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第一章:霧の洗礼と「開かない未送信ボックス」

旅に出ると、人は少しだけ素直になる。

見慣れない景色、知らない土地の匂い、

そして、ふと出会った誰かの言葉が、

心の奥にしまい込んでいた記憶を揺らすことがある。


この物語は、そんな“旅の揺らぎ”の中で起きる小さな事件と、

そこに関わる人々の、静かな嘘と、ささやかな真実を描いたものです。


派手なトリックも、大きな陰謀もありません。

ただ、旅先で出会った人の表情や沈黙、

言葉の端に滲む感情を拾い集めながら、

主人公がそっと謎を解いていきます。


あなたの旅の記憶にも、

きっと似たような風景があるかもしれません。

どうぞ、ゆっくりとページをめくってください。


1

五月の柔らかな木漏れ日が、世田谷の一角に佇む洋館のサンルームを満たしていた。

大正時代に建てられたというその建物は、丁寧に手入れされた蔦が煉瓦の壁を這い、クラシカルな美しさを今に残している。イギリス製の白い鉄格子の窓の向こうには新緑の庭が広がり、時折小鳥のさえずりが心地よく響いていた。


室内には、アールグレイの華やかな甘い香りが漂い、蓄音機を模したオーディオからは、ドビュッシーの『月の光』が微かな音量で流れている。


「悠真、今回は少し長めの旅になるのね」


上品なリネンのドレスを纏った朝霧香織あさぎり かおりが、レースが施された陶器のカップを傾けながら、向かいに座る息子に優しい視線を向けた。彼女の所作には、一朝一夕では身につかない、本物の文化人としての気品が染みついている。


「ええ。長野県の奥地にある、霧ヶ峰温泉郷の『白鷺村』というところです」


朝霧悠真あさぎり ゆうまは、スコーンにクロテッドクリームと自家製のイチゴジャムを丁寧に、均一な厚さになるよう塗りながら答えた。

29歳になる彼の佇まいは、この英国調のサンルームに完璧に調和している。仕立ての良いネイビーのサマージャケットに、細身のチノパン。少し癖のある黒髪に、細いフレームの眼鏡。その奥にある瞳は、いつも穏やかで、どこか少年の尊さを残していた。


「現地の白石という村長さんから、Webの旅専門メディアで、村の観光復興をテーマにした特集ルポを書いてほしいと、直々にメールをいただきましてね。何でも、メガソーラーの誘致や外資系リゾートの開発を計画しているそうで、その前に村の古き良き伝統や温泉の魅力を、情緒ある文章で発信してほしいということらしいんです」


「まあ、リゾート開発。現代的ね。でも、あそこは確か、古い因習や伝承が色濃く残る場所としても有名だったかしら。俊介が以前、何かの資料で口にしていたような気がするわ」


「よくご存知ですね、母さん。さすがです」

悠真は嬉しそうに眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。歴史や民俗学の話題になると、彼の声はいつもより少しだけ弾む。


「おっしゃる通り、白鷺村には『白鷺伝説』という古い開湯伝承があります。傷ついた一羽の白鷺が、湧き出る湯に身を浸して傷を癒したのを見て、村人たちが温泉を見つけたという、のどかなお話です。ただ……その裏には、あまり表に出てこない、少し不穏な言い伝えも隠されていましてね。白鷺が姿を見せるとき、村には必ず大いなる災いが降りかかる、という――」


悠真がスコーンを口へ運ぼうとした、その瞬間だった。


ローテーブルのガラス天板の上で、彼のスマートフォンが激しく震えた。ドビュッシーの旋律を切り裂くような、冷機を孕んだ振動音。画面に表示されたのは『朝霧 俊介』の四文字だった。


「お兄様から? 珍しいわね、こんなお昼間に」

「うん。警察庁の仕事が忙しくて、普段は夜中にしか連絡をくれない人なんだけど……」


悠真は不思議に思いながら、通話ボタンをスライドさせて耳に当てた。

「もしもし、俊兄? 珍しいね、どうしたの?」


『……悠真か。今、どこにいる』


受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもの冷静沈徹な兄の声だった。しかし、その声のトーンは、まるで冬の氷河のように硬く、重い。警察庁長官官房参事官という若きエリートの重責を背負う俊介が、これほどまでに感情の起伏を殺した声を出すのを、悠真は知っていた。本当に重大な事件が起きた時だけだ。


悠真の背筋に、微かな緊張が走る。

「実家のサンルームだよ。母さんとお茶を飲んでる。これから長野へ出発するところだけど……」


『落ち着いて聞け。お前が以前、民俗学のフィールドワークや郷土史のルポで、大変熱心に師事していた東都大学の堂島毅教授を覚えているな』


「え? ええ、もちろん。堂島先生がどうかしたの? 僕のライターとしての視点を育ててくれた、大切な恩師だよ。つい一週間前も、僕が白鷺村に行くと言ったら、先生も近々その周辺の調査に行くから、現地で美味い蕎麦でも食おうって、嬉しそうに電話をくれて――」


