【木枯らしの記憶】─追分という名の旅─
【こちらの作品は、武頼庵(藤谷K介)様主催『木枯らしの風景企画』参加作品です。】
【ブーツ(靴でも可)】【信号機】【色鉛筆】【自動車(種類は何でも)】【電話(スマホ・ケータイも可)】【鉢植え(鉢だけでも可)】【結婚式場】【15時】【ビール(他のお酒でも可)】【杖】
【鎌】【シャツ(種類は何でも可)】の全ワード使用です。m(_ _)m
──人には、ときどき不思議な出会いがあります。
ほんの一度すれ違っただけなのに、なぜか心に残っている人。
その後、何年も経ってから思いがけず再会する人。
そして、もしあのとき少しだけ違う行動をしていたら――と、ふと考えてしまうような人。
これは、そんな二人の物語です。
静かな話ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
【木枯らしの記憶】─追分という名の旅─
──二人が初めて出会ったのは、冷たい雨の降る春の夕暮れだった。
品川駅への長い階段。
雨で湿った石段に、新しい革靴の底を滑らせそうになりながら一段ずつ上がっていた彼――遠野直樹は、前を歩く女性が腕に抱えていた厚手の文庫本を落とした瞬間を目撃した。
ページが濡れた石畳の上で大きく開く。
直樹はとっさに身を乗り出し、水たまりに落ちる直前でそれを拾い上げた。
手渡す瞬間、色褪せた背表紙に『追分』という二文字がふと目に入った。
分かれ道、という意味の言葉だということだけは、なぜか記憶に残った。
「あ……ありがとうございます」
彼女――小川美穂は、濡れて額に貼りついた黒髪を小さく揺らし、か細い声で礼を言った。
大きな瞳が、驚きと恐縮で揺れていた。
「大丈夫ですか。この階段、雨の日はよく滑るんですよね。僕もさっき危なかったです」
聞けば、彼女の新しいブーツの踵も雨に滑り、階段の途中で何度かバランスを崩していたらしい。
「ええ……本当に。おかげさまで、本だけは無事でした」
美穂は文庫本を胸に抱え直し、少しだけ表情を緩めた。
直樹は軽く会釈をし、それだけを交わすと人波へと消えた。
名前も聞かなかった。
改札を出てすぐの横断歩道では、信号機の赤い光が雨粒に滲んで長く尾を引いていた。
だから、これで終わりだと思っていた。
──二度目は、三年後の秋。
表参道の路地裏にある、珈琲の香ばしい匂いが漂う小さな喫茶店だった。
直樹が深煎りのブレンドを口に含んだとき、隣のテーブルに浅葱色のニットを着た女性が腰を下ろした。
ふと視線が重なる。
「あ……」
美穂が、目を見開いた。
「あのときの……雨の日の」
直樹の胸が跳ねた。
「覚えているんですか?」
「もちろんです。――あの本、ずっと大切に読んでいますから」
そう言って美穂がテーブルに置いたのは、あの日の文庫本だった。
『追分』。
三年経っても、まだ読み終えていないという。
「実は、あの日から栞の場所がほとんど動いていないんです」
美穂は苦笑した。
「心に残るところで止まっていて、なかなか先に進めなくて……何回も読み直してしまうんです」
二人は自然と笑い合った。
窓の外を、雨上がりの濡れたアスファルトを自動車のヘッドライトが次々と横切っていく。
テーブルを挟んで交わした会話は、驚くほど滑らかだった。
直樹が建築設計事務所で働いていること。
最近は地方の公民館や集会所の改修案件を任されることが増えたこと。
美穂が小さなデザイン会社でWEBデザイナーをしていること。
「デザインの仕事って、パソコンばかりかと思っていました」
「意外とそうでもないんです」
美穂は鞄から使い込まれたケースを取り出し、中の色鉛筆を見せた。
「ラフを描くときは、結局こっちの方が早いこともあって。手癖みたいなものです」
十二色の色鉛筆は、赤と青がとりわけ短く減っていた。
直樹はそれを見て、彼女の仕事への丁寧さを勝手に想像した。
お互いに映画が好きで、古い名作を何度も観返す癖があることも分かった。
「今度、もしよかったら……食事でもどうですか?」
店を出る間際、直樹は少し硬い声で誘った。
「ぜひ。お話、すごく楽しかったです」
美穂は柔らかく微笑み、「連絡先、交換しましょうか」と自分から切り出した。
直樹がスマートフォンを差し出すと、美穂は少し照れたように番号を打ち込み、確認するように画面をこちらへ向けた。
「これで、今度は逃げませんから」と冗談めかして笑った。
