復讐
濃い新緑の香りの中を疾走する。視界にはローグの後ろ姿しか映らない。
全速力で追いかけているのにいっこうに追いつくことができない。やはり、数年間のブランクは大きい。
思うように進まない足に、苛立ちばかりが募っていく。
少しずつ差し込む光が増えてきている。もうすぐ森を抜けるのだろう。場所によってはあっという間に逃げられてしまう。
一向に縮まらない距離に、唇をかみしめる。と、その時、大きな岩が視界を横切った。
スピードを殺さぬままターンし、岩に手をかける。
重くて落としそうになるのをこらえ、限界まで持ち上げローグめがけて放り投げた。岩は滑らかな弧を描いてとんでいく。
頭上に現れた岩に気づくのが遅れたのか、ローグは避けたひょうしによろめき地面に転がった。
岩が地面に当たり、砕ける。一瞬遅れて、轟音が森の空気を揺らす。
確実に隙が生まれた。
一気に距離を縮め、スピードを上乗せして蹴りを放つ。
と、その瞬間腕に鋭い痛みを感じた。
ローグの槍が腕を軽く抉っていた。敗れた服を赤く染めながら、血が流れ出す。
ローグに視線をやると、肩で息をしながら薄く笑っている。
「……油断したな」
「油断?」
何を言っているんだろうね、こいつは。
あまりに滑稽で、こっちまで笑いそうだ。
「油断しているのは、お前の方だろう?」
ローグは不可解そうに眉根を寄せる。
これだけ時間をあげて、まだわからないのか。
僕は突き刺さったままの槍をもう片方の手で握り、一気に引き抜いた。パッと紅が散る。
不思議と痛みは感じなかった。感覚が麻痺したのか、それとも僕がおかしくなったのか。
珍しく顔を歪ませるローグに、笑みが浮かぶ。
「なっ……!」
「今さらだよ」
ローグはハッとした顔で自分の手元を見つめ、大きく舌打ちした。
ローグの握る槍は、一方で僕にも掴まれている。僕の手から引き抜こうと力いっぱいひっぱっているが、こ揺るぎもしない。当然だ。僕が離すわけないのだから。
「この槍を捨てて、他の武器を使えばいいだろう?それとも、これにこだわる理由があるのか?」
「……クソガキめ」
ここまで来ても槍を手放さないのは、よほど貴重なものか、それとも。
「これしかないんだろう……武器」
「だったら何だ。お前が武器を使わないことはわかっている。こんな状態でどうやって俺を殺すつもりだ?」
薄青い目には、余裕と嘲り、そしてわずかな焦りが浮かんでいた。
「……どうするかって?」
僕は負傷した右腕を伸ばし、ローグの首を
絞めた。
「なっ、何をっ!」
「こんな力じゃ全然駄目だけど、呼吸はしにくいだろ?」
「くっ!」
僕の右手から逃れようとローグがもがく。しかし、両手がふさがった状態で逃げられるはずがない。
右手は完全に感覚がなくなっていて、どのくらい力が入っているのかもわからなくなっ
ている。
「……いくら強がっても、しょせんは……『弱虫』のガキのままだ。本質は変わっていな……」
中途半端なはところでローグの言葉が切れた。
自分の手を見ると、震えている。
「……『弱虫』?この状況で僕にそのセリフを吐く?本当に殺されたいみたいだね」
自分で言っているのではないかのように、冷静な声だった。
ローグに視線を合わせると、苦しげに睨んでくる。
ああ、確かに変わってないさ。あの時か
ら。
「変わらなくて何が悪い」
僕は自分で時間を止めた。
変わったら、何もかも消えてしまう。
そして、同じ過ちを繰り返すだけだ。
彼女の時と同じように。
「変わらなかったから、今ここで、お前に復讐することができているんだ」
変化なんていらない。
時間なんて、永遠に止まってしまえばいい。
止まらないなら、全て壊れてしまえ。
感覚が完全に麻痺した手に更に力を加えようとした時、背後から気配を感じた。自然と避け、大きく飛び退き体勢を整える。
