〜第八話〜軍師、宿敵に相対す
いやぁ、遅れました。
とりあえず、第八話です。
どうぞ!
side 鳳統
「うぅ……」
これから曹操さんの天幕に向かうと思うと、私はとても気が重かった。
「大丈夫?雛里ちゃん……」
私の隣で、朱里ちゃんが心配そうに見つめる。
「朱里ちゃん……きっ、緊張するよぉ……」
そう言って、私は帽子を深くかぶる。
「だっ、大丈夫だよ!桃香様と義景さんも一緒にいるんだし……」
朱里ちゃんはそう言って苦笑する。
「ああ、心配ないさ。僕も適度に補佐するからね」
「私は……ちょっぴり緊張してるかも……」
柔らかく微笑む義景さんとは対照的に、桃香様も少し表情が固い。
「おいおい……これから先は、こういう状況がもっと増えるんだぞ?桃香がそんな有様でどうするんだい?」
「うぐっ……返す言葉もありません……」
困った表情を浮かべた義景さんの言葉に、桃香様はシュンとなる。
「そう言うなって。誰でも最初は緊張するもんだ」
私達の護衛で一緒に来た一刀さんがそう言った。
「まあ……それもそうか」
そう呟いて、義景さんは苦笑した。
私達は今、曹操さんの天幕に向かっている。
一刻前、曹操さんの使者に共同軍議を行うと伝えられたからである。
あの曹操さんのことだから、多分地図の贈呈だけでは満足しないだろう。
それに、さっきの様子だと、この地図のカラクリにも恐らく気付いている。
これから一体どんな要求してくるのか……。
正直、考えただけでも気が思いやられる。
「それにしても、さっきから随分とジロジロ見られるな……」
そう言って、一刀さんは不快そうな表情をする。
一刀さんの言う通り、曹操さんの陣地に入ってから、曹操さんの兵達が物珍しげに私達を見つめていた。
何だか、こうも注目されると恥ずかしいし、何より怖い。
朱里ちゃんも同じ気持ちなのか、さっきから繋いだ手が汗ばんでいる。
「仕方ないさ。彼らからしたら、僕達は部外者なんだからね」
そう言って、義景さんは苦笑しながら、とある天幕の前で立ち止まった。
「曹操様の天幕は、ここで違いないか?」
そう言って、義景さんは天幕の扉の前に立つ、青い着物の上に薄い鎧を着た一人の兵に尋ねる。
「いかにも。私は張コウという者。そちらは、劉備軍の方々とお見受けしますが、相違ないですか?」
「僕の後ろにいる、このお方が劉備様だ」
義景さんはそう言って、後ろにいた桃香様を前に出す。
「こんにちは。曹操さんはいるかな?」
桃香様はいつもの笑顔で尋ねる。
「はっ、少々お待ちを……。華琳様、劉備殿がご到着なさいました」
「通しなさい」
張コウさんが、天幕の中に向けてそう言うと、中にいるであろう曹操さんの声が聞こえた。
「御意。お待たせしました、どうぞ」
私達に向き直り、張コウさんはそう言って、天幕へ入るよう促した。
「ありがとう」
桃香様はニッコリと笑ってそう言うと、天幕の中に入る。
私達もそれに従い、天幕の中に入っていった。
中に入ると、中央に円卓があり、その奥で少し大きな玉座に座った曹操さんが妖艶な笑みを浮かべていた。
その両側には、赤と青の中華服を着た女性が立っている。
見た感じ、二人とも武官だろうか。
さらに、曹操さんの目の前にある円卓の椅子には、金髪の少女とネズミ色の髪の青年が座っている。
恐らく、この二人が軍師なのだろう。
「紹介するわ。前に座る二人が、我が軍の頭脳、筆頭軍師の荀イクと、その次席の荀攸よ。そして、私の両側にいるのが、我が両腕、夏侯惇と夏侯淵、我が軍の将軍を務めているわ」
曹操さんがそう言うと、四人は軽く会釈する。
心なしか、夏侯惇さんがこっちを睨んでいる気がする。
うぅ……怖い……。
「あっ……えっと、こっちに座っているこの三人が、私の軍師、筆頭の諸葛亮ちゃんと次席の鳳統ちゃん、参謀の陶応君です。それで、後ろに控えているのが、私の隊の副官、北郷さんです」
桃香様の言葉に従い、私達も会釈した。
「お互いの紹介も済んだことだし、早速本題に入りましょう。流?」
「はっ」
曹操さんが荀攸さんが反応する。
「では、進行は私が執らせて頂きます」
荀攸さんがそう言って、話し始めた。
私と朱里ちゃんにとっては、他軍の軍師と軍議をするのは初めてだ。
上手く出来るかな……?
きっ、緊張するよぉ……。
side out
side 陶応
「まず、両軍の配置の件から確認しましょう」
そう言って、荀攸は微笑を浮かべた。
「えっと……我が軍は、全体的に農民上がりが多いため、進軍速度が少々遅れる可能性があります。それ故、曹操様の軍の後方からついていく形が、最も良いかと存じ上げます」
おずおずと雛里がそう言った。
「ちょっと!そんなこと、勝手に決めてんじゃないわよ!」
「ひぅっ…!」
荀攸の隣に座る、荀イクが声を荒げた。
雛里は驚いて縮み上がる。
「あのっ、まだ決まった訳じゃ…」
「黙りなさい!」
「あぅ……」
朱里が反論しようと試みるが、すぐに打ち消されてしまった。
それにしても……中々の形相で睨んでくるが、この場面で怒鳴りだす意味が分からない。
ひょっとして、この子は空気が読めない子なのか?
もし、曹操の軍師がこの程度だとしたら、上手いこと付け込めるかもしれない。
「お待ちなさい。これはあくまで我が軍の見解に過ぎません。そんなに怒ることはないでしょう?」
僕はそう言って、荀イクの様子を窺う。
「何言ってんのよ!華琳様の軍を盾にする気でしょ!?」
「何っ!?貴様、そうなのか!?」
筍イクの言葉に、後ろにいた夏侯惇が激しく反応した。
「貴様!どうなんだ!?答えろ!」
きつく睨みながら、夏侯惇がそう叫ぶ。
ふと視線を曹操に移すと、頭を抱え溜息をついていた。
その仕草を見て、曹操が何を狙っていたのか、だいたいの察しはついた。
恐らく、曹操も僕達を盾にしようとしたのだろう。
ならば……
「答えろと申されましても、先程鳳統が説明した通りですが、何か問題でも?」
「問題しかないじゃない!華琳様の軍を盾にするなんて、言語道断だわ!」
「つまり、この案は受け入れられない……と?」
「当たり前よ!」
筍イクはそう言って、僕を睨みつけた。
後ろの夏侯惇の剣幕も凄まじい。
だが、この時僕は心の内でほくそ笑んだ。
「そうですか。では……当然対案はあるのですよね?」
「……えっ?」
目の前に座る、筍イクの目が点になる。
「筍イク殿の言う通り、私達の案では曹操様を盾にすることになる。なるほど、確かにそれは非常に非人道的だ。こちらの非礼を詫びましょう。では、筍イク殿はどのような対案をお持ちですか?当然、人を盾にするなんて非人道的な内容ではないのでしょう?」
僕はここぞとばかりに、筍イクの目を見つめる。
「えっ……あの……えっと……」
筍イクはしどろもどろになりながら、必死に言葉を探しているようだ。
「まさか、対案がないのに反対したとか?……まあ、それこそ有り得ませんよね?誇り高き曹操様の軍師ならば、そんな愚かな真似はするはずないですからね」
僕は微笑みながらそう語りかけ、筍イクを追い込んでいく。
「あっ……その……」
焦っているのか、筍イクは目が泳いでいる。
さて、トドメだ。
「ひょっとして、我等を盾にするつもりだったのですか?」
「っ!?」
僕の言葉に、筍イクは絶句した。
端から見ても、顔が青くなっているのが分かる。
落ちたな……。
僕は心の中でそう思った。
僕はチラリと両側に座る朱里達に目を移す。
二人は完全に萎縮し、さっきから僕の着物の裾を掴んで離さない。
やはり、二人にはまだ早かったか?
