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将軍の来訪

 漆黒のレースをふんだんに使ったスカートを指で摘み、光沢のある黒の革靴でバルコニーに降り立つ。唸る風が頬を叩き、黒いビロードのヘッドドレスと、つやつやと輝く金色の髪を揺らした。

 豪奢だが葬式のような装いの少女は、沈痛な表情で風景を眺める。

 堅牢な門の向こうにある城下町を遥か先まで見通せる、すばらしいバルコニーだった。今日は天気もよく、風は冷たいが日当たりはいい。

 しかし、ルージュを引いた唇からこぼれたのは、重い溜息だった。


「どうした、フィリア。溜息なんかついて」

「……女の部屋に無断で入ってくるとは、いい度胸だな」


 高めなのにドスがきいた声で呟き、振り返る。

 ライトは顔を引きつらせ、ぱんっと手を合わせた。


「悪かった、悪かったよ!ノックしても返事がないし、鍵はかかってなかったしで……」

「出てけ」

「ひでぇ……世間話でもしようと思ったのに」

「よけいに出てけ」

「そう言うなよ。どうせ暇だろ?」


 ギロリと睨むが、ライトは無遠慮にズカズカ入りこんできた。苛立ちまぎれにナイフを投げつけるが、ひょいと躱される。


「セルシアの『化け物』に折られた腕もすっかり治ったみたいだな。よかったよかった」

「……何の用だ?」

「なぁ、聞いたか?今日、セルシアから使節団が来るんだってよ。急な話だよな」

「……知ってる」

「使節の代表はお前が仕留め損なった仇だぜ?よかったじゃん」


 ズキリと胸が痛んだ。知らず、唇を噛み締める。


「それも知っている」

「じゃ、代表の皇子サマが体調不良で到着が遅れるってのは知ってるか?」

「え?」


 弾かれたようにライトを見る。すると、ニヤニヤと笑って見せた。


「本当はまだ怪我が治りきっていないのに、無理を押してこっちに向かってたみたいだぜ?噂じゃ、フィリアにやられた怪我がもとで、剣が握れなくなっちまったらしいし」


 楽しそうな声が遠ざかり、スーッと指先が冷えてゆく。苦い味が口の中に広がって、胸の痛みだけは激しさを増す。

 私の、せいだ。




 リラがクロフィナルに連れ去られてから三ヶ月。

 自分の迷いをローグに見抜かれてから、リラに近づくことができなくなった。セルシアの詳細な情報からも遠ざけられ、クラウスの安否もわからないまま、上辺だけは平和に時が過ぎた。

 セルシアでのスパイ活動が評価され、フィリア・オルコットはネリー達と同格の扱いを受けた。快適で豪華な部屋と破格の給料を与えられ、環境だけはまるで一族が処刑される前に戻ったかのようだ。

