「七か月、探していました」——追放された宮廷通訳を、隣国の王子が港町で見つけた
テランに来て八か月目の朝、かつて交渉の相手だった男が、扉を開けた。
「フォン・クルム殿」とディエル・ア・ルソン第二王子が言った。「七か月、探していました」
エリナ・クルムは翻訳しかけの書類を机に置いたまま、一秒だけ静止した。商館主のリオに「大切なお客様がいらっしゃっている」と言われて事務室から降りてきたとき、応接室の椅子に座っているのが三十代の異国の男だとは思わなかった。浅黒い肌に銀糸の外套。ヴェスラン王国の上位貴族が纏う色だ。
そして、その顔を知っていた。
八か月前、条約の長テーブルを挟んで向かい側に座っていた男の顔だ。
「……ディエル・ア・ルソン第二王子殿下」
彼は軽くうなずいた。
「ようやく見つけました」
エリナは表情を動かさなかった。
「何の御用でしょうか」
「通訳の仕事を一件お願いしたいのです。明後日、ヴェスラン商人との荷受け交渉があります。通訳の者が急病で、どうしても手が足りません」
リオが腕を組んで無言でいる。「頼めるか」という顔だった。
「承知しました」
その夜、桟橋の端に一人で立って、エリナは海を見た。
水平線が暗い。灯台の光が遠くで回っている。潮風が前髪を揺らした。
夜の海は何も言わない。言葉を持たない。それだけが八か月間、エリナにとって静かな助けになっていた。
八か月前に王太子クロードに言われた言葉が、今も耳の奥にある。
——誤訳で国を危うくしたな、エリナ・クルム。
あれは誤訳ではなかった。
しかしそれを証明する方法が、あのときはなかった。
エリナ・クルムが王都ケルダールに出たのは、十七歳の春だった。
クルム伯爵家は代々、外交に縁のある家系だった。父ユリウスは「言葉で国を守れ」という言葉が口癖で、エリナが最初のヴェスラン語の入門書を手にした夜には、読み途中で眠ってしまった娘の枕元にもう一冊を置いておいた人だった。ユリウスは五年前に病で逝き、今の当主は継母のリーザが取り仕切っている。
七か国語をものにするのに六年かかった。
東の隣国ヴェスランの言葉と、南方のルーチ語は語彙の起源が似ているが、発音の強さが逆に振れる。ドルフ語は助詞が動詞形の語尾に埋め込まれていて、構文を解体しなければ訳せない。マルン語は声調が四つあり、書いた字面だけでは意味が確定しない。
それでも言語は、エリナにとって生き物に近いものだった。文法書には収まらない微妙なずれ——話し手の感情の傾き、隠された意図、わざと選ばれていない言葉——を感じ取る感覚は、生まれた頃からあった。
外交部では早くに頭角を現した。三年目から単独でヴェスラン王国との交渉を担当し、五年目には難局の条約交渉三件を仕上げた。上司に「あなたがいなければこの条約は成立しなかった」と言われた夜には、夕食の味が違った。
王太子クロードとの婚約が持ち上がったのは六年目の秋だった。政略的な側面があることはわかっていた。それでも、「あなたの能力を国のために使いたい」というクロードの言葉を、エリナは疑わなかった。
その言葉を、追放される日まで疑わなかった。
問題の会議は、八か月前の九月末に行われた。
議題はヴェスラン王国との平和協定の更新だった。前回から五年が経ち、両国の関係は安定しているように見えた。しかし草案を受け取った前夜、エリナは第七条第三項で手が止まった。
ヴェスラン語の原文にあったのは、一語だった。現代語として読めば「相互防衛義務」——互いが攻められたときに助け合う、という約束になる。だが同じ綴りを古語として読むと「軍事同盟義務」になる。こちらは、相手が始めた戦争に無条件で参戦する義務だ。
平時なら、誰も古語では読まない。だが第六条には「緊急事態における即応の義務」、第八条には「第三国への軍事関与についての合意を含む」と続いていた。前後をこう並べられると、古語の読みが生きてくる。
どちらが正しいか、草案だけでは断言できない。
翌朝、会議の前にヴェスラン側の担当者に確認を取ろうとしたが、開始が急に早められていた。
会議室の椅子に座り、エリナは長テーブルの向こうのヴェスラン側代表団を見た。ディエルがそこにいた。当時は顔と肩書きしか知らなかった。
草案の読み上げが始まった。第七条第三項が来た。
エリナは訳した。
「第七条第三項——相互不可侵に関する合意事項について」
