紫色の幻影
もう、愛想笑いなんて浮かべてる余裕はなかった。
冷や汗が大量に流れ落ち、膝が震える。今ここから消えることができれば、どれほどいいだろうか。
どう答えれば正解なのか、さっぱりわからない。考えようとすればするほど混沌としていく。
なら、考えるのをやめればいい。
「お断りします」
思考を遮断した途端、ストレートに言葉がとびでた。
王様の目が冷たく光る。一瞬怯むが後悔はしない。
「何故だ?名誉だとは思わないのか?」
「……すみません。でも、僕には絶対に向いていません」
これ以上、誰かと戦うなんてこと、ましてや誰かを殺すなんて、絶対にしたくない。
今のままでも僕は十分に危険だ。一度リミッターが切れたら自分じゃ抑えが効かなくなる。暴走した僕を止めるのは、かなり大変だ。
それなのに、自ら進んで人を殺しに行くなんて、絶対にできない。
きっと今の僕が『化け物』に取り込まれる。
「僕は……もう、戦いたくないんです」
それが、僕の本心だ。
何の取り柄もない僕の、唯一の特技は体術だけだ。それでも、誰かを傷つける特技なら欲しくない。
もう、嫌だ。
王様は無言で僕の目を見つめ続ける。まるで、全てを見透かそうとしているように。
じわりと恐怖が込み上げてくる。
やがて詰めていた息を吐くと、王様は冷めた顔になって言った。
「これほどの力を持っていながら、戦いたくないと?」
胸がザックリと斬られたような痛みがはしる。
「僕は力なんて」
「持っている。先ほどのことが証明だ」
唇を強く噛む。握りしめた拳が震えて、感覚が麻痺している。
「君には破格の戦闘能力がある。上手く活用すれば、我が国にとっても大きな力になるはずだ。それをわかっていて、みすみす逃がすつもりはない。……それに、もう君は、充分逃げたのではないか?」
グシャリと心臓を握りつぶされたような気がした。
耳鳴りのせいか、脳がちゃんと働いていないのか、上手く聞き取れなくなる。もはや雑音と雨音の区別すらつかない。
十分逃げた?
そんなはずはない。
だって、逃げきれれば楽になるはずなんだ。苦しまずに済む。
それなのに、今だっておかしくなりそうだ。
逃げてるけど、全然足りない。
「まあ、今何を考えているかは知らないけれど、君はもう逃げ場がないほど逃げていると思うよ。これ以上後に引けば、崖から落ちるだけだ」
王様は追い打ちをかけるように、淡々と語る。
複雑な濃さと光を持つ青い瞳は、冷たく輝いている。殺気をはなっているわけではないのに、金縛りにあったように瞬き一つできない。
ふいに、彫刻のように整った顔に、歪な微笑みが浮かんだ。
「返事がないね。図星か?それとも、答える余裕すらないのかな?」
王様は歪んだ笑顔のまま、僕の肩に追い立てに力を込める。
誤作動を起こした脳は、逃げることすら命令できない。全身の感覚が消え失せた。ただ、胸の奥を抉られているような痛みだけが残る。
「……僕は逃げてない……」
「本当にそう思っているのか?」
掠れた声は、すぐさま王様の冷ややかな口調にかき消される。
「私からしたら、有り得ないほど逃げているがね。全く、何てもったいないことをしているんだ。それほどの力を有していながら、使おうとしないなんて」
やれやれと呆れたように肩をすくめる姿に、脳の奥でプツンと切れる音がした。
同時に、例の声がする。
『殺せ』
『お前を否定するものは、全て殺してしまえ』
『邪魔だろう?』
ああ、うるさいな。本当に。
『弱虫』とも『化け物』とも言われてないのに、こいつの声がするなんて、そろそろ危険だ。
でも、そもそも僕って危険なんだっけ。ああ、危険か。多分。
雑音が入り混じり、視界が暗く明滅する。もう何もかもがうるさい。
このまま『化け物』の声の言う通りにしたら、楽になるかな。
さっきまでの恐怖はかき消え、笑顔さえ浮かんだ僕に、何故か王様は目を輝かせた。
「そう、その目だ。人を殺すことをいとわない、闇に染まった目。私が望んでいたのはそれだよ。君の技術も素晴らしいが、一番はやはりその本質。人を殺すために生れてきたような存在だ」
何を言っているのかわからない。ただ意味もなく、耳の中で反響する。
「人を、殺すため?」
そのために、僕は生れてきた?
