仕掛けられた罠
僕が貸してもらっている部屋とは比べ物にならないほど豪華で、シミ一つつけられないような部屋の中、王様は優雅にティーカップを傾けている。
クラウス様はカップに口をつけることなく、硬い表情で王様を睨んでいる。
僕といえば、何もしてない。
愛想笑いを浮かべて動揺を隠すのが精一杯で、何かをする余裕が全くない。今の僕なら誰でも倒せるだろう。
誰も、何も話そうとはしなかった。
今までにも気まずい時間はたくさんあったけれど、これは人生の中でもベスト3に入る。
ああ、あの壺無駄に高価そうだ。あれ売ったら庶民なら一生遊んで暮らせるだろうな。あっちの絵画はすごいけどちょっと気味が悪いし、寝室には置きたくない。窓辺の紫色の花、あれ何て名前だろう。綺麗だなあ……。
現実逃避していると、ふいにカタンという音が響いた。それもすぐに、激しい雷雨に呑み込まれる。
ティーカップをテーブルに置いた王様が、クラウス様と同じ色の瞳でこちらを見つめていた。
「二人とも、どうして飲まないのかい?毒物は入っていないよ?」
冗談めかして言っているが、何となく目が怖い。これ、絶対に飲めって言ってるよ。
「……ありがたくいただきます」
「そうしたまえ」
一口飲んだが、緊張のしすぎで味がしない。僕はすぐにカップを置いた。
クラウス様は相変わらず身じろぎすらしない。
殺意のこもった視線を投げかけ続けるクラウス様に、王様は呆れたように溜息をつくと、再び鮮やかな微笑を浮かべた。
「さて、ハル君。リラがいつも世話になっているね」
「いいえ。とんでもありません」
嘘です。あんたの娘のせいで寿命が十年くらい縮まったような気がします。
……とは言えず。
僕は愛想笑いのガードを続ける。
「リラ様は……その、何ていうか、すごく明るくて活発ですね。いい意味で王女らしくないというか」
本当は悪い意味でも王女らしくないと言いたい。
「あの子はちょっと元気すぎるがね。すぐに妙なことをやらかすもんだから、未だに民の前にも出せていない。……まあ、クラウスもある意味では問題だが」
最後の一言で、空気に大きな亀裂が入った。同時に、鳥肌が立つほどの激しい殺気が渦巻く。
こぼれてきた冷や汗をそっと拭い、クラウス様を盗み見ると、表情だけは変わらず能面のように固まったままだった。王様を射殺す勢いで睨み続ける瞳は、シャンデリアよりも強く、そして暗く輝いている。
いつもならクラウス様の殺気に怯えるところだが、今は王様の方が怖かった。
これほどの強い殺気をまともに浴びて、何故涼しい顔をしていられるのか。
僕だったら、ここまでの憎悪に耐えることなんてできない。今だって、笑顔は浮かべられているが、手が微かに震えている。
本当に何でもないかのように微笑む王様を、気持ち悪いとさえ感じた。
「大体のことは卒なくこなせるが、子供らしさが全くない。完璧でも、臣下は助けようとは思わないから、少し欠けてるくらいがちょうどいいんだが。……まあ、全てが完璧な人間なんていないから、できれば優秀な方がいい。その点ではクラウスは王に向いているよ」
濃さを増す殺気を完全に無視して、王様は語り続ける。もうすぐ窓にひびが入りそうだ。
「ところで、リラは最近歌ったかな?」
「歌……ですか?」
唐突な話の切り替えに、つい聞き返してしまう。
今ここで、そんな話聞くか?やっぱりこの人はどこかおかしい。
ていうか、リラ様って最近いつ歌ったっけ。あれ?確か……。
「多分……旅先で歌ったのが最後です。僕が聞いたのは」
「旅先?」
「いや、夢かもしれませんが……」
僕がローグとの戦闘後、眠り続けていた時。
闇一色の世界で、とぎれとぎれに聞こえた、淡い幻のような歌声。優しい光に包まれるような心地よさと、寂しげな音色が溶け合ったあの旋律。
どんな歌だったかは覚えていないし、本当に誰かが歌ったのかさえ分からない。
でも、あの透明で綺麗な歌声は、おぼろげに耳に残っている。
僕の今までの人生で、あそこまで美しい歌声を響かせることができる人は、リラ様しか知らない。
夢かもしれない。
それでも、リラ様が闇から救ってくれたような気がするのだ。
「僕がちょっとしたことに巻き込まれて、怪我をしたんです。眠っていたので意識はありませんでしたが、歌が……」
「ハルッ!」
いきなり飛んできた怒声に言葉が切れる。
クラウス様が、焦りと怒りがないまぜになった目で僕を睨んでいた。
「えっ……あの、クラウス様?」
自然と声が萎む。格好悪い。
明らかに怒った顔をしていたクラウス様は、急に表情を消した。
「……悪い。急に怒鳴ったりして」
「い、いいえ」
何となく気まずい空気が流れ、僕は視線を泳がせる。すると、王様の視線とぶつかった。
その途端、まるで呪いにでもかかったかのように、目を逸らすことができなくなる。瞬きすらできない。
何だ……これ。背筋に悪寒がはしる。
王様は冷ややかな微笑を浮かべると、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。やはり情報に間違いはないようだな」
王様が言い終わるのと同時に、クラウス様の方から舌打ちが聞こえてくる。
わけがわからない。
しかし、聞きたいことはたくさんあるはずなのに、掠れ声すら出ない。急に喉が渇いて、全身が冷たくなっていく。
「……全く、面白いこともあるものだ。ちょっとした打算がここまで運命を変えるとはね。私も君達よりは長く生きてきたが、ここまでつくった『偶然』は見たことがない」
王様は肩をすくめ、呆れたように呟く。
「本当に面白い」
「……何の話をしている」
「お前はわからなくていい。それよりも、考えるべきことがあるだろう?」
凍りついた空気に、更に大きな亀裂が入る。
降りしきる雨のように強くなっていく殺気に、一層動けなくなる。
「偉そうに言うな。俺は誰とも結婚する気はない。少なくとも、貴様が死ぬまではな」
怒りを無理矢理押さえつけているせいか、いつものクラウス様の声ではなかった。
暗く低く、少しひび割れた、冷たい炎のような声が、雨音と混ざって一層迫力を増す。
しかし、王様の表情は変わらない。むしろ少し楽しげに見えた。
「誰とも結婚する気はない。まあ、それは嘘ではないだろうな。お前とお前の恋人は、あまりにも身分が違いすぎる」
時間が止まった。
激しい雨音も、響き渡る雷鳴も、溢れかえっていた殺気も完全に消え失せる。
耳を疑った。
今、王様は、何て言った?
