嘘つき
さらりさらり。薄茶色の髪を風に揺らし、大きな瞳で僕の目を覗き込む。無邪気であどけなさが残るのに、どこかあでやかな笑みだった。
可憐な声、漂う蜜のような甘い香り、眩いほどの笑顔。全てが宝物だった。
夢のような素晴らしい日々が、ずっと続けばいいと思っていた。
まだ朝日が昇る前の、明け方。
僕は身を起こし、震える手を強く握りしめた。目元と頬が冷たく濡れているのを、そのまま拭う。
もう、あの子はどこにもいない。
世の中には手紙を書くのが苦手な人もいるらしい。が、幸いなことに、僕は苦手ではない。ただ書けばいいだけだから。家族には失礼なことを書いても差し障りはないし、他人には礼儀にそって書けばいい。
どうでもいいことを考えつつ、ペンを紙の上に滑らせる。どちらかと言うと、このペンを折りかねないことの方が問題だ。
淡々とした光がカーテンの隙間から差し込むのを頼りに、僕は両親に向けて手紙を書いていた。パーティーで起こった事件を聞き、両親と下の姉が手紙を送ってきたためだ。
噂の広まる速度というのは恐ろしいもので、祝宴の場が大混乱に陥った話はすぐに広まった。
しかし、死亡者は出ず怪我人も軽度の人が多かったこと、城の復旧が早急に進められていること、多少の嘘を交えた報告で、今では少し落ちついていた。
両親も暢気なもので、安否の確認と励まし、王女様によく仕えるようにと、それから体には気をつけなさいとだけ書かれていた。別に何かを期待していたわけではないけど、もう少し心配してほしい。
一方、手紙を送ってきた方の姉、ステラ姉さんからは、わけのわからない文句と愚痴、近況報告などの内容の手紙をもらった。こちらも相変わらずだ。
僕は憂鬱な気分で紙に視線を落とす。けれど、自分の文章を読み返す気にならず、結局目を逸らす。何てことはない無難な内容は、嘘だらけだった。
文の結びに入った時、ノックが響いた。
「入ってもいい?」
透き通った声の柔らかさと、躊躇うような気配に困惑する。日頃は、じゃじゃ馬よろしく勝手に入ってくるというのに。もっとも、最近はいつもこんな感じだった。
「どうぞ」
遠慮がちに扉が開き、リラ様が入ってきて、ふわりと微笑んだ。
「おはよう。もう朝食は食べた?」
「……ええ」
嘘だ。今日は何も食べられなさそうだったので、事前に断っていた。
リラ様は透明な眼差しでじっとこちらを見つめて、それからテーブルの上の紙束を見て、首を傾げた。
「ご家族からの手紙?」
「ええ」
「そう、よかったわね!」
口元をほころばせ、目を輝かせる。蕾がほどけてゆくような、可憐で清らかな笑みに、何故か後ろめたくなる。
「今は返事を書いてるのね?」
「はい。特に何てことはありませんけど」
「そうなんだ。じゃあ、忙しいよね。今日は遊びはお休みにしようか?」
気遣うような眼差しに、ズキリと胸が痛む。それを隠して、僕は愛想笑いを浮かべた。
「そうですね、全然書けてなくて。知らせなきゃいけないことがたくさんあるんです。まだ怪我もよくなってないし」
嘘ばっかり。
手紙はもう書き終わる直前だし、怪我だってほとんど治っている。あんなに、破片を浴びたというのに。
自分でも自分が気持ち悪くて仕方ない。だから、この優しい目をした王女には知られたくなかった。
「怪我のことは当然よ!どうしたら、あんなにガラスの破片が刺さるの?急に倒れちゃうし」
「運が悪かったみたいで……。でも、今はこの通り元気ですから!」
嘘、嘘、嘘ばっかりだ。卑怯で、臆病で、『弱虫』な僕は、現実から目を背けて、逃げることしかできない。
リラ様の顔を直視することができず、うつむく。
「……そうなの。早く、元気になってね。あと、ご家族を大切にね」
事情を知らないリラ様は、明るく言い放つと軽やかに出ていった。
再び一人になった部屋で、ペンを投げ出し突っ伏す。本当に、馬鹿だ。
気を失った後、目を覚ましたら自分の部屋のベッドの上。まだ真夜中だったので目を閉じたが、幻覚なのか悪夢なのかも判断のつかない代物に苦しめられ、一睡もできなかった。
次の日は精神的疲労でぶっ倒れて、結局部屋の中で療養。やっと回復したが、ここ最近も何かと理由をつけて部屋にこもりがちだった。
言い訳をこねくり回して、自分に言い聞かせて、目も耳も塞いで閉じこもる。それなのに、過去に、彼女に縛られたまま、甘やかな記憶だけに縋ってズルズルとここまで来た。