まあ、二人には良い経験なっただろう。
こういう経験を積み重ねていけば、二人はやがて僕を超える軍師になる。
それまでは、僕が何とかしてみせよう。
しかも、これで有利に交渉を進められるだろうから、実際に問題はない。
さて、ここからどう展開させるか……。
僕が先の展開に思いを巡らせていたその時、
「そのつもりでしたが、何か?」
「っ!」
筍イクの隣に座る、荀攸がそう言った。
開き直った……だと?
「陶応殿は非人道的だとおっしゃりますが、私に言わせれば、それは詭弁です」
「と、言うと?」
内心ヒヤリとしたが、表面には出さず、僕は聞き返す。
「戦になった以上、軍の先頭はどうやっても主君を守る盾になってしまいます。しかも、それを言ってしまったら、そもそも戦自体が非人道的なものでしょう?」
荀攸は僕を見据えてそう言う。
そう切り返すか……。
コイツ……出来るな。
僕の言葉が詭弁だと気付いた段階で、軍師としてかなり頭が回るのだろう。
これではっきり分かった。
曹操軍の実質的な軍師は、恐らく荀攸だ。
これは僕の勘だが、筍イクは、僕達の軍で言うところの朱里達と同じ立場なのではないだろうか。
そう考えれば、先程のお粗末な展開も頷ける。
「それに、主君を守るためなら、私は軍師として、使えるものは何でも使う。だからこそ、貴方は先程我等を盾にしようとしたのでしょう?」
「なるほど……そこまで分かっているなら、円滑な話し合いが期待出来そうだ」
僕はそう言ってニヤリと笑った。
side out
side 荀攸
ニヤリと笑う陶応の姿に私は内心で納得していた。
これは華琳様も欲しがる訳だ。
先程、私は主導権を握るため、陶応に揺さぶりをかけた。
だが、見た目から動揺は感じられず、それどころか円滑な話し合いが期待出来ると言ってのけた。
この何事にも動じない豪胆さ、そして隙あらばすぐにでも食らい付く狡猾さは、まるで野生に生きる怪物そのもの。
なるほど、これは“本物”だ。
華琳様の予想通り、桂花ではまだ敵わない。
恐らく、私も気を引き締めてかからねば食われるだろう。
「陶応殿、劉備軍が我等曹操軍にものを言える立場でないことは、分かっていますか?」
私は次なる一手を打つべく、陶応に語りかけた。
「随分唐突に、おかしなことを言いますね。曹操様は仮にも同盟を組むことを了承なさいました。その段階で、我が主劉備と曹操様の関係は対等なはずでしょう?」
そう言って、陶応は苦笑する。
やはり、そこを突いてくるか。
陶応は、どうあってもお互いの対等さを主張するつもりのようだ。
ならば……
「対等なはずがないでしょう?こちらは貴方達に兵糧を支援するのです。それに対して貴方達からは地図一枚の贈呈のみ。これで対等とは、片腹痛いと言うものです」
「片腹痛い?それはこちらの台詞です。その条件で同盟を決めたのは、他でもない、曹操様ですよ?」
陶応は微笑した表情を崩さずそう言った。
これもかわすか……。
正直、やりにくい。
陶応の表情から、感情が読み取れない。
揺さぶりをかけようにも、どの頃合いで仕掛けるか、判断が難しい。
どうする?
無理矢理仕掛ければ、逆にこちらがボロを出す。
恐らく、陶応はそれを見逃さないだろう。
「それは対等である理由としては不十分です。そもそも、同盟という言葉が、対等であるというのは誇大解釈では?」
「困りますねぇ……。それこそ、誇大解釈というものです。同盟とは、協力関係であるということ。どちらか一方が不利益を被るような関係は、協力とは言わない」
陶応の言葉に、内心で舌打ちをする。
崩せない。
こんなこと、正直初めてだ。
私は今まで、こと舌戦に限れば、勝てなくても負けることはなかった。
それがここに来て、初めて負けそうになっている。
認めざるを得まい。
陶応を完全に侮っていた。
だが、まだ主導権はどちらにも傾いていない。
そう易々と渡してなどやるものか!
「不利益?貴方達が?ご冗談を!我等が兵糧を提供しなければ、貴方達劉備軍はまともに機能すらしないのですよ?」
「だから何です?何度も言いますが、その条件を飲んだのは曹操様ですよ?」
陶応は一貫してその主張を続けている。
これでは埒が明かない。
ならば……最終手段を取るしかない。
「そうですか……。ならば、交渉は決裂となりますが?」
「っ!」
陶応の目が僅かに開いた。
やれやれ……ようやく揺らいだな。
まあ、それもそうだろう。
劉備軍としては、この交渉で兵糧の確保は絶対条件だ。
それが今、なくなろうとしているのだから、普通は焦る。
「そもそも、我等は同盟などしなくても、黄巾賊程度に遅れは取らない。そうですね?華琳様?」
私は振り向き、後ろに座る華琳様に問い掛けた。
「当然ね。この私が率いているのよ?賊風情相手に敗北など有り得ないわ」
強気な眼差しで私を見ながら、華琳様はそう言った。
「そういう訳ですので、我等としては困らないんですよ。まあ、地図が貰えなくなるのは残念ですが、致し方ありませんね」
私はそう言って、陶応を見ながら微笑んだ。
さあ、陶応、どうする?
陶応は何かを考えているように押し黙っている。
だが、もう詰みだ。
劉備軍は、何としてでも兵糧を確保しなければならない。
ならば、やはり我等に従うしかないだろう。
危なかった……。
何とか主導権を握れた。
私はそう思い、安堵した。
だが、次の瞬間、思いもよらぬ所から、その安堵が崩された。
「おやおや……あの誇り高い曹操様ともあろうお方が、一度交わした約束を違えるとは……。随分と覇王らしくない振る舞いですね?」
そう呟いて、劉備達の後ろに控える北郷が苦笑した。
「何ですって?」
後ろに座る華琳様の眉間にシワが寄る。
「聞こえませんでしたか?覇王らしくないと言ったんです」
そう言って、北郷はニヤリと笑う。
「貴様!華琳様に対して何たる無礼!」
後ろに控える春蘭が吠えた。
その手には既に大剣を持っている。
「無礼で結構。約束の一つすら守れない者が、覇王を名乗るなど、戯言以外に何があります?」
「きっ、貴様ァァァァ!」
北郷の言葉に、春蘭は完全にキレたようだ。
まずい!
もしここで北郷を斬ったら、要らぬ戦闘が起こる。
「止せ、春蘭!」
私は必死に叫ぶが、最早大剣を振り上げた春蘭は止まらない。
「はああああっ!」
あっという間に北郷に近寄ると、春蘭は大剣を振り下ろそうとした。
その瞬間、
「っ!」
即座に反応した北郷が腰に差した剣に手を置き、そして……
キィィン!
