憎しみの記憶
僕の上の姉ミシュア・ウィルドネットは、長い黒髪と黒い瞳が特徴の、僕の自慢の姉だった。綺麗で優しくて、何より天才的に絵が上手かった。
ミシュア姉さんの絵を見ることができたのは子供の時だけだったが、子供心にそこらにいるような画家とはかけ離れていたことはわかった。
静まり返った早朝の森の風景、花園で微笑む少女、金色の泉の水をすくう女性……。どれも繊細で優しく、目が離せないほどの何かを感じさせる絵だった。
そんなミシュア姉さんには、婚約者がいた。
ゼルド侯爵家の跡取りであるローグ・ゼルド。
政略結婚だったが、ミシュア姉さんはローグのことが好きで、よくゼルド家に遊びに行っていた。
正直、あの頃から僕はローグが苦手だった。
無機質な声や、感情の薄い双眸、人間らしからぬ酷薄さがひどく異質で、少し不気味だったのだ。
だけど、いつかは僕の義理の兄になる人だし、ミシュア姉さんの好きな人だから、好きになろうと努力していた。
あの事件が起こるまでは。
今でもはっきりと覚えている、悪夢のような光景。
僕は死ぬまで、あの時のことを忘れないだろう。ローグへの憎しみと共に。
その日はよく晴れていて、少しぬるい風が窓から入り込んでいた。眩い太陽と夏の香り、平和な風景。
父さんと母さんはとある貴族のパーティーに参加しており、ステラ姉さんは近所の子供と出かけていた。
僕は彼女と庭で遊び、彼女が用事で帰った後、ミシュア姉さんの部屋へ駆けていった。
ミシュア姉さんに今描いている絵を、見せてもらおうと思ったのだ。
階段を駆け上がり、ミシュア姉さんの部屋につく。
扉が開いていた。
その時、異変に気付くべきだった。
ミシュア姉さんは絵を描いている時は、絶対に部屋の扉を開けたままにはしない。集中するために。だから、絵を描いているはずのミシュア姉さんの部屋の扉が開いていたのは、おかしかったのだ。
しかし幼かった僕は、気づくことができず、そのまま部屋にとびこんだ。
「ミシュアねえさん、入るよ……」
言葉が消えた。
目の前に広がった有り得ない光景に、僕は立ちつくした。
まず目に入ったのは、部屋の中央でうつぶせに倒れているミシュア姉さんの姿だった。
艶やかな漆黒の髪が広がり、顔は見えない。助けを求めるようにのばされた華奢な指が、紅に染まっている。作業用のシンプルなベージュのワンピースにも、不思議な模様のように赤い色が浮き上がっていた。
「……ミシュアねえさん?」
呼びかけるが、返事はない。
僕はミシュア姉さんに駆け寄り、抱きおこして叫んだ。
「ミシュアねえさん!どうしたの!?何があったの!ぼくだよ、返事してよ!」
泣き出しそうになるのをこらえて必死に言う。やはり返事はない。
生ぬるい風が吹き、長い前髪がさらりと流れ、整った顔立ちがあらわれる。ミシュア姉さんの顔は血の気がなく、うっすらと開けられた瞳は絶望に染まっていた。
「……る。……ハル……」
「ミシュアねえさん!」
青ざめた唇から掠れた声が漏れる。血に染まった指が、小刻みに震えながら上がりかけ、落ちる。そのままぐったりと倒れ込んだ。
「ミシュアねえさん!どうしたの!ねえ!」
どうしよう。家には今自分しかいないのだ。
床に広がる鮮血の量に、何とかしなければいけないということはわかったが、どうしようもなかった。
誰か、誰か助けて。そう叫ぼうとした時、
「うるさいガキだな」
冷やかな声が淡々と言葉をつむいだ。
ハッと振り向くと、薄青い双眸が傲然と見下ろしている。貴族的な顔には、何の表情も浮かんでいない。
「……ローグさん?」
僕はほっとして立ち上がった。
よかった。この人ならきっと助けてくれる。
「ローグさん、ミシュアねえさんが大変なんだ!助け……」
僕はローグの手に握られたあるものに気がつき、口をつぐんだ。
赤く濡れた短剣。
そして、ローグの着ている衣服にも、鮮やかな紅が飛び散っていた。
わけがわからずただ呆然と立ち尽くす僕に、ローグは薄く笑った。どこか歪な笑みだった。
「これでわかっただろう」
淡々とした声は変わらないのに、どこか楽しげな響きがある。
……わからないよ。全然わからない。
何もかもおかしいよ。
ねえ、説明してよ。
「ローグさんが、ミシュアねえさんをさしたの?」
「ああ。殺すためにな」
何でもないことのように答えが返ってくる。
そのせいか、ひどく現実味がなかった。
「……どうして」
「何がだ?」
「どうして、こんなことするの。ミシュアねえさんは、ローグさんのこと好きなんだよ!」
「それが何だ」
空気が凍りつく。
「俺は目的のためには手段を選ばない。ミシュアの存在は、俺にとって邪魔だった。それだけだ」