訳を読み上げたあと、エリナは草案の欄外に注記を書いた。「第七条第三項の語は古語の読みを排除できず。義務の確定には原文発行元への照会を要す」——通訳官に認められた権限だった。
どちらの義務語も充てなかったのは、意図的な選択だった。確認が取れていない以上、義務を負わない語に寄せるほかなかった。「相互防衛義務」と訳した瞬間、古語の読みが生きていればアルドレア王国は他国の戦争に引き込まれる。
ヴェスラン側の代表の顔がわずかに変わった。驚きではなかった。安堵に近い表情だった。
声も張っていなかった。参戦を求める側の声は、もっと前に出る。求めていない——そこまでは読めた。だが求めていないことと、現代語の読みが正しいことは、別だ。
エリナはその表情を記憶した。
会議は成立した。条約は締結された。
その翌朝、補佐官のヴェルナーが書類を要求した。
告発の呼び出しは三日後だった。
謁見室には、クロードと継母リーザがいた。そして補佐官ヴェルナー。
「エリナ・クルム」とクロードが言った。「先日の条約会議にて、意図的な誤訳を行ったとの告発がある」
エリナは一歩進んだ。声を張らずに言った。
「誤訳ではございません。原文に解釈の幅があったため、安全側の訳を選びました——」
「これを見よ」
ヴェルナーが差し出したのは、ヴェスラン王国外交部の印章が捺された書状だった。「第七条第三項は明確に防衛義務を定めており、『相互不可侵』との訳は意図的な意味の縮小である」と書かれていた。
エリナは目を細めた。
古語の読みには触れていない。触れれば、自分たちがそれを狙っていたと明かすことになる。だから現代語の側から責める。責める材料としてはそれで足りる——確かに彼女は、義務の語を避けたのだから。
あの会議でのヴェスラン側代表の表情は、そんな書類を出す顔ではなかった。あの安堵は、本物だった。
「この文書は——」
「ヴェスラン王国の正式な申し立てです」とヴェルナーが言った。「フォン・クルム殿の誤訳によって、条約の解釈に齟齬が生じています」
継母リーザが穏やかな声で添えた。
「クロード殿下のためにも、エリナ。潔く身を引くことが、クルム家の名誉になりますよ」
エリナはリーザの顔を見た。口元が、かすかに満足そうだった。
物心ついてから、継母がその表情をするときには必ず、エリナに不利なことが起きていた。
「誤訳で国を危うくしたな、エリナ・クルム」とクロードが言った。「婚約を解消する。王都を去れ」
弁明が無意味だと悟った。証拠は偽造され、証人はいない。ディエルは当日に帰国している。
礼をして謁見室を出た。
廊下の途中で、足が止まった。止めたつもりはなかった。次にどちらへ曲がるのかが、八年通った廊下なのに出てこない。
言葉で国を守れ、と父は言った。
守れたかどうか、わからなかった。間違えてはいない。それは分かる。分かることと、守れたかどうかは、別のことだった。
左だ、と思い出すまでに、しばらくかかった。
王城を出たのは、翌日の朝だった。
持ち出せたのは衣類と、父が遺したヴェスラン語の入門書だけだった。門番はエリナの顔を知っていて、通すときに一度だけ目を伏せた。八年、毎朝この門で会釈を交わした相手だった。何か言おうとして、言葉が出てこなかった。どの語を使えばいいのかが、分からなかった。母語でさえ。
結局、頭を下げただけで出た。
馬車が動き出してから、窓の外の数を数えている自分に気づいた。街灯が七つ、門が三つ。数えても何にもならないのに、数えるのをやめられなかった。
テランに来て最初の一か月は、眠れない夜が続いた。
波音が慣れなかった。荒削りの床板が冷たかった。積み上げたものを丸ごと否定されたことへの、静かな怒りが消えなかった。
翻訳の仕事を見つけたのは二か月目だった。
「ドルフ語の荷物受取証が読めなくて困っている」と、テランで一番大きな商館の主人リオが言った。三分で終わった。リオが眉を上げた。「早いな。一件いくらで受けるか?」
「一ページあたり三エルでいかがでしょうか」
「高いな。だが腕がいいなら話は別だ」
そうして仕事が始まった。
やがて、名前より先に仕事が知られるようになった。荷物の数量も、到着日の確認も、言葉のひとつが合っていなければ取引が壊れる。誰かの仕事を支える言葉がここにもあった。
