月明かりの歌姫
暖かな日だまりと、柔らかく揺れる白いカーテン。僕の家。『弱虫』な僕が、一番安心できる場所。
それなのに、どこか苦しい。この感じは、何?
ぼんやり前を見つめていると、白い靄が立ってそれが人のカタチになった。僕に背を向けて、白いベールをすっぽり被っているせいで、誰なのかわからない。
「だれ?だれ、なの……?」
そっと声をかけると、その人はゆっくりとした動作で振り返った。その拍子に、ベールが音もなく滑り落ちる。
人形のように綺麗な、冷たい顔立ち。絶望に染まった瞳。そして、印象的な色の長い髪を見て、ハッとした。
「……ひどいひと。私を、捨てるのね」
僕の前に佇む少女は、哀しそうに呟く。そして、僕に背を向け歩き出した。
「ま、待って……待ってよ!どうして……」
突然、全身に鋭い痛みがはしり、僕は蹲った。そうしている間にも、ゆらゆらと少女は遠ざかっていく。
「く……ッ……み……」
痛みで視界がぼやけて、言葉も形にならない。酷くもどかしい。
周りが全て白くぼやけ、少女の姿も消えていく。
「いやだ……いやだよ……」
やっとのことで言葉を絞り出した瞬間、僕は意識を手放した。
いつの間にか、眠っていたのだろうか。頭痛も消え、柔らかい日差しを感じる。どこだろう。
目を閉じて考える僕の肩を、優しく揺さぶる感覚。そして、脳を融かすような甘い声。
「ハル、いつまで寝てるの?ほらほら、起きて」
ぼんやりする頭を働かせて、ゆっくり目を開く。
肩まで伸ばした、さらさらの茶色の髪と、薄紫色のリボンの髪飾り。大きな瞳と、華やかな笑顔。
とびきり綺麗な女の子が、悪戯っぽい目で僕の顔を覗きこんでいる。
「ゆ……め……」
「何が?」
無邪気に尋ねる彼女に、僕は首を左右に振った。
「何でもないよ。寝ちゃってごめん」
「本当よ。あたし、ハルが起きなくて暇だったんだから!」
そう言って、プイっと横を向く。薔薇色の頬を膨らませて、ご機嫌な斜めだ。
「ご、ごめん!」
「嫌よ。許さないんだから」
「そんなぁ」
情けない声を出すと、くすりと笑った。
「もう、ハルは本当に『弱虫』なんだから。……仕方ないから、許してあげる」
「ほ、本当?」
「うん。でも、その代わり、一つ約束して?」
「……約束?」
風が吹いて、緑色の葉がはらはらとこぼれた。木の葉がゆらゆらと舞い、流れた前髪で顔が見えなくなるほんの一瞬、瞳が揺れたような気がした。
だが次の瞬間には、華やかな甘い笑みを浮かべていた。
「あたしと、ずっとずっと一緒にいること。それで、この木の下や、城下町で遊んだり、お城を見に行ったりするの。あたしとだけよ?そうしたら、結婚してあげる。ね、約束できる?」
僕を試すように、悪戯っぽく囁く。君の瞳も、声も笑顔も、全てが華やかで、眩しくて。
「……うんっ!約束するよっ!」
僕は笑顔で頷いた。
この約束が、どれほど嬉しかったか。幸せだったか。
結婚だとか、そういうことはよくわからなかった。恋がどういうものなのかも。
けれど、君と一緒にいられるという、ただそれだけのことが、僕には何よりも大切に思えて。
ただもう、嬉しくて、幸せで。
この時は、これ以上何も望まないと思った。
けれど、僕は子供だった。どこまでも子供で幼稚な考えの、世界一の馬鹿野郎だった。
だって、幼い頃に君と結んだ約束は、果たされることはなかった。
僕が君を、殺したから。
ハッとして起き上がった。辺りを見回すと、昨日から住んでいる僕の部屋。シンプルで落ち着いた調度品が、カーテンから僅かにこぼれる光に照らされている。
着ているのは部屋着だし、僕自身はベッドの上だ。
心臓が嫌な音を立てている。じっとりと汗が滲み、気持ちが悪い。
「夢……か」
そう、どっちも夢だったんだ。いっぺんにあの夢を見るなんて、今日はついていない。
ふと時計を見上げると、針は午前七時を指していた。軽く寝坊だ。
苦笑いを浮かべて、素早く服に着替え、顔も洗う。
