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とある復讐者或いは侍女の追想 Ⅲ

「最近、急に綺麗になったわね……ソフィア?」


 唐突に声をかけられ、ソフィアは梳いて整えていたリラの髪を思わず引っ張ってしまった。


「いたーい!」

「も、申し訳ありません!驚いて手元が狂ってしまい……死んでお詫びいたします!」

「もう、大袈裟ねぇ。大丈夫よ。それより、続きをお願いね」


 鏡の中のリラはくすくすとおかしそうに笑っていて、ソフィアの方は頬を赤らめていた。動揺を悟られまいと、髪結いを再開する。


「今日は何かご希望は?」

「緩めに編んで纏めてくれる?どうするかは任せるわ」

「かしこまりました」


 同じ失敗をしないよう、普段よりも慎重に髪をとかす。月の光を集めて、その中に極上の絹糸を浸して染めたような、うっとりするほど美しい髪だ。あんな風に乱暴に扱うなんて万死に値する。

 主人の見事な銀髪を前にして、ふと別の姿が浮かんだ。

 彼も男性だがかなり長く、艶やかで美しい栗色だ。だが、扱いは意外と雑で、常に無造作に括っているだけである。勿体ないと思いつつ、その辺りが彼らしくて、ソフィアの頬が自然と緩む。


「恋の季節かしら?」

「ッ!?」

 また引っかけそうになり慌てて手を放した。

 ソフィアが冷汗を流しているのを知らないリラは、無邪気な笑顔で続ける。


「なーんてね。ソフィアはもともと可愛いし、私よりもお姉さんだから、急に綺麗になっても不思議じゃないわ。ドレスを着たらそれこそ私よりお姫様らしいんじゃないかしら」

「有り得ません。リラ様よりも美しい姫などおりませんし、まして私など比べるのもおこがましい」

「ふふっ、お世辞が上手ね」


 リラはそう言ってまたくすりと笑うが、ソフィアは本気だった。

 透き通るように白い肌も、ほっそりとした華奢な体躯も、小さな顔を縁取る長い銀髪も、この世のものとは思えないほど美しい。だが決して近寄りがたい感じはせず、無邪気な笑みを浮かべる唇は可憐で、朗らかだ。

 何より、長い睫毛に囲われた大きな瞳は泉の如く透き通った青で、星のきらめきを閉じ込めたようだった。世界中のどんな宝石も彼女の瞳には及ばない。

 天使か妖精と見紛うこの王女に仕えていることに、ソフィアは誇りを持っていた。

 するすると髪を編んでいると、リラは穏やかな口調で続けた。


「でもね、私より綺麗な女の子も、可愛い女の子もたくさんいるわ。私は狭い世界にいるから、綺麗に見えるだけ。実際、私よりずっと綺麗で可愛らしくて、それでいて色っぽい女の子を知っているから」

「どなたですか?」

「恋敵、よ」


 ドキリと心臓が跳ねる。

 そっと鏡を見ると、リラは儚げな微笑を浮かべている。翳った瞳にソフィアはますます動揺したが、リラはすぐに明るい調子になって、


「今日のお茶菓子はなに?」

「無花果入りのクッキーとアップルパイ、それとサンドイッチを予定しております。お茶はフラウィール風に濃く淹れてスパイスとジャムを少々。何か他に希望はございますか?」

「ううん、とっても美味しそうね!ソフィアのお菓子は最高だもの、期待しているわ。ミーナにも分けてあげなきゃ」


 はぐらかされた気分だ。この天真爛漫な王女に限って計算も誤魔化しもあるはずがないが、ソフィアとしては釈然としない。

 恋敵の話の続きをねだろうか、しかし出過ぎた真似ではないかと悩んでいると、鏡の中のリラと目が合った。

 澄み切った瞳をスーッと細め、囁く。


「本当に変わったわね、ソフィアは」


 キョトンとして、ソフィアは指を動かしながら首を傾げる。ソフィアは何も変わっていないと思うが、リラからしたらそう見えるのだろうか。

 ソフィアはただ、リラの侍女として働き、クラウスの恋人でいられれば、それ以上何も望まない。貴族は大嫌いなので見るたびぶっ殺したくなるし、クラウスが娘達に人気であることにも胃を痛めてはいるが、それでも十分幸せだった。


「私は今が続けばそれでいいです。ずっと、このままでいたい」


 変わりたくないと付け足した声は、リラに届いたのか、どうか。

 リラはただ、何も言わずに笑った。可憐な笑みだったが、そこにどういう思いが込められているのかはソフィアには読み取れなかった。




 クラウスと出会ってからもうずいぶん経ち、充実した生活を送っていたソフィアだったが、不意に奇妙な不安に駆られることがあった。

 正体はわからない。何故不安になるのかもわからない。

 だが、その何かを意識すると、決まって息が苦しくなる。

 今日も、そうだった。


「どうした、ソフィア」


 クラウスは眉根を寄せ、そっとソフィアの目を覗き込む。険しい表情に見えるが、彼は心配しているだけだとソフィアは知っていた。


「何でもありません。少し疲れているだけです」

「ちゃんと休んでいるのか?リラの相手も疲れるだろう」

「そんなことはありません!リラ様にお仕えできることは私の誇りですから」


 すると、急にクラウスが不機嫌そうな表情になり、スッと離れる。その顔のまま無花果のクッキーを齧り始めた。

 何かマズイことを言っただろうかと焦っていると、


「俺よりあいつの方が大切か」

「えっ?!いえ、そういうわけではっ」


 カッと顔が熱を持つのがわかった。時折、こうして何の合図もなく甘くなるので心臓がもたない。

 穏やかな昼下がり。人目を忍び、こうしてクラウスと二人きりでお茶をするのは何度目だろうか。いつになっても慣れないし、バレるのではないかと酷い不安に駆られることもあるが、何よりも満ち足りた時間だった。