四か月目には七か国語の依頼を毎週こなしていた。正確で速いと評判が立ち、遠方の商人から手紙で依頼が来るようになった。ルーチ語の法的文書は二日かけて丁寧に訳し、欄外に注記を添えた。「注記のおかげで交渉がうまくいった」という礼状が届いたとき、エリナは机の前で少しだけ息を吸った。
王城での仕事は規模が違った。国家間の意思疎通を支える言葉には、ひとつの揺れも許されない緊張があった。それと比べれば、今の仕事は小さい。しかし小さいからこそ、言葉の正確さが依頼主の目に直接届いた。
潮風の匂いに、三か月で慣れた。朝の桟橋には漁師が網を干していた。夕方には子どもが走り回った。エリナはその横を通りながら、いつか消えていくかもしれない緊張が少しずつ薄れていくのを感じていた。
一度だけ、泣いたことがある。何がきっかけだったかも覚えていない。ただ力が抜けて頬を濡らした夜だった。誰にも見られなかったから、それでよかった。
明後日の交渉当日、ディエルは時間通りに現れた。
相手はヴェスラン商人のボルフという男で、テランの倉庫に大量の綿布を送り込もうとしていた。アルドレア語とヴェスラン語が交互に飛び交うなかで、エリナは両者の言葉を丁寧に写した。
ボルフが最後に何かを言った。エリナはアルドレア語に直した。
「納期については相談の余地がある、とのことです」
ボルフが帰り、部屋に二人残ると、ディエルがエリナを向いた。
「一点、確認してよいですか。ボルフが言ったヴェスラン語の語句——あなたは『相談の余地』と訳しましたが、直訳では『猶予の要求』に近い言葉ではないですか?」
「そうです。ただしボルフの声調が落ち着いていました。要求ではありません。打診の段階です。直訳では強さが出すぎます」
「声調と語彙を同時に見ているのですか」
「常にそうしています」
ディエルは少し間を置いた。遠くを見るような目をした。
「八か月前の会議のときも、そうだったのですね」
エリナの筆が浮いたまま止まった。
夕食はリオの商館で出た。三人で食べ、リオが「俺は先に休む」と席を立ってから、エリナとディエルは食堂に残った。
卓上には蝋燭の炎が一本あった。窓の外で波が動いている。
「あの会議の訳は、正確でした」とディエルが言った。
エリナは水の入った杯を持ったまま、動かなかった。
「第七条第三項の原文は、意図的に二つの意味に読めるよう書かれた文書でした。古語の義務表現と現代の防衛条文の語彙を混在させた文です。ヴェスラン王国の外交部が出したものではありません」
「……誰が」
「アルドレア側から働きかけた者が書かせた文書です。ヴェルナー補佐官の名は後の調査で出てきました」
エリナは杯をゆっくり置いた。
「わたくしは会議室で、あの文書の語彙の揺れに気づきました。確認が取れなかったので、義務の語を避けました。それだけです」
「知っています」とディエルは静かに言った。「会議室であなたの訳を聞いたとき、正確だと思いました。罠を外した訳だと」
「では、なぜ」
声に、聞くつもりのなかった感情が少し混じった。
「なぜ、あの場で言ってくださらなかったのですか」
ディエルは目をそらさなかった。
「帰国した直後に父王に報告しました。しかし、アルドレアの内部事情に介入できる立場ではないと言われました。あなたが追放されたと知ったのは一か月後でした。その時点からさらに動こうとしましたが、行方がわかりませんでした」
暗い窓に、海の遠い揺れが映っていた。
「……知りませんでした。そういうことがあったとは」
「守れませんでした」とディエルが言った。「あの場で証言すべきでした。申し訳ありません」
申し訳なかった。
その言葉が、エリナの胸の中で奇妙な形をした。八か月間、誰からも聞かなかった言葉だった。クロードからも、リーザからも、ヴェルナーからも。あの件に関わった誰からも。
翌日の夕刻、ディエルが「散歩をしてもよいですか」と声をかけてきた。
桟橋の端まで歩きながら、彼は話した。
ヴェルナー補佐官の真の目的は、古語の読みで軍事同盟義務を通すことだった。アルドレア王国は北のマルン国との国境紛争を膠着した状態で抱えていた。ヴェスラン王国を軍事同盟で縛れば、マルン問題を一気に解決できる——ヴェルナーの計算はそういうものだった。