金属の叩かれる音が響く。
とてつもない速度で抜かれた北郷の剣によって、春蘭の大剣が弾かれていた。
「っ!」
春蘭はその事実に驚愕し、呆然としている。
実際、驚いているのは春蘭だけではない。
私も驚いていた。
春蘭は頭こそ残念だが、武においては我が軍で一番であり、その剣撃を止められる者は一人もいない。
にも関わらず、それをよりにもよって劉備軍の副官に止められた。
副官でこの技量ということは、劉備軍の将軍は……。
ますます戦闘に移行させる訳にはいかなくなった。
劉備軍に対する情報が足りない現状で戦闘を行えば、大きな被害を生む恐れがある。
北郷は右手に持った剣を春蘭に向け、静かに佇んでいる。
適度に力の抜けたその姿からは、一片の隙すら見当たらない。
静まり返った天幕に、ピリピリとした空気が流れる。
俗に言う、一発触発とはまさにこのことか。
「一刀さん、剣を納めて。私達は喧嘩をしに来たんじゃないよ?」
静寂を破るように、劉備がそう言った。
その姿に、先程までの優しげな雰囲気はない。
北郷をまっすぐ見据えるその表情は、華琳様とはまた違った形の覇気が伺える。
これが劉備か……。
優しさと気高さを合わせ持つ彼女の姿は、確かに華琳様に並ぶ可能性がある。
「……失礼。出過ぎた行動でした」
劉備の言葉に素直に従った北郷は、右手を軽く捻り剣を回転させ、逆手に持つと、静かに鞘へ納めた。
その姿は、まるで一つの舞いのようで、他軍の者だが美しく感じた。
「春蘭、貴女も戻りなさい」
「はい……」
華琳様の言葉に、春蘭は大人しく従うが、その姿にいつもの覇気はない。
まあ、アレを弾かれれば、意気消沈してしまうのも無理はないか。
「曹操様、先程は北郷が大変失礼を致しました。……ですが、北郷の言うことも尤もではありませんか?」
頃合いを見たのか、陶応がそう言って華琳様を見る。
まったく……。
痛い所を突かれたな。
華琳様の性格なら、恐らく……
「待ちなさい。誰も約束を違うとは言ってないでしょう?」
やはり、華琳様ならそう言うだろうと思った。
華琳様は己の覇道を否定されることを一番嫌う。
故に、この発言は致し方ないとしか言いようがない。
「ただし、劉備、私は貴女達に対等な関係で同盟を結ぶと言ったかしら?」
そう言って、華琳様は劉備をまっすぐ見据えた。
「……そこまでは言ってない……です」
劉備も華琳様を見つめそう返す。
「そう、言ってない。でも、これじゃあ話が纏まりそうもないから、貴女達の軍に我が軍の兵達を貸した上で前方配置、ということでどうかしら?」
恐らく、これは華琳様の中では最大の譲歩だろう。
これを断られるようなら、本格的に破談になるな。
私はそう思いながら、ことの経緯を見守る。
「義景君、どうかな?」
劉備は隣の陶応に視線を移すと、そう尋ねた。
「まあ……それなら何とかなるだろうね」
陶応も渋々ながら賛同の意を示す。
「なら、決まりね。後の細かい所は、伝令を通して伝えるわ」
華琳様のその言葉で、ようやく軍義は終わりを迎えた。
side out
side 曹操
劉備達が帰ると、天幕の中は何とも言えない空気になっていた。
「華琳様、申し訳ありません」
そう言って、流は私に頭を下げた。
「なっ!兄様が謝ることではありません!あれは私が……」
「それでも……です。桂花には悪いですが、最初から桂花ではまだ陶応に言いくるめられる、ということは分かっていました」
「えっ……?」
流の言葉に、桂花は顔が青くなる。
「あぁ、勘違いしないように。何も桂花が使えないと言ってる訳ではありません。今回は、桂花にこういう経験をさせるために参加させたのです」
「経験……?」
桂花が不思議そうな表情を浮かべた。
「そうです。貴女は陶応が男だからと侮りませんでしたか?」
「……侮りました。あそこまで頭の切れる男なんて、兄様以外に会ったことがありません」
そう言って、桂花はしょんぼりと肩を落とした。
「世界は広い、ということです。貴女の偏見が、普段の力を濁らせたということも分かったでしょう?」
「はい……反省します……。でも、あんな奴、反則ですよぉ」
桂花はそう言って、私に困った表情を向ける。
「そうね……。正直、陶応があそこまで弁が立つとは思わなかったわ」
私はそう言って溜息をついた。
流が言った通り、桂花が通用しないことは最初から分かっていた。
だが、まさか流があそこまで苦戦するとは思わなかった。
「あの、外で警備してたら、天幕の中で争った音が聞こえたんですけど、あれは何だったんですか?戦闘でも始まったのかと思って驚きましたよ?」
不思議そうな表情を浮かべながら、進宗がそう尋ねる。
「それはね、春蘭のいつもの“あれ”よ」
私自身、非常に手を抜いた説明だと思うが、“春蘭のあれ”で通じてしまうのだから、何とも考え物である。
「ああ、“あれ”ですか。……ん?ってことは、春蘭さんに斬り掛かられた人はただでは済まないんじゃ……」
「まあ、今回のが、今まで春蘭が斬り掛かった者達と同じような者なら、多少なりとも怪我をしたでしょうね?」
そう言って、私は先程の場面を思い出す。
あの春蘭の一撃を弾いた男……北郷だったかしら?
この私が目で追えない程速い剣撃だった。
「えっ……?まさか、あの金属音って……」
「貴方の想像通り、あれは春蘭の一撃を弾いた音です」
流が溜息をつきながらそう言った。
「えぇっ!?春蘭さんの一撃を弾けたんですか!あの焦げ茶色の羽織を着てた男ですか!?武官っぽいのはアイツだけでしたからね」
「えぇ、その通り。彼の名は北郷、春蘭の一撃を弾けるだけの実力を持っているにも関わらず、今だ副官の地位にいる男です」
そう言って、流は何かを考える仕草を見せる。
「ってことは、劉備軍の将軍は、春蘭さんに匹敵する、或いはそれ以上の可能性があると?」
「まあ、そういうことになりますね。何にせよ、今は情報を集めるしかなさそうです」
「うわっ、そんなことになってたのか……。意外とやべぇじゃん」
進宗はそう言って、口元を歪めた。
「当たり前でしょ?一々説明しなきゃ分からないの?これだからアンタという男は面倒なのよ」
呆れた表情で進宗を見ながら、桂花はそう言った。
「おい……男に対する偏見は無くしたんじゃねぇのか?」
そう言って、進宗は眉をひくつかせる。
「ご心配なく。私はアンタが男だから嫌いなんじゃなくて、アンタ自体が嫌いだから、何も問題ないわ」
「……つくづく嫌味な奴だな、お前」
「あら、褒めてるの?」
桂花は勝ち誇った表情でそう言う。
「…………陶応にボコされたくせに」
「なっ、何ですってぇぇぇ!?」
進宗のその呟きに、桂花が怒鳴る。
またいつもの痴話喧嘩が始まったわね。
毎度毎度、よく飽きないものだわ。
そんな二人の姿に苦笑しながら、私は春蘭と秋蘭がこの場にいないことに気が付いた。
「流、春蘭と秋蘭が見当たらないけど……」
「ああ、あの二人なら、先程天幕を出ましたよ。春蘭が随分と動揺していたようでしたからね。秋蘭も心配して追って行きました」
「そう……」
流の言葉に、私は納得した。
確かに、春蘭はかなり動揺していた。
まあ、少し心配ではあるが、秋蘭が一緒なら大丈夫だろう。
そう思いながら、私は玉座にもたれ掛かる。
さて、これからどうなることやら……。
side out
side 夏侯淵
私は柄にもなく焦っていた。
姉者のあのような顔は、今まで見たことがない。
姉者は、良い意味でも悪い意味でも自信家だ。
だからこそ、先程あの北郷という男に飛び掛かっていったのだろう。
いくら頭に血が上ったからといっても、姉者は将軍であり、一流の武人だ。
そんな姉者の一撃を弾ける者など、我が軍ではいないし、他の軍でも今まで見たことがなかった。
私の記憶では、姉者の一撃を受けた者は、皆一様に斬り伏せられていた。
だが……北郷は姉者の剣を弾いた。
私はまさかと驚いたが、それ以上に驚いたのは姉者だろう。
あの唖然とした姉者の表情が、私の頭に焼き付いている。
「姉者!」
やっとのことで姉者に追い付いた私は、姉者に声をかけた。
姉者は前方に広がる小さな小川を眺めているのか、こちらを振り向かない。
「姉者……」
声をかける私の声が小さくなる。
ただ小川を眺める姉者の背中からは、何を考えているのか読めない。
もしや、自信を喪失してしまったのだろうか……?
