも、姉さん」
「いいから。……で、返事は?お姉ちゃん」
ミシュア姉さんはゆっくりと瞬きをした。そして、ぎこちなく唇の端を持ち上げる。
「用はそれだけ?」
何を言われたのか理解できなかった。
ステラ姉さんも凍りついたように動かない。
ミシュア姉さんだけが、歪な笑顔を浮かべて僕らを見据えている。
「それだけなの?……なら、私は部屋に戻るわ……」
言い放つと、扉の取っ手に手をかける。それをステラ姉さんが止めた。
「待ちなさいよ!」
「……何」
「まだ、答えを聞いてない!」
「……答え?……ああ……そうね。じゃあ、教えてあげるわ」
ミシュア姉さんは目を伏せ、天井を仰いだ。
「いかない。興味ないから」
僕の中で、何かが崩れる音がした。
ミシュア姉さんは上を向いたまま、淡々と言葉を紡ぎ出す。
「私は……あなた達が馬鹿らしくて仕方がないの。精一杯生きて、ボロボロになって、裏切られて。一体、何のために生きてるの?ふふふ、あなた達には、わかる?……人間ほど愚かな生き物はいないけど、その中でも……日常とやらを過ごしている人間は、最下層のクズね……。そう思わない?」
ミシュア姉さんの声は、こんなに冷たかっただろうか。
こんなに壊れていただろうか。
あれ?以前のミシュア姉さんが思い出せない。
「だからね、ステラ。あなたにも、両親にも興味がないわ。あなた達は、何もわかっていないんだもの。……でも、ハルは好きよ。ただし、今のハルは嫌い」
「どういう……意味」
掠れた声で尋ねると、ミシュア姉さんは壊れた人形のようにガクリと首を傾け、
「……それは、自分で考えて?……じゃあ、またね。ステラ、ハル」
奇妙なステップを踏み、重い扉の向こう側にとびこむ。濡れたような黒髪がふわりと舞いあがって、闇の中に消える。
ガチャリと鍵が閉まる音がした。
取り残された僕とステラ姉さんは、ただ呆然と扉を見つめていた。
痛い。
胸が痛い。苦しい。
駄目だ。誓ったんだ。
役目はここで終わり。あとはあの人から守るだけ。
大丈夫。笑える。きっと、大丈夫。
なのに、どうして?
何で、何も見えないの。
涙が止まらない。あれだけ泣かないと誓ったのに。
魂が抜けてしまったかのように全身に力が入らず、どうしようもない絶望だけが無限に込み上げてくる。
狂おしいほどの愛情。
ある意味、自分とあの人はとてもよく似ている。
苦しい。苦しい。苦しい。
きっと、彼のせいだ。
彼が、昔と同じあの顔で、昔と同じ言葉を告げたから。
あの笑顔を誰よりも愛している。あの笑顔を見ることができれば、命だっておしくない。そう、思っていた。
「思ってたんだけど、なぁ……」
ズルイ。あの日に、あの時に、使うなんて。
焼けつくような痛みが、狂ったような痛みが、本当の気持ちを訴える。
もういっそ、死んでしまいたかった。
肩を思い切り揺さぶられ、視界がぶれる。それと同時に遮断された思考が戻ってきた。
「いつまでぼーっとしてるのよ」
怒ったような声と共に、無理矢理引っ張り上げられる。
「……ステラ姉さん?」
現在ステラ姉さんは、ものすごく不機嫌な顔をしていた。ギラギラと不吉な光を放つ目が、僕を睨みつける。
「この私がこんなところであんたなんかを待ってやったんだから、感謝しなさい」
「……はあ」
首を傾げる。
ふいに、さっきの記憶が蘇った。
暗く冷たい、無機質な瞳。壊れた人形のような動作。
扉の向こうで、ミシュア姉さんは今、何を考えているんだろう。
重厚な扉をぼんやり見つめる。不思議と自分の感情が見つからない。どこかでまだ、思考は斬られたままなのかもしれない。
と、突然、後頭部に鈍い衝撃がはしった。
「いたっ!?」
「ほら、愚弟。まだ行くところあるって言ったでしょ。さっさと行くわよ」
僕の後頭部を遠慮なくグーで殴り、平然と言う。むしろ、かなりスッキリした顔をしている。
「……姉さん、痛いよ」
「はあ?それくらい我慢しなさいよ。男でしょ?」
酷すぎる。
思わず溜息をついた瞬間、再び拳がとんできた。