「そうだ。君はそのために存在している。それなのに、このまま平和に暮らしていていいのか?普通という枠にとらわれた、ただの凡人として生きるつもりか?」
平和。凡人。
僕が望んでいたもの。
でも、何だっけ。思い出せないや。
そもそも、平和って何。何を望んだんだろう。
思い出せない。思い出すのも面倒だ。なら、このままでいいか。
『破壊しろ』
『そうすれば、楽になれる』
「私についてくれば、必ず君はその本質を発揮する」
『お前はもともと人間じゃない』
「そうして、君をおとしめる存在も消える。むしろたたえられるだろう……」
「『化け物として』」
何かが壊れた。
大切だったはずのものが。
でも、いいや。覚えてないし。
楽になれるなら、もう何でもいい。
ふと軽く下を向けば、誰かの手がのばされていた。その瞬間、理屈なしにこの手をとりたいという衝動が沸き起こる。
この手をとれば、過去に傷つくことも、現在を苦しむことも、未来に怯えることもなくなる。例え戻れなくなっても、痛みを感じることはない。
ただ闇の中を、永遠に彷徨えばいい。
なら、答えは簡単だ。
その手を取ってしまおう。
××が花瓶に触れた瞬間、花瓶が割れてはじけ飛んだ。同時に水といけられていた花が宙を舞い、絨毯の上に落下する。
××は呆然とその様子を見つめ、次第に青ざめていった。
「花瓶が……割れた……」
幸い怪我はなかったが、まるで病人のように青ざめた頬に生気はない。見開かれた瞳に、暗い影が浮かぶ。
誰もいない部屋で、××の呟きは激しい雷雨に飲み込まれていく。
「雨……雷……闇?ガラスが割れる……何かの予兆」
稲妻が落ちる。
闇に包まれた部屋が照らし出され、瞬間、淡い紫色の霧が舞った。
それはほんの一瞬のことで、再び闇に閉ざされた空間に紫の霧はない。幻影かもしれない。
しかし、××は一層血の気をなくし、ガタガタと震えはじめた。よろめき、倒れそうになるのを壁に手をついて何とか堪える。
激しい眩暈に視界がぶれ、心臓が脈打つ。
窓をつたい流れる黒い雨が、××の瞳の色をどす黒く塗り替える。そこに映った顔は、自分でも呆れるくらい悲壮なものだった。
心を落ち着けようと歯を食いしばっても、震えは止まらない。
「く……る……」
来る。
あの人が。
絶望を連れて、何もかも滅茶苦茶にしに来る。
その狂った愛情表現に、全てを巻き込んで。
また、彼が血にまみれる姿を見るのだろうか。
あの悲劇を繰り返さないために、自分は存在しているのではないか。今更何を動揺している。
守る。
その言葉を胸の中で唱えると、スーッと汗がひいた。
予兆に惑わされるな。大切なのは、現実だ。守れなければ、自分がこの世に生を受けた意味すら無に帰すのだから。
荒れ狂う黒い雨に映る瞳は、いつも通りの澄んだ色に戻っていた。
王様の手を取ろうとしたその時、何かが扉に激突したような音に思わず手が止まった。
「いったああああい!全く、何でここいつも暗いのよ!」
声自体は透き通っていてとても美しいが、今の状況だとあまりにも間抜けすぎるご登場だった。
リラ様……どこまでアホなんだ……。
ものすごく脱力したせいで、ずるずると床に座り込んでしまった。嫌もう、勘弁してください。疲れたので。
扉に目をやると、勢いよく開いてリラ様がとびこんできた。
「お父様!いい加減もうちょっと明るく……って、あれ?何でハルがここにいるの?ていうか何で、そんな疲れた顔で床に座り込んでるの?」