「秋蘭……」
不意に姉者が声を上げた。
「なっ、何だ?」
「私は……ひょっとして華琳様に迷惑をかけたのか?」
「先程のことか?」
「ああ……」
姉者の呟きに元気がない。
やはり、気にしているようだ。
「まあ、不用意ではあったが、迷惑という程ではないだろう。ただ……気持ちはわからなくもないな」
そう言って私は姉者の背中を見つめる。
実際、私もあの時、北郷の言葉に内心で怒りを感じていた。
その点では、私も姉者と同じだろう。
「秋蘭……私は、華琳様が馬鹿にされたことを、許してはならないと思っている。そうだろう?」
「勿論だ」
私は姉者の問い掛けに即答した。
当然だ。
華琳様は我が主。
自分の主が馬鹿にされて、平気でいられる者などいるはずがない。
「だから私は北郷に斬り掛かった。だが……」
姉者は悔しそうに拳を握る。
こんな姉者は初めてで、正直、私も何と声をかけていいか分からない。
「馬鹿だな、私は」
「えっ?」
姉者の突然の言葉に、私は困惑する。
「反省しなければならない。私は武人として、心のどこかで慢心していた。先程のあれは、まさに慢心の表れだ。そして、改めて学んだよ」
そう言って、姉者は振り向く。
「世界は広いな!秋蘭!」
「っ!?」
そう言う姉者に、私は思わず息を呑む。
その表情は、いつものように勝ち誇った顏ではなく、まるで新しく玩具を与えて貰った子供のような、楽しそうな笑顔だった。
「どうした、秋蘭?何故固まってるんだ?」
不思議そうな表情で姉者が問い掛ける。
「いや……私はてっきり姉者が落ち込んでいるものとばかり思って心配していたんだが……」
「楽しそうで意外だったか?」
「ああ……」
「……確かに、我が剣を弾かれたことは悔しい。だが、あれだけが私の武ではない。それに、楽しみではないか。今まで私に向かってきた者は、口ほどにもない奴らばかりだった。だが、ようやく張り合いのある者が出てきたのだ。武人としては、血が騒ぐというものだろう?華琳様ではないが、困難なき天下統一など、何の意味がある?」
そう言って、姉者はニヤリと不敵に笑う。
「ふっ……そういうことか」
私は素直に納得した。
なるほど、実に姉者らしい。
姉者が言うように、困難なき天下統一など、何の価値もない。
それは、華琳様も常日頃から申されていることだ。
確かに、私も一人の武人として、自分の武が天下を相手にどこまで通用するのか、興味がある。
恐らく、今姉者もそんな気持ちなのだろう。
やれやれ……どうなるかと思ったが、ある意味、北郷のおかげで色々と再確認出来たから、とりあえずは良しとしよう。
「姉者、そろそろ戻ろう。華琳様に心配をかける訳にもいかないだろう?」
「おぉ!そうだな!」
私の言葉に、姉者はいつもの勝ち気な笑みで答える。
ずんずんと天幕へ向かうその後ろ姿に、私は微笑を浮かべながら後を追った。
side out
side 一刀
「曹操の将軍に喧嘩を売ったぁぁぁっ!?」
士陽がうるせぇ……。
俺はそう思いながら、溜息をつく。
「ハッハッハッ!やっぱお前は最高だわ!」
そう言って、士陽は爆笑している。
「馬鹿者!士陽!笑い事ではないぞ!一刀殿、どういうことですか!?下手したら、戦になってしまうのですよ!?」
士陽に一喝すると、愛紗はジロリと俺を睨む。
「まあまあ、愛紗、少し落ち着いてくれ。そのことについては僕が説明しよう。」
そう言って、隣にいた義景が助け船を出してくれた。
「説明?どういうことだ?喧嘩を売ったことに説明なんてあるのかよ?」
士陽が不思議そうな表情をする。
「あのなぁ、一刀が君のように感情的な理由で喧嘩を吹っ掛ける訳がないだろう?」
呆れた表情で義景はそう返す。
「ん?ならば、それなりの理由があったということですか?」
愛紗が怪訝な表情でそう言う。
「勿論だ。というより、おかげで助かった」
そう言った義景の言葉に、士陽と愛紗はますます訳が分からないという表情を浮かべる。
「いや、実はね、交渉がかなり難航して、同盟が破棄されそうになったんだ。兵糧の件があったから、正直僕も強く物を言えなくなってしまってね……。どうするべきか考えあぐねていたんだが、そんな時、一刀が上手い具合に曹操の覇道を指摘してね。それによって、何とか破談されることなく兵糧を手にすることが出来たんだ。……まあ、曹操の将軍、夏侯惇に一刀が斬り掛かられた時は、正直焦ったがね」
そう言って、義景は苦笑した。
「えぇっ!?将軍に斬り掛かられたんですか!?……よく無傷で帰って来れましたね……」
愛紗は驚いた表情を浮かべる。
「でもでも、一刀さんってば凄いんだよ!夏侯惇将軍の振り下ろした大剣を弾いたんだよ!私、ビックリしちゃった!」
そう言って、桃香様が身振り手振りを交えながら愛紗に説明しているが、そこまで大袈裟に言われると、正直恥ずかしい。
「一刀殿、士陽と同様に見てしまい、申し訳ない」
素直に謝る愛紗に、俺は気にしてないというふうに手で制した。
「おい愛紗……お前、それどういう意味だ?」
士陽が口元をひくつかせて呟く。
「お前の場合、ただ頭にきて喧嘩を売っただけだろう?どう見ても、一刀殿の方が賢い。それに、曹操の将軍と張り合える武も持っているしな」
ジト目で士陽を見ながら、愛紗はそう言ったが……やっぱ勘違いしてるなぁ……。
「あの……今の俺じゃ夏侯惇将軍には張り合えないと思うよ?」
苦笑しながらそう言う俺に、桃香様が不思議そうな表情を向ける。
「えっ?だって、実際に夏侯惇将軍の一撃を弾いたよね?」
「あ〜何て言えば良いか……。桃香様、実はですね、あれにはちょっとした小細工があるんです」
「む?どういうことです?」
俺の言葉に、愛紗が怪訝な表情で問い掛ける。
皆俺が何を言っているのか分からない様子だが、一人だけ納得した表情を浮かべた。
「ああ……そういうことか」
「やっぱ、士陽は分かるか?」
「まあな。初動を狙ったんだろ?」
そう言って、士陽はニヤリと笑う。
「まあ、そういうことだ」
俺は苦笑しながら答える。
「初動……?どういうことだ?」
不思議そうな表情で、義景が問い掛けた。
「えっとな、俺の師匠の教えで……」
上手く説明出来るか分からないが、とりあえず俺は初動を狙う意味を教える。
士陽以外は感心した様子で俺の話を聞いている。
まあ、士陽の場合は俺の話を前に聞いたってのもあるけど、ただ単にこのやり方がめんどくさいってだけだろう……。
それにしても、愛紗と鈴々は随分真面目に聞いているなぁ。
この二人においては、多分このやり方を知らなくても、充分天下に通用すると俺は思う。
これは俺の個人的な見解だが、この世界の女性は筋肉の構造が絶対におかしい。
あの細い体から、何であれだけのパワーが生み出されるんだ?