 とは言っても、この頃クラウスも忙しく、今日は久しぶりのお茶会だった。彼ももう十九歳で、何ごともそつなくこなすタイプなので、日に日に仕事が増えているようだ。主には国政に関してだが、優秀すぎるあまりに古文書の解読のような学者達の仕事にも足を踏み入れているらしく、過労で倒れないか心配だ。

 それだけでなく、国内外からひっきりなしに縁談が舞い込んでいるのもソフィアの心痛の種だった。

 セルシアの世継ぎの君でこれだけの美貌だ。王妃や、それが無理でも側室や愛妾を狙う王侯貴族達は吐いて捨てるほどいる。

 それでも、クラウスは全て断り続けている。一介の侍女でしかないソフィアよりも、ずっと綺麗で、優雅で、クラウスの隣に並ぶのに相応しい姫君を、決して選ぼうとしない。

 クラウスの誠実な愛情を嬉しく思う反面、不思議で仕方がなかった。

 何故、ソフィアなどがクラウスの恋人なのか、と。

 他愛のない話に花を咲かせているうちにあっという間に時間は過ぎて、お開きとなった。一緒に戻っては怪しまれるので、いつもソフィアが時間をあけて戻るよう心がけている。


「今日も楽しかったです。お仕事、頑張ってくださいね」

「ああ……」


 クラウスが顔を曇らせる。そして、声のトーンを落とし、


「本当に大丈夫か?」

「え?」

「何か心配ごとがあるんじゃないか?顔を見ればわかるぞ。俺はリラほど鈍くないしな」


 切れ長の双眸からそっと目を逸らし、ソフィアは口ごもる。

 心配ごとならたくさんある。けれど、息苦しさを感じさせるこの不安は、原因がよくわからない。日常の些細な積み重ねから生まれたものではなく、もっと根深いところにある、触れてはならないもののような気がするのだ。

 だから、触れない。蓋をして、見なかったことにする。

 たまに何かが噴き出しても、その上に土を被せてしまえば大丈夫。

 この幸せな日々を、守れるのなら。

 ソフィアはにっこり笑って、クラウスを見上げた。


「いいえ、大丈夫です。クラウス様が過労で倒れないかだけが心配です」


 クラウスが目を見張る。小さく溜息をついて、何かを呟いた。

 その瞬間、ソフィアは自分の体が浮くのを感じた。頼りない感覚に声を上げようとして、やっと気づく。

 唇が重なっていることに。

 目を剥いたまま固まっているうちに地面におろされていた。心なしか、普段は陶器のように白いクラウスの頬が赤らんでいる。


「……その、ソフィア」

「は、はい?」

「……何かあったら、ちゃんと相談しろ。一人で抱え込むなよ」

「あ、ありがとう、ござい、ます」


 カタコトで答えると、クラウスはぶっきらぼうに別れを告げ、足早に去って行った。

 ドクドクと心臓が早鐘を打つ。柔らかなそよ風が肌を撫でていくが、少しも熱を冷ましてくれそうにない。

 震える指で、自分の唇に触れてみる。

 抱きしめられたり、額や頬にキスされたことはあったが、唇は初めてだった。同僚の侍女達の下世話な話を聞いていると、お互い十代後半で進展が亀ペースだなと思ってはいたが、いざとなると心臓が爆発しそうだった。