なのに、クソガキと言っても足りないようは僕に対して、リラ様は限りなく優しかった。
いつでも温かな笑みを浮かべ、気遣ってくれた。決して僕を追い詰めることはせず、ただ優しくしてくれる。砕け散った何かの残骸を一つ一つ拾いあげて、そっと抱きしめるように。
本当は、それに甘えちゃいけない。わかっている。わかっている、けど。
溜息をつくと、強烈な眠気に襲われる。どうせ待っているのは悪夢だろうが、現実よりは幾分マシだろうと、椅子に座ったまま目を閉じる。何もかもが、嫌だった。
どのくらい時間がたったのだろう。
結局悪夢で目を覚ますと、カーテンの隙間から光が降り注いでいた。まだ昼過ぎくらいのようだ。
ぼんやりしていると、隣の部屋から澄んだ歌声が流れてきた。
リラ様が歌っている。
子守唄のような透明な歌声が柔らかに僕の鼓膜を揺らす。セルシアの民謡だ。
リラ様から目を逸らし、距離を置いているくせに、歌だけは聞くなんて卑怯にもほどがある。
それでも、耳を澄まさずにはいられなかった。天上の音楽のような清らかな音色に、じわりと視界が滲む。
歌声だけじゃない。いつも我儘で、破天荒で、子供っぽいくせに、たまに見せる切なげな眼差しや穏やかな笑顔は、ドキッとするくらい大人びている。
ズルイ。
八つ当たりのような思いが込み上げてくる。それだけじゃなく、油断したら涙までこぼれそうだった。全く、本当に情けない。
このままだと本当に泣きそうだったので、取り合えず部屋の外に出て、大きく息を吸う。
大丈夫。いつも通りのはずだ。
それから、隣の部屋の扉を見つめ、どうしたものかと考え込む。さすがに会いに行く勇気はない。
「どうかなさりましたか?」
急に話しかけられ、ビクッと反応する。話しかけてきた侍女は怪訝そうな顔をした。
「あ、いや、何でもないよ」
「失礼しました。……ところで、ハル様にお会いしたいという方がいるのですが」
今度は僕が怪訝な顔をする番だった。全く心当たりがない。
「その方って誰?」
「アンジェラ様です」
首を傾げる。そんな知り合いはいないぞ。
「……えっと、アンジェラ様って、誰?」
「アンジェラ・ココ・ファーネス王女殿下ですが……」
「第一王女の?」
「ええ」
アンジェラ様のことは、もちろん知っている。けれど、向こうは僕のことを知らないはず。第一、呼ばれる理由がわからない。
「ついてきてくださりますか?」
「わかった。今から行きます」
何だかよくわからないので不気味ではあるけど、断る理由もない。
後ろ髪を引かれつつも、先を行く侍女についていくことにした。
「あんなことに……なるなんて……!」
少女は可愛らしい顔をゆがめ、唇を噛む。その拍子にさらりと流れ落ちた髪が、少女の表情を隠した。
沈黙が辺りを満たし、ティーカップから立ち上る湯気が頼りなく揺れる。苺のタルトに手をつけず、じっと睨んでいる。
誰も知らない、秘密の場所。
何よりも優しく美しい、ささやかな時間。
いつもなら幸せそうな微笑みを絶やさない少女が、震える声で呟く。
「もしかしたら、私の顔を誰かに見られたかもしれません……」
「あの時は混乱していたし、灯りひとつなかった」
やや不機嫌そうな青年が反論する。
「それはそうですが……。でも、仕方がないのです。もしこんなことがばれたら、あなたが……!」
「そんなこと、どうでもいい」
強い声が、静かに響く。
青年は感情の読めない瞳を伏せ、ほんの少し、口元をほころばせた。
「俺のことを気にする必要はない。もしばれたって、何一つお前のせいじゃないし、今はそんなことを考えたくない」
きっぱりと言い放つと、少女はしょんぼりと項垂れた。
「……ごめんなさい」
「何故謝る?怒ってるわけじゃないぞ」
「わ、私のせいで、せっかくの時間をつまらないものにしてしまいましたから……」
青年は軽く目を見張り、困ったような顔をする。少し間を置いて手を伸ばし、少女の頭を軽く撫でる。
「つまらなくない。つまらないはずがないだろ。……だが、心配してくれて、ありがとう」
すると、少女はパッと顔を上げ、頬を染めてにっこりする。しかし急にそっぽをむいて、
「は、早くタルトを召し上がってください。紅茶も冷めてしまいます」
と素っ気なく言った。ツンケンした態度のわりに、幸せそうに唇を緩めながら。
そんな少女を愛おしそうに見つめつつ、青年の鋭い瞳は翳っている。
「いつまで……もつか……」
ぽつりと呟いた。