「エリナ殿があの条約に『相互不可侵』の訳を充てたことで、計画は頓挫しました。ヴェルナーはその後、ヴェスラン側に軍事同盟の明示を改めて要求しようとしました。しかしヴェスラン側は拒否しました。あの一語を古語で読ませたかったのは、こちらではありません。アルドレアの補佐官です。義務の無い条文で締結が済んでいるものを、わざわざ義務のある形に書き換える理由がヴェスランにはありません」
「継母は」
「ヴェルナーから『エリナ殿を排除する代わりに、クルム家の次女を王太子妃候補に推薦する』という話があったと後の調査でわかっています。偽証書類に協力したのはそのためでしょう」
波が来た。水面がわずかに割れて、また閉じた。
「全部、知っていたのですね。わたくしが知らなかっただけで」
「全部ではありません。ヴェルナーの計画の全容を摑んだのは三か月前です。ヴェスラン外交記録の原本を取り寄せ、偽造と断定しました。あとはあなたを見つけることだけでした」
「……なぜわたくしを探したのですか」
ディエルが少し間を置いた。
「それは、今はまだ話す順序ではないと思います」
エリナは水平線から目を離さなかった。答えの意味が、少しだけわかった気がした。
その夜、商館に戻りかけたとき、エリナは一度立ち止まった。
「ディエル殿下」
「何ですか」
「八年間、この仕事を信じていました。言葉で国を守れ、と父が言った意味を。外交の場に正確な言葉を置くことが、どれだけ大切かを」
ディエルは黙って聞いていた。
「追放されてから、ずっと思っていました。守れたのか、と。条約は成立したのに誰もわたくしが何をしたか知らないのだと。一人で正確だったとしても、記録に残らなければ何の意味もないのかと」
「残ります」とディエルが言った。「条約の解釈は原文に従い、訳文は補助の扱いです。ですから、あなたの訳が条文を変えたわけではありません」
エリナは頷いた。知っていることだった。
「変えたのは、アルドレアが何に署名したと思っているかです。あなたが義務の語を充てていれば、あなたの国は自分が参戦を約束したと信じたまま八か月を過ごしました。ヴェルナーはその信じ込みだけを使えばよかったのです。あなたが充てなかったので、使う材料が無くなりました」
「……それは、考えたことがありませんでした」
「ヴェスランの記録には、欄外注記の写しまで綴じてあります。私が綴じさせました」
エリナは息を吸った。
「……それは、知りませんでした」
「知らないことが多かったですね。お互いに」
エリナはそっと笑った。自分でも気づかないうちに、笑っていた。何か月ぶりかわからない、本当の意味での笑いだった。
ディエルがテランを発つ予定の前日、王都から急使が来た。
リオが手紙を読んで顔色を変えた。
「大変なことになっているようだ」と彼は言い、ディエルの前で手紙を広げた。
ケルダールで外交危機が起きている——そう書かれていた。
ディエルが話したのは、そこからだった。
アルドレア王国の宮廷通訳官に任命されたのは、ヴェルナーの推薦を受けた若い男だという。ヴェスラン語は基礎しか学んでいなかった。
「先月の定例交渉に、私も出ていました」
ディエルは机の上で指を組んだ。
「うちの使節が、山間の通路の使用権を確認したいと言いました。使用権です。三語の短い言い方でした。あの男は、それを『国境線変更の要求』と訳しました」
エリナは息を止めた。三語のどこをどう取れば、そうなるのか。取り違えではない。語彙が足りない人間が、知っている語だけで穴を埋めたのだ。
「うちの首席が立ちました。椅子が倒れる音がして、そこで会議が止まりました」
ディエルは一度、目を伏せた。
「私は席にいて、何も言えませんでした。他国の通訳の誤りを、その場で訂正する立場ではありません。八か月前のあなたのときと、同じです」
使節団は即日で帰国した。次回交渉には「先方の公式謝罪と通訳官の更迭」を条件とする——その通達を書いたのも、ディエルだった。
「それだけではありません」とディエルは続けた。「条約が暫定凍結されたことで、マルン国境での小競り合いが以前の三倍に増えています。こちらの抑止が失われたからです」
抑止していたのは条文の中身ではない。ヴェスランと結んだ条約が生きていること、それ自体だった。マルンはその一点を見て手を出さずにいた。
エリナが義務の語を充てずに守ったものの形が、今になって見えてきた。
ヴェルナー補佐官の陰謀は、ヴェスラン王国の外交記録との照合で白日のもとにさらされた。
証拠を持ち込んだのは、ディエルの父王が送った特使だった。