──けれど、その約束が果たされることはなかった。
数日後、電話に届いたのは彼女からの短いメッセージだった。
会社が倒産し、急遽故郷へ戻って再就職することが決まったという。
直樹は返信を打った。
「無理をしないで。いつかまた」。
それきり──連絡は途絶えた。
その年の暮れ、彼の事務所は、老朽化した公民館の建て替え計画を請け負った。
そのことを知るのは、何年も先のことになる。
──三度目は、さらに五年が過ぎた真夏の横浜駅ホーム。
「小川さん!」
眩しい西日が差し込むホームで、眩しそうに目を細めていた美穂に、直樹から声をかけた。
「……遠野さん?」
彼女の腕には、小さな鉢植えのひまわりが抱えられていた。
スーツ姿の直樹と、ノースリーブのワンピースを着た美穂。
二人は同時に吹き出した。
「また会いましたね」
「本当に。奇跡みたい。――お仕事帰りですか?」
「ええ。今日は取引先との打ち合わせで」
直樹は胸ポケットに触れながら言った。
「……実は来月、結婚式場の最終確認もあって、その帰りなんです」
美穂の視線が、一瞬だけ揺れた。
「そうなんですね。……おめでとうございます」
「小川さんは、その鉢植えを買いに?」
「新しい部屋に、何か生き物を置きたくて。……枯れさせない自信はないんですけど」
美穂は困ったように笑い、買ったばかりの鉢を抱え直した。
「……来月、西村になるんです」
左手薬指には、まだ真新しいプラチナの指輪が光っていた。
「お互い、大事な人ができたんですね」
美穂が少しだけ切ない目をして微笑んだ。
「そうですね。……幸せになってください」
直樹もまた目を細めて微笑んだ。
「遠野さんも。……絶対に幸せになって」
滑り込んできた電車のドアが開き、二人を隔てた。
閉まるドアの向こうで、美穂が小さく手を振る。
直樹は電車がホームを完全に離れるまで、鉢植えのひまわりの黄色が視界から消えるまで、その姿を目で追い続けた。
──四度目は、冷たい風が吹き荒れる冬の日だった。
美穂の母の葬儀場。
喪服に身を包み、泣き疲れて真っ白な顔をした美穂は、焼香の列の中に直樹の姿を見つけて息を呑んだ。
直樹の勤務先の役員が、美穂の親族だったのだ。
式は十五時に始まり、読経の低い声が長く堂内に響いた。
参列者の中には、杖をついてゆっくりと歩く美穂の父の姿もあった。
焼香のたびに、杖の先が床を突く乾いた音が響く。
「こんなところで……お会いするなんて」
式が終わり、控室の裏手にあるベンチで、美穂はぽつりと漏らした。
目元は赤く腫れていた。
直樹は何も言わず、彼女の隣に腰かけた。
控室の隅では、疲れた親族たちが缶ビールや缶コーヒーを黙って口に運んでいた。
直樹はそのうちの一本を取り、別に購入した温かいカフェオレを美穂の手に持たせた。
以前、喫茶店で彼女が頼んだ飲み物を覚えていた。
「こういう時にも会うんですね、私たち」
美穂の両手が、カフェオレの缶を握る。
「そうですね」
「……すいません。泣いてる顔なんて見られて」
「そんなことないです。今日だけは、泣いていていい日だと思いますよ」
美穂は泣き笑いのような顔で空を見上げた。
「運命なのかもしれませんね」
「そうかもしれません」
冗談めかして言った言葉に、二人は静かに笑った。
──直樹には幼い娘がおり、美穂もまた家庭を守る妻だった。
二人の間には、決して越えてはならない、けれど美しく透明な線が引かれていた。
それからの歳月、二人はまるで季節が巡るように、ふとした瞬間に巡り合い続けた。
――休日の大型書店で同じ建築雑誌に手を伸ばしたとき。
――呼吸器科の病院の待合室で、お互いに長引く咳に悩まされていたとき。
――出張先の金沢駅のホームで、反対側の電車を待っていたとき。
あのときは、豪雨の直後の空に大きな虹がかかっていて、二人でしばらく黙ってそれを見上げたこともあった。
「――西村さん、最近どうしてるんですか」
電話越しに、直樹が久しぶりに尋ねたこともあった。
「実家の田んぼを手伝ってます。母がやっていたぶんを、今は私が。鎌の使い方、去年よりだいぶ上手くなりました」
美穂は電話の向こうで少し得意げに笑った。
「……今度、遠野さんも稲刈りしてみます?」
「向いてる気がしないですよ」
「うふふっ、そうでしょうね」
白髪が混ざり始めた直樹と、目元に優しい刻み皺が増えた美穂。
出会うたびに、二人は打ち解けた古い友人のように笑い合った。