さて、朝食を食べに行こうか。いや、部屋に用意してもらえたんだっけ。どうにも記憶が不確かだ。
その時、コンコンとドアをノックする音がした。
「はい、どうぞ」
ドア越しに声をかけると、静かに戸が開き、
「おはよう、ハル!」
「あ、リラ様。おはようございま……」
最後まで言い終わらずに、僕は止まってしまった。リラ様の恰好が、あまりにも異様だったためだ。
薄い水色の地に白い花をあしらったような布の服で、袖は長く、先端に行くにつれて広がっていて、黄色い帯をしめている。東の方の国の民族衣装に似ている。
そんな衣装に身を包み微笑んでいるのは、紛れもなくこの国の第四王女、リラ・クラリス様。さらさらの銀髪をポニーテールにしているせいか、単に衣装のせいか、いつもより神秘的な雰囲気だ。
しかし、今の僕にはそんなことを言ってられる余裕というものがない。
「……まだ、悪夢が続いているのかな」
ぽつりと呟いた次の瞬間、
「ひっどおおおい!それが王女様に対する言葉なの?」
リラ様が頬を膨らませ、思いきりむくれた。ヤバイ、口が滑った。
軽く弁明でもしようとすると、何かが僕めがけてとんできた。
頭に命中するほんの一瞬、反射的に床に伏せる。頭上ではガンッという音をがなり、床に落ちた。目線を左に移動すると、そこにあるのは丸いお盆だった。
お盆。どう見てもお盆。そして、投げたのは王女様。
何なんだ、この状況。
呆然としながら立ち上がると、今度はリラ様本人が飛び上がり、両腕を振り上げる。その手に握られているのは、剣に似た刃物。これも衣装と同じような国のものではないか。
「ちょっと、リラ様!」
「言い訳は無用!」
きっぱりと言い放つと、素早く振り下ろしてくる。
が、所詮は箱入りの姫君。扱い慣れていない武器にふらつき、僕は慌てて肩を支え、ついでに武器を奪った。
銀色の髪からふわりと花の香りが漂い、ドキンと心臓が跳ねる。
「あらら、止められちゃった」
「……あ、危ないじゃないですか。僕だからよかったものの、相手が一般人だったらどうするつもりですか!」
溜息をつく。僕が止めなければあと数センチで皮膚を切っていただろう。……それと、腰に手を回してしまったのは不可抗力だ。むこうは全く気にしていないが、こちらは顔に血が上る。
「何で照れてるの?あ、私の剣技に見惚れちゃった?」
「別に照れてませんから!あと、あなたのは剣技とは言わないです。とにかく、危ないので本当にやめてくださいね」
「はいはい」
えへっと可愛らしく笑っているが、反省しているようには見えない。頭が痛くなってきた。
「もう、呆れたような顔しないでよ」
「してません。心底変わり者な王女……言いかえれば変人だなと思っただけです」
「酷い!この悪魔っ!」
リラ様は頬を膨らまし、そっぽを向く。言動といい発想といい、いちいち十五歳とは思えないほど子供っぽい。清廉で美しい少女であるだけに、幼稚さが目立つ。
ひとことで言えば、残念系王女だ。
「取りあえず、朝食にしませんか?」
僕が提案すると、リラ様はあっけなく、
「いいわね!私、お腹空いちゃった!」
と、ご機嫌になる。
本当に単純だ。何不自由なく暮らしてきて、お姫様として大事に育てられたが故の無垢さなのだろう。
リラ様がステップを踏んで部屋を出ていくのを、僕は複雑な気持ちで追った。
「あの……色々と聞きたいことがあるんですけど、まず一つ。リラ様は一体、何を食べているんですか?」
「ふえ?」
リラ様の手が止まり、ゆっくりと首を右に傾ける。後頭部で結った髪がさらりと揺れた。
「何を食べているって言われてもな……。今食べているのは、チョコレートマフィンだけど?」
「それくらいわかります!僕の目は飾りじゃありません」
「じゃあ、何?」
ああ、もうっ、何でこの人はわからないんだ。
「僕は、あなたがどれほど食べれば気が済むんですかって聞いているんですっ」
