何かがおかしい
「ハル!」
「……ついてこないでください」
「ハル、止まれ!」
「鬱陶しいです」
「いいからこっち見ろ!」
「しつこい!」
仕方なく振り返ると、唇の端を曲げた師匠が僕を睨んでいた。
「よくもこのあたしに嘘つきやがったなクソ弟子」
「何のことですか。いちゃもんつける前に腐った脳みそ取り除け馬鹿師匠」
僕もキッと睨み返す。すると、師匠は静かに溜息を吐き、
「ミシュア、何かあったの?」
訊かれたくないことをしっかり訊いてくる。
こういう時、妙に勘の鋭い師匠は本当に面倒だ。嘘もほとんど通用しない。
「……師匠には関係ありません」
「んなわけねえだろっ!いい加減なこと言うんじゃねえっ!」
「本当に関係ありませんから。師匠がどこぞに旅に出た後の話です」
「だからって!」
師匠はカッと目を開き、それから何かを諦めたような目になり、真っ直ぐ僕の目を見据えてきた。
そして、いつもより低い声で言う。
「……わかった。今のお前には言葉じゃ通じねえな。……無理やりにでも聞きだしてやる」
険しくつり上がった黒い瞳に、ギクッとする。
まずい。
この目をした師匠は、絶対に譲らない。
急いで踵を返し走り出す。
「待ちやがれ馬鹿弟子!このあたしに勝てるとでも思ってるのか!?」
声にドスがききまくってる。やっっばい。
振り返らず飛び出し、庭を走り抜ける。
もう、距離がない。そう思った瞬間、師匠が眼前に現れつきを繰り出した。
「うわっ!」
ガードしきれず、茂みに倒れこむ。
「……フン。随分へなちょこになってるじゃねぇか。ガキの頃の方がまだマシだ」
苛立ったような師匠の声に、僕は体を起こした。髪についていた木の葉が一枚、はらりと落ちる。
「そりゃそうでしょうね。家に引きこもってましたから」
師匠は目を丸くし、ついで唇の端をへの字に曲げた。
「何でだよ。せっかくこのあたしが鍛えてやったのに、もったいないじゃないか」
「もったいないも何もありません。……もう、どうでもいいんです」
ただ穏やかに、何事もなく暮らせれば、それで。
僕は、平穏がほしいだけだから。
「……どうでもいいって、それ、諦めてるのと同じじゃん!お前、強くなりたかったんじゃなかったのかよ」
燃えるような漆黒の双眸が、僕の目を射抜く。視線だけで殺せそうな、激しい眼光。
師匠は、あの時から何一つ変わっていない。それがいいのか悪いのかはわからないけど。
ほんの少し、胸を揺さぶられる。
僕は、変わったのだろうか。変わってないのだろうか。
少なくとも、嘘つきで逃げてばかりで臆病で、……『弱虫』なのは、ずっと変わってない。
師匠から目をそらすと、言葉がこぼれた。
「……強くなりたかった。でも、もう、無理なんですよ」
そう、無理だ。
最初から、そんなの無理だったんだ。
だから、師匠が何と言おうと、僕はもう戦わない。
諦めてしまった方が、楽だから。
「何言って……!」
師匠の手が伸びかけた時、突然現れた気配に、動きが止まった。
ぬるい風が吹き、視界に輝くような金色の髪が映る。
いつもとは明らかに違う、微かな音もさせない歩き方。メイド服ではなく、漆黒のレースのショートドレス姿で、艶やかな髪は下ろしている。
僕らの前に来ると、紅の唇をつり上げ、冷たく、高慢な微笑を浮かべた。
「レウィン・ウル。私の姿を見て何か思うことがあれば……勝負しなさい」
「……と、このようなことになっております」
話し終えた男に、灰色の目をした女、ネリーはニタリと笑った。
「ふーん。まさに、飛んで火にいる夏の虫ね」
「ちょっと違わないか?」
「あってるわよ!ライトは黙ってろ」
「んだとこのアホネリー!」
「人の名前にアホつけてんじゃねーよカスライト!」
「……そこまでにしとけ。うるさい」
一日に十回は喧嘩するネリーとライトに、黒いフードを目深にかぶった男が溜息をつく。黒づくめの男の手には、金の装飾の施された長槍が握られている。
「お前ら、この前の任務の失敗を忘れたわけじゃないだろうな」
男の淡々とした言葉に、ネリーとライトはギクッとし、目を泳がせる。
「あは、あははは……ごめん」
「悪かったですよ旦那……」
「全くだな。一番の目的は宝剣をとってくることだったのに、それをすっぽかしてどこぞの皇子や貴族と遊んでいるなんてな」
淡々とした機械的な声だが、その奥深くに怒りが含まれていることを悟った二人は、青菜に塩を振ったようにしぼんだ。
黒づくめの男は沈没したネリーとライトにちらりと視線を向け、ついで部屋隅でかしこまっている初老の男に向かって言った。
「しばらくは様子を見張っていろ。何か、弱みを握ることができるかもしれん。……じきに、俺が連れ出す」
「え、じゃあ旦那がやるんじゃないんですか」
「そうだ。ライト、お前がやれ」
「ええっ!」
ライトの顔が引きつる。それを見て、ネリーは肉感的な唇に意地悪そうな笑みを刻む。
「あれ~?ライト君は嫌なのかなあ?そーかそーか、すぐやられちゃうもんね~」
「そんなわけあるかっ!あんなお坊ちゃん倒すのに一分もいらねーよ。俺が言ってるのは、傷をつけずに気絶させられるかってこと。ザックリやったら女王様に怒られるだろ?」
「いいや、顔に傷をつけなきゃいいそうだ」
「あ……そう……。それならまあ、やるよ」
複雑そうな表情でライトが頷く。
その様子に、黒づくめの男はちょっと口角を上げ、笑った。
突然現れたソフィアを師匠は凝視し、はーっと溜息をついた。
「……思うことね。まあ、なくもないよ、その格好。あやふやではあるけど」
妙に引っ掛かる口調だ。師匠が何かを思い出そうとしているように見えるのも気になる。
しかしその前に、言っておかなければならない。
僕はパッと前にとび出るといった。
「勝負って、師匠は馬鹿と体術くらいしかないよ」
「そうでしょうね。それで結構です。私はいつも通りナイフを使いますから」
淡々とした答えにギョッとする。
「まさか、本当に師匠とやるつもりなの!」
「ええ」
「やめた方がいいよ!この人、馬鹿だけどものすごく強くて……」
「わざと攻撃を受けるような人には関係ありません」
僕は唖然とソフィアを見た。
さっきの師匠の突き技のことだろうけど、僕がわざと受けたことに気がつくなんて。
胸の奥が冷やりとして、一つの疑問が浮かび上がる。
この少女は、誰?