 クラウスは男性にしてはかなり低体温ぎみで手も冷たいが、一瞬触れた唇は驚くほど熱かった。あの熱が、未だにソフィアの唇に残っている。

 蜂蜜でも塗って手入れしておけばよかった。ちょっと乾いてかさついているのが死ぬほど悔やまれる。

 顔を真っ赤にしながら、とろけるような甘い笑みを浮かべて目を閉じる。胸を乱していた得体の知れない不安はもうどこにもなかった。

 秘密の恋人でいい。身分が違いすぎる以上、結婚できないのは明白だ。それでも、いい。

 甘い気持ちに浸って、そっと吐息をこぼす。

 さて、ソフィアもそろそろ仕事に戻る時間だ。テキパキと片付けながら、踊り出したい衝動に駆られた時、


「皇子サマを陥落させるなんてスゲエな、あんた。憎んでいる相手にあそこまで演技できるなんてさ」


 嘲笑を含んだ声が背後から聞こえてきた。

 振り返ると、いつの間にか若い男が立っている。身なりからして兵士だろう。

 いつからいたのか全くわからなかった。この自分が、こんな軽薄そうな一兵士に背後を取られるなんて。どうかしている。心底ゾッとした。

 ソフィアは遅れを取り戻すように袖からナイフを取り出し、男を睨みつける。


「誰だ!いつからそこにいた!」

「まあまあ、怒るなって。オレはあんたの敵じゃない。むしろ協力しに来たんだよ」

「はぁ?」


 意味がわからないし、わかる必要もない。こいつはソフィアとクラウスの逢瀬を盗み見ていた。ここで口を封じておくしかない。


「黙れ。そして、死ね」


 四本のナイフを一斉に放つ。だが、男は悠然とソフィアのナイフを躱してみせた。


「さすが、ナイフ投げに秀でたお姫様ってだけはあるな。侍女のふりを何年もやってたせいでさすがに腕は落ちているみたいだけど、この分ならすぐ戻るだろ」

「さっきからゴチャゴチャと、何を言っている!?私を馬鹿にしているのか!」

「だから違うって。てか、オレに対してまで演技しなくてもいいのに。ま、急に言っても信用してもらえねぇか。だから自分で行けって言ったのに、ネリーの野郎……」


 男は苦々しげにごちて、肩を竦めた。


「どうも、初めまして。オレの名前はライト・バロウ。何度も言うようだが、敵じゃないぜ」

「ライト・バロウ!?」


 弾かれたように叫ぶソフィアに、ライトと名乗った男は意外そうに、


「オレのこと知ってんの?驚いたなー」

「いや、まさか……ふざけるのも大概にしろ!」


 戦闘に関わっている者で、ライト・バロウの名を知らない人間など、セルシアにいるはずがない。

 叩き上げの天才剣士で、後ろ盾のない中実力でのし上がっていったが、それをよく思わない武の名門貴族達に嵌められセルシアを去ったと聞いている。

 適当なことを言っていると警戒する一方で、もしかしたらという疑念もあった。いくら腕が落ちたとは言え、ソフィアのナイフを軽く躱す反射神経は並ではない。気配の消し方もプロだ。

 だが、本当にライト・バロウだとして、ソフィアに何の用があると言うのだ。

 顔を強張らせるソフィアに、ライトは丸めた紙を投げて寄越す。咄嗟に受け取ると、時間と場所が書き付けてあった。


「今夜、そこに来い。オレの言ったことが本当だって証明してやる」


 ニヤリと笑って言うだけ言うと、ライトは静止する間もなく去って行った。

 手の中に残った文字を見下ろし、ソフィアは眉根を寄せる。

 くだらない。そんな見え透いた罠に引っかかるとでも思っているのだろうか。口止めし損なったことは気になるが、言いなりになどなるものか。

 だが、どうしても文字から目が離させず、しばらくの間ソフィアは立ち尽くしていた。




 蝋燭の灯りを頼りに、ソフィアは一歩ずつ長い長い螺旋階段を上っていく。時折窓から差し込む冷たい月光が、何故か恐ろしく感じた。

 ライトの指定した場所は、王城を囲む塔のうちの一つの、天辺だった。何に使われているのか、使われたことがあるのかさえ不明なその細長い塔の隠された入り口に、紙に描かれた地図通りに忍び込み、向かっていた。

 何度も引き返そうと思った。足を止め、振り返った。仕事を放棄して何をしているんだ、馬鹿馬鹿しい。そんなことを思いながら、それでも足はどんどん進む。

 そこに行けば、ソフィアを苦しめる不安の正体がわかるかもしれないと思ったからだ。

 ついに辿り着き、腐りかけの木の扉を押し開く。ギチギチと嫌な金属音に顔を顰めた時、風を感じた。

 突風に思わず目を瞑る。灯りをかき消された蝋燭が落ちて、転がってゆく。


「ちゃんと来てくれたんだな。よかったよかった」


 若い男の声だ。ライト・バロウのものだろう。

 風が弱まり目をあけると、冴え冴えとした月明かりの下に、三人の男女がいた。

 一人はやはりライトだった。昼間と違い、黒いフード付きのローブを身に纏っている。その隣にいるのはフードを目深に被った男だ。身長はライトと同じくらいだが、剣士のライトと比べて線が細い。

 残る一人は、鉄柵に腰かけた女だった。

 二人と同じようなローブを着ているが、フードをおろし前も全開だ。露出度の高いドレスに身を包んだ肉感的な肢体や、豊かに流れる金色の髪が魅力的な美女だが、灰色の双眸も緩めた唇も纏う雰囲気も、肉食獣めいた獰猛さが漂っている。

 その女を、ソフィアは知っていた。

 幼い頃に一度だけ会ったことがあった。腕はいいが欲望に忠実なこの女に、誰もが振り回されているのを知っていたので、話しかけられても無視を決め込んだ。そうしているうちに、女は一族から抜け出し、その一族も滅び、そして、自分は。

 自分の、本当の名前は。


「久しぶりだねぇ、フィリア嬢。あたし……ネリー・オルコットのことは、覚えているかい?」


 色っぽい仕草で髪をかき上げながら、ネリーはニヤリと笑ってみせた。

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