海へ
「うわあ、何あれ!真っ青!広い!空みたい!」
リラ様は大興奮で叫んだ。頬が紅潮し、青空のような瞳がキラキラと輝く。
「そんなに騒ぐな。うるさい」
クラウス様がバッサリ切り捨てる。しかし、リラ様と同じ方向を眺めている。
そして、僕も同じように、果てしなく広がる海を眺めていた。
不思議な潮の香りが風にのって運ばれてくる。吸い込まれそうなほど透き通っていて、それでいて深く、陽光を反射してキラキラと輝く海。
初めて見た、景色。
何もかも超越するほど、美しく、壮大で。
海を見ただけで、旅に出てよかったと思った。
「……綺麗ですね」
ソフィアがぼそりと呟く。しかし、心なしかその顔は曇っている。
「どうかしたか?」
「い、いえ。あまり綺麗なので、つい。気にしないでください」
そう言うとにっこり笑って見せた。その笑顔に、先ほどまでの曇りはない。
「海が見えてきたということは、フラウィールまであと少しですね」
「本当!?楽しみだなあ。確か、ガラス細工で有名なんだよね。お土産に買わなきゃ」
「海で貝とかも拾いたいです!」
リラ様とアニーがうきうきした様子で語りあう。……いつの間にこんなに仲良くなったんだ。
話が盛り上がり始めたところで、クラウス様がスッと口を挟む。
「急ぐとろくなことはない。フラウィールは明日でいいだろう。今日はもう、どこか宿を見つけて休憩するべきだ」
「え~。クラウスのケチ。変なところで水ささないでよ」
「お前らが危険だと判断したからだ」
「そうやって慎重になり過ぎると、早くじじいになるよ」
リラ様が軽口をたたいた途端、絶対零度の殺気が馬車の中に広がった。僕を含め、リラ様以外の全員がギクリとする。しかし、当の本人は暢気なもので、
「睨まないでよ。クラウスって、ただでさえ冷たく見られるんだから。あ、もしかして血も涙もなかったりする?」
朗らかな笑顔で地雷を踏みまくる。そのたび、殺気が濃くなっていく。息が詰まりそうだ。
「……言葉に気をつけろ。貴様、いつか死ぬぞ」
「大丈夫。私あと千年は生きるつもりだから!」
人間は千年も生きない。
「あのぉ……どこに泊まりますか?というか、まずお昼にした方が……」
「それもそうだな。ありがとう」
殺気が消え、クラウス様の瞳に冷静さが戻る。
「とりあえず、休憩できる場所があればそこで話し合おう。馬車は窮屈だから」
「その窮屈な場所で寝泊まりさせられたことも多かったけどね」
リラ様は大きくのびをしながら言った。因みに、悪意など欠片もない。
またもや空気がひんやりしてきたところへ、アニーが叫んだ。
「あの!や、屋台とかが見えてきましたよ!海辺で休憩とかはどうでしょうか」
「素敵!ちょうどお腹も空いてたところだしね」
「じゃあ、そこでいいか。馬は適当にとめといてくれ」
「かしこまりました」
海辺に決定したらしい。確かに綺麗だし、楽しいだろう。
ふと、後ろがやけに静かなのに気がつく。振り返ってソフィアを見ると、どこか沈んだ表情でうつむいていた。そういえば、しばらくナイフも飛んできていない。
「海、嫌いだった?」
心配になって尋ねると、ハッとしたように目を見開き、
「そんなんじゃない……です。だいたい、貴族が私なんかの心配して何になるんです?」
と、毒づく。珍しく敬語だ。
サイドテールにした金髪が太陽に反射してきらめく。しかしソフィアの顔は、それと反比例するかのように暗い。
「貴族だから心配しちゃ駄目ってことはないよ。……もしかして、具合悪い?」
「そんなことないです。あと、こっち見ないでください」
「え、でも」
「いいから見るな」
睨まれた。でも、それもどこか弱々しく、覇気がない。
どうしたんだろう。
「全然元気そうには見えないけど、本当に大丈夫?」
「……しつこい。大丈夫って言ってるでしょう」
