過去のきれはし
太陽が沈み、空が藍色に染まる頃、馬車はとある屋敷で停車した。
「ついたぜ!……って、おい。リラとアニーは何でぶっ倒れてるんだ?」
ひょっこり顔をのぞかせた師匠が不思議そうに首を傾げる。
「師匠。こんなに馬車をぶっ飛ばして、平気でいられる人の方が少ないです」
「え、そうなの?」
「……馬鹿が」
クラウス様の夜の始まりと同じ藍色の双眸が、冷やかになる。
「あっはっは。何かごめん。大丈夫?」
「い……一応」
「リラ様、無理はなさらないでください。手伝います」
リラ様が降りるのを助けるソフィアは、顔色は悪いものの、わりと平気そうに見える。戦闘もできるくらいだから、当然か。
「アニーは?」
「大丈夫です……。ちょっと目が回っただけ……」
少し危なっかしい足取りで馬車を下りてくる。
「手伝おうか?」
「い、いいえっ!お気持ちだけで……」
アニーは急にシャキッと背筋を伸ばす。……ちょっと哀しい。
「よっしゃ、集まったな?あたしが案内してやるから、ちゃんとついてこいよ」
師匠はニッと笑うと駆けだした。やっぱり馬鹿だ。
「……あいつ、何であんなに馬鹿なんだ?」
「それ、できれば僕が教えてもらいたいです。切実に」
「馬鹿と天才は紙一重って言うけど……あいつはただの馬鹿だな」
かなり的を射た発言だと思う。
さっき、馬鹿と天才は紙一重って言っている人がいたけれど。本人は自分こそが天才だということに気がついているんだろうか。
「そっち終わったか?」
「まだ!あとちょっと」
「遅い。もっと急げ」
「クラウスが早いんだよ~」
第三者からしたらどっちも早い。というか人間のこなせるレベルじゃない。
リラ様とクラウス様の二人は、親指くらいはある古書を、辞書なしでさらさらと現代語に訳していた。黄ばんだページが真っ黒に見えるくらい詰め込まれた文字は、何千年も前の特殊な記号で、考古学者でもそう簡単には読めない。普通なら。
しかし、この二人はその普通という文字を軽くすっとばし、いともたやすく訳していく。
……何者なんでしょうこの人達。
「いやあ、本当に助かるよ。ありがとう」
少し離れたところの椅子に腰かけた男性が、穏やかな声で言う。彼はこの屋敷の主人。名前は不明。
この主人が師匠を一時的に雇ったそうだが、いきなり現れた僕らにも嫌な顔一つせず、快く受け入れてくれた。
しかし、ただで泊まるのも申し訳ないので、何か出来ることはないかと聞き、今に至る。
「私は最近古代文書にはまっていてね。よく買うんだけど、問題は読めないってことなんだよ。いちいち時点で調べなきゃならないのが大変で……。いやあ、本当にありがとう」
主人は人のよさそうな顔に柔らかな笑みを浮かべて言う。
「いいえ。これくらいたいしたことはありませんから!」
「慣れれば問題ないしな」
問題なくないから!
二人の無自覚に戦慄する。
僕は作業中の二人に恐る恐る尋ねた。
「リラ様とクラウス様は、どこでそんなの覚えたんですか……?」
二人の手が止まり、顔を見合わせる。
「覚えたというか、読んでるうちにわかったってだけだ。文法自体は今とたいして変わらないし」
「私は暇な時に適当に読んでたら、何か覚えちゃったんだよね~。あとは勘?」
勘なんかで完璧に訳した何てことを考古学者が聞いたら、その瞬間希望を失うだろう。
そこまで行くと、関心を通りこしていささか呆れる。
もはや一般人とはほど遠い(もともと王族だから一般人ではないけど)二人から目をそらし、部屋の隅で黙りこくっているソフィアを見る。
ソフィアはここにきてからというものほとんど無言で、ますます顔色が悪くなっている。
一体どうしたんだろう。風邪をひいたわけでもなさそうだし。
やっぱり、どこぞのお馬鹿の乱暴な運転のせいだろうか。
「ん?どうしたハル。そんな怖い顔しちゃって。あたしのこと考えてんだろ」
「違います」
違わないけど。ていうか、顔も見ないようにしてたのに、何でわかるんだ。空気のくの字も読めないくせに。
僕は暢気な師匠をじとっと睨んだ。
「師匠、何でそんなに馬鹿なんですか」
「あたしのどこが馬鹿なんだよ!」
「どこもかしこも馬鹿でしょう!おかげでアニーが寝込んじゃったじゃないですか!」
師匠の馬鹿全開運転がよっぽどきつかったのか、しばらくしたのち、アニーは目を回して気絶してしまった。
「それはまあ、ちょっとはまずかったかもしれないけどさ……」
「ちょっとじゃないですから。なに意味不明な言い訳してるんですか」
「う、うるせーな!」
「お前ら両方ともうるさい」
クラウス様の冷ややかな声が一刀両断する。