「……リラ様には……関係ないんで……。疲れたんでほっといてください……」
「ええっ!何で私だけ!?どういうことよ」
「どういうことでもいいでしょう……」
今日はリラ様のテンションがやたらと高い。そしてうるさい。頭に響くからあんまりしゃべらないで……。
しかし、リラ様のおかげで踏みとどまることができた。『化け物』の声も聞こえない。
不自然に見えないようにこっそり指を動かすと、ちゃんと感覚が戻ってきている。
思わず、ほっと吐息をついた。
暗示にかかる前に、リラ様が来てくれたおかげで助かった。
心の中だけでありがとうと呟く。決して口には出さないけど。
ちらりと王様の様子をうかがうと、残念そうな、それでいてひどく楽しそうな不思議な表情をしていた。
「ところで、お前がここに来るなんて珍しいじゃないか、リラ。一体何の用だ?」
「ああ、そうだった!今部屋にある本なんだけど、どれも千回は読み終わっちゃったから、新しい本買って欲しいの。今持ってる本の十倍くらい」
子供がおねだりするような無邪気な笑顔と同時にとび出た言葉に、思わずギョッと身を引いた。
「千回!?そんなに読んだんですか。ていうか十倍!?」
「そんなに驚くこと?普通でしょ、それくらい」
きょとんとした様子に眩暈がした。
僕の記憶が正しければ、リラ様の部屋は壁中が巨大な本棚になっていたはずだ。しかも、表面だけじゃなくて、三重ぐらいには重なっていたような気がする。
それを全部千回。しかも今度はその十倍の量の本を持って来いと。
民衆から取った金でどれくらい集まるんだろう。そもそもどこに置くんだ。
そんなお願い聞きいれられるわけがな……
「いいだろう」
……くないようですね。
「いいのかそれっ!?」
何だよさっきまでの恐怖の王はどこに行った!今目の前にいるのはどう見ても、目に入れても痛くないくらい娘を可愛がっている子煩悩な父親にしか見えない。というか、クラウス様との接し方の差が激しすぎる。
何なんだよ本当に。
僕ががっくりしている間に、リラ様と王様は着々と話を進めていた。
「ありがとう、お父様!楽しみにしてるね」
「ああ。リラの好きそうな本を用意しよう」
「ありがとう~!でも、新しいお妃つくるのは駄目だからね」
「全く……私も手厳しい娘を持ったものだ」
「優しいの間違いでしょ」
頬を膨らませるリラ様を温かい目で見つめる姿は、普通の父親のようで混乱する。
さっきの気味の悪い姿が仮初なのか。それとも……。
「じゃあ、よろしくね!ほらハル、先帰っちゃうよ~」
裾を引っ張られて我に返る。
絶賛混乱中だけど、まあいいや。こんなところに長居はしたくないし。
これからはできるだけ王様に合わないようにしよう。
「お邪魔いたしました」
軽く礼をして踵を返す。そうしてリラ様と共に部屋を出ようとした時、
「ハル君。セレナ・ウェストという名前の少女は、知っているかい?」
頭の中で何かが壊れる音がした。
急速に力が抜けて、音が消える。視界が紫一色に染まった。
氷の声に何を言われたのかわからない。いや、わからないんじゃない。わかりたくないんだ。全身がそれを受け入れることを拒否する。
そうだ。わからないし、見えないし、聞こえないし、知らない。
『嘘つけ。知ってるだろ?』
……ああ、知ってるよ。忘れたことなんてなかった。
認めた瞬間、紫だった視界が一瞬で黒く塗りつぶされた。