唇の端をつり上げ、不敵な笑みをつくってみせる。
傲岸不遜で尊大な微笑み。それすらも、今日は脆く見える。
しかしこれ以上詮索すると、ナイフでサクッといかれそうだ。
仕方なく体を正面に戻す。リラ様はアニーとお喋り中だ。……だからいつの間にそんなに仲良く以下省略。
クラウス様はいつも通りの無表情。潮風に髪をなびかせている姿は、神が降臨したかのようだ。
今までとなんら変わらない。でも、何かがおかしいような気がした。
「わあ、綺麗な貝!」
「ネックレスにしたらきっと綺麗ですよ」
「アニーはボトルに砂を詰めているのね。これに貝も入れたら、海の思い出セットになると思うの!」
「いいですね!」
リラ様とアニーのはしゃぎ声が響き渡る。まるで子供のような二人の姿を、僕は屋台のフルーツジュースを飲みながら眺めていた。
青く晴れ渡る空の下。潮の香り。さざ波の音。どれも今まで体験したことのないものばかりだ。
このフルーツジュースも美味しい。マンゴーやバナナ、他得体のしれない果物が大量にミックスされており、そこに練乳やシロップを加えて作ったらしい。フラウィール特産のジュースだそうだ。
ゆったりした波の音や暖かな陽光に、眠くなってくる。
そこへ、屋台で買い物をしていたクラウス様が戻ってきた。
「何を買ったんですか?」
「日持ちのしそうな焼き菓子。母とミーナの土産に」
ミーナ様の名前が出た瞬間、ギクリとした。
あの超ブラコンなお姫様が、この旅を快く思うはずがない。しかも、誘ったのはリラ様だし。
……ある意味帰りたくない。
「ハル、何だか疲れた顔してないか?」
「……現実逃避したい気分なだけです……」
あはは、と乾いた笑いが漏れる。
取り合えず忘れよう。何もかも。
気を取り直して、僕はクラウス様に尋ねた。
「クラウス様も、海、初めてですか?」
「ああ。書物の中では何度も出てきたが、実際に見たのは初めてだ。……ところで」
「はい、何でしょう?」
クラウス様はいつになく真顔で言った。
「いい加減、俺を様をつけて呼ぶのはやめて欲しい」
「……」
「何で沈黙する」
「無理だからです」
「無理って何だよ」
「無理は無理です。絶対に無理」
世継ぎの君を呼び捨てにするとか、死んでも無理。不敬罪で断頭台送りにされてしまう。
僕が絶対に譲らなかったからか、クラウス様は黙りこんでしまった。しかも、無表情で。
慣れてきたとはいえ、クラウス様の気持ちを察するのは結構困難だ。
しばらく口を閉ざしていたが、やがて僕の目を見据え、
「じゃあ、敬語をやめろ」
「……」
「だから何で沈黙する」
「無理だからです」
「これのどこが無理だ。かなり譲歩してるだろう」
「どこが譲歩してるんですか!?無理ですから!僕の立場わかってますか?一応、僕はクラウス様の臣下ですよ!下なんですよ、下!」
「……下のくせに友達になろうとか言ったやつはどこのどいつだ」
「うぐっ」
それを言われると結構辛い。
お互い黙りこみ、居心地の悪い空気が流れる。向こうでリラ様達が騒いでいるため、尚更だ。
身分差を気にしすぎるのも貴族の悪い癖だ。それはわかっている。わかっているけど、それこそが貴族で、僕は紛れもなく貴族の一人だ。
溜息がこぼれる。
仕方ない。
「……いつか、敬語をやめます。でもまだ無理なんです。待っててくれますか?」
「嫌だ」
「……」
「嘘だ。待つよ。……いつかな」
今の、ものすごく心臓に悪かった。クラウス様は冗談すら無表情で言うらしい。
「……ところで、もう一つ聞きたいことがあるんだが」
「何ですか?」
すると、クラウス様はリラ様に視線を向けた。
「リラ様がどうかしました?」
「……気を悪くしたら、すまない。先に謝っておく」
クラウス様にしては歯切れの悪い物言いだ。
僕はフルーツジュースをのどに流し込みつつ、次の言葉を待つ。
たっぷり間を開けてから、クラウス様は言った。
「……お前ら、恋人同士なのか?」
最初何を言われたのかさっぱりわからなかった。
ゆっくりと、クラウス様の言葉が脳内に届く。
それは、つまり。
理解した途端ふきだしてしまい、そのまま思い切りむせた。
「お、おい!大丈夫か」
「ゲホゲホッ……ど、どうしたらそういうことになるんですか!?」
「いや、どうしたらって……。随分と仲よさそうだったし」
「あれと僕が!?有り得ないでしょうそんなの!仲良くなんかないですよ!リラ様にはもう振り回されっぱなしで」
「そうか?」
「そうですっ!」
怒涛のように叫び続けたからか、クラウス様は何と言っていいかわからない様子だった。顔が引きつってる。
「……そこまで否定されるリラも、ちょっと哀れなような気が……」
「大丈夫です。あのリラ様がそれくらいでへこむわけありませんから」
遠くの方でリラ様がすっ転んだのが見えたが、気にしない。
「お前、女嫌いとかじゃないだろうな」
「違います。むしろクラウス様の方がそんな気が……」
「……一部の女は、ちょっと」
クラウス様は遠い目をして呟いた。疲れたような顔をしている。一体何があったのだろうか。
何となく申し訳なくなり俯くと、突然クラウス様が辺りを見回した。
「どうしたんですか?」
「ソフィアが見当たらないのだが」
「……そういえば」
立ち上がって探すと、リラ様達よりももっと遠い場所に、紺色のローブの裾と輝くような金髪を風に踊らせ、佇んでいる少女がいた。
「いましたよ。ほら、あそこ」
「何してるんだ、あいつ」
「さあ?……でも、馬車に乗っている時から元気がなさそうでした」
クラウス様はそっと目を伏せ、「そうか」と囁いた。中性的な美声が、静かに潮風に溶けていく。
突然目を開いたと思うと、藍色の上着を翻し、スタスタと歩きだした。
「どこ行くんですか」
「……ちょっとな」
言葉を濁すと、そのまま振り替えらずに行ってしまった。
よくわからない。
首を傾げながらフルーツジュースを口に含む。
ちょっと寝ようかなと考えた時、リラ様が手を振りながら駆けよってきた。アニーはいまだに貝殻広いに没頭している。
僕の前で止まると、リラ様は期待に満ちた明るい笑顔を浮かべた。
「ねえ、ハル。初めて私とトランプした時のこと、覚えてる?」
「はいはい、覚えてますよ」
あれは結構苦い記憶だ。
「じゃあ、今お願い聞いてくれる?」
そういえば、そんな約束もしたかもしれない。随分と前のことを、よく覚えていたものだ。
「いいですよ。そのお願いって、何ですか?」
すると、頬をほんのり朱に染め、恥ずかしそうに俯く。
「屋台に、綺麗なガラス細工のアクセサリーが、あったでしょう?」
「そういえばありましたね」
「それを買って欲しいの」
僕は目を丸くした。
驚いた。リラ様のことだから、もっと無理難題なこと言ってくると思っていたのに。
「そんなのでいいんですか?」
「……駄目?」
リラ様の上目遣いにドキッとする。それは反則だ。心臓がバクバクと荒れ狂う。
「だ、駄目じゃ、ないです」
つっかえつっかえになってしまう。格好悪い。情けなさすぎる。
リラ様はぱあっと目を輝かせると、幸せそうににっこりした。
「ありがとう!じゃあ、ハルが選んでね!」
「……は?」
「だって、私が選んでもつまらないもの」
「何ですかそれ!僕、そんなの選んだことないですよ!」
「お願い!」
リラ様は白い手を合わせて、頭を下げた。……そこまでしなくてもいいのに。
僕は溜息をついてリラ様を見降ろした。
「……わかりました。わかりましたよ。でも、どんなもの選んでも文句はなしですからね」
「うんっ!」
大きく頷き、子供のように無邪気に、嬉しそうに微笑む。
屋台に向かいながら、僕はリラ様の笑顔に弱いのかもしれないと今更ながら思った。