ついイライラした僕は、トーストをぐしゃりと潰して叫ぶ。トーストよ、可哀想に。やったのは僕だけど。
リラ様は、哀れな姿となったトーストを齧る僕をくすりと笑い、透明なグラスを口に運ぶ。
「朝はたくさん食べないとやっていけないもの。甘いもの一日に最低一回は食べないと、死んじゃうし」
「甘いものを食べなかったからって、死ぬわけないでしょうが。……朝食をしっかり食べるのはいいことですけど、その量は限度を超えています」
「そう?これが普通だけど……」
「普通じゃありません!」
どう見ても異常なリラ様の朝食を見て改めて顔を顰める。
二人用には大きすぎるテーブルを半分以上占めるのは、リラ様の朝食だ。
十種類のサンドイッチ、スコーン、野菜のスープ、鳥のグリル焼き、チーズ、ブラウニー、キッシュ、サラダ、パイが三種類にケーキ丸ごとホールが三つ。
多すぎる。しかも、この華奢な身体にどれほど入るというのだ。
「どう見たって人間じゃないですよ、その量」
「失礼ねっ!私は人間です、純情可憐な王女様よ!」
リラ様は脹れっ面で猛抗議。そして、怒りながらも、サラダを食べる手を止めることはない。
「とにかく、その量は人間の限界を超えてます。バランスだって悪いじゃないですか。糖分ばかりだと、太りますよ」
「私が太ってるように見える?」
言い返せなかった。確かに、リラ様は太っていない。それどころか、ほっそりと華奢で手足も長い。
黙りこくってスープを口に運ぶ僕に、リラ様は勝ち誇ったような笑みを向ける。
「私に勝とうなんて、三年早いのよ!」
「それだと、三年たったら負けるって聞こえるんですが」
「うるさいなぁ、トランプだって私に完敗したくせに」
「うっ」
はいはい、どうせ僕は駄目人間の典型ですよ。こうやって筋の通っていない行動や発言にすら言いくるめられてるし。
食欲が失せ銀色のスプーンを置くと、リラ様はほのぼのした笑顔で僕を見上げて言った。
「……ねえ、ハル?負けてばかりじゃ悔しいだろうから、またゲームをしよう?トランプは頭脳と運だから、今度はお城の庭で、遊ばない?」
ポニーテールをさらりと揺らし、リラ様は口元をほころばせた。
「……で、何でかくれんぼなんですか」
僕はしかめっ面で、リラ様に尋ねる。
暖かな陽光が降り注ぐ、城の春の庭。少し息を吸い込めば、甘い花の香りで胸がいっぱいになる。
見渡す限り、手入れの行き届いたが咲き乱れ、華やかだ。
そこでのんびりすごせるなら、幸せなことだろう。ただし、「のんびりすごせる」ならだ。
僕はこめかみを押さえて、溜息をつく。そんな僕に構わず、リラ様は晴れやかすぎる笑顔を向けてくる。
「かくれんぼ、楽しいじゃない。あ、もしかしてルール知らないの?これはね、セルシアからずっと遠く、遥か彼方にある小さな島国に伝わる遊びで……」
「知ってますよ。今日の服装もその国の衣装を模したものでしょう。僕が言いたいのはそうじゃない」
「じゃあ、なに?」
「……リラ様、何歳ですか」
「十五歳。今年で十六!」
「なら、少しは年相応になってください!」
さっと耳を塞いで、「聞こえない、聞こえない」と言っている。駄目だこりゃ。
「もういいです。やるなら、とっとと始めましょう」
「うん!」
耳から手を放して、リラ様は頷く。無邪気な笑みは少し子供っぽくて、純粋だ。
青い瞳を和ませ、楽しそうに言う。
「よし、最初は私が隠れるから、ハルはちゃんと探してねっ」
「はいはい」
「じゃあ、いくよ!」
僕はリラ様に背を向ける。背後では、軽快な足音が聞こえる。
「いーち、に、さん、し、ご、ろく……」
「……にじゅうはち、にじゅうきゅう、さんじゅう。……もう、いいですか」
投げやりに叫ぶと、明るい声が返ってくる。
「いいわよ」
リラ様は近くにいるようだった。しかし、声が反響してどこにいるかまではわからない。
「はあ……しらみつぶしに探すしかないか。人の気配を察知するのも何年もやってないから、絶対鈍ってるし……面倒くさい」