振り返ると、身軽な服装に剣を構えた若い男がいた。
「あははー、避けられちゃいました。まあ、いいタイミングで助けたんで、それでオッケーですよね旦那?」
軽い調子でローグに話しかける男には見覚えがあった。
以前、王様の婚姻とアンジェラ様の婚約を兼ねたパーティーを襲撃したうちの一人。
確か、ライトとかいうやつだったはずだ。
「……何がオッケーだ。もっと早く出てくれば、こんな目に合わずにすんだ」
「知らないよそんなの!油断してた旦那が悪いんですよ!」
「黙れ」
「横暴だなあ」
軽く肩をすくめると、ライトは急にこっちを見てニヤッとした。
「やあ、どうも。お取り込み中のところ邪魔しちゃって悪いね~。あ、オレのこと覚えてる?」
「覚えている。……君はローグの仲間?」
「えーと、そうなるんじゃないかな?うん。……あ、旦那逃げちゃった」
ハッと我に返ってローグの姿を探すと、だいぶ遠くの方へと走り去っていくところだった。
この距離じゃ恐らく届かない。
「あー、怒んないでくれよ。オレのせいじゃないし。旦那が無理やり押し付けたせいだし。ということで、穏便にいこ……」
「もう一度確認するけど、ローグは仲間?」
強い声で遮ると、ライトは呆けた顔になった。
「え?さっきから言ってるだろ。何をいまさら」
「……そうか」
僕はそっと呟くと、一気にライトとの距離を縮め腕を振り上げ、
「だったら、君も死んで」
隙だらけの鳩尾にたたき込んだ。
ライトの体が一瞬宙に浮き、地面にたたきつけられる。砂埃が舞った。
僕が動く前に俊敏な動きで起き上がり、ライトは素早く間合いを取る。
「ゲホ、ゴホッゴホッ!な、何すんだよいきなり!お前以前会った時は戦闘拒否の逃げ腰野郎だったじゃねーか!変わりすぎ……」
ライトの表情が凍りつく。
僕は、ただ嗤った。
「変わりすぎ?……これも僕だよ」
子供の時以来、外に出てくることのなかった方の僕。
全ての感覚が曖昧になっていく。
「これもって……。ていうか、お前本当に変だよ。何つーか、『化け物』的な雰囲気が……」
『化け物』という単語に、僕は目を閉じる。
いつもなら瞬間的にキレるはずの単語に、何の感慨もわかない。むしろ、その言葉がふさわしいように感じる。
僕は静かに目を開いた。ぬるい、不吉な風が吹き抜けていく。
「それ、昔よく言われたよ。子供の時にね」
爪先に重心をかけ、体制を整える。
太陽が雲に隠れでもしたのだろうか。周りの影が、濃く深く、不気味な空間を作り出す。
「もう、お喋りは終わりにしようか」
静まり返った部屋に、カタンという小さな音が響く。
青年は分厚く黄ばんだ本を閉じ、溜息をついた。椅子の背もたれに体を預け、芸術品のように整った顔に淡く笑みを浮かべる。
今この屋敷には、青年、クラウスしかいなかった。
皆が外出しており、召使いすらいない。おかしい気もするが、屋敷の主人の頼みで何時間も古書の翻訳をし続けていたせいで、よくわからなくなっていた。
いつもは一つに束ねている栗色の髪はほどけて、艶やかに広がっていたが、彼はそれを直すこともせず虚空を見つめていた。
ふと、騒々しい足音や話し声が聞こえてきた。誰かが帰ってきたようだ。
出迎えようと立ち上がった時、ドアを蹴破って誰かが転がり込んできた。
「誰だ!」
すかさず剣を抜き、構える。しかし、クラウスはすぐにそれをしまった。
入ってきたのはレウィンだった。長い黒髪は乱れ、息も荒い。
「何だ、お前か。どうかした……」
「ハルはどこだ!?」
必死な声だった。
いつもの陽気でゆったりした雰囲気は微塵もなく、漆黒の瞳には焦燥の色が浮かんでいる。
「どこだって……屋敷の主人と出かけたようだ。何かあったのか?」
明らかに様子のおかしいレウィンに眉を潜める。
