血染めの衣と刃の枷
月日はまたたく間に過ぎ去った。
王はかなりの荒業でクロフィナルに使節団の受け入れを了承させ、反対派の貴族達を退け、日程や人員をまとめ上げ、ここまで漕ぎつけた。あの王のカリスマ性と狡猾さのなせる業だろう。
約束通りクラウス様が代表となり、僕は彼の護衛に……となるはずだった。
が、あの王は嫌がらせも忘れなかった。
『ハル・レイス・ウィルドネットを臨時将軍に任じる』
ある日届いた一枚の書状。二度目の王命。
拒否すれば、使節団そのものを停止するというあまりに強引な脅しつき。
まるで、始まりのあの日のように。
使節団出発前夜。
僕は臨時将軍就任式の準備をげんなりしながら進めていた。
黒絹のシャツの上にカッチリした黒の上着を羽織り、その上から黒いマントを肩に引っかける。裏地までしっかり黒。靴もズボンも手袋も、ボタンや縫い糸に至るまで全て黒。
鏡を見ながら引きつった笑いが漏れた。
もともと目も髪も黒いせいで、もはや黒くないところを探すのが難しい。
もちろん、別に僕の趣味ではない。王に命じられなければこんなもの誰が着るか。
悪役然とした黒ずくめの衣装は、意外と、いやかなり僕に似合っていてガッカリした。鏡に映るのがへらへらした凡庸顔でなければ、さぞかし邪悪だったことだろう。化け物どころか魔王だ。
鏡で不備がないか確認し、テーブルの上の書状をちらりと見やる。王の判が押された紙の隣に、両親とミシュア姉さんからの未開封の手紙。
ちくりと胸が痛む。
けれど、開けない。持って行かない。
僕は『弱虫』だから、ちょっとしたことで揺らいでしまう。
今日、これから、僕は枷をかけられる。それでいい。
慣れない裾の長いマントを捌き、扉を開ける。待っていた召使が僕の姿を見て、ビクリと竦んだ。
召使が逃げるように背を向け歩き出す。僕はそれに付き従い、靴音を鳴らす。
正直、かなり気が重い。
ステラ姉さんは軍の人間だが、僕は貴族のボンボンでしかない。それがいきなり、使節団派遣期間のみとは言え臨時将軍。依怙贔屓とか言うレベルではない。
色々とやらかしている身なので、使節団の人間によくは思われないことは承知の上だった。
だが、クラウス様以外全員敵になってしまった。さすがにこれは予想外。
あの年齢不詳腹黒色好み王め、わざわざ困難を増やしやがって。
最悪な王命だが拒否権などないも同然。二日間くらい憂鬱だったものの、もう腹は括った。
部下に毒を盛られるかもしれないし寝込みを襲われるかもしれないが、使節団としてクロフィナルに行ければもう何でもいい。
……でも、やっぱり嫌だ。何で僕が将軍なんかに。
溜息をこぼしかけ、飲み込んだ。大広間の扉の前だったからだ。
軍の制服を着た青年が脇に立って、僕を睨んでいる。なんでお前なんかがと目が叫んでいる。
気持ちはよくわかるので苦笑いを返す。すると、ますます煮え滾るような表情になった。
妬まれるのも恨まれるのも仕方ない。軍の彼らにしてみれば、自分達のテリトリーに土足で踏み込んできた最低最悪な部外者だ。
けど、譲らない。
笑みを引っ込め、青年の目を見返す。向こうが僅かにたじろいだ。
「準備が整いました。どうぞ」
声がかけられ、青年から目を離す。重厚な扉がゆっくりと開かれてゆく。
大広間に足を踏み入れた途端、壮麗なシャンデリアに目が眩んだ。
ズラリと並ぶ大臣や軍人、王族に貴族。
数多の人間が一斉に僕に視線を向けてくる。
嫉妬、侮蔑、好奇、畏怖、驚愕。剥き出しの汚い感情が全身に突き刺さって、ほんの少し膝が震える。
それでも、長い長い真紅の絨毯の向こうで、王が試すように笑っていたから、僕はしゃんと背筋を伸ばして歩くことができた。
視界の端には、あんぐりと口を開けたまま凍り付いているミーナ様がいた。小生意気で可愛いお姫様の姿を見て少し緊張が緩む。
その隣に、包帯と杖に痛ましさが残るクラウス様。
冷え冷えとした無表情だが、一瞬目が合った時に小さく頷いてくれた。
少なくとも一人味方がいる。それだけでもう、全然最悪ではない。
ふっと、唇が緩んだ。
玉座に背を預け、僕を見下ろす美貌の国王の前に跪き、首を垂れる。
側近が朗々と何かを語る。その間も、王の微笑と、いくつもの視線の刃ばかりを感じた。
王は僕がこの程度で怖気づくとでも思っているのだろうか。面白がっているのだろうか。
舐めるなよ、クソ野郎。
「ハル・レイス・ウィルドネット。そなたを臨時将軍に任じる。セルシアとクロフィナルの関係がどのようなものになるかは此度の使節団にかかっている。我が国の平和のため、命を懸けて励め」
玉座から降りた王が、将軍の証である剣を手に僕の目の前に立ち、厳かに告げる。
差し出された剣の飾りがしゃらりと揺れた。
覚悟があるならこの剣を取れ。そして、実行してみろ、と。
嘲笑すら含んだ怜悧な目を真っ直ぐ見返し、睨む代わりに笑う。
「謹んでお受けいたします」
掌にズシリと重みを感じた。
この剣を抜かなくても、僕はこれから手を血に染めるだろう。綺麗なやり方なんて知らない。そしてたぶん、できない。
ああ、そうか。
剣を受け取って初めて、気づく。
何故、僕の衣装が真っ黒なのか。……血を浴びてばかりだからだ。
黒ならどれだけ血に染まっても目立たない。赤い血はやがて黒く染まり、僕に纏わりついて黒い水となるだろう。
嫌な野郎だ、本当に。だから実の息子や娘に嫌われるんだよバーカ。
その瞬間、心を読めるはずはないが王は嫌そうに顔を歪めた。ちょっといい気味だ。
絡みつく視線は一層濃度を増すが、受け取ってしまってうと案外気が楽だった。剣の重みが少し煩わしいだけ。……本当に、それだけだ。
振り切るように背を向けると、まだ一滴の血も吸っていないマントがバサリと揺れた。