取り合えず、近くの茂みから探り始めた。
三十分経過
「あれ……僕ってこんなに鈍かったっけ。見つからないんだけど……」
一時間経過
「い……いい加減見つかってくれないと……体力が……引きこもりのブランクが……」
一時間三十分経過
「……本当にどこだよあのアホ娘。この辺の木を全部倒して、壁とかも破壊すれば見つかるかな。……いや、何考えてるんだ僕。落ちつけ。……にしても面倒くさい」
二時間経過
「もういいや。やめよ……」
僕は愚痴をこぼしつつ芝生に座りこんだ。そよそよと吹く風が、髪や頬を優しくなでる。
それにしても、甘かった。あのゲーム好きの王女が、そうやすやすと見つかるはずがない。このままやっていたら、僕が疲れ果てて終わりそうだ。
一応、本気になれば見つけられるだろうけど。それをやるくらいなら、僕は帰る。
「リラ様……降参します。出てきてください」
僕の声に応じるかのように、ガサリと音が鳴る。ちょうど、僕の真後ろにある木からだ。
恐る恐る振り返ると、木の枝にちょこんと腰かけたリラ様の姿があった。
「ふふっ、また私の勝ちねっ」
勝ち誇ったような笑みを浮かべ、ピースサイン。本当に王女らしくない。そして色々な意味で危ないからやめてくれ。
太腿くらいまでしかないスカートから透き通るように白く細い脚が伸びて、ぷらぷらと揺れる。全力で目を逸らしつつ、怒鳴る。
「そんなところにいると危ないです!あなた、王女様でしょう!」
「うん」
「なら、少しは自重してください!あと真っ当な丈のドレス着てくれ!目に毒です!」
リラ様はいつものように首を傾げ、きょとんとする。
「危なくないよ、慣れてるもの。まあ、ドレスで木に登るときがボロボロになるけど、この服は動きやすいし。因みに、この丈だからこそ動きやすいのよ!」
「そういう問題じゃないですから!とにかく、降りてください」
「はぁい」
素直に返事をしたともうと、手を離して立ち上がり、そのまま軽やかに飛び降りた。柔らかな草の上に、すとんと着地する。
銀色の髪と黄色の帯がふわりと揺れる。
一つ文句でも言ってやろうと口を開いた、その時だった。
「相変わらずだな、リラ」
低くもなく高くもない、どこか中性的で凛とした、それでいて冷ややかな声がした。
驚いて振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
「クラウスじゃない!どうしたの?」
セルシア王国の第一皇子であり、次期国王のクラウス・フェルク・ド・アラネリア様だ。
長めの栗色の髪を後ろで一つに纏め、紺色の衣服に身を包んだクラウス様が無表情で答える。
「……散歩だ」
「珍しい!クラウスが散歩なんて、槍でも降るんじゃない?」
「リラに言われたらおしまいだな。脳内お花畑の馬鹿が」
ひんやりと吐き捨てながら、目にかかる長い前髪を払いのける。ちょっとした仕草すら気品があり、美しい。
今まで見たことはなかったにしろ、クラウス様のことは知っていた。
国王様は素晴らしい政治力と頭脳を持ち、おまけに容姿も優れていて、たった一つのどうしようもない欠点さえなければ、歴代最高の王だった。
そして、噂によればクラウス様こそが国王陛下に最もよく似ている。
幼い頃から考古学者でもそう読めない書物をスラスラと読みこなし、多様な学問で才能を発揮している。武の方面でも才能を見せ、鮮やかな剣捌きは並の兵士よりもずっと格上だと言う。
また、国王様によく似ているが、華やかで陽気そうな国王様と違い、クラウス様は冷たく張り詰めた美しさと謳われていた。
スラリとした長身で細身、陶器を思わせるような白い肌と、氷の彫刻のように整った顔立ち。涼やかに切れ上がった深い藍の瞳は、人を拒絶するかのように冷たく、それでいて見るものを釘づけにさせる。
初めて間近で見るクラウス様にドギマギしてしまう僕と反対に、リラ様は、