レウィンは苛立たしそうにこぼれてきた前髪を払いのけると、地の底から響くような声で言った。
「何かあったのかはわからない。ていうか、知らない。でも、ものすごく嫌な予感がするんだ」
「嫌な予感?」
「ああ。……はっきり言ってあたしは、ぜんっぜん頭良くない。むしろ馬鹿だ。でもな、勘はめちゃくちゃいい。ほとんど外れたことがないってくらい。だからあたしは、今まで自分の勘に頼って生きてきた」
勘だけで判断するのもどうかと思うが、レウィンがそう言うならそうなんだろう。馬鹿の方が野生の勘も鋭いと聞くし、時には綿密な策略をも超える。
「だが、何故ハルを探してるんだ?」
「……帰りにふとあたしの馬鹿弟子のこと考えたら、急に悪寒がはしったんだよ。……いいや、もっと不吉な何かが。言葉では表せられないけれど、とにかくヤバイ気がする。ものすごく」
ふと見上げると、レウィンの顔はやや青ざめていた。額には汗まで浮かんでいる。
「……わかった。ウルの言うことを信じる。他のみんなはどこに?」
真顔で尋ねたクラウスに、レウィンが口を開きかけた、その時。
蹴破られた扉から、また誰かがとびこんできた。目前にキラキラと輝く銀色の絹糸が広がり、続いて何かが床にぶつかる音が狭い部屋に響いた。
勢い余って転んだものの正体は、リラだった。絹糸のような髪に隠れて表情は見えない。
「大丈夫か?」
クラウスが助け起こそうとするより早く、立ち上がった。
そして、クラウスとレウィンは、リラの表情に思わず息をのんだ。
天使のように整った綺麗な顔は紙のように白く、血の気がない。いつもは無邪気に輝く青い瞳には、恐怖と絶望、そしてわずかな怒りが広がっていた。
青ざめた唇が、悲痛な叫びを紡ぐ。
「お願い……お願い、クラウス。一緒にハルを探してっ!」
グラリと視界が揺れる。体中が死人のように冷たい。もう、自分が生きているのかさえ分からなくなっていた。ひどく重く感じるようになった足を動かせば、地面に血の跡が残る。
周りを見渡せば、森からずいぶん離れたさびれた場所が、絵の具をぶちまけたかのように赤く染まっている。
くるりと振り返ると、壁に寄り掛かって体のあらゆる箇所から血を流している男が、僕を睨んでいた。
「お前……本当に人間じゃ……ないんじゃねーか……。このオレがこんな……に、なるなんて……まあ、殺しちゃダメって制約があるから……本気、出せないのも、ある……けど……」
「何を言ってるんだ?僕は人間だよ。普通じゃないけどね」
朦朧とする意識の中で、言葉が勝手に流れていく。
かろうじて足を引きずって移動することはできるが、もう手が上がらない。焦点も合わず、感覚どころか何もかもが麻痺している。
かなり血を流しているのはわかっていたが、僕は意外とタフだ。これくらいならあと十人は相手にできる。
おそらく、毒だ。
ライトの武器である剣に、あらかじめ塗ってあったのだろう。
油断していた。
馬鹿馬鹿しくて、自分に嗤いそうだ。
でも、ここで逃げるわけにはいかない。まだ、復讐は果たしていないのだ。
僕は鉛をつけたかのように重い足に力を入れ、間合いを詰めて、ライトが剣を握っている方の手を蹴りあげた。
「あっ……!」
ライトの手から剣が離れ、くるりくるりと宙を舞う。それをすかさず掴み、力任せに振りあげた。
剣がライトの肩を切り裂く。
呻き声が上がるか上がらないかのうちに剣を抜き、再び構えた瞬間、背後から殺気を感じた。
庇うのに一瞬間に合わず、体が燃えるように熱くなる。
視界がぐにゃりと歪曲する。意識が遠のいていくのがわかった。
まだ、まだ倒れるわけにはいかない。まだ……!
僕の思いとは裏腹に、全てが闇に閉ざされていく。
ほとんどが漆黒に染まった世界で、一瞬、薄紫色のリボンが揺れたような気がして。
そして、深い闇に落ちていった。