愛紗は身長こそ高めだが、腕とか足とか細いし、鈴々に至っては言わずもがなである。
さっきの夏侯惇もそう。
俺は奴の初動を完璧に捉えたはずだった。
にも関わらず、この手に感じた重さは、まるで振り下ろした剣を受け止めたかのように重かった。
今回は、向こうも頭に血が上っていたし、俺が所詮は副官だという油断もあったからこそ、あそこまで綺麗に弾けた。
だが、あのパワーを考えれば、戦場では今回のようにはいかないだろう……。
正直、訳が分からないが、そうも言ってられない。
まあ、“郷に入らずんば、郷に従え”って諺の通り、今は“訳の分からない”この世界が、俺にとっての現実で、諺で言う所の“郷”な訳で……。
やれやれ……もっと鍛練しないとなぁ……。
そんなことを考えながら、俺は皆に初動を狙う意味について説明し終えた。
「なるほど……。確かに、初動の段階なら、あまり力は篭っていない……。防御主体の戦い方をする者からすれば、実に効率的な手法ですね」
納得した表情を浮かべながら、愛紗がそう言った。
「ただ、これは俺みたいに刀剣型の武器を使う人向けなんだよ。刀剣型の武器は、一撃の威力こそ弱いけど、その分小回りが利くから、この手法をし易いんだ。逆に、愛紗達のような大型の武器は、一撃の威力は強いけど、小回りが利かないから、この手法はやり辛いと言えるね」
俺はじいちゃんから教わったことを思い出しながらそう言う。
「なるほど……。僕のような武に関しての知識が乏しい者でも、実に分かり易く、論理的な話だな。つまり、先程君はその技術を使ったということか」
「まあ、端的に言えばそういうことだね」
義景の言葉に俺は微笑を浮かべる。
この域に達するまで、実に六年もの歳月がかかった。
じいちゃんとの鍛練は、目茶苦茶きつかったけど、今となってはそれも大切な思い出の一つだ。
「まあ、俺としては、夏侯惇も確かに厄介だったけど、それ以上に荀攸の方が脅威だと思ったよ」
そう言って、俺は先程の交渉を思い出す。
義景に対して全く退けを取らないあの交渉術……正直、義景がいなかったら、俺達が手玉に取られていたかもしれない。
「確かにな……。正直、僕も一刀に同意だ。あの男は警戒する必要があるね。朱里と雛里はどう思った?」
義景はそう言って、朱里と雛里に向き直る。
「頭の回転の良さも去ることながら、言葉の使い方が上手いと感じました」
「私も朱里ちゃんと同意見です。言葉一つで、あそこまで正当性があるように感じるとは思いませんでした……」
二人はそう言うと、ションボリと肩を落とした。
「二人共、どうしてそんなに元気がないのだー?」
鈴々は不思議そうな表情で、二人に問い掛ける。
「……私達、また桃香様のお役に立てませんでした……」
「…………」
朱里の言葉に、雛里も黙って頷く。
「それは仕方ないさ。実際、君達二人はああいう他軍との交渉は初めてだったんだろう?」
義景の言葉に、二人はコクリと頷く。
「なら、良い経験になったじゃないか。初めから何でも出来る人間なんていないし、僕達もそんなことで役立たずだなんて思わないよ。なあ、桃香?」
義景はそう言って、桃香様に目を向ける。
「義景君の言う通りだよ。二人は私よりもたくさん勉強して、たくさん知識を持ってることを、私は知ってるよ?私もまだまだ勉強不足だから、一緒に頑張ろうね?」
「「……はいっ!」」
そう言って、桃香様は優しく二人の頭を撫でると、二人は花が咲いたような笑みを浮かべた。
まあ、実際俺も、先程二人はよく頑張っていたと思う。
そもそも、まだ幼さの残る二人が萎縮してしまうのは仕方ないことだろう。
それでも、前を見てしっかり話を聞くことが出来ていたのだから、初体験としては上々だ。
「さて、桃香。そろそろ兵達に曹操と同盟を組んだことを説明しなければならない。主君である君が、兵達に説明をした方が良いだろう。お願い出来るかい?」
「勿論だよ!じゃあ、愛紗ちゃん達には、兵の皆を集めて貰おうかな」
義景の言葉に頷いた桃香様は、俺達に向き直るとそう言った。
俺達武官はそれに了解すると、すぐさま天幕を出た。
side out
side ???
「張曼成将軍!馬元義将軍が洛陽から帰還しました!」
部下の言葉に、私は我に返った。
「そうか……。通してくれ」
「はっ」
私は部下にそう命じると、溜息をついた。
馬元義は、漢皇室を内側から壊すため、宦官を取り込むべく、洛陽に向かっていた。
だが、予定よりも馬元義が帰ってくるのが早いということは、取り込みに失敗した可能性がある。
「失礼する」
「ああ……っ!」
そう言って、入ってきた馬元義を見て、私は絶句した。
「お前……左腕が……」
そう呟く私の視線の先には、左腕を失った馬元義が立っている。
「飛将軍にやられたよ。まあ、気にするな。まだ私は戦える」
「そっ、そうか……。で、宦官達はどうだった?」
最早答えは分かっているが、一応確認のために聞いておく。
「駄目だな。新しく国を起こせば、それまでの地位がなくなるに等しい。それ故か、誰も話に乗らなかった。しかも、董卓の軍師、賈駆に我等の動きを察知され、飛将軍をけしかけられた。まあ、何とか逃げ切れたが、左腕がこのザマだよ」
そう言って、馬元義は苦笑する。
「で、こっちはどうなった?」
「……どうにもならん。何せ、補給地が落とされたからな」
「っ!ならば、程遠志と波才は……!?」
「……討たれたよ……」
「……そうか。とうとう奴らも逝ってしまったか……」
悲痛な面持ちで、馬元義が下を向いた。
「……お前も分かっていると思うが、現在この済南の地に、続々と各地の諸侯達が、賊討伐の名目の下、集まって来ている。恐らく、あと三日も経てば、我々は八方塞がりになるだろうな」
そう言って、私は椅子に深くもたれ掛かった。
「ふっ……皮肉なものだ。元々我等は、中央の腐敗具合が許せなくて、黄巾党を結成したが、今では賊に成り下がってしまった……」
そう言って、自嘲気味に馬元義が笑う。
「ハッ……これはある意味天罰だ。芸者である張三姉妹を利用し、手っ取り早く兵を集めようとしたこと自体、間違っていた。我等は急ぎ過ぎたのだよ。恐らく、そこから我等の崩壊は始まっていたのだろう……」
「なるほど……。最早これまで……か。だが、張三姉妹だけは、何としてでも逃がしてやらねばなるまい?」
私を見据え、馬元義はそう尋ねる。
「勿論だ。これ以上彼女達を巻き込む訳にはいかない。当然、対策は考えてある」
「ほう……どうするのだ?」
「実はな……」
私は馬元義に策を説明する。
すると、馬元義の顔色がみるみる内に変わった。
「そんなことが可能なのか?下手をすれば、彼女達が……」
青い顔をしながら馬元義が呟く。
「大丈夫だ。彼女は、天下を狙っていると最近噂されている曹操を敵対視している。ならば、曹操よりも名を広めるため、必ず私の話に乗って来るはずだ。それに、既に使者は送っている。後は、どのような返事が返って来るか……」
正直、愚策と呼んでも過言ではないことは、自分でも分かっている。
ただし、私は自棄を起こしてこの策を考えた訳ではない。
当然のことだが、理由がある。
彼女……袁紹の性格ならば、利益が自分だけのものになる可能性を見逃すことは、まずないと見て良いだろう。
私がまだ中央にいた時……曹操は、実に上手く立ち回っていた。
皇室に対しては、忠誠心があるように装っていたが、実際は能力のある者を片っ端から自軍に引き入れていた。
恐らく、当時の時点で彼女は悟っていたのだろう。
“漢”という“巨竜”が、最早死にかけているということを……。
そして、袁紹はそんな曹操に対し、何故かは知らぬが対抗心を燃やしていた、という話は有名だ。
ならば、私はその心理を利用する。
今の現状で、張三姉妹を逃がすためには、この方法以外考えられない。
「良い返事が返ってくるとはとても思えん……。相手は名門中の名門だぞ?」
そう言って、馬元義は怪訝な表情を浮かべる。
「だからこそ……だ。お前も知っているだろう?袁紹と曹操との確執を。最近、曹操はどんどん勢力を増してきている。名門の出身であり、自尊心の高い袁紹からすれば、その事実は面白くないはずだ。ならば、私はそこを突く」
「…………」
何かを考えるかのように、馬元義は沈黙する。
恐らく、名門である袁家の人間が、皇帝に対して背信的な行為をするはずがないと思っているのだろう。
しかし、世間からそう思われている袁家だからこそ、張三姉妹を隠す最高の場所と言える。
「大丈夫だ。交渉には審配を向かわせた。奴ならば、上手い具合に交渉を進めてくれるだろう……」
そう言って、私は虚空を仰ぐ。
私が育て上げた最高の部下、審配。
彼はまだ私が中央にいた時代に拾った男だ。
元々よく気が利き、視野も広く、政治学や軍略を教えたら、さらに進化を遂げた。
そんな彼ならば、袁紹との交渉も上手く乗り切ってくれるはずだ。
「はぁ……。今は審配がどのような働きをするか、見届けるしかないようだな……」
溜息をつきながら、馬元義はそう呟く。
「良いのか?反対なんだろう?」
「良いも悪いもあるまい。もうお前は審配を派遣してしまったのだろう?ならば、今は結果を待つより他はない」
そう言って、馬元義は横目で私を見る。
「……すまん……」
「良い。それより、まもなくこちらに諸侯が集まるのだろう?籠城の準備は出来ているのか?」
「それに関しては問題ない。柵を三重に張り巡らせ、堀も同じように仕込んだ。兵達の配置も終わっているし、いつ攻められても、対抗出来るだろう」
私はそう言って、脇に置いた直刀を腰に下げる。
「さて……張三姉妹にもこの策を説明せねばなるまい。お前も来るか?」
「……そうしよう」
私の言葉に馬元義が賛同すると、私と共に張三姉妹のいる天幕へ足を運ぶ。
天幕へと向かう最中、私は審配が策を成功させてくれることを祈らざるを得なかった。
side out
side ???
