リボンの色
ゆらり、とリボンが揺れる。
高貴で可憐な紫は、夕陽の朱と混じり合い、どこか不吉な色に染まっている。
少女の唇から、透明で甘い、あどけない声が紡がれる。
「終わったのね」
「……そのようですね」
感情のこもらない声でローグは答えた。しかし、その声とは裏腹に、貴族的な顔立ちが苦々しげに歪んでいた。
ローグの視界に映る、凄惨な光景。
「ここまでやるとは……」
計算外だった。
手のひらがじっとりと汗ばんでいるのに気付き、ローグは苛立たしげに舌打ちした。
自分が、こんな感情を抱くことになるとは。
その向こうでは、ネリーがライトを助け起こしているところだった。
「大丈夫か?」
「……これの……どこ、がっ……大丈夫に……」
「あー。はいはい。わかったから喋るな。それ以上出血するとマジで死ぬよ」
「……そうかもな……」
弱々しく呟いたライトに、ネリーは目を見張った。
「どうしたんだよ、お前。らしくもない」
「強すぎ……なんだ……よ」
途切れ途切れに、苦渋のにじむ声で言う。
ライトの顔は真っ青で、鳶色の目は焦点があっていない。敗れた服や傷口から溢れる血の量は多く、明らかに危険だった。
ネリーは少し離れたところで倒れている黒髪の少年に目をやり、溜息をついた。
「あたしがあそこでざっくりやっとかなきゃ、今頃あんたはあの世行きだ。……全く、あれのどこにあんな力があるんだか。どれだけ切りつけられても、出血しても、毒がまわっても立ち上がってくるなんてさ……」
男にしては華奢で力もなさそうなのに、ライト相手にここまで戦える。
あまりにも異常な戦闘能力と、偏執的な性質。何もかもが狂っている。
「あれ……は、人間じゃ、ない。……『化け物』……だ」
「……そうかもね」
ネリーは普段は凶暴そうな灰色の瞳に、少しだけ憐みの色を浮かべた。
「悔しいか?」
ライトはほんの少し躊躇った後、
「……ああ」
掠れた声で告げた。
ふっと、赤い唇を緩め、ネリーは微笑む。
「ほら、つかまれ。さっさとその体何とかしないと、本当に死んじゃうし。ま、それでもいいかも?」
「……よく、ねーよ」
ぽつりと呟かれた抗議に、ネリーはニヤリと笑った。
「ねえ、ローグ。そろそろ行ってきていい?」
「どうぞ。今回の計画は、このためだったのですから」
「そうだね」
少女はくすくすと笑うと、柔らかな薄茶色の髪を翻し、待ちきれないとばかりに走りだす。
そして、目を閉じて地面に横たわっている少年の元まで行くと、両膝をつく。藤色のドレスが少年の血と土で汚れるのを気にする様子もなく、白く華奢な指で少年の前髪をすいた。
さらり、と漆黒の髪が流れる。すると、少女の顔に満面の笑みが浮かんだ。とろけそうなほど甘く、可愛らしく、どこか歪な不思議な笑み。
とても幸せそうな、無邪気な子供のような瞳。
少女の様子は、この状況とはあまりにも不釣り合いだった。
少年は全身血まみれで、人によっては気絶してもおかしくない。生きているのか、死んでいるのかさえ判別できない。
しかし、この少女は悲鳴を上げるどころか、うっとりと溜息をついた。
「……綺麗」
前髪を梳いていた指が静かに滑り、頬に触れる。
氷のように冷たい。
少女の笑みがますます深まる。
「ねえ、ハル。あなたは変わらないね。……あたしと離れたあの日から」
少年は答えない。聞こえてすらいない。
少女は少年の頬を撫でながら、囁き続ける。
「変わらなくていいんだよ?愚かで可愛い、あたしのハル。ずっとずっと、そのままでいてね。……このまま連れ去ってしまいたいなあ」
「女王様、そろそろ時間です」
いつの間にか傍に控えていたローグが、淡々と告げる。少女は不満げにローグを睨んだ。
「もう?」
「ええ。おそらく、レウィン・ウルやクラウス・フェルく・ド・アラネリアあたりが探していることでしょう。ここを見つけるのは時間の問題です」
「……わかったわ。まだ、あの女に会うわけにもいかないし」
残念そうに溜息をつくと、少女は髪に結んでいたリボンをするりとほどき、少年の手首に巻いて軽く結んだ。
「そろそろお別れよ。またね、ハル。このリボンを見るのは、あなたかな?それとも……」
ゆっくりと唇がつり上がり、妖艶な微笑が浮かぶ。大きな瞳が、暗い愉悦に妖しく輝いている。
「あの女かな?」
くすりと笑う。
少女はその場を離れ、ローグ達と共に夕闇の中に消えた。
歌声が聞こえる。
どこまでも透き通った、優しくて透明な音色。空気をふわりと包みこむような旋律は、春のそよ風ように心地のいいものなのに、どこか寂しげな響きがある。
闇の中で、ただ、誰かの歌声だけが聞こえて。
僕は何故か、それを懐かしく感じた。
おそらく、僕はこの歌声を聞いたことがあるのだろう。では、どこで聞いたのか。
……わからない。
全てが闇に溶けて、混沌としていく。
つい最近に聞いた気がする。それとも、もっと前?