『その堂島教授が、昨夜から白鷺村で行方不明になっている』


「……え?」


悠真の思考が、一瞬でフリーズした。手に持っていたスコーンが滑り落ち、皿の上でカタンと小さな音を立てた。ジャムの赤い色が、白い陶器の上に不自然に広がっていく。


「行方不明って……先生、ただのフィールドワークで山にでも入って、少し道に迷っているだけじゃないの? 先生も僕に負けず劣らず、時々のんびりしたところがあるから……」


『いや、普通の遭難ではない。教授が滞在していた宿に、荷物や財布、上着まですべて残されたまま、忽然と姿を消している。現地警察が捜索中だが、教授のスマートフォンだけが、宿から少し離れた散策路の入り口に落ちていた。……そして、そのスマホのメモアプリに、お前宛ての、未送信のメール原稿が残されていたそうだ』


俊介は一度、電話の向こうで短く、重い息を吐いた。受話器を握る悠真の手が、微かに震え始める。


『タイトルは空欄。本文を読み上げる。――白鷺伝説の真相に辿り着いた。至急会いたい。人間の哀しい言葉が、霧の向こうで私を待っている。悠真、君の瑞々しい筆が必要だ――』


「先生の、メッセージ……」


『メールの作成日時は、昨夜の午後十一時過。その直後に、教授の通信は途絶え、行方が分からなくなった。現地の白鷺村は今、深い霧に包まれていて捜索は難航している。だが、本庁の私の直感が言っている。教授は何らかの事件に巻き込まれた可能性が極めて高い』


俊介の声が、低く鋭く響く。


『悠真、お前はこれからその村へ行くんだろう。警察庁の人間として言うのではない。お前の恩師が、最後に救いを求めた言葉だ。……どうする』


悠真は、ゆっくりと眼鏡を外し、テーブルの上に置いた。

サンルームの窓の外、世田谷の青空は先ほどと変わらず美しいはずなのに、なぜか彼の目には、世界がすべて乳白色の深い霧に覆われてしまったかのように見えた。


先生はまだ、生きている。あの深い霧のどこかで、自分を待っている。

人間の哀しい言葉とは、一体何を意味しているのか。そして、なぜ先生は、他の誰でもない、自分を呼ぼうとしたのか――。


悠真は再び眼鏡をかけ、スマートフォンの画面を強く見つめた。その瞳からは、先ほどまでののんびりとした空気は完全に消え去り、恩師を救い出すという静かな決意が灯っていた。


「行くよ、俊兄。先生が僕を呼んだんだ。僕の筆が、僕の言葉が必要だって……そう言ってくれたんだから。先生が霧の向こうで僕を待っているなら、僕が必ず、先生を見つけ出してみせる」


『……そう言うと思った。現地の大貫という警部には、お前の名前を伝えておく。だが、くれぐれも無理はするな。お前は昔から、危ない場所に迷い込む天才だからな』


「ひどいな、俊兄。僕はただ、少し方向音痴なだけだよ」


電話が切れた後、悠真は向かいの席で心配そうに自分を見つめる母親に向き直り、静かに、しかし決意を込めて微笑んだ。


「母さん、ごめんなさい。お茶の途中だけど、レガシィを出します。先生が、僕を待っているから」


こうして、朝霧悠真の、恩師の行方を追う過酷な旅が、静かに幕を開けたのだった。


2

東京から中央自動車道を北上し、山梨の山塊を抜けて長野県へと入る頃には、初夏の爽やかな青空は厚い雲に覆われ始めていた。諏訪インターチェンジを降り、国道からさらに険しい山道へとハンドルを切る。


悠真の愛車である白いスバル・レガシィは、静かに、しかし力強く急勾配のワインディングロードを上っていた。助手席には、使い込まれたキャンバス生地のショルダーバッグと、重厚なマグネシウム合金のボディを持つデジタル一眼レフカメラが鎮座していた。


「……おかしいな。さっきの標識、確か『白鷺村まであと五キロ』って書いてあったはずなんだけど」


悠真は細いフレームの眼鏡を少し押し上げ、困惑したようにダッシュボードのカーナビゲーション画面を覗き込んだ。画面の中で、自車の位置を示す矢印は、すでに道路の描かれていない「緑色の空白」の上を虚しく指し示している。

『ルート案内を終了します』という機械的な音声が流れたのは、すでに三十分も前のことだった。


道に迷ったのだ。

気づけば、舗装はところどころ剥がれ、路肩には深い苔が蒸した旧道へと迷い込んでいた。ガードレールの向こう側は深い崖になっているはずだが、今の悠真にはその恐怖を感じる余裕すらなかった。