ディエルと再会して数日後、枢密院からエリナに召喚状が届いた。
被告としてではない。証人としてだった。あの会議で実際に何が発せられ、それがどう訳されたかを述べられる人間が、この国に一人しかいなかったからだ。
テランから王都まで馬車で五日。エリナは荷を持たずに乗った。持っていくものが、頭の中以外に無かった。
審問室の床は磨いた石で、六月でも底冷えがした。
証人の席は、列席者の列と、問われる者の立つ位置の中間にあった。エリナが腰を下ろすと、正面にヴェルナーの背中が見えた。左手の一段高い席にクロードがいた。八か月ぶりだった。胸を張っていた。姿勢だけは、記憶のままだった。
審問官がエリナに、会議で交わされた言葉を復唱するよう求めた。
「ヴェスラン側代表の発言を、原語のまま述べてください」
エリナはヴェスラン語で復唱した。声調まで、聞いた通りに。
それから、自分がその場で選んだアルドレア語を述べた。
審問官が確認した。「草案の文言と、あなたの訳が異なるのはなぜか」
「草案の一語は、二通りに読めました。現代語なら相互防衛義務、古語なら軍事同盟義務——他国の戦争への無条件参戦です」
「どちらであるかを、あなたは判断したのか」
「いいえ」とエリナは答えた。「声からわかったのは、参戦を求める声ではないという一点だけです。ならばどちらの義務語も充てられません。義務は確かめてから負うものです。ですから相互不可侵と訳し、欄外に注記を付けました」
「声で判断したと」
「言葉と、その運び方でです。文字だけでは足りません」
列席者の衣擦れが動いた。クロードの位置から、ごく短く息の音がした。
それが何の音なのか、エリナには分かってしまった。八年間、人の声を聞き分けて生きてきた。今の音は、疑いではない。理解が遅れて追いついた音だった。
ヴェルナーが証言台に立った。
最初、彼は否認した。声が硬かった。二日目の午後、ヴェスラン王国の外交記録が提示されると、その硬さがほどけた。ほどけ方を、エリナは背中越しに聞いていた。
「エリナ・クルムの訳は正確でした」
その一言の語尾が、わずかに上がった。
嘘をつく人間の語尾ではない。諦めた人間の語尾だ。八年かけて覚えた聞き分けが、こんなところで役に立った。
「正確だったからこそ、排除しました。あの人が残っていれば、草案の細工は必ず見つかります。……殿下にも、計画の大筋はお伝えしてあります」
室内の音が、一段落ちた。
エリナは左手を見た。
膝の上で、指が動かなくなった。組んでいたわけでも握っていたわけでもない。ただ、止まった。
クロードの背筋が、上から順に落ちていくのが見えた。肩が下がり、顎が引かれ、姿勢が姿勢でなくなった。この人が姿勢を崩すところを、一度も見たことがなかった。
告発の日、彼は確認をしなかった。確認をしないという選択に、その日まで一度も罰が来なかったからだ。今、まとめて来ている。
息が、一度だけ大きく入った。自分でも驚くほど大きく。慌てて口を閉じた。
それから、この瞬間の自分を指す語を探した。
七か国語のどれにも無かった。「溜飲が下がる」でも「哀れむ」でもない。近いのはドルフ語の商用語に一つある。貸した金が戻ったときにだけ使う語で、増えても減ってもいない状態を指す。喜ぶ語ではない。帳尻の語だ。あれが一番近い。近いだけで、合ってはいない。
訳せない感情を、生まれて初めて持った。
審問官がエリナに、退席してよいと告げた。
立ち上がるとき、クロードがこちらを見た。何か言おうとして、口が開いた。
エリナは待った。
言葉は出てこなかった。選び方を習う必要が、この人には二十八年間なかった。今日それが要る場面に来て、手持ちがなかった。
エリナは一礼して、審問室を出た。
石の廊下を歩いていると、向こうから衛士に挟まれた女が来た。
継母だった。
リーザはエリナを見て、足を止めかけた。それから、止めなかった。すれ違うとき、香水の匂いがした。八年、屋敷じゅうに満ちていた匂いだ。今は薄かった。つけ直す機会が、もう無いのだろう。
エリナは振り返らなかった。背中で、審問室の扉が開いて閉じる音を聞いた。
扉が閉まる前に、審問官の声が廊下まで届いた。王太子クロードを外交失態の責任者として処分に付す、と読み上げていた。
エリナは立ち止まらずに歩いた。石の床が、革靴を通して冷たかった。
継母リーザの偽証書類は、一枚の矛盾から崩れた。