「この私を前にして、そのような戯言を申すなんて、大した度胸をお持ちですのね、貴方」
そう言って、袁紹は汚らわしい者を見るかの如く俺を見つめる。
今、俺は武器を全て没収された状態で、袁紹の本陣にいる。
俺達の本陣から、北西に三里ほど離れた場所に位置するこの場所で、袁紹は三万の兵を引き連れ天幕を張っていた。
目的は言わずもがな、俺達黄巾党の討伐である。
「……名門の出身である袁紹様に対して、無礼を働いていることは充分承知しております。しかしながら、先程も説明させて頂いた通り、全ての責任は、張曼成将軍を含めた我ら武官にあります。張三姉妹に全く非はありません。故に、我らとしては、張三姉妹だけは何としてでも逃がしてやりたいのです。どうか、偉大なる袁紹様の憐れみを、張三姉妹に向けて頂きたい」
そう言って、俺は袁紹の前で土下座する。
頭が残念なことで有名な袁紹に土下座することは屈辱的だが、張三姉妹の命には代えられない。
彼女達を逃がすためなら、屈辱だの何だのと言っている暇はないのだ。
「まったく……貴方、審配さん……でしたか?そのようなことをして、この私が頷くとでも思っているのかしら?ねぇ、斗詩さん?」
袁紹はそう言うと、脇に控えた顔良に視線を向ける。
「はい。こればかりは、いくら姫が“アレ”だとしても、普通は頷きません」
顔良はそう言って、苦笑した。
「……斗詩さん?“アレ”とはどういう意味ですの?」
「はっ!あっ、あのですね!?これは、姫が偉大だという意味ですよ!?」
袁紹の言葉に、顔良は慌てて言い繕う。
まあ、さっきからのやりとりで、改めて袁紹が馬鹿だということは俺も良く分かった。
名門出身であること以外はからっきしのようで、噂通り典型的な世間知らずのお嬢様のようだ。
「そうでしたの……。流石我が軍の将軍、良く分かっているようですわね!おーっほっほっほっ!」
嬉しそうに高笑いする様など、まさに馬鹿そのものである。
顔良の隣で、もう一人の袁家の将、文醜も呆れた表情を浮かべている。
上に立つ者がここまで馬鹿だと、流石に俺も二人の将軍に同情する。
だが、俺の立場としては、馬鹿の方がやり易い。
案外、交渉もすんなり終わるかもな……。
「袁紹様、黙っておりましたが、実は、張三姉妹を匿って頂ければ、とんでもない利益が袁家にもたらされるのですが……」
顔を上げて、俺は袁紹を見つめながらそう言った。
「とんでもない利益……?どういうことですの?」
俺の言葉に、袁紹が不思議そうな表情を浮かべる。
「はい……。ところで、袁紹様は、曹操という者をご存じですか?」
「勿論ですわ!あのチンチクリン、顏を思い出すだけでも腹立たしい!」
そう言って、袁紹は不快そうに顏を歪める。
やはり、曹操との不仲説は本当のようだ。
「その曹操なのですが、恐らく、己の名を広めるため、張角の首を狙っているでしょう」
「冗談じゃありませんわ!あのチンチクリンに、良い格好などさせてたまるものですか!」
顔を真っ赤にさせ、袁紹が吠える。
良いぞ、もっと怒れ。
「それを踏まえて、実は、袁紹様が張三姉妹を匿うと、曹操としては困った状況になるのです」
「困った状況?何ですの?」
予想通り、曹操という餌が話題に出た瞬間、袁紹は簡単に食い付いた。
「つまりですね、もし袁紹様に張三姉妹を匿って頂ければ、例え曹操が済南にいる我が本陣を攻略したとしても、張角の首を上げて名を広めることが出来ないのです。まあ、当然ですね?張三姉妹の長女、張角は済南にはいないのですから……」
「なるほど……。それは面白い嫌がらせですわね」
俺の言葉に、袁紹はニヤリと笑って呟く。
「さらに、張三姉妹には名を捨てさせ、代わりにまったく別人の張角、張宝、張梁の首を皇帝に献上すれば、袁紹様は多大なる栄光を掴むこと間違いなし!しかも、それによって、曹操は大そう悔しがるでしょうね……」
俺はそう締めくくると、袁紹の表情を窺う。
袁紹は実に愉快そうな表情を浮かべている。
落ちたな……。
心の中で、俺はニヤリと笑った。
「待ってください!もし、張角達の首を偽ったことがバレたらどうするんですか!?姫、惑わされないでください!」
「っ!たっ、確かにそうですわね……。そんなことになれば、我が袁家はお終いですわ」
顔良の言葉に、袁紹は顔を青くしながらそう呟いた。
まあ、見た感じ、顔良はこの中で唯一頭が回りそうだから、反対するのは当然か……。
「大丈夫ですよ。そもそも、実際に張角、張宝、張梁の顔を知っている人は、黄巾党幹部以外存在しないんです。それに、顔良殿は“太平要術の書”という物を御存じですか?」
「確か、風雨を呼ぶ妖術を与えると言われる書物ですよね。でもそれは、張角が持っているんじゃ……っ!まさか、貴方は!?」
やはり、顔良は頭が回るようだ。
「ええ、顔良殿のご想像通りです」
俺がそう言うと、顔良は絶句した表情を浮かべた。
まあ、それはそうだろう。
これで、袁紹に対して反対する材料がなくなったも同然だ。
「袁紹様、今回我らは、“太平要術の書”も貴女に献上するつもりです。“太平要術の書”は張角しか持ち得ない物。もしそれを、偽りの首と一緒に皇帝に献上したら、一体どうなるでしょうか?」
俺の質問に、袁紹はニヤリと笑った。
「なるほど……それなら、バレることはないでしょうね」
納得した表情を浮かべながら、袁紹は一人頷く。
「まあ、私から言わせれば、張角自身は大して危険ではないのです。むしろ、“太平要術の書”の方がよっぽど危険だ。それを踏まえて、広い意味で考えれば、“太平要術の書”自体は本物な訳ですから、皇帝に対して裏切ったとは言えないでしょうね……」
俺がそう言うと、袁紹は大きく頷き賛同した。
「良いでしょう。張三姉妹を受け入れます」
「姫っ!?」
「ありがたき幸せ」
袁紹の言葉に顔良は顔を青くするが、最早結論は出た。
「これであのチンチクリンが悔しがる姿が見れると思うと、スカッとしますわ!おーっほっほっほっ!」
高笑いする袁紹は、とてもご機嫌麗しいのようだ。
噂通りの馬鹿で、正直助かった。
「ど、どうしよう、文ちゃん……」
「諦めろ、斗詩。ああなった姫はもう止まんないぜ?」
「うぅ……」
文醜の言葉に、顔良は落胆しているようだ。
まあ、この状況を作った俺が言うのも何だけど、流石にこれには同情する。
俺だったら、こんな主君はとてもじゃないがご免だ。
「審配さん、貴方は良い働きをしましたわ。お礼に、私の昔話など聞かせてあげてもよろしくてよ?」
ご機嫌の様子でそう言う袁紹の提案は、すこぶる興味がないが、ここは機嫌取りのために聞いておいた方が良いだろう。
「私のような下人に、そのような崇高なお話をしていただけるのですか?ならば、是非ともお聞きしたいです」
「よろしい。猪々子さん、斗詩さん、貴女達も一緒に聞きますか?」
「あっ、あたし達はまだ仕事が残ってるから遠慮するぜ!なあ、斗詩!?」
「うっ、うん……。すみません、姫」
ニッコリと笑う袁紹の言葉に、二人は冷や汗をかきながら断ると、天幕から出て行った。
「さて、何から話しましょうか……」
二人が出て行った後、袁紹はそう呟いて、何を話すか思案し出した。
やれやれ……いくら機嫌取りとは言え、人の自慢話ほど退屈なものはない。
疲れそうだ……。
そう思いながら、俺は心の中で溜息をついた。
だが、次の瞬間、俺は一気に血の気が下がった。
「では、審配さん、改めて本格的な交渉と参りましょう?」
そう言って、微笑を浮かべる袁紹は、先程までの世間知らずのお嬢様ではなく、一人の君主として、並々ならぬ覇気を放っていた。
「っ!?」
そんな袁紹の姿に、俺は思わず息を呑む。
「何を驚いているのです?」
ニヤリと笑いながら、余裕の表情を崩さないその姿に、俺は戸惑った。
何だ……これは?