「相変わらずクールぶっちゃって。まだ子供でしょ、もっと気楽になさいな」
頬を膨らまし、親しげに接している。クラウス様を見上げる目は穏やかで、優しい。
リラ様とクラウス様が並んで一緒にいると、すごく絵になる。クラウス様はもちろん、リラ様もぶっ飛んだ性格に目を瞑れば、天使のように綺麗な王女だ。まあ、あの性格のせいで全てが台無しだけど。
「あ、そうだ!クラウスには言ってなかったよね。私の後ろに隠れている小心者のくせに生意気で協調性が低いちっちゃいのが、新しい遊び相手のハルだよ」
何ですか、その紹介の仕方は。あんまりだ。あと僕は決してちっちゃくはない、平均より低いだけだ。
リラ様の酷すぎる説明で、ようやく僕の存在に気がついたのか、クラウス様は僕の方に顔を向けた。少しだけ興味ありげに見えるのは、気のせいだろうか。
「リラ様の遊び相手としてこちらに来ています。ハル・レイス・ウィルドネットです。お、お会いできたこと、大変嬉しく思います」
「……知っている。ウィルドネット伯爵の末息子だろう」
クラウス様はどうでもよさそうに呟く。やっぱり、さっきのは見間違いだったようだ。
「クラウスはね、格好よさそうに見えるけど、そんなんじゃないのよ。冷たいし皮肉屋で、格好つけたがりなの。そのくせ、ポンコツだったりするし、何気に怒りっぽいし。こんなのが次の王様になると思うと、先が思いやられるわ」
限りなく明るい笑みでよけいなことを言う。
リラ様はけなすたびに周りの温度が急激に下がってゆくのは気のせいではないだろう。そして、その発信源も目の前の彼に違いない。
天然なのかわざとなのか、リラ様は更に続ける。
「クラウスも、ハルに騙されちゃ駄目だよ?女の子みたいな顔してるけど、ものすごく意地悪なんだから。そのくせ、ソフィアと私の会話に入ってこれなくてしょぼんとするような、ヘタレ野郎だし」
「しょぼんとしてません!あと、昨日の話をわざわざ持ち出さないでください!」
全く、この人は、僕を何だと思っているんだ。
「……随分リラが迷惑をかけているようだな。一応、謝っておく」
「迷惑なんかかけてません!」
どういう判断をすると迷惑をかけていないことになるんだ。クラウス様の「一応」も、微妙に引っかかるけど。
リラ様はクラウス様に延々と文句を言っている。しかし、クラウス様は軽く聞き流しているようだった。そして、何故か僕の方を見ている。
「あの……?」
「いや……何でもない」
僕が尋ねると、ふっと目をそらす。
「ちょっと、聞いてるの!?」
リラ様が腰に手を当て叫んだ時、可愛らしい声がした。
「……お兄様!やっと見つけた~!」
ガサガサと茂みを分ける音のする方を見ると、一人の少女が駆けてきた。年齢はソフィアと同じくらいだろうか。
はあはあと息をつき、クラウス様の前で止まる。
ツインテールにしたふわふわの赤い髪と、ぱっちりした大きな緑色の瞳。ミルク色の肌と薄いピンク色の頬。どれを取っても、可憐で愛らしい。
黒いレースが何層にも重なっている、凝ったデザインのふんわりしたドレスに、黒いリボンシューズ、黒のレースの手袋。全身黒とレースで覆っている。
クラウス様のことを「お兄様」と呼んでいるということは、妹なのだろう。えっと、クラウス様の妹は、……誰だっけ。
一介の貴族であるからには王族の顔と名前が一致するのは基本中の基本なのだが、引きこもり続けた僕には無関係だったのだ。でも、王命を受け入れてからでも勉強すればよかった。
今更のように後悔しながら必死に記憶の糸を手繰り寄せていると、リラ様があっさりと正解を口にした。
「ミーナまで外に出てくるなんて、本当に珍しい!」
にっこりしながら言う。
そうだ。そう言えば、クラウス様の妹は、第五王女ミーナ・アラネリア様だった。
笑顔のリラ様を見た途端、ミーナ様の目がすごい勢いでつり上がった。
「また、お兄様をたぶらかしているのね、リラ・クラリス!」
誑かすだって?誰が?誰を?