何を言っているかを理解するのに、ずいぶんと時間がかかった気がする。気がするだけで、数秒だったかもしれない。
全身が燃えるように熱くなった。目の前が赤く明滅して、歪む。
この人は、ミシュアねえさんを捨てたんだ。
邪魔だったというだけで。
僕はローグに向かってとびかかった。
接近した瞬間、鳩尾に激痛がはしった。体ごと吹っ飛ばされ、血だまりの中に突っ込む。
「ぐあっ!」
呻き声が漏れる。
体中にまとわりつく血の香りに、気が遠くなっていく。
師匠に鍛えてもらっていたはずなのに、かすりもしなかった。
自分の弱さが痛みと共に体にしみ渡る。
「……甘ったれで『弱虫』のガキめ」
鬱陶しそうに吐き捨てると、去ろうとする。
「……っ!待て……!」
ローグは足を止めると、嘲笑と共に振り返った。
「お前に何ができる?もはや立ち上がることすらできない『弱虫』のガキの分際で」
確かにその通りだ。
僕には何もすることができない。
非力なただの『弱虫』に、敵を取ることなんてできない。
それでも、行かせたくなかった。
悔しくて悔しくて、涙がこぼれそうになるのを歯を食いしばってこらえる。
これだけは、伝えなきゃいけない。
僕は有りっ丈の憎悪をこめて、ローグに視線をぶつけた。
「……いつか、お前を……殺してやるっ!」
ローグは少し驚いたように目を見張り、ついで呆れたように呟いた。
「馬鹿馬鹿しい。まあ、せいぜい強くなるんだな」
遠のいていく意識の中で、無機質な声だけが渦巻いていた。
あの時のことが、走馬灯のように脳裏を駆け抜けていった。
肌を撫でていく生ぬるい風、眩い陽光。穏やかな風景と自分の心情のアンバランスさが、あの時とよく似ている。
まるで仕組まれたかのような空間に、嗤いがこぼれそうだ。
「何がおかしい?」
実際に嗤っていたらしい。狂っているのかもしれない。
でも、それでいい。
「全てがおかしいんだよ。全然変わらないから」
お前のその目や態度、雰囲気。
そして、僕のローグへの憎しみ。
不気味なくらい変わってないじゃないか。
だからこそ、復讐しがいがある。
僕の殺気を感じ取ったのか、ローグは長槍を構えつつ後ろにとんだ。
逃がすか。
地面を強く蹴り、槍をかわして殴りかかる。
数年前とは違う確かな手ごたえを感じるのと同時にローグの体が吹っ飛ぶ。そして、勢いよく木にぶつかった衝撃音と、呻き声。
僕がいる場所とは反対方向に逃げようとするローグの姿に、思わず狂気じみた笑みが浮かぶ。
やっと、この時が来たのだ。
「そろそろ、始まった?」
さらさらした薄茶色の髪を指ですきながら、少女は尋ねた。あどけなさの残る笑顔と、妖しく輝く瞳の組み合わせが妙に艶めかしい。
「多分ね。女王様、楽しそうですね?」
少女の隣の椅子に座ったネリーは、不思議そうな顔をする。
「うん、とっても。楽しみなんだ」
「あれが血まみれになる可能性だってあるんですよ?」
すると少女は、形のよい唇を緩ませ、恍惚とした表情で微笑んだ。
「それはそれで、とっても素敵」
うっとりと溜息をつく少女に、ネリーは軽く呆けた。
「物好きですねえ……」
「それだけ彼に対する愛情が深いのよ」
甘く透明な声で歌うように告げると、急に立ち上がり、部屋の隅でかしこまっている男の傍へと足を運んだ。
その瞬間、少女の顔から微笑みが消えた。
印象的な色の瞳を冷たくきらめかせ、威圧するように男を見下ろす。
「褒美はあげるわ。後日、ネリーから受け取りなさい」
「ありがとうございます」
男の声は震えていた。
それも、喜びではなく、恐怖からのように見えた。
乱暴に扱えば壊れてしまいそうなほど華奢な、一人の少女に。
「……私は戻ってもよろしいでしょうか」
顔を上げず、低く聞き取りにくい声で言う男に、少女は可愛らしく首を傾げた。
「そんなの、勝手にすればいいでしょう?あたしはあなたになんか興味ないのよ。今回の作戦が上手くいけば、誰だってよかったんだから」
見下すような眼差しと共に、容赦ない言葉を浴びせる。
男は怯えたように視線を泳がせ、無言で部屋を出ていった。
逃げるように去っていく男を目で追いながら、ネリーは溜息をついた。
「……本当に、あれ以外眼中にないんですね」
「そんなことないわ」
「……は?」
キョトンとしたネリーに、少女はにっこりしながら言った。
「あたしは彼だけを愛している。でも、あの女のことも頭にあるわ」
世界中で一番憎いあの女。
あの女を傷つけ、苦しめ、絶望させるために、少女はゆっくりと時間をかけて、彼を手に入れることに決めたのだから。