どういうことだ……?
目の前にいるこの女は、本当に袁紹か?
「本格的な交渉とは……どういう意味ですか?」
ジワリと冷や汗が出る。
まるで、袁紹に呑み込まれた錯覚さえ感じる。
「そのままの意味ですわ。張三姉妹を受け入れるとは言ったものの、どう扱うかについては言及していないでしょう?」
「そっ、それはそうですが……。扱うと言っても一体どうするつもりです?」
豹変した袁紹に緊張しながら、俺はそう尋ねる。
「それを決めるためには、今から貴方にいくつか質問をしなければなりませんわ。ああ、それと、この私に対してこれ以上機嫌取りをする必要はなくってよ?」
そう言って、袁紹は俺を見つめた。
機嫌取りをしていたこともバレている……。
訳がわからん。
先程までの袁紹と、今の袁紹とでは、まるで別人だ。
「貴方、先程張三姉妹の顔は黄巾賊の幹部しか知らないと言いましたわね?何故ですの?」
「ああ……それは、貴女達諸侯の間で広まっていた噂を利用したのです。貴女達の間では、黄巾党の頭領である張角は、“太平要術の書”を使い妖術を身に付け、それにより兵を率いている、ということになっていましたね?」
「ええ、私もそのように聞いておりましたわ」
「ですが、実際の張角は、そのような妖術など使えません。それどころか、張角を含めた張三姉妹は、元々ただの旅芸者でした。そこで我らは、架空の張角、張宝、張梁を創り上げ、張三姉妹には“数え役満姉妹”という芸者として民衆の心を引き寄せ、兵達を鼓舞する役割を果たしてもらいました。ですから、黄巾党員の中でも、張角、張宝、張梁と張三姉妹が同一人物であることは幹部しか知らないのです」
そう、これが真実。
そもそも、本当に妖術が使えたなら、我らはここまで苦戦を強いられることはなかっただろう。
世間で噂される、張角が風雨を操った話も、あれはたまたま天が我らに味方をしただけで、我らが意図的に起こしたものでは断じてない。
それがいつのまにか、張角の妖術によるものだという嘘に変わっていたのだから、やはり噂話などアテにならない。
「そういうことでしたの……。つまり、張三姉妹は宗教で言うところの、布教者に近いという認識でよろしいのですね?」
「そうですね。それでよろしいかと思います」
袁紹の例えに、俺は心から同意した。
確かに、あれはある意味で宗教と言えるだろう。
真実を知らない党員達は、心から張角を崇拝し、またそれに付随する“数え役満姉妹”をも崇拝していた。
党員達は最早、宗教特有の洗脳に近い状態だった。
その状態を考えれば、袁紹の例えは言い得て妙というものだろう。
「……なるほど。ならば、私の所でも使えますわね」
ニヤリと笑ってそう言う袁紹に、俺はギョッとした。
「まさか、袁紹様は張三姉妹を兵集めに使うつもりですか!?」
「ええ、そのつもりですわよ?」
さも当たり前のようにそう言う袁紹に、俺は憤った。
冗談じゃない!
俺達がそんな風にに扱った所為で、彼女達がどれ程傷ついたか!
やっとそんな役目から彼女達を解放してやれると思ったのに、今度は袁紹に使われるなんて、到底許容出来る話ではない。
「不満でも?」
微笑を浮かべ、袁紹は威圧する視線を俺に向けた。
だが、ここは引く訳にはいかない。
「張三姉妹をそのように扱った我らが言えることではないことは理解しています。しかし、だからこそ敢えて言わせて頂きたい。我らは、張三姉妹を自由にしてやりたいのです。故に、お願いでございます。張三姉妹を無碍に扱うことだけは、どうかご勘弁を!」
俺はそう言って、頭を下げた。
今回ばかりは、俺の心からの願いだった。
張三姉妹に対する申し訳なさ、自分達に対する不甲斐なさ、様々な気持ちがごちゃまぜになり、俺は拳を握り締めた。
「貴方、何か勘違いをしているようですわね?」
そう言って、袁紹は苦笑した。
「……は?」
思わず俺は間抜けな声を出した。
勘違い?
どういうことだ?
「私は貴方達黄巾賊のような、下手糞な使い方は致しませんわ。ましてや、一番上に立つ者が誰なのか、うやむやにするなど言語道断。そんなことだから、貴方達は賊に堕ちたのです」
呆れた表情で袁紹はそう言った。
その言葉は悔しいが、ほぼ正論なので、俺は何も言えない。
「では……どのように使うおつもりで?」
思わず俺はそう聞いていた。
「私の領土内限定で、自由に彼女達に芸をさせる。目的はただ一つ。我が領土内に人を集めるということ」
「……それだけ?」
「貴方が何を予想していたかは知りませんが、それだけで充分ですわ」
兵達を上手い具合に洗脳したり、張三姉妹の人気を利用して、民衆に自分の政策を押し付けたり、もっとえげつないことを予想していた俺は、予想外の答えに脱力した。
「当然でしょう?それ以上のことは、袁家当主であるこの私がやることですわ。むしろ、そこまで張三姉妹に介入されたら、邪魔で仕方ありませんもの。それに、これでも私は、貴方達黄巾賊に利用された張三姉妹を憐れんでいますのよ?そのような辛い目にあった張三姉妹の気持ちが分からない程、私は腐っておりませんわ」
そう言って、袁紹は優しく微笑んだ。
「…………」
そんな袁紹の姿に、俺は言葉も出ないくらい感動していた。
これが、名門を束ねる当主の器か……。
だが、それと同時に、俺の中である疑問が浮かぶ。
「あの……一つだけ質問してもよろしいですか?」
「良いですわよ。まあ、何を聞かれるか、だいたいの予想はついていますけど」
面白そうにニヤつく袁紹に、冷や汗をかきながら、俺は尋ねた。
「先程までの貴女と、今目の前にいる貴女、どちらが本当の貴女なのです?正直、あまりに人格が違いすぎて、私は戸惑っています……」
そう、これこそが、今俺が抱える最大の疑問。
先程の袁紹と、今の袁紹では、あまりに違いがあり過ぎる。
「やはりその質問ですのね……。勿論、今貴方の目の前にいる私が、本当の私ですわ。先程までは、演技ですもの」
そう言って、袁紹は苦笑した。
演技だと?
「何故演技など?わざわざ馬鹿にされる必要なんてないでしょう?」
「まあ、世間の感覚ではそうでしょうね。ですが、これも袁家のためなのです」
ますます訳が分からない。
馬鹿のフリをして、袁家に利益が来るとは到底思えない。
「そうですね……どこから話せば良いでしょうか……。我が袁家は、四代に渡って三公を輩出した、名門中の名門であることは、貴方も知っていますね?私自身、この袁家に名を連ねることが出来たということは、とても誇りに思いますし、袁家を心から愛しています。ですが、それ故に、私は知ってしまったのです。名門と言われる我が袁家の現状を……」
溜息をつきながら、袁紹はそう言った。
「現状?袁家はこの大陸で、今だに名門として君臨しているではありませんか。何が問題なのです?」
「……まあ、こればかりは外部の人間に分かるはずがありませんね……。要するに、内部の崩壊が酷い有様になっているのです」
そう言って、袁紹は苦笑した。
内部の崩壊……?