何かが引っ掛かる。この雰囲気、仕草、技の見極め具合。
そして、現れた時の、いつもとは全く違う微笑。
何かが、おかしい気がする。それは、さっきリラ様に感じた違和感よりも、もっと大きな……。
「いいよ。その勝負、買ってやる」
師匠の声にハッと我に返る。というか、今まで考えていたことが吹っ飛んだ。
「な、何考えているんですか!一般人相手に勝ってやるとか、ふざけてるでしょう!?」
「あたしは売られた喧嘩は買うのがモットーなの」
「そこは断りましょうよ!」
「駄目。もう受けちゃったから。ハルはそこで見てなさい」
ふふんと笑う師匠の馬鹿さ加減に戦慄する。
やばい。
この人は手加減という言葉を知らないのだ。
いや、知らないというよりは、本人は手を抜いているつもりでも、周りの人間にとっては全力でかかっても倒せない存在。
下手したら、ソフィアは当分動けなくなるかもしれない。
じっとりと汗ばむ手を握り、僕は端に移動する。
視界に映るのは、余裕たっぷりに構えている師匠と、両手に鈍く光るナイフを握るソフィア。
ふいに風が吹き、木の葉が舞う。
その瞬間、雨のごとく大量のナイフが師匠に降り注いだ。
降り注ぐ凶器の雨を、師匠は素手ではじきとばす。その余波としてこっちにも飛んでくるのが迷惑だ。もちろん回避。
ナイフがとんでこなくなった途端、黒いレースをふわりとたなびかせ、ソフィアが短剣片手に突っ込む。師匠はそれを軽くいなし、軽やかなステップを踏む。
「いい動きじゃん?でも、そんなんじゃあたしには傷一つつけられないよ」
カラリと笑う師匠に連撃技を繰り出し、ソフィアも冷笑した。
「お褒めいただき光栄です。攻撃してこないところを見ると、さすがのレウィン・ウルも防ぐので精一杯?」
「ふっふっふ。そう言われちゃあ、攻撃するしかないな」
ニヤッとすると、右手だけで突きをいれてきた。あくまで片手でやるらしい。
師匠の攻撃を、ソフィアも舞うように回避する。
結構いい勝負だ。
ソフィアはかなり戦闘慣れしているらしい。
でも、師匠はまだ本気のほの字も力を出していない。
勝てるわけがない。
時間がたてばたつほど、ソフィアが劣勢に追い込まれる。
嫌な予感に二人の先頭から目を逸らしてうつむくと、中性的な美声が隣で響いた。
「あいつら、何してるんだ」
「クラウス様!?」
感情の読めない瞳を二人に向け、唇を引き結び、冷めた表情で木に寄り掛かっている。
影の色が濃くなった木々を背景に佇む姿は、至高の芸術品のようだ。
ぼーっと見惚れている僕に、クラウス様が少し不愉快そうに眉根を寄せる。
「じろじろ見るな。それから、俺の質問に答えろ」
「あ、はい。すみません……。あの二人は、見ての通り戦闘中です」
「何故?お前の師匠とやらが喧嘩でもふっかけたのか」
「えーと。いかにも師匠のやりそうなことではありますが、今回は逆です」
僕は苦笑しながら答える。すると、クラウス様は驚いたように目を見張った。
「……つまり、ソフィアが?」
「そういうことになりますね」
「……ソフィア」
クラウス様は明らかに動揺していた。その無表情が崩れるほどに。もとから陶器のように白い肌が、いつもよりも青ざめて見える。
クラウス様は、何に対して動揺している?
しかも、その瞳には焦燥が見て取れた。
……何かが、おこっている?
僕の知らない、何かが。
「……クラウス様?」
黙り込んだクラウス様に声をかけた時、そこに彼の姿はなかった。
驚いて辺りを見渡すと、師匠とソフィアの間に立っていた。
いつの間にかぬいた剣を師匠につきつけ、まるで、ソフィアを庇うように。