枢密院に提出された写しと、リーザの手元に残っていた原本とで、発行日が一日ずれていた。書き換えたのは写しの側だった。
一日。会議の前日と当日の差だ。前日付の「会議の記録」は存在しない。
ヴェルナーが自白の中で継母の名を出したのは、エリナがまだ証人の席にいたときだった。他人の口から、罪状として聞くのは初めてだった。
廊下ですれ違ったとき、継母は足を止めかけて、止めなかった。あの顔を、エリナは覚えている。屋敷でエリナに不利なことを決めた夜、いつも同じ顔をしていた。決めた側の顔だ。今日は、決められる側でそれをしていた。
ヴェルナーに切り捨てられ、クロードにも見捨てられ、一人で扉の向こうへ入っていった。あの場所に立っていたのは、ずっとエリナのはずだった。今はリーザが立っている。
怒りが来ると思っていた。八年ぶんの何かが。
来たのは、もっと子どもじみたものだった。見てほしかった、という一行だ。数字でも語彙でもなく、ただそれだけを、この人に一度も言えなかった。
言えないまま終わったな、と思った。
テランに戻って三日後、王都から正式な使者が商館を訪ねた。
謝罪の書状と「宮廷首席通訳官」への辞令が入った筒を持っていた。
エリナは書状を読んだ。滑らかな羊皮紙。丁寧な文章。枢密院の印章。
丁寧に畳んで、使者に返した。
「ご辞退申し上げます」
「フォン・クルム殿——」
「正確に訳しました。罠ごと、全て」
使者は言葉に詰まった。
「それが、わたくしの答えです。どうぞお持ち帰りください」
使者が帰り、エリナは外に出た。
桟橋の端まで歩いた。午後の光が水面に広がっていた。波が来て、引いて、また来た。
八年間が、腹の底で静かになった気がした。
長かった。それだけのことだった。
背後に足音がした。
「辞退したのですか」
ディエルの声だった。
「はい」
「理由を聞いてもよいですか」
「戻る意味がないと思いました。あの場所がわたくしを必要としているのではなく、わたくしが証明した結果を必要としているのです。それは別のことです」
ディエルはしばらく黙っていた。波音が続いた。
「では」と彼は言った。「私からも、申し上げてよいですか」
エリナは振り向かなかった。
「ヴェスラン王国に来てください」
風が来た。潮風が二人のあいだを通り過ぎた。
「通訳官としての招聘ではありません。あなたが正確だと思ったことを正確だと言える場所を、一緒に作りたいと思っています。それから——」ディエルが一拍置いた。「そばにいたいと思っています。七か月探しながら、それだけははっきりしました」
エリナは海を見た。
水平線がある。どこまでも遠い、言葉の届かない場所がある。
またあの語を探した。
今度も、七か国語のどこにも無かった。ただ、審問室のときと違って、無いことが困らなかった。訳せなくていいものが、この世にあるらしい。
涙が来た。
声は出なかった。音もしなかった。ただ頬を一筋流れた。八年分の重さがある涙だった——怒りでも悲しみでもなく、何かが正しい場所に収まったときの感覚だった。
「……はい」
返事は短かった。しかしそれは、正確だった。
ディエルが隣に来た。肩が触れた。潮の匂いが濃くなった。
エリナはもう泣いていなかった。
歩人です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
通訳という仕事を軸にした今作は、「言葉の正確さが持つ重さ」をテーマにしています。原文の罠を見抜いて安全側の訳を選ぶ——それは派手な行動ではなく、一瞬の静かな判断です。その判断が、何か月も遅れて国の外交を守っていたことが明らかになる。エリナが正確であったことは、長い時間をかけてようやく証明されました。ざまぁ的な爽快感よりも、静かに正しさが形になっていく余韻を楽しんでいただけたなら幸いです。
ディエルというキャラクターは、「後悔を抱えながらも諦めずに誠実に動く人」として描きました。あの場で証言できなかった、でも七か月間探し続けた。そういう愚直な誠実さが、エリナの凍りついた時間を少しずつ溶かしていく存在になれれば、と思いながら書いた恋愛パートです。恋愛が正面に出るより、二人が同じ方向を向いて立っている場面を大切にしました。
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