顔を真っ赤にして怒るミーナ様を前に、リラ様は苦笑いを浮かべ、クラウス様は冷めた目で庭を眺めている。
「だから、違うって言ってるでしょう?クラウスは仮にも兄なんだし、ミーナももう少し打ち解けてくれないかなぁ?」
「ふんっ、だ!お兄様の妹はあたしだけなんだから!だいたい、あんたの言うことなんて、これっぽっちも信用できな……」
急にミーナ様が表情を変え、黙りこんだ。そして、僕を驚いたような目で見つめてくる。
本日二回目の自己紹介を、リラ様に言われる前にそそくさとする。
「初めまして、ミーナ様。リラ様の遊び相手をつとめている、ハル・レイス・ウィルドネットです」
「……リラの遊び相手なんて、あんたも可哀想ね」
ミーナ様が同情するような目を向けてくるので、曖昧に笑ってやりすごした。大変なのは事実だけど、ここで頷いたら自分の命が危ない。確実に危ない。
「お兄様、早く帰ろう?ミーナはお兄様を迎えに来たんだよ?お母さまが一緒にお茶しようって言ってたよ」
ミーナ様がクラウス様の腕を引っ張り、可愛らしくねだる。瞳をきらきらと輝かせて一心に見つめている。
まあ、年上の美しい人が自分の兄だったら、夢中にもなるだろう。ミーナ様はいきすぎのような気もするが。
「ああ……そうだな」
我に返ったように頷き、クラウス様はさっさと歩き出す。噂通りの冷淡さだ。そして結構自由。
こっそり溜息をついていると、ピタリと止まり、こちらを振り返った。
切れ長の目をスッと細め、温度の低い眼差しを向けてくる。
「ハル……といったな。その黒髪と黒い目……異国の出身か?」
心臓を鷲掴みにされたような、そんな感覚に襲われた。軽く眩暈までする。
リラ様が小さく息を飲むのが聞こえたけれど、それに構っている余裕はなかった。
じわりと黒い液体が視界に滲んで、歪んだ。くらりと眩暈がする。
ああ、まだ僕のコレ、治ってなかったのか。
「……母方の先祖が、そうらしいです」
変色する風景をできるだけ無視して、愛想笑いを張り付ける。大丈夫、僕はただの出来損ないの貴族。誰も僕の正体には気づかない。だから、大丈夫。
クラウス様は整った眉を寄せ、やや不審そうな顔をしたが、それ以上追及してはこないようだった。
「そうか。あまり深い意味はないから、気にするな」
「お兄様ぁ、早く行こうよ~」
「今行くから、待て。……それじゃあ、また」
クラウス様とミーナ様が城に戻るのを見ていると、再び眩暈に襲われそうになる。
……油断してた。髪と目の色を言われたくらいで、こうなるなんて。
だから外に出たくなかったんだ。
「ハル、大丈夫?すごい汗の量だけど……」
リラ様が心配そうに、僕の顔を覗き込む。
駄目じゃないか、僕。リラ様にまで不審に思われるようなことをするなんて。僕は普通でいたいのだから。
心臓をぎりぎりと引き絞られるような痛みが続いていたが、へらりと笑って見せる。
「……大丈夫です。そう言えば、かくれんぼの途中でしたよね。今度は僕が隠れるので、リラ様が鬼になってください」
無理に笑う僕を、リラ様はどこか哀しげな顔で見つめる。けど、ゆっくりと唇をほころばせ、
「わかった」
ひっそりと囁く。そして、次の瞬間には無邪気な笑みに戻っていた。
だから、リラ様が哀しそうに見えたのは気のせいだ。僕の狂った視覚が勝手にそう捉えただけ。
「じゃあ、隠れてきますね」
リラ様に背を向け、ふらふらと歩き出す。
本当は、こんなのただの口実。こんな状態の僕をリラ様に見られたくなかった。リラ様だけじゃない。誰にも見られたくなかった。
ただの恰好つけ?『弱虫』?どちらにしても、酷く情けない。馬鹿みたいだ。
あの時から、僕は何一つ変わっていない。成長していない。
ふと空を見上げると、もう日が暮れていた。
茜色に染まった空に、オレンジ色や金の雲が薄く棚引いている。鮮やかに輝く夕陽が、今の僕にはとても眩しかった。滲んだ涙で、それすらも霞む。
サクサクと草を踏みしめていると、ちょうどよさそうな場所を見つけた。
大きな木の間にできた、小さな窪み。見つかりにくそうだし、居心地もよさそうだ。