…………ああ、そういうことか。
「袁家の臣下は、そんなに酷いのですか?」
「酷いなんてもんじゃありませんわ。袁家という巨大な盾があることを良いことに、好き放題ですもの。しかも、質が悪いことに、自分達の不正を巧妙に隠し、私にバレないようにしていますし……。最早名門なんて名ばかりですわ。だから……」
一呼吸置いて、袁紹は壁に垂れ下がる“袁”の文字が施された軍旗を見つめる。
「私は、先祖代々が眠る墓前で誓ったのです。どんな手段を用いても、かつての誇り高き袁家を、卑しき者の手から必ず取り戻すと」
「っ!」
俺は思わず、袁紹の姿に見とれていた。
鋭い眼差しで軍旗を見つめる袁紹の姿は、息を呑む程気高く、それ相応の覚悟が垣間見える。
「そのためなら、馬鹿にでも何でもなるつもりですわ。実際、袁家を汚す害虫共は、私が馬鹿だと思い簡単に尻尾を出していますし……」
そう言って、袁紹は俺に向き直ると、柔らかく微笑む。
俺は……袁紹の演技に見事に引っかかっていた。
本当の袁紹は、こんなにも気高く、強い心の持ち主だった。
「……どうして、そんな大事な話を私に?私は、黄天に堕ちた者ですよ?」
「どうしてかしら……。私にもよく分かりませんわ。ただ……誰かに話したかっただけなのかもしれませんわね」
そう言って、袁紹は自嘲ぎみに笑った。
ドキリとした。
自嘲ぎみに笑う袁紹の姿が、あまりに寂しそうに見えたから……。
それと同時に、俺は一つ気付いたことがある。
恐らく、袁紹は自分の本性を誰にも見せていないのではないだろうか。
普段は世間知らずのお嬢様のフリをして、その仮面の下で、裏切り者を見定める。
なるほど、確かにこの方法なら、裏切り者を見定め易い。
敵を欺くならまず味方から、とはよく言ったもので、袁紹は今、これを体言していると言っていいだろう。
だが……
「袁紹様は……たった一人で袁家を立て直すおつもりですか?」
一人で出来ることなど、高が知れている。
ましてや、袁家という巨大な組織の立て直しを、たった一人で行うなんて不可能だ。
「……現段階では、誰も信頼することが出来ない、というのが私の本音ですわ。例えそれが、我が両腕である顔良、文醜であっても……です。ああ、これは他言無用ですよ?」
苦笑しながらそう言う袁紹は、とても悲しげだった。
恐らく、彼女は孤独なのだろう。
自分の家を愛するが故に、自分の臣下を信頼出来ず、道化を演じる。
なんて憐れ……。
だが、黄天に堕ちた俺が、彼女にかけてあげられる言葉などない。
立場が違い過ぎる。
ここで俺が何を言っても、その言葉に重みなどあるはずがない。
だから俺は、やるべきことだけやろう。
そう思いながら、俺は今後のことについて、袁紹と話し合うのだった。
side out
side 陶応
僕達が曹操と同盟を結んでから、早いことでもう三週間が過ぎた。
この三週間、特にこれといって問題は起こらず、実に円滑にこの済南の地まで来れた。
だが、相変わらず曹操は油断ならない。
ここまで来る途中、何度か合同軍議を開いたが、隙あらば僕達を呑み込もうとしていた。
尤も、僕達はそれを承知で同盟を結んだこともあり、隙を見せることはなかったが……。
まあ何はともあれ、この済南の地へ無事来れたということは、喜ぶべきことだろう。
「ねぇ義景君、あの城塞って丈夫なのかな?」
そう言って、隣に立つ桃香が僕に尋ねた。
今、時刻は早朝。
僕達の目の前には、小高い丘の上にそびえる黄巾賊の巨大な城塞が、顔を出した朝日に照らされていた。
「まあ、木造だから、石垣の城塞よりかは脆いだろうけど、それでも攻略は難しいだろうね」
僕はそう言って、隣に立つ桃香に視線を向けた。
「でも……私は皆で協力すれば何とかなると思うなぁ」
そう言って、桃香は僕に笑顔を向ける。
僕はその笑顔に苦笑した。
「まあ、ここにいる諸侯達が全員協力出来れば、すぐに攻略出来るだろうね」
だが、恐らくそれは無理だ。
今この地には、各地から集まった諸侯達が陣を張っている。
一応、名目上は大将軍何進の指揮の下、この地に集まったが、何進は名ばかり将軍で有名であり、そんな何進に従う者は皆無である。
では何故この地に集まったのかと問われれば、恐らく皆、黄巾賊に鉄槌を下すためと答えるのだが……。
漢というこの国の命が“風前の灯”であるという事実は多くの者が知るところであり、実際は、来るべき群雄割拠の時代に備え、各諸侯の勢力の下調べというのが本音だろう。
「でも、皆と協力するなんて、無理なんだろうね……。こんなこと考える私って、やっぱり甘いのかなぁ……」
そう呟いて、桃香はションボリと肩を落とした。
「まあ、甘いと言えばそれまでだけど、その考え方は桃香の美徳なんだ。無理に変える必要なんてないさ」
「……うん」
僕はそう言って、桃香の頭を撫でると、桃香は嬉しそうに目を細めた。
「あのね、義景君。全員じゃなくても良いから、協力出来そうな人っているかな?将来的にも、協力出来そうな人とは繋がっていた方が良いと思うの」
僕にそう言う桃香の顔は、すでに君主劉備に変わっていた。
「そうだな……」
故に、僕も真剣に考える。
今、ここには様々な地方から諸侯が集まっているが、実際に協力して貰えそうな諸侯は限られてくる。
まず浮かんだのは、僕の祖父である、陶謙だ。
これは間違いない。
御祖父様なら、僕が頼めば無償で協力してくれるはずだ。
だが、それ以外は、はっきり言って見込みがない。
まあ、協力出来ないという訳ではないが、恐らく、交渉が必要だろう。
そうなってくると、僕一人の一存では決められない。
「まあ、そう慌てる必要はないさ。一応、曹操とは今だけでも同盟を結んでいるんだ。これだけでも僕はかなり大きいと思うよ」
「そうだね……。はあ……何だか緊張してきたよぉ……。何度体験しても、やっぱり戦は慣れないね?」
そう言って、桃香はぎこちなく苦笑する。
僕は桃香から視線を外すと、黄巾賊の城塞に目を向けた。
あと数刻後には、あそこは戦場に変わる。
この戦で、長く続いた黄巾の乱にも、ついに終止符が打たれる。
そんな時代の変わり目で、僕達はどう動くべきか……。
まあ、僕自身、いつもより緊張しているのだから、桃香が緊張するのも、仕方がないと言えるだろう。
そんなことを考えながら、僕はそっと桃香の手を握った。
「っ……義景君?」
「君が戦に慣れる必要なんてないさ。そんな戦嫌いの君だから、僕達は着いていこうと決めたんだ」
僕はそう言って、桃香に微笑みかけると、桃香の頬がほんのり赤く染まる。
「うーん……私って、義景君の前だと、ついつい甘えちゃうなぁ……。皆の前では、弱音とか吐かないように気を付けてるんだけど、義景の前だとつい本音が出ちゃう……。駄目駄目だなぁ……」
そう言って、桃香は小さく溜息をついた。
「皆の前では、君主らしく在ろうと頑張ってるんだろう?なら、君は駄目じゃない。それに、僕の前では、本音を漏らしたって構わないさ。前にも言っただろう?辛い時、悲しい時はいつでも僕に言えば良い。僕はそんなことで、君が駄目だとは思わないからね」
僕はそう言って、握る手に力を込める。
「……ありがとう、義景君」
そう呟いて、桃香はチョコンと僕の肩に頭を乗せた。
桃香の髪から香る、甘い香りが僕の鼻孔をくすぐる。
今や桃香は、一万を超える兵達を率いる一人の君主だ。
こんなに細い体なのに、一万の命という重圧がのしかかっている。
しかし、それでも前を向いて、突き進もうとする桃香は立派だと思う。
だからこそ、せめて僕だけは、桃香の心を支える者でいよう。
燦々(さんさん)と降り注ぐ朝日の中で、僕は改めてそう心に誓うのだった。
文字爆発!
二万七千字とか、マジ勘弁です。
相変わらず、私は文を纏めるのが下手ですね(´ω`;)
さて、今回は黄巾の乱が終結する前段階のお話でしたが、どうでしたか?
グダグダになってなければ良いんだが……。
次回はいよいよ黄巾の乱終結編です。
頑張りますので、また次回も見て頂ければ幸いです!
では!