なぜなら、世界が完全に「白」に染まり始めていたからだ。


「これが……霧ヶ峰の洗礼、か」


標高が上がるにつれ、山の斜面から這い上がってきた乳白色の濃霧が、一気に視界を奪い去っていった。フロントガラスの向こう、レガシィが放つヘッドライトの白い光が、濃密な霧の粒子に乱反射して、まるで光の壁に突っ込んでいくような錯覚を覚えさせる。


視界は、わずか十メートル。

悠真はスピードを落とし、フォグランプのスイッチを入れた。黄色い光が足元の路面を辛うじて照らし出す。


「先生……今、どこにいるんですか。この霧の向こうにいるんですか」


その時だった。


「っ……!?」


レガシィのフォグランプが照らし出す乳白色の空間を切り裂くように、フロントガラスのすぐ目の前を、巨大な「白い影」が音もなく横切った。


悠真は反射的にブレーキを踏み込んだ。ガガガ、とABSが作動し、タイヤが濡れたアスファルトを掴む。車体が激しく前後に揺れ、助手席のカメラバッグが足元に転げ落ちた。


完全に停止した車内。激しく波打つ自分の鼓動だけが、静寂の中で大きく響いていた。


「今のは……鳥、か?」


悠真はハザードランプを点滅させ、そっとパワーウィンドウのスイッチを下げた。ひんやりとした山の冷気が、濃密な湿気と共に車内へ流れ込んでくる。


霧の向こう。数メートル先の旧道の真ん中に、それは静かに佇んでいた。


白鷺だった。

その純白の羽は、フォグランプの光を浴びて、まるで自ら発光しているかのように美しく、そして異様なほどに神聖だった。鳥は、じっと動かない。ただ、その鋭い漆黒の瞳だけが、フロントガラス越しに悠真の存在を真っ直ぐに見据えている。


『白鷺が姿を見せるとき、村には必ず、大いなる災いが降りかかる』


昼間、実家のサンルームで母に話した古い言い伝えが、冷たい刺突となって悠真の脳裏をかすめた。


悠真は息を潜め、足元に落ちたカメラを引き寄せた。ファインダーを覗き、マニュアルフォーカスで霧の中の白い影にピントを合わせる。

バシャリ、と静かなシャッター音が、静寂の山道に響く。


その音に反応したかのように、白鷺は大きな羽を一度だけ羽撃かせた。白い鳥の姿は、乳白色の帳の向こうへと、文字通り掻き消えるように消え去った。


「消えた……?」


悠真はカメラを下ろし、再び眼鏡のブリッジを押し上げた。

しかし、悠真の視線は、その鳥の背景――白鷺が立ち去ったあとの、路肩の草むらへと吸い寄せられた。


「あそこ……不自然に草が倒れてる」


悠真は車を路肩に寄せ、外に出た。一歩足を踏み出した瞬間、冷たい霧が肌を刺す。

カメラを片手に、白鷺がいた草むらへと近づく。そこは、旧道からさらに崖下へと続く、古くから使われていない散策路の入り口だった。大人の背丈ほどもあるススキやシダ植物が、不自然に大きく踏み荒らされた形跡があった。


悠真は懐中電灯を取り出し、その足元を照らした。

湿った黒土の上に、はっきりと刻まれている「影」があった。


人間の足跡だ。


それも、一人ではない。泥を深く抉り取った武骨な男の靴跡と、それを追いかけるように、あるいは引きずられるようにして残された、もう一つの乱れた足跡。


「先生の、足跡……?」


民俗学のフィールドワークに同行してきた悠真には分かった。この片方の足跡の幅、そして歩幅の乱れ方は、堂島教授が疲弊した時によく見せる歩き方の癖に酷似していた。

足跡は、濃い霧が渦巻く崖下の渓谷、つまり村の入り口である『白鷺橋』の方角へと、点々と続いて消えている。


「先生……! あなたはやっぱり、この霧の中にいるんだ!」


悠真は、先生がまだ生きていて、誰かに連れ去られたか、あるいは自力で歩いているのだと確信した。一刻も早く先生を見つけ出さなければならない。


悠真は足跡の写真を数枚撮影すると、急いで車内へと戻った。

ギヤをドライブに入れ、レガシィを再び発進させる。フロントガラスを叩く霧の向こう、恩師の行方を求めて、悠真は夜霧の温泉街へと滑り込んでいった。


(第一章・了)

旅先で出会う人々は、時に風景よりも鮮やかで、

時に事件そのものよりも深い謎を抱えています。

今回描いたのは、そんな“人の奥にある静かな揺らぎ”でした。


誰かの沈黙や、ふとした仕草、

言葉の端に滲む感情──

それらは派手なトリックよりも雄弁に、

その人の過去や秘密を語ってくれます。


もしこの物語の中で、

あなた自身の旅の記憶や、

どこかで出会った誰かの表情を思い出してくれたなら、

それほど嬉しいことはありません。


また次の旅先で、

新しい謎と、新しい人間模様をお届けできればと思います。

その日まで、どうぞお元気で。

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