「すみません……」
恥ずかしくなり、うつむく。
師匠が相手だと、調子が狂ってしまう。
そんな僕らの様子に、主人は懐かしそうに目を細める。
「こんなに賑やかになって……。何年ぶりだろうねぇ。……あ、もうこんな時間か。私は用事があるから、ゆっくりしていてくれ」
そう言うと、主人は外に出ていった。
僕は小さく吐息を吐き、呟く。
「……いい人ですね」
「ああ」
クラウス様が静かに頷く。
「いい人レベルじゃ私と同じくらいかな?」
「それ絶対違います」
「お前はいい人ととか以前にその幼稚さを改善しろ」
「……酷い」
リラ様はしょんぼりうなだれた。表情も仕草も子供っぽい。
そんなリラ様の姿に、師匠が昔を思い出すように、ニカッと笑った。
「あのハルに友達ができるなんてな……」
「あのは余計です」
「ねえ、今のすごく寂しい人に聞こえ……」
「気のせいです」
「そういえば、黒歴史……」
「そんなものありません」
いちいち遮るのも疲れる。そのネタに関してはご勘弁願いたい。
「うんうん。仲いいのは大切だよね。……仲いいといえば、ステラは元気か?」
しばらく会っていない二番目の姉さんの名前に、僕はほんのり苦笑した。
「元気ですよ。元気すぎて嫁としてのもらい手がいないって父さんが嘆いてます。おまけに、軍人になっちゃいました」
すると、師匠は軽く吹き出し、ゲラゲラ笑い出した。
「あははははははっ!うっわ~ステラらしい!」
「笑いごとじゃないです。ステラ姉さんが軍人になっちゃったのって、半分以上師匠のせいです」
「……すまない。ステラって誰だ?」
クラウス様がこちらに体を向け、尋ねる。しかし手の動きは全く止まらない。どうやって書いてるんだろう。
「僕の姉です。貴族的にいえば、ウィルドネット伯爵の次女ってところですかね?」
「そうか。お前の姉か。どんな人だ?」
クラウス様が若干不審そうにしているのは何故だろう。
どんな人かって、なかなか答えずらい質問だ。
「一言で言えば、お転婆娘ってところでしょうか?」
「うん、そうかも。ステラは負けん気が強くて、そこらの男を蹴散らしてたからなあ」
師匠が感慨深げに頷くのを、クラウス様はやや顔を引きつらせて見つめる。
「何だか、あんまりハルに似てないな」
「はは……そうですね。性格だけじゃなく、顔もちっとも似てません。僕は母に似てるけど、ステラ姉さんは父に似てますから」
「そういえば、ステラさんは金髪碧眼だったよね。背も高くて、カッコイイ女の人、って感じで」
リラ様がにっこりしながら言う。
アレはカッコイイのだろうか。自信過剰で暴力的なのだが、カッコイイのだろうか。
「ハル、何ぼーっとしてるの?」
「あ、いいえ。何でもないです」
首を横にふり、僕は気を取り直して言った。
「とにかく、ステラ姉さんはものすごく元気なので、心配はいりません」
「そっか。あ、じゃあ、ミシュアは?」
師匠が何げなく言った言葉に、背筋が凍りついた。
ミシュア・ウィルドネット。美しく才能豊かな、僕の一番上の姉。
ミシュア姉さんのことを思い出した途端、こんな気候なのに、冷水を浴びせられたかのように体の芯まで冷えていく。
師匠は悪意などかけらもない笑顔のまま、話し続ける。
「ミシュアはあたしの弟子じゃないけど、やっぱり可愛いんだよね~。素直で聡明な美少女って感じで。今は何やって……」
師匠の言葉が中途半端にきれる。
師匠はひどく戸惑ったような顔で僕をじっと見つめ、落ちつかなげにうろうろしはじめた。
動揺した時の師匠の癖。いまだに直ってない。その様子を、どこか空虚な気持で眺める。
「その……なんて言うかさ。あたし、変なこと言ったか?」
あの師匠に気を使われている。その事実が酷く情けない。
何もかも、あの時から変わっていない。弱いまま。
それでも、誤魔化すくらいは学んだ。
小さく息を吸い、愛想笑いを浮かべる。
「なに変なこと言ってるんですか。師匠がそんなこと言うなんて、不気味すぎるのでやめてください。まだ空からクジラが降ってきた方が有り得る」
ほら、勝手に言葉が流れてくる。
本当に、嘘は楽だ。下手でも、誤魔化せていなくても、つくのだけは楽だ。
「え~。ハル、それは言いすぎじゃない?レウィンさん人は悪くないんだし」
「人は悪くなくても、頭は悪いだろ。本当のことだ」
よかった。師匠以外の人は気がつかなかったらしい。
師匠は妙に野性の勘みたいなものが鋭いから、誤魔化されないかもしれないけど。
「ミシュア姉さんも、元気ですよ」
師匠が困ったようにうつむく。
その様子を見ていたくなくて、僕は適当に用事をつくり、部屋を出た。