腰をおろして、そっと目を閉じる。
心なしか、甘い花の香りと、すっきりした草の香りがする。仄かな風が心地よい。
ここに来たのは初めてなのに、どこか懐かしい感じがした。バラバラに砕け散った記憶の破片が一瞬だけ僕を取り巻いて、霧散する。それで、いい。
懐かしさなんていらない。僕は思い出したくなどないのだから。
疲労が出たのか、瞼が重い。心地よい気怠さに身を任せそのまま深い眠りに落ちてゆく。
このまま一生目が醒めなくたって、構わない。
どのくらい経っただろうか。
目を閉じていても、微かに周りが暗くなったのがわかる。空気もひんやりしてきたようだ。
そして何故か、澄んだ歌声が聞こえてくる。
近い。囁くような音量だが、明瞭だ。この世のものとは思えないほど美しく、透き通っている。胸が締め付けられるほどの透明さに、古傷がじくじくと痛む。
それでも聞いていたいと思ったのは、聞いたことがあるようなメロディだったからか。
目を開ける気にならず、歌声に耳を澄ます。
歌詞も旋律も美しく、慈愛に溢れていて、どこか悲壮だった。
歌っているのは誰だろうか。天使か、妖精か。それとも人魚?何にしろ、これほど美しい歌声をヒトが生み出せるとは思えない。
だったら、僕は死んだのかな。それでもいいや。
とりとめのないことを考えながら何となく目を開くと、月光を編みこんだような銀色の髪がきらめいていた。
目を伏せ、静かに歌っていたのは、リラ様だった。
僕が目を覚ましたのに気がつくと、ふわりと微笑む。
「やっと起きたのね。もう夜になっちゃったよ?」
先に帰ったりせず、寝ている僕を起こしもせず、待っていてくれたのだ。
驚きと一緒に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「寝ちゃってすみません」
「ううん、構わないよ。でも、見つけたから、私の勝ちだねっ」
ゲームに勝った時に見せる、あの無邪気な笑顔を浮かべる。しかしその笑顔が、少し哀しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「どうしたの?」
こてんと小首を傾げる。その拍子にさらさらと髪が流れ落ちて、薄闇の空気に甘い花の香りが散った。
ああ、綺麗だな。とてもとても、綺麗だ。
のぼったばかりの淡い月に照らされた姿は、僕の目には神聖なものに映る。
僕はきっと、このひとの遊び相手すら、相応しくない。僕の手は洗っても拭っても消えないほどに血にまみれ、染みこんでいるから。
「さっきの歌って、リラ様……ですよね」
後ろめたい感情を誤魔化そうと喋ったが、当たり前のことだと気がついて口ごもる。
リラ様以外有り得ないのに。本当に馬鹿みたいだ。
ところが、リラ様は馬鹿にしたりせず、穏やかな眼差しのまま言葉を紡ぐ。
「そうよ。私、歌が大好きなの。遊びも甘いものも好きだけど、何よりも好き。私の歌は、愛情そのものだから」
「愛情……」
どうしてリラ様は今、こんなことを言うんだろう。
優しく切なげに、そしてとびきり綺麗に微笑むのだろう。
「歌っているとね、どうしても辛いことや、哀しいことや、寂しいことを、乗り越えられる気がするの。私にとって、歌は祈りで、希望。……たとえ、他の人にとって違ったとしても」
そっと呟くと、急に明るい顔になって勢いよく立ち上がった。驚きを隠せない僕に、リラ様は手を差し伸べる。
「私、お腹空いちゃった!もう暗くなってきたし、帰りましょう?」
あまりの変わり身の早さに戸惑いつつ、安堵もしていた。哀しそうなリラ様なんて、見ていたくなかったから。それが、僕の手前勝手な罪悪感のせいだとしても。
「……そうですね。帰りましょうか」
白く滑らかなリラ様の手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
今日はとことん振り回された。これからもそうなのだろう、きっと。
それでも、リラ様の隣は呼吸が少し楽だ。ほんの少し、だけど。
仮初の休息だということはわかっていたが、今はこの安らかな時間に浸っていたかった。