 なのに、心にはぽっかりと大きな穴があいたままで、どれだけ贅沢をしても塞がらない。飾り立てられた孤独の中で、潰れそうになる。

 夜になるとひとりでに涙がこぼれ、朝なんて来なければいいと思った。

 そうして、しばらく経った頃、セルシア国王が両国の友好のため、クロフィナルに大規模な使節団を送りたいと申し入れてきた。

 長らく敵対しているクロフィナルにとってあまりにも急な話で、一度はすげなく断った。

 しかし、二度目の申し入れはすぐに受け入れた。セルシアがかなりの圧力をかけてきたと言われているが、真相は定かではない。

 王女誘拐にクロフィナルが関与していることに気づき、リラを取り返しに来たのか。それとも、他に目的があるのか。

 どちらにせよ、友好的な使節団でないのは軍人が多いことからも間違いなかった。

 そして、使節の代表が世継ぎの君、クラウス・フェルク・ド・アラネリアだと聞いて、部屋に駆け戻って、泣いた。泣きながら神に感謝した。

 生きていた。自分の愚かさが傷つけた彼は、ちゃんと生きていた。

 クラウスが何を思い、使節団の代表となったのかはわからない。だが、何でもいい。恨まれても憎まれてもいい。

 生きていた。それがわかっただけでよかった。

 しかし、月日が経つにつれ、喜びと同時に不安が頭をもたげてきた。

 クラウスに会うことはないだろう。でも、会いたい。会って謝りたい。

 震えるほど渇望しながら、一方で冷え冷えと自分の理性が告げてくる。今更、どの面下げて会う気だ、と。

 会いに行かなければ大丈夫。ならば、一目見るだけでもいい。けれど見たら飛び出して行ってしまうのではないか。

 毎日のようにぐるぐると思い悩んでいたところに、足元が崩れ去るような衝撃を受けた。


 リラが、壊れてしまった。


 ケラケラ笑いながら、リラの状態を語るネリーに、怒りすら湧かなかった。こみ上げてきたのは、絶望と自己嫌悪だけ。

 酷い目に遭わされるのはわかりきっていた。

 でも、心のどこかでリラなら大丈夫だと思っていたのだ。

 リラは強い。とてもとても、強い。連れ去られても、自分やライトに罵られても、セレナに相対しても、彼女は少しも揺るがなかった。

 けれど、リラだって人間だ。これまで王女として暮らしていたひとが、三ヶ月も牢屋に閉じ込められ、非人間的な扱いを受けてきて、壊れないはずがなかった。

 最後にソフィアと呼びかけ、好きに生きるよう言ってくれたリラの声が、忘れられない。

 それなのに自分は、また自分のことだけを考えて、恥知らずにも楽になろうとしている。

 リラを助け出すこと自体は可能だ。

 その後どうする?

 自分の処遇はもちろん、リラも行き場がない。セルシアに帰ったところで、彼女を待っているのは絶望の未来だ。

 悩んで、苦しんで、結局何もせずに今日まで来てしまった。

 このままでいいとは思わない。しかし、どうすればいいのかもわからない。

 クラウスの到着が遅れると聞いて、心の底からほっとした。問題を先送りにするような後ろめたさはあったけれど。

 黙りこくっていると、ライトがぽつりと言った。


「悪いことしたな」

「は?」

「お前、本当はこんなことやりたくないんだろ」


 弾かれたように見ると、ライトは苦笑混じりに、


「見てりゃわかるよ。ちっとも気づかないのはネリーの馬鹿くらいだろ。実際、旦那はお前を警戒しているしな。今までまきこんで、悪かった」


 頭を殴られたようだった。酷く混乱していた。

 ライトに本心を見抜かれているとは露ほども思っていなかったのだ。


「心配しなくても、密告なんかしねぇよ。リラ王女の言っていた通り、お前の好きにしたらいい」

「何故だ?もし私がここから逃げてセルシアに帰ったら、貴様は反逆者を助けたことになるぞ」

「助けたわけじゃないし、そもそもオレは女王様に忠誠を誓っているわけじゃない。オレがここにいるのはただの私怨。それが晴らせれば、後はどうでもいい」

「……何をする気だ?」

「それは言えねぇな。本当に果たせるかは向こう次第だし、無理なら単騎でセルシアに乗り込んで討ち死にしてもいい。オレは剣士であって、駒なんかじゃない」


 吐き捨てるような口調に、この男に対して初めて共感を覚えた。

 美しさと醜悪さを併せ持つあの女王には、忠誠を誓う気にはとてもなれない。前の主人の怜悧なまでの清廉さを知っているから、よけいに。

 小さく頷くと、ライトはちょっと目を丸くし、それからニヤリと笑う。


「オレはお前が何で悩んでるのか理解できないけど、別に悪いことじゃないと思うぜ。女王様の傍若無人っぷりの方が何千倍もムカつく。……それに、悔しいけど、セルシアの王女はたいした奴だと思う」


 再び衝撃を受け、改めてライトを見上げると、苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。そして、表情と全く同じように、心底嫌そうな声で言う。


「うちの女王様よりよほど恐ろしい女だよ。何もかもお見通し、みたいな面しやがって……。けどな、王女に不完全燃焼って言われた時に、自分の本心に気づいたんだよ。オレがやりたいのはコレじゃないって。その後、ずっと考えて……クロフィナルに到着した時の王女と女王のやり取りを見て、少なくともオレは、誰かに仕えるような人間じゃないって思った」


