二人の姉
久しぶりに帰ってきた家は、何一つ変わらないようだった。
温かく平和で、中途半端に欠けた世界。
まるで、時が止まったまま。
僕は居間の座り心地のいい椅子に座って、現在居心地の悪さを味わっていた。
「どうだった?噂の第四王女様は」
「絶世の美少女だと聞いたけど、本当だったかい?」
帰ってくるなり、父さんと母さんが矢継ぎ早に質問してくる。もうずっと。
特に母さんなんか目が活き活きしていて、若返っている。一体なんなんだ!
僕は取り合えず逃げるために苦笑した。
「あの……とりあえず休ませてほしいんだけど。久しぶりの家なんだし」
すると、異常に興奮して身を乗り出していた父さんと母さんが、そっと顔を見合わせた。
父さんは一つ息を吐くと、穏やかに笑って言った。
「うん、そうだな。ちょっと焦りすぎたかもしれない。……で、リラ様は美しくなられていたか?」
結局そこか!
父さんとはどうしてもリラ様のことが気になるらしい。まあ、当然か。
リラ様はクラウス様と並ぶ美貌の王女と噂されながら、一度も公にでたことのない唯一の王女なのだから。
王様がひた隠しにする、絶世の美姫。
有力な貴族ですらその顔を見たことはほとんどないらしく、つまり僕は異例なのだ。
気になっても仕方ない。
僕は半分呆れて溜息をついた。
「まあ……確かに綺麗な人だったよ。ものすごくね」
「あら、どのくらい?」
今度は母さんが尋ねる。
「ど、どのくらいって、すごくとしか……」
思わず口ごもった。
初めて会った時、天使か妖精のようだと思ったけれど、それを両親の前で口にできるほど僕はイタイ奴じゃない。
ていうか、本当に何でリラ様のことばかり聞くんだ。そりゃ、気になるだろうけど。
「お母さんやお姉ちゃんよりも綺麗って言えばいいじゃない、愚弟。家族相手に真剣に悩んじゃって、馬鹿らしい」
突然、傲慢すぎる罵声が耳に届いた。
父さんと母さんが同時に眉を潜める。
「ステラ、ハルを愚弟と呼ぶのはいい加減にしろと言っただろう?」
「愚弟を愚弟と呼んで何が悪いの。全く、お父さんもお母さんも、ハルやお姉ちゃんに甘すぎるのよ」
苛立たしそうに吐き捨てると、ステラ姉さんは僕に近づいてきた。
「取り合えず言ってあげるわ。お帰り」
「えーっと……ただいま?」
遠慮がちに返すと、強烈な目力を誇る目で睨まれた。
姉さん、怖すぎます。
「……あんたが馬鹿なのはとっくに知ってるから、別にいいけど。私はあんたに用があってきたのよ」
「へ?」
「この私がわざわざ仕事休んできてやったんだから、感謝しなさいよね」
いやあの、何言ってるんだよステラ姉さん。
「はい、じゃあ行くわよ」
「いやだからどこへ。用って何?」
「あんたはついてくればいいの」
そう言うと強引に腕を掴まれ、僕は椅子から引きずりおろされた。
「いたっ!……ステラ姉さん、乱暴すぎ」
「黙れ」
ギロリとに睨まれ口をつぐむ。
助けを求めて父さんを見ると、いつになく厳しい顔をしていた。
「いい加減にしなさい、ステラ」
「……何よ」
「ハルは帰ってきたばかりなんだから、後にしろ。それに、今夜の準備だって……」
「ちょっとだから大丈夫だって。それにこいつ、体だけは丈夫だし」
ステラ姉さんがちらりと僕に目をやる。
そりゃまあ、毒を食らっても大量出血しても死ななかった程度には丈夫だけど。
「あんまり気が進まな……」
「あんたの意見は聞いてない」
でしょうね。
「ホントに急用なのよ」
「だけどね、ステラ。ハルはきっと疲れてるわよ?帰ってきたばかりなのに……」
母さんは心配そうに綺麗な顔を曇らせる。その様子に、思わずギクリとした。
一瞬、ミシュア姉さんに見えた。
もともとミシュア姉さんは母さん似だ。異国風の黒髪に黒い目、やや人形じみた顔立ちがよく似ている。
そして、不安そうな表情をすると、驚くほどそっくりなのだ。
これ以上母さんのそんな顔を見たくなくて、僕は笑顔を作りながら言った。
「大丈夫だよ、母さん」
それでも、母さんは不安げなままで。
一刻も早く、ここから逃げたかった。
「いいよ。ついていく」
「初めから素直に聞けばいいのに。ほんっとクソ生意気なんだから。……ほら、さっさと行くわよ」
「うん」
立ち上がって姉さんの後を追う。
一度だけ振り返ると、父さんは硬い表情で、母さんは寂しそうに僕らを見つめていた。
ステラ姉さんは振り返りもせずにスタスタと階段を上っていく。その先にある目的地に、微かに恐怖を抱いた。
ごくりと唾を飲み込む。
「あ、あのさ、ステラ姉さん」
「何よ」
「どこに行こうとしてるの?出かけるんじゃないの?」
「出かけるわよ、後でね」
後で。
その言葉に嫌な予感が高まる。
「じゃあ……今は?」
ピタリとステラ姉さんが足を止めた。そして、ひどく淡々とした口調で、
「そんなの、言わなくたってわかるでしょ」
すぐに歩きだす。
しかし、僕はついていくことができなかった。
嫌だ。怖い。行きたくない。
