庭での一幕
「そこまで、だ。他人の敷地内で暴れるな」
冷やかな声が生ぬるい風をつき抜けていく。絹糸を束ねたような栗色の髪が、ふわりと揺れた。
師匠はちょっと目を見張り、そしてニヤリと妖しげに笑う。
「ふーん。そこまで必死に止めなくてもねえ……」
「馬鹿か。それ以上余計な口をきくなら、あの世におくってやる」
「はいはい」
師匠はますます面白そうに頬を緩ませる。反対に、クラウス様はものすごく不機嫌そうに顔をしかめている。
え、何?何が起こってるの?
今更だけど、わかってないのって僕だけ?
妙な展開をぼーっと見守っていると、クラウス様が僕の方に向きなおった。
「お前も逃げないでさっさと止めろ」
「……えー。無理です無理」
「無理って言うな。やれ」
「出来ませ……」
「いいからやれ」
そんな無茶苦茶な。
クラウス様はいささか乱暴に乱れた髪をかきあげ、うつむいて黙っているソフィアに言った。
「……必要以上に武器を持つなと言ったはずだ」
ソフィアがびくっと体を震わせる。
空気を震わせるようないつもより低い声には、怒りが含まれていた。
それでも、ソフィアはバッと顔を上げ口を開く。
「今回は必要があったのです!」
「どういう理由で?」
「……それは、言えません」
「だったらもう持つな!」
「それはできません!」
硬化した空気に鋭い視線が交差する。
束の間、沈黙が落ち、やがてこの場に不釣り合いな陽気な笑い声が響いた。
「あはははははっっ!あんたら、ほんとに面白いよ。まだまだ若いねえ……いや、お子さまって言った方がいいかな?」
その途端、どこかで血管が切れるような音が聞こえた気がした。
恐る恐るその方向を見ると、冷たいなんてものじゃない、能面のような無表情をしたクラウス様が、再び剣を握りなおしているところだった。
引き結ばれた唇が、わずかに開く。
「貴様、今何て言った?」
「だーかーら、お子さまだって言ってんの。何?自覚ないわけ?どいつもこいつも、甘ったれの青二才なの。わかる?」
な、何てことを。
内心絶叫していると、無表情だったクラウス様が静かに目を伏せ、優美な笑みを浮かべた。
「……死ね」
殺気と共に振り下ろされた剣をかわし、師匠は逃走した。それを追いかけるクラウス様の姿もすぐに遠ざかり、闇に消える。
「……行っちゃった」
ぽつりと呟くと、ソフィアと目があった。
可愛らしい顔は少し青ざめ、青い瞳が微かに揺れる。
「何じろじろ見ている。気持ち悪い」
「き、気持ち悪いはないだろう!それに、僕はここに来たくて来たわけじゃないし。迷惑だよ」
ムッとして言い返す。すると、ソフィアは馬鹿にするように冷笑した。
「それなら、私としては嬉しい限りですね。貴族は嫌いだもの」
「貴族貴族って、僕には名前が……」
「そんなの知ったこっちゃありませんね。所詮お貴族様は、みんな同じだから」
まだあどけなさの残る少女らしい声で、吐き捨てる。
今のは頭にきた。
確かに、貴族は汚い。裏で何を考えているかわからないようなやつらばかりだ。
僕も嘘つきだから例外ではないけど、何も知らないソフィアに言われたくない。
自然と顔が強張る。しかし、口から飛び出してきた言葉は、自分でも予想外だった。
「何で、そんなに強がってるの?あと、わざと大人みたいに振舞うのもどうかと思うよ。全然似あってない」
ソフィアは呆然としていた。
言った本人の僕も驚いたけど。
やがて、我に返ったらしいソフィアは、目をつり上げ、震えだした。
「よ、余計なお世話ですっ!それに、私は子供じゃありませんから!」
「え?」
「一応これでも、今年で十七だ!」
今度は僕が呆気にとられる番だった。
十七歳ということは、僕と同じだ。でも、ソフィアは十一か十二、せいぜい十三歳くらいにしか見えない。背はかなり低いし、人形のように整った顔は童顔で、甘い声にはあどけなさが残っている。