 ライトは冷静だった。理性的に考えた末の結論なのだろう。つきものが落ちたようにスッキリと笑う姿は羨ましい。

 だから、と言葉を切り、眼差しに熱がこもった。


「どうせ、出世コースを外れて一度ダメにした人生だ。オレはやりたいようにやる。……お前はどうなんだ?」


 急に問われ、言葉に詰まる。

 どうしたいかならわかる。だが、どうするべきかがわからない。

 それが正しいのか、間違っているのか。

 フィリア・オルコットなら、このままおとなしく従っていればいい。

 だが、ソフィア・フリスなら。愚かで無力な侍女なら、これからどうすればいいのだ。


「ま、そのうち答えも出るだろうよ。……おっと、使節団が来たみたいだ」


 ライトが楽しそうに身を乗り出す。つられて外を見ると、普段より絢爛に飾り立てた大路を、馬に乗った使節団が物々しい雰囲気で通ってゆく。先頭は軍人が大多数を占めるが、後ろには豪華な馬車も続き、さながらパレードのようでもある。


「そう言えば、クラ……世継ぎの君が遅れるのに、使節団は予定通りに来たのか?」

「セルシアの方が無理を言って予定を作らせたんだ、そう簡単に変更はできないんだろ」

「なら、代表代理がいるはずだ。先頭の奴がそうか?」

「たぶんな。確か、将軍が一時的に全権を任されているはずだぜ。と言っても、外交担当者は文官達だから飾りだろうけどな。てか、セルシアのことなんだからお前の方が詳しいだろ」

「私のところには情報はほとんど入ってこない。意図的に切っているんだろう。今の将軍だと、確か名門貴族出身の男だったはずだ。オルコットには実力も伝統も及ばないがな」

「名門とか言っても、どうせ爺さんなんだろ?将軍様ってのは個々の武人としてはたいしたことないからな」


 ライトはけっと吐き捨てた。実力で成り上がり、権力と策謀で追い落とされた天才剣士としては、元職場の人間など見たくもないのだろう。

 クラウスがいなければ、あの行列に知っている人間はいない。他人ごとのようにぼんやりと眺めていると、行列は城門をくぐり始めた。

 視認できる距離になり、何気なく先頭にいる人間を見やる。

 そして、目を疑った。


「な、何で……嘘だろっ!そんな馬鹿な!」


 ライトの叫びが耳を擦り抜けてゆく。

 自分は夢を見ているのだろうか。それとも、頭がおかしくなったのだろうか。

 だって、こんなの、嘘だ。嘘に決まっている。

 数秒の間、凍りついたように先頭の軍人だけを凝視し、頭が追い付く前に駆け出していた。


「あ、おい!どこ行くんだよ!」


 ライトを無視し、ヒールを高く鳴らしてひた走る。たっぷりのレースが足に絡み、なかなか前に進まない。

 舌打ちしてスカートを腿まで引っ張り上げ、階段を豪快にとばして駆け抜ける。何度も召使達とぶつかりそうになるが、足は止めない。

 心臓が爆発しそうなほど荒れ狂い、嫌な汗が止まらない。

 さっきのは見間違いか?それなら、いい。

 けれど、もし見た通りなら、本当にわけがわからない。セルシア国王の正気を疑う。

 猛スピードで階下に降り、裏口から正面に回り、茂みの影に隠れる。

 正面玄関では大勢の召使が控え、大臣や王侯貴族が並んでいる。

 一方、セルシアの使節団はまだ整列できておらず、指示や怒号が飛び交い、酷い有様だった。

 クロフィナルの重鎮達は慇懃に対応しているが、使節団の醜態に誰もが半笑いだ。明らかに馬鹿にしている者も多く、セルシア側の一部の人間の間に殺気が漂っている。

 しかし、歴史的には重要なこの邂逅は、今の自分にはどうでもよかった。

 『それ』を見た瞬間、息が止まった。心臓の拍動も、一緒に止まっていたかもしれない。

 見事な漆黒の毛並みの馬から降りたのは、将軍の肩書きと不釣り合いな少年だった。

 彼は若すぎることを差し引いても異質だった。

 兵士達の制服とはデザインが異なる、金糸の刺繍が施された漆黒の上着に、黒のマントを重ね、ベルトから凝った意匠の宝剣を提げている。黒絹の手袋に黒い靴と、徹底した黒づくめだ。