「またですね」
「ええ、またですね」
近況を語り、子どもの反抗期に頭を痛めていることや、老眼が進んだことを笑い合い、そして必ず「じゃあね」と別れた。
──最後に会ったのは、茜色に染まる秋の夕暮れの公園だった。
木々が赤や黄に色づく中、ベンチに腰掛けて鳩を見ていた美穂を、散歩途中の直樹が見つけた。
薄手のシャツの上にカーディガンを羽織った美穂は、風に肩をすくめていた。
「……お久しぶりです」
「あら、遠野さん」
二人は肩を並べて座った。
互いに六十をとうに過ぎ、背中は少し丸くなっていた。
風が吹くたび、落ち葉がカサカサと音を立てて舞う。
「そういえば」
美穂がふと思い出したように言った。
「実家の近くの公民館、何十年か前に建て替えられたんですけど、設計した会社の名前を見て驚いたんです。遠野さんの事務所でした」
直樹は目を見開いた。
「……知りませんでした。まさかそんなところで」
「もしかして、あの年――会社が潰れて実家に戻った年、遠野さんもあの町にいたんじゃないですか?」
「……確かに、公民館の現地調査でひと月ほど滞在していました。あの年の暮れです」
美穂は目を丸くした。
「じゃあ、本当にすぐそこにいたんですね。知らずに」
二人は顔を見合わせ、どこか可笑しそうに笑った。
「知らなくてよかったのかもしれません」と直樹は言った。
「知っていたら、迷って会いに行っていたかもしれない」
「そうですね……危なかったかもしれません」
美穂は少し間を置いてから、続けた。
「実はあの日──横浜のホームで会った後、一度だけ、このまま進んでいいのかなって思ったことがあったんです」
直樹は息を呑んだ。
「……どうして」
「わからないんです。ただ、あなたに会った後、急に足元が揺らぐような心地がして……」
美穂はそこで言葉を切った。
膝の上で重ねた指先に、無意識に力が入る。
「自分が選ぼうとしている生活が、少しだけ遠くに見えてしまったの」
直樹は何も言わなかった。
ただ、美穂の言葉を聞きながら、胸の奥に小さな痛みが走るのを感じていた。
「それで?」
「母に相談したら、『怖いのは当たり前よ、誰だって』って笑われて。……その言葉を聞いたとき、不思議なくらい肩の力が抜けました」
美穂が膝の上で重ねた手に視線の焦点を落とした。
「怖くてもいい。 迷ったからといって、今まで選んできたものが嘘になるわけじゃないから」
美穂は静かに笑った。
「それで、吹っ切れました。……今なら、あれでよかったんだと思えます」
直樹はしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐き、夕暮れの向こうへ視線を向けた。
「……そうですか」
それだけ言って、直樹も微笑んだ。
それ以上、何かを確かめる必要はなかった。
彼女が選んだ道も、自分が歩いてきた道も、もうずっと前から、それぞれの人生になっていた。
「ねえ」
美穂がふと顔を上げた。
「私たち、何回くらい会ったんでしょうね」
直樹は少し考えるように眉を寄せた。
記憶を辿るように、指先で膝を軽く叩く。
品川。 表参道。 横浜。 葬儀場。 金沢。
けれど、その先はもう曖昧だった。
「さあ……十回か、二十回か。数えきれないですね」
「ふふ、そうね」
美穂は小さく笑い、それから少しだけ真面目な顔をして言った。
「もし……最初に会ったときに名前を聞いていたら」
「うん」
「もし、二度目に会ったとき、ちゃんと食事に行っていたら」
「うん」
「もし、三度目に会ったとき、どちらかが一歩踏み出していたら……私たちはどうなっていたんでしょう」
直樹は夕日を見つめた。
落ちていく光が、美穂の横顔を温かく照らしている。
「きっと……どこにでもある、普通の夫婦になっていたんじゃないでしょうか。」
直樹の脳裏を、これまでの結婚生活がかすめた。
妻を愛していないわけではない。
ただ、長い生活の中には、些細なことで言葉を交わさなくなる夜もあった。
互いに疲れ果て、同じ家にいながら遠く感じる日もあった。
けれど、翌朝になれば、またいつものように日々が始まる。
そういうものを一つずつ積み重ねてきた。
「……ケンカをして、たまに嫌気がさして……それでも一緒に暮らすような」
美穂と一緒になっていたとしても、きっと同じだったのだろう。
特別な誰かと結ばれたからといって、特別な人生になるわけではない。