僕はソフィアをじっと見つめ、首を傾げた。
「それ、本当?冗談とかじゃなくて?」
すると、ソフィアの顔がみるみる赤く染まった。地雷を踏んでしまったらしい。
「な、何が冗談だ!私が十七に見えないとでも!?」
「うん」
頷いた瞬間ナイフがいくつかとんできた。それをかわし、一つをつかんでもてあそぶ。
「リラ様は子供っぽいけど、まさかソフィアより年下だったとは……」
「……リラ様のことを悪く言ったら処刑するって前にも言いましたよね?」
視界からソフィアが消え、背後で囁きが聞こえる。振り向かなくても、放たれている殺気でソフィアが何をしようとしているのかはわかった。
僕は溜息をつき、言葉をつむぐ。
「一つ聞きたいんだけど、何でそこまでリラ様に尽くすの?」
ほんの少し、躊躇うように間が空き、
「あなたには関係ないことです」
ひどく硬い声で呟く。
「……リラ様は、裏切るような方じゃないから」
闇に飲み込まれてしまいそうな小さな声で、そっとつけたした。
振り返ると、瞳に影の落ちたソフィアが、ナイフを懐にしまいこんでいた。
全てしまい終えると、凛と顔を上げ、突き刺すような視線を僕に向ける。
「とにかく、リラ様の悪口を言ったら許しませんから」
ピシャリと言い放つと、踵を返し去っていく。
僕は手の中に残った銀色のナイフを見つめ、ついで頭上の蒼い月を見上げた。
夕食後、散歩でもしようと外に出ると、玄関でばったりクラウス様に会った。
「あれ?どうしたんですか」
声をかけると、何故かばつの悪そうな表情で目を逸らす。
「ちょっと、用事が」
「そうなんですか」
何となく急いでいるようだったので、話を切り上げクラウス様と別れる。
さすが豪邸だけあって、庭も広い。月光に照らされた木々は、どことなく静謐な彫刻に見える。
雲一つない空には、猫の瞳のような月と淡く輝く星。決して強く照りつけるわけではないけれど、墨をこぼしたような漆黒の空によく映える。
月や星を見るのは、結構好きだ。だから、夜は嫌いじゃない。
昼間の殺人的な光を放つ太陽より、よっぽど優しい。
だが、何故だかわからないけど、ひどく胸がざわついて、締め付けられる。
いつから、嫌いになったんだっけ。
「……あの、ハル様、ですよね?」
物思いにふけっていると、突然柔らかな声がした。
振り返ると、メイド服に赤い三つ編みの少女が見上げてくる。アニーだ。
僕は即座に笑みをつくって尋ねる。
「偶然だね。具合はもう大丈夫?」
「はい、大丈夫です。休ませていただけたので」
「ごめんね、うちのアホ師匠のせいで」
「と、とんでもないです!レウィン様にはお世話になりました」
ぺこりと謝る。その仕草が何とも可愛らしい。
「そういえば、どうしてこんなところに?」
「わ、私、すぐ倒れちゃって全然お屋敷を見てないので、ちょっと見学に……」
「そっか。僕も散歩しようと思って。よかったら一緒にどう?」
「はい。喜んで」
アニーはちょっと恥ずかしそうに頬を染め、にっこりした。
何だろう。何ていうか、癒される。
最近周りの人たちが変なのばかりだから、疲れていたのかもしれない。
まともな人がいてよかった。
風が木草を揺らす音がやけに大きく響く静かな庭を、ゆっくりとした歩調で、他愛もない話をしながら歩く。
色々あった一日の中では、とても安らかな時間だった。
しばらく歩くと、ふいにアニーが立ち止った。
「どうかした?」
問いかけると、何かを悩むように視線を下に向ける。
そして、顔を上げ真っ直ぐ僕を見つめてきた。丸い蜂蜜色の瞳に、僕の顔が映りこむ。
そして、囁くような声で言った。
「あの……気を悪くしたらごめんなさい。ハル様とリラ様は、恋人同士なんでしょうか?」