第1話 影の動く午後
足元に、言いようのない違和感があった。
名護の四月。本土より一足早く訪れる初夏の陽光は、湿り気を帯びて肌にまとわりつく。
街の真ん中に鎮座する巨大な「ひんぷんガジュマル」の樹冠の下。何百年もこの街を見守ってきたという大樹の影は、どこか深海のように暗く、冷たい。
高校三年生の比嘉湊は、ふと足を止めた。
自分の足元。アスファルトに焼き付いた黒い輪郭が、わずかに濃い気がした。まるで、自分の意思とは無関係な重力が足元にだけ働いているような。泥の中を歩いているような、不自然な粘り気。
(……暑さのせいか)
湊は一度目を閉じ、強くこすった。最近続いている寝不足のせいだ。あり得ない想像を振り払うように、深く息を吐き出す。
街はいつも通りだ。商店から流れてくるラジオの音、遠くを走る車の走行音。
けれど、湊の胸の奥には、幼い頃から消えない違和