「そうね。……きっとそうね」
美穂は満足そうに頷いた。
「でも、これでもよかったんだと思います。私は、遠野さんとこうして人生の節目で会えることが……ずっと救いでした」
「私もです。あなたと偶然会うたび、自分の人生をもう少し頑張ろうと思えました」
それ以上は、何も言わなかった。
「もし」の先にある世界よりも、自分たちが選んできた現実の人生の方が、ずっと愛おしいものだと分かっていたからだ。
美穂は鞄から、色褪せた文庫本を取り出した。
表紙はほとんど擦り切れて、あの日と同じ本だとすぐには分からないほどだった。
『追分』。
「ずっと持っていたんです」
美穂はそれを直樹の手に握らせた。
「栞の場所も、もう忘れてしまったけれど……裏表紙、見てもらえますか」
直樹が開くと、そこには小さな文字で、いくつもの日付と場所が並んでいた。
品川、表参道、横浜、葬儀場、金沢――そして、今日の日付と「公園」の文字。
「会うたびに、書き留めていたんです。忘れないように」
直樹は言葉を失った。
「持っていてください」
美穂は微笑んだ。
「もし、また会えたら、続きを書き足せばいい」
美穂がゆっくりと立ち上がった。
薄紫色のストールを巻き直す。
「じゃあね」
「うん。元気で」
「あなたも」
美穂が歩き出す。
直樹はその背中を静かに見送った。
一度も振り返らない彼女の姿が、夕闇の向こうへ溶けていく。
長くなった二人の影が、公園の芝生の上で一瞬だけ重なり、やがて一つずつ消えていった。
──結ばれなかった。
恋人にも、夫婦にもならなかった。
それでも、人生という長い旅の途中で、二人は何度も出会った。
公園を後にした直樹は、いつもの帰り道をゆっくりと歩いた。
夕闇が完全に街を包み込み、街灯のオレンジ色の光が長くなった直樹の足元をぼんやりと照らし出していた。
風が吹くたび、足元でカサリと枯れ葉が鳴る。
その小さな音が、やけに澄んで胸に響いた。
手の中の文庫本を、直樹はそっと握り直した。
『追分』――分かれ道。
あの日、意味も知らずに拾い上げた一冊が、四十年の歳月を経て、今こうして自分の手にある。
二人の出会いは、約束も、予感すらもなく、ただ唐突に訪れる。
「……普通の夫婦、か」
直樹は口の中で小さく呟き、苦笑した。
どこにでもある小さな擦れ違いや、生活の疲弊、些細な言い争い。
そんな人間くさい現実を共に積み重ねる未来もあったのかもしれない。
それはそれで、きっと愛おしく、かけがえのない人生だったはずだ。
それでも人生の節目に彼女と出会うたび、もう少し頑張ってみようと思えた。
それで十分だった。
──自宅の前に辿り着き、玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
明かりのついたリビングから、孫に話しかける妻の賑やかな声と、夕食の香ばしい匂いが漂ってきた。
「おかえりなさい。遅かったのね、散歩?」
妻が振り返り、優しく微笑む。
直樹は「ああ……少し遠回りをしてね」と答え、コートを脱いだ。
上着のポケットにそっと『追分』を仕舞いながら。
窓の外を見やると、夜空には静かに星が瞬いていた。
きっと彼女も今頃、温かな明かりの下で、自分の家族と穏やかな夕食を囲んでいるのだろう。
胸の奥に灯った小さな温もりを確かめるように――直樹はそっと息を吐き出し、家族の待つ食卓へと向かった。
恋と言うにはあまりに静かで、友情と言うにはあまりに切ない――。
言葉に名前をつけられないその感情は、四十年の時を経て、二人の間に確かな温もりとして残り続けていた。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『木枯らしの記憶』というタイトルには、過ぎていった季節と、その中に残る記憶を重ねました。
そして、物語の中に登場する「追分」という言葉には、人生の分かれ道という意味を込めています。
人は何度も選び、何度も別れ、そしてそれぞれの道を歩いていきます。
もし、あのとき違う選択をしていたら。
そんな「もし」を考えることはあっても、最後には自分が歩いてきた道を振り返る。
そんな物語を書きたくて、この作品を作りました。
読んでくださった方の中にも、ふと思い出す誰かがいるなら――この物語が、その記憶にそっと寄り添えたら嬉しく思います。
ありがとうございました。(*人´ω`*)