そう、何年も前。
確かに、これと似た歌を聞いた……気がする。
あれは誰だったのだろう。そして、今歌っている人は。
目を覚ませばわかる気がする。でも、どうしてか目を開ける気にはならなかった。
ゆっくりと闇が濃くなっていき、全てが緩やかに消えて。
そうして、再び意識は途切れた。
「少しは休んだらどうだ?」
音もなく部屋に入ってきたクラウスに、リラはビクッと肩を揺らし、口を閉じた。そして淡く、儚げに微笑む。
「……大丈夫よ。歌うのは好きだもの」
「そうか。でも、無理はするなよ」
クラウスは不安げな顔でリラを見つめる。
リラの目の下にははっきりとクマができ、顔色も悪くやつれていた。
クラウスはリラの隣に椅子を引き寄せ座ると、ベッドの上で未だ眠り続けるハルに視線を向けた。
浅い呼吸を繰り返しながら眠っている。青ざめ、頬に残る傷が痛々しい。毛布に隠れて見えない部分は、更に酷いことになっているだろう。
それでもだいぶ良くなってきている。少なくとも、死にいたることはないという事実に、クラウスは安堵していた。
「まだ目を覚まさないな」
「……そうね」
リラはいつもより低い声でぽつりと呟いた。青い瞳が暗く陰る。
「あれだけボロボロになってたから、仕方ないよね。お医者様にも最善を尽くしてもらったし、一命は取り留めたんだから、それで満足しなきゃいけないとは思ってる。……でも」
「あまり自分を責めるな。お前のせいじゃない。誰のせいでもないんだ」
「……わかってる」
そう言いつつも、その表情には自責の念が浮かんでいる。
クラウスは物憂げに窓の外に目を向けた。
「今頃ウルは、聞きこみ調査に奔走しているんだろうな」
「レウィンさんこそ、ちゃんと寝てるの?」
「……寝てないと思う」
あれ以来、レウィンはあらゆる場所を駆けずり回り、何故ハルがこのようなことになったのかを聞き回っていた。
もちろんハルが目覚めれば事情が聞けるのだから、レウィンのしていることは無意味なのだが、動かずにはいられないようだった。そこら辺が感覚派のレウィンらしい。
「悪いな……。俺だけ何もしていなくて」
「そんなことないよ。あのお医者様を手配してくれたのはクラウスでしょう?今もこうして私の気を紛らわせてくれてるんだし」
「……それは俺も一緒だ」
「そっか。そうだよね」
会話が途切れると、部屋に重苦しい沈黙が落ちた。冷たい静寂に息がつまりそうになる。
絶対に大丈夫だとわかっていても、どうしても不安なのだ。
もしかしたらという思いが頭を離れず、かといってどうすることもできない。
そんな事実に苛立ち、クラウスは目を伏せた。
あの日、一度屋敷に戻ってきたクラウスが見たのは、レウィンに背負われた血まみれのハルだった。
ところどころ破れた服は血に汚れ、見えるところだけでも傷だらけで出血も酷く、もう、死んでしまったのかと思った。
そんな様子の人間を見るのは初めてじゃない。
今まで、何度も見てきたのだ。
王位継承者である彼は、数え切れないほど命を狙われた。護衛も追いつかないほど。
だから、自分で自分の身は守れるように強くなって、散々返り討ちにしてきたのだ。今更瀕死の人間を見たって、何も思わない……はずなのに。
何もかも塗りつぶすような絶望。ハルの死を受け入れたくないと、全身が拒絶する。
ただ立ち尽くすだけで、一歩も動けなかった。
そんな情けない自分を追い越すように、華奢な姿が自分の視界に飛び込んできた。
青ざめた顔には激しい後悔が浮かんでいて、今にも泣き出しそうな彼女は、レウィンに向かって言った。
「レウィンさん、今すぐお医者様を探して。それまで、私がなんとかするわ」
リラ・クラリスの感情を押し殺したような低い声に、クラウスはやっと我に返ったのだった。
あの時のことが脳裏に蘇り、クラウスはほんの少し顔を歪ませた。