クラウス様は呆然と目を見開き、動かない。普段から陶器のように白い肌は血の気がなく、亡霊のように青く透き通っていた。
ただ王様一人が、愉快そうに笑う。
「私がわからないとでも思ったのか?甘いな。あの娘……確か、ソフィア・フリスという名前だったはずだ。そうだろう?」
ソフィアの名前が出た瞬間、クラウス様はガタガタと震えだした。更に青ざめた頬に、艶やかな栗色の髪が一筋、こぼれ落ちる。
「な……ん……で……」
「わかったのか?当たり前だ。この国は私のものだ。故に、私が知らないことはあってはならないのだ。特にこの城に関してはね」
全く大変だ、と王様は溜息をつく。
そして、急に真剣な目になった。
「クラウス、私はお前の好きな娘をどうこう言いたくはない。恋愛とは自由なものだと思っている。その証拠に、私には大勢の妻がいるだろう?」
ああ、そういえばそうだった。
王様は色好みで、信じられないほど妃がたくさんいるのだ。
「……だが、な。あのメイドだけはやめておけ。どこかおかしい」
ピタリとクラウス様の震えが止まった。と、同時に、部屋の温度が一気に下がり、音が戻ってくる。
うるさいほど音を立てて、空気が割れていく。
「今……なんて言った」
「ソフィア・フリスはやめておけと言ったのだ」
息ができないほどの殺気が炎のように溢れ、凍った空気を溶かしていく。
「何故だ。侍女だからか」
「いや?それは違う。侍女だって、愛人にでもすれば話は済む。他に理由があるのだよ」
マズイ。
あと少しでも王様が何か言ったら、爆発してしまう。
無表情が普通のはずのクラウス様が、それを続けるのに、あとどれくらい持つか。
これ以上、クラウス様を刺激しないでくれ。
「あの娘は異常だ。確実に何かを隠している。もしかしたら……」
チカッと稲妻が部屋を照らし出す。
「殺す必要があるかもな」
雷の轟音と殺気の爆発が重なった。
直後、クラウス様がとび上がり、腰から抜いた剣を王様に向ける。
考える間もなく僕もとび出し、クラウス様の足を引っ張る。よろめいたクラウス様はバランスを崩し、絨毯の上に倒れた。その上から、渾身の力で押さえつける。
「離せっ!ハル!こいつは、こいつはっ!」
「落ち着いてくださいクラウス様!今ここで王様を斬っても何にもなりません!」
「だが!」
「ソフィアを死なせたいんですか!?」
ビクッと肩が跳ね上がり、急に力を失ったクラウス様は、そのまま動かなくなった。
とりあえず、大丈夫そうだ。安堵の溜息が洩れる。
そっと腕を離すと、クラウス様は不自然な動きで立ち上がり、無表情で僕を見つめた。
「すまなかった。ありがとう」
「いいえ。僕こそすみません」
「……少し、一人になりたい」
誰にともなく告げると、ふらつきながら戸口の方へ向かい、クラウス様は姿を消した。
室内には、僕と王様二人だけだ。
ゆっくり顔を上げる。……そして、後悔した。
王様はニヤリと人の悪そうな笑顔を浮かべていた。
「君の能力、少しだけ見せてもらったが、素晴らしいね」
「そんなこと……」
「あるさ。クラウスを止められる者はそうそういない」
それを聞いた瞬間、罠にはめられたことに気がついた。
僕は試されたのだ。戦闘能力を。
クラウス様を煽り、暴走させ、僕がどう動くかを。
逃げたい。
なのに、足が言うことを聞かない。呼吸が狂っていく。
王様は僕の肩に手を置くと、静かに言った。
「どうだい?私の暗殺部隊に入らないか?」