 黒いのは服装だけでなく、襟足の長い髪と、前髪から覗く大きな瞳も珍しい黒で、新月の闇夜を思わせる。

 背は自分が記憶しているものより伸びていたが、華奢な体格は相変わらずで、顔立ちも少女めいている。

 間違いなく、ハル・レイス・ウィルドネットだった。

 どうしてこいつがこんなところに。いや、リラを助けに来るかもしれないとは思ったが、それにしたって何故将軍になっているのだ。


「セルシアの王様、血迷ったのか……?」

「同感だ。……って、どうしてお前がここにいる」

「気になったからに決まってるだろ。あいつこそ、オレの人生において最強最悪の好敵手なんだから」


 いつの間にか隣に陣取っていたライトの顔が険しくなる。だが、ハルに釘づけになっている両目は好戦的に輝いていた。

 もしかして、と、ライトの熱っぽい眼差しに思い浮かんだことがあったが、飲み込んだ。自分に口を出す権利はない。

 再びハルに視線を戻すが、お世辞にも立派な指導者とは言えなかった。

 声が通らないので指示が行き渡らず、逆に部下に叱られて謝り倒している。へらっとした笑みも全く変わらない。クロフィナルの重鎮達も冷ややかな視線をハルに送っている。


「……もしかして、将軍じゃないんじゃないか?ちょっと先行しすぎて前の方に来ちゃったとか」

「それは有り得るな。だとしても、あのヘタレ貴族がいきなり軍人のような恰好をしているのも理解不能だが」

「あと、あいつって剣は使えないんじゃなかったか?オレと戦った時も、オレから剣を奪っといてめちゃくちゃな使い方してたし。何であんな高そうな剣持ってんだよ」


 当時を思い出したのか、ライトが痛そうに顔を顰める。あの、ある意味天才的なまでの不器用さなら有り得る話だ。

 ハルがあまりにも変わっていないので脱力してしまった。あれから三ヶ月しか経っていないとは言え、激動の日々だったはずなのに。

 緊張の糸が緩むと同時に、猛烈に腹が立ってきた。ハルに対しての屈辱感はもうなくなっていたが、リラのことを思うと八つ裂きにしてやりたくなる。

 苛立ちから、ナイフを握ったのと、ほぼ同時だった。

 ハルが豹変した。

 漆黒の瞳に鋭い光が宿り、へらへらとした笑みが消える。マントをばさりと翻し、口を開く。


「今から五秒以内に整列しろ。これ以上規律を乱すな」


 決して怒鳴ってはいない。通る声質でもない。殺気を漂わせているわけでもない。

 それなのに、ハルの命令は一瞬でその場の人間を圧した。ハルを叱っていた部下の一人も、サッと青ざめて跪く。

 ハルの表情は穏やかだったが、凄みがあった。セルシアにいた頃にはなかった落ちつきと、表面的な柔らかさに隠れた苛烈さのためか、まるで別人のようだ。

 この男は、何かしらの覚悟を決めたのだ。

 気づいた瞬間、愕然とした。置いて行かれたようだった。

 今の自分がこのハルと戦ったとして、一体何秒もつだろうか。

 突然様変わりした少年の姿に、それまで冷笑していたクロフィナルの重鎮達は全員度肝を抜かれていた。召使達もぽかんとしている。

 ただ一人、場の空気を支配した当の本人だけは、悠然と一礼して見せる。黒髪と宝剣の飾りがさらさらと涼しげに揺れた。


「第一皇子クラウス・フェルク・ド・アラネリア代表代理、臨時将軍ハル・レイス・ウィルドネット、到着いたしました。両国のますますの友好と発展のため、非力ながら尽力させていただきます。どうぞ、お見知りおきを」


 ああ、変わった。

 この男は、変わったのだ。

 流れるような言葉遣いも、聞いた者を圧する声も、優雅なようで隙のない立ち居振る舞いも、抜身の刃のような雰囲気も、自分は知らない。

 何より、唇に刻んだ不遜な笑みと、揺らめく焔のような激しい眼差しは、自分の知るハル・レイス・ウィルドネットとは似ても似つかない。

 突然降りかかってきた多くの醜悪な真実に打ちのめされ、最愛のリラすら失い、どん底に叩き落されたはずのあの少年が、どうやってここまで這い上がってきたのだろう。

 今はただ、『弱虫』でも『化け物』でもない若き将軍に、他の人間と同じように圧倒されるしかなかった。

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