だって、その先にあるのは……。
「何固まってんの?」
苛立ったような声に我に返ると、ステラ姉さんが僕のすぐ傍まで戻ってきていた。
きつくつり上がった緑の瞳が、ふっと和らぐ。
「あんた、いつまで逃げるつもりなの?それとも、お姉ちゃんが嫌いなわけ?」
「そんなこと……!」
嫌いなわけない。
嫌いだったら、こんなに苦しまずに済んだのに。
「だったら、顔見せるくらいはしなさいよ。別に取って食いやしないわ、お姉ちゃんだって」
「でも……」
「あー、もうっ!ホントに馬鹿ね、この愚弟!」
ステラ姉さんは僕の腕を掴むと、問答無用で引っ張っていく。
「え、あのちょっと!ちょっと待ってよ!」
「黙れ。あんたは私に引っ張られていればそれでいいの」
何という上から目線。僕は呆れて何も言えなくなった。
僕の腕を掴んでいる手は、日頃から鍛えているせいで女性にしては厚くて硬い。でも、温かかった。
ステラ姉さんは傲慢で自分勝手で、高飛車だ。でも、強い。そして優しい。
昔から、嫌がりながらも僕の面倒を見てくれた。
そういえば僕ら三姉弟の中では、ステラ姉さんが一番まともなんだっけ。
壊れた姉と狂った弟に挟まれるのはさぞかし大変だろうなと他人事のように考える。
「はい、到着」
重厚そうな扉の前に立つと、ステラ姉さんは独り言のように呟いた。そして不快そうに眉を潜める。
「本当は愚弟なんかじゃなくて、師匠とかにきてもらえたらよかったんだけど」
「……だったら師匠呼べばよかったじゃないか。いたよ、城に」
「そんなの知ってるわよ。私を舐めないでくれる?師匠なら、もうセルシアを出発したわ。行先は知らない」
「ええっ!」
思わず叫び、慌てて手で口を押さえる。
そういえば、全然師匠を見かけなかったけれど、まさかこんなに早くいなくなるなんて。
まあいいか。あの人、リラ様以上に面倒だし、迷惑しかかけてこないし。それに師匠なら地獄の果てに迷い込んでも絶対帰還できるだろう。
というか、今はあのアホ師匠なんてどうでもいいのだ。
「……ミシュア姉さん、やっぱりここから出てこないの」
「そうよ。じゃなかったら苦労しないわ。外に出られるだけ、あんたの方がちょっとマシね」
挑発気味に軽く笑って、ステラ姉さんは戸をノックした。返事はない。
「お姉ちゃん、そこにいるのは知ってるのよ。開けなさいよ」
ステラ姉さんが怒鳴っても、扉の向こうは誰もいないかのように、物音一つ立てない。
ミシュア姉さんはきっといる。出てこないだけだ。
手に汗が滲み、胃が痛みだす。
自分でも、ミシュア姉さんにでてきてほしいのか、ほしくないのかわからなかった。
「この私を無視する気!?ハルもいるのよ!帰ってきてるの!」
今度はガタンと音がした。ついで何かが落下するような音も。しかし、ミシュア姉さん本人は出てくるどころか返事さえしない。
ステラ姉さんはわざとらしく溜息をつき、緑の瞳を燃え上がらせた。
「……そう。私にだけじゃなく、ハルにも喧嘩売ってるの。上等よ。二人分の喧嘩、私が買ってやるわ!」
言い終わるか言い終わらないかのうちに、ステラ姉さんが体を捻る。
僕と同じ予備動作。師匠から教わった蹴りの一つだ。
マズイ。ステラ姉さんは扉を破壊するつもりだ。
「駄目だよ姉さん!」
足を上げる直前につきとばす。バランスを崩したステラ姉さんは、頭から扉に激突した。
ゴンッというものすごく痛そうな音を立てた後、ステラ姉さんは頭を押さえて蹲った。
「くっ……ハル、このクソ愚弟!よくも私の邪魔しやがったわねっ!ぶっ殺すぞコラ」
ステラ姉さんはもともときつい目を更につり上げて、ドスのきいた声で罵倒してくる。
怖い。すさまじく怖い。相手が子供だったら確実に失神してるレベルだ。
「今のどう考えたって姉さんが悪いよ!普通いきなり扉壊す!?」
「この私に喧嘩売ったのが悪いのよ!」
「ミシュア姉さんは喧嘩なんか売ってないよ!因縁つけたのはそっちだろ!」
「うっさい黙ってろ!私に逆らい傷つけた罪は重い!」
「何の罪だよ!」
「あんたが私に」
ステラ姉さんが何かを言いかけて、止まった。
目の前の扉が軋みながら、ゆっくりと開いていく。
真っ暗な部屋。カーテンを閉め切っているせいで、光が全くない。何も見えなかった。
そこから、小柄な人影が緩慢な動作で出てくる。
光沢のある長い漆黒の髪。病的なほど青白い肌と、折れてしまいそうに華奢な体躯。僕が最後に見た時よりも前髪が伸びていて、そこからのぞく黒い瞳に光はない。
「……二人とも……うるさいわ……」
か細く、暗い囁き声だった。
ミシュア姉さんが、無表情のまま僕に視線を向ける。
「久しぶり……。それとも、あんまり日は立っていないのかしら」
操り人形のようにぎこちなく首を傾げる。さらりと黒髪が揺れた。
孤独と絶望に塗り固められた深淵の瞳から、目を離すことができなくて。
「お帰りなさい。ハル」
ミシュア姉さんは感情が欠片もない声で、囁いた。