とっさに動くことができず、無力だった自分に怒りがこみ上げる。
「……あの時は、悪かったな」
「何のこと?」
「お前に頼りっきりだった」
ぼそりと言う。
リラは驚いたように目を見開き、そしてくすりと笑った。
「そんなことないって言ってるのに。それに、いっつもクラウスばっかり何でも出来ても不公平だと思うな。私って意外と有能なんだよ?」
わざとおどけて言う様子に、クラウスを励まそうとしているのが見て取れる。
そのせいか、柔らかな微笑も少しだけ歪に見えた。
「それに……」
囁くような声が、更に小さく弱くなる。
「……私の方が、役に立たなかった」
「え?」
意味がわからず尋ねようとして、クラウスは言葉を飲みこんだ。
リラが、切なげに透き通った、ふとした拍子に壊れてしまいそうなほど儚い笑みを浮かべていたから。
ひどく不安定で脆く、綺麗な笑顔に、クラウスは形のない不安を感じた。
自分は、リラ・クラリスのごく一部しか知らないのではないか。
現に、今回の『あれ』のことは今まで全く知らなかった。王はこのことを知っていたのだろうか。
よく考えたら、他の兄妹達に比べ、リラは不明瞭な点が多い。
だとしたら他にも、隠していることがあるのだろうか。
「お食事をお持ちいたしました」
突然傍で聞こえたハイトーンの声に、クラウスはハッとした。同じく物思いにふけっていたらしいリラもビクッと体を震わせる。
いつの間にか部屋に入ってきていたのは、シンプルな黒のワンピースに白いエプロン姿のソフィアだった。抱えていたお盆を手近なテーブルに置き、淡々と皿を並べていく。
若干機械的で表情も不機嫌そうだが、そんな様子もクラウスには愛らしく映る。やはりこれは恋なのだろうか。本人にも理解不能だった。
「お二人とも、食事くらいはちゃんととってください。これごときに不健康になる理由はありません」
これ扱いされているのは、ソフィアに全力で敵視されているハルだ。さすがに酷過ぎる。
「これなんて言い方はないだろ」
「……すみません。つい、いつもの調子で。私としてはものすごく手加減してあげてるつもりなんですが……」
「それで?」
「はい」
きっぱりと言い放つソフィアに、クラウスは溜息をついた。
ソフィアは口をつぐむと、再び作業にとりかかる。
ティーポットから紅茶を注いだところで、ソフィアは世間話でもするように、
「そういえば、リボンを見かけませんでしたか?」
「リボン?」
「ええ。そこで眠り続けている貴族の手首に結んであったと思います。じっくり見たわけでもないし、血で汚れて色とかは判別不可能でしたけど」
「それって、あの日のことか?」
「そうです。情けなくもレウィン・ウルに背負われ瀕死の状態で帰ってきた時のことです。リボンを手首に結ぶとか男のくせに気持ち悪いと言ってやろうと思っているのですが、そのリボンが見つからなくて……」
「そんなことのために探しているのか……」
どうでもよすぎる話なのに、そんなことですら攻撃のネタにしようとする。
ハルがあまりにも不憫だった。
「俺は見てないぞ。それどころじゃなかったし」
「そうですか……。レウィン・ウルやアニーもそう言ってました。リラ様は?」
さっきから無言でうつむいているリラに尋ねる。
リラはゆっくりと顔を上げ、真顔で首を横に振った。
「さあ?知らないわ。そんなことよりご飯食べようよ。お腹空いちゃった!冷めたらもったいないしね~」
いつも通りの無邪気で子供っぽい笑顔と仕草。さっきまでの儚い微笑が嘘のようだ。
切り替えが早すぎるリラに呆れつつ、クラウスは内心安堵していた。
リラは、やっぱりいつも通りの方がいい。
リラだけじゃなく、全てがいつも通りでいて欲しい。何一つ欠けることなく。
だから、早く目を覚ませ、ハル。
一人胸の中で呟いて、クラウスはティーカップを手に取った。