誰が恋人だ!?
数秒間フリーズしたのち、僕は盛大にすっ転んだ。
何もないところで足を滑らせ、ひっくり得る。痛い。色々な意味で。
「ひ、ひえっ!大丈夫ですか!?」
アニーが可愛らしい悲鳴を上げる。その声に、やっと我に返った僕は、沈痛な面持ちで立ち上がった。
「あ、あのねえ……。誰がリラ様の恋人だって!?有り得ないよね!いや他のどんな野郎が恋人でも構わないけど、何でそこで僕!?クラウス様といい、これ新手のいじめでしょ!」
怒涛のように喋ったせいか、息切れが激しい。そしてさっきの不意打ち発言でダメージバーが危険気に達している。もう駄目だ。
しばらくポカンとしていたアニーは、蜂蜜色の瞳を見開き、何故かぴょんととび上がった。
「あわわわわ!すみませんごめんなさい悪気はなかったんです本当です!」
涙目になりながらぺこぺこ頭を下げる。そのうち土下座までしようとするので、僕は慌てて止めた。
「いや、怒ってないから!落ち着いて、ね?」
「すみません……」
しゅんとうなだれるアニーに、ちょっと言い過ぎたかなと良心が痛む。
お互い落ち着いたところで、僕はアニーに尋ねた。
「急にどうしたの?そんなこと聞いて」
「そんなことって、何のことですか?」
「僕とリラ様がどうのっていうやつだよ!」
「あ、そうだった。ごめんなさい」
頬を赤らめ照れたように笑う。意外と天然なのだろうか。
「お二人ってとても仲がよさそうだったので、つい。本当に違うんですか?」
「違うってばっ!何が哀しくてあの人とそんな関係にならなきゃいけないんだ!そんなことになったらお先真っ暗だよ」
「そ、そうですか……」
アニーはちょっと首を傾げ、考え込むような仕草を見せる。
僕はこっそり溜息をついた。
全く、とんでもない不意打ちを食らったものだ。僕がリラ様にそういう感情を抱くことはまずあり得ないし、リラ様だってそうだろう。
それに、……恋愛なんて、馬鹿馬鹿しい。
僕にはもう、必要ない。
再び溜息をつくと、アニーはまたおずおずとした雰囲気で尋ねてきた。
「じゃ、じゃあ、ハル様とリラ様は、どのような関係なんでしょうか?」
思わず固まってしまった。
同時に、ずいぶん前にアンジェラ様に言われた言葉が脳裏によみがえる。
『責任もってあの子を守りなさいよ』
……そんなの、無理だ。
自分のことも、整理がつかないのに。
僕が黙りこくっていたからか、アニーが心配そうに顔を曇らせる。
頭からアンジェラ様の言葉を追いやり、僕は愛想笑いを浮かべた。
「王女と貴族。もっと詳しく言うと遊び相手、かな?ただの主従関係だよ」
そう、それだけの関係。特別な何かがあるわけじゃない、あかの他人。
だから、今胸の奥が微かに痛んだような気がするのも、気のせいなんだ。
「僕とリラ様がそういう関係になることは、一生ないよ。……それに、たぶん僕は、政略結婚になると思うし」
「政略結婚ですか?」
「うん。貴族の間じゃ日常茶飯事なんだ。僕もきっと、そうなる」
自分で言ったことが妙に生々しく感じて、苦笑する。
ふいにアニーは真顔になり、真摯な瞳で僕を見上げた。
「参考までにお聞きしたいのですが、よろしいですか?」
「うん。何?」
「ハル様は、政略結婚が嫌ではないのですか?」
かなり直球な質問だ。
普通、他の人なら何て答えるんだろうか。
少なくとも、僕は。
「……嫌じゃないよ」
そっと呟く。
僕は嘘つきだけど、これは本当。
貴族に生まれたのは変えようのないことだし、今更どうのこうの言ったってしょうがない。
僕の答えに、アニーは何故かほっとしたように目を和ませ、頬をほんのり染める。
それから、柔らかな微笑をたたえたまま、
「えっと、最後に教えてください。ハル様は、恋をしたことがありますか?」
「ないよ」
するりと言葉が飛び出す。
「そうですか」
アニーは何だか納得したように頷いた。少し照れた様子が愛らしい。
ごめんね、アニー。
さっきのは嘘。嘘なんだ。
あれだけ普通に言えるということが、どれだけ僕が嘘つきなのかを物語っている。
ああ、嫌だな。こんなことを考えながら、普通に笑って、喋っているんだから。
自分で自分が気持ち悪い。『化け物』と言われてもしょうがないんじゃないかとすら、思う。
本当は、一度だけ恋をしたことがある。
遠い昔の、忌まわしい過去。
その時、恋なんて何もかも傷ついて壊れるだけだと知った。
だから、この先何十年生きたって、僕が誰かに恋することはないだろう。
アニーと別れ、闇が一段と濃くなった庭をぶらつく。
いつの間にか、月は分厚い雲に隠れ、星明かりだけになっていた。
まあ、新月じゃないだけマシか。
妙に体が重くなったような感覚にとらわれながら、足を動かす。
全く、何がバカンスだ。休む暇など微塵もないじゃないか。
出発早々盗賊に襲われ、迷惑な再会を果たし、屋敷に泊めてもらってからも妙な争いごとに巻き込まれる始末。
そりゃ、いいことが全くなかったとは言わない。初めて見た他国の風景や海、クラウス様と友達になれたこと。それらはすごく幸せなことだと思う。
でも、やっぱり僕は外に出るべきじゃなかった。
ちょっとしたことで、色々暴走しすぎだ。
自分に嫌気がさして溜息をつく。
物思いにふけっているうちに、大分奥に来ていたようで、ますます闇の色が濃くなっていた。
それにしてもこの主人の屋敷も随分広い。結構な身分なんだろうと思った、その時。
微かに人の声が聞こえた。
誰だろう。さっき別れたばかりだから、アニーじゃないのは間違いない。
戻った方がいいだろうか。
でも、ここにいるってことは仲間か屋敷の人だろうし、大丈夫だろう。
そう思って再び歩き出すと、囁くような声が再び耳に届いた。
あまりにも小さな声で聞き取れない。喋っているということは複数人か。
でも、わざわざ近づいていく必要もないような。
どうしよう。
足を止めて迷っていると、
「どうして駄目なんですか!?」
激しい叫び声が響いた。
「私が戦ってはいけないのですか?何故!私は……私は……」
ひどく感情が高ぶっているらしい声には、聞き覚えがあった。
甘く透き通った、少女の声。
それは彼女に間違いない。
それに、記憶の中に埋もれて忘れていたけど、これに似た状況で聞いたことがあった。
ずいぶん前、リラ様がシャルキットのトランプを窓から落とし、探していた時のこと。たまたま通りかかった時、クラウス様と誰かが話しているのを耳にし、クラウス様に口止めされたのだ。
あの時話していた少女はきっと……。
「う、うわっ!」
考えすぎて周りを見ていなかった為、飛び出していた木の根に足を引っ掛け、前のめりになり頭から茂みに突っ込んだ。
当然、木の枝が体に遠慮なく突き刺さる。
「っ……いったあ!」
師匠にやられた時は、一応計算して突っ込んだので大したことはなかったが、今回は何の準備もしていなかったので、かなり痛い。
体中につく葉っぱを払い落しながら思わず顔をしかめる。
全く、今日は何回転んでるんだよ僕。ただのアホじゃないか。
ものすごく惨めな気分で顔を上げようとした時、僕の足元に銀色のナイフが音を立てて突き刺さった。
真っ暗な中で鈍く光るナイフに、頭の中で警鐘が鳴る。
更に、足音が僕の方へ近づいてくる。
これ、逃げた方がいいよね。絶対逃げた方がいいよね。
即座に踵を返し駆けだそうとする。そこへ、
「どこへ逃げるつもりですか、ヘタレ貴族。止まらないと数分後には体がバラバラになっているかもしれないけど、それでもいいんですか?」
嘲笑うようなハイトーンの声。冷やかな中に、確かに怒りを感じて戦慄が走る。
「あはは、見、見逃してもらえ……」
「見逃してあげるわけないでしょう?今から八つ裂きにするのが楽しみ」
「結局やるんじゃないか!」
「そりゃ、生きて返すつもりはありませんからね」
そうしている間にも、足音は近づき、すぐ傍まで来たのがわかった。
こうなったらもう覚悟するしかない。
「……いつまで後ろ向いているんだ。怒らないからこっち向け」
中性的な美声が、やや諦めたように語りかけてくる。
「ほ、本当に大丈夫ですよね?二人で殺しにかかるとか、ないですよね」
「そんなことするわけないだろ」
「もちろん、私一人でやりますから」
「やめろ。さっきむやみに戦うなと言ったばかりだろ」
静かにたしなめる様子に、少しだけ安堵する。
しかし、どうして僕は人様のごたごたに関与してばかりなんだろう。ゴシップとか全く興味ないのに。
僕は溜息をつき、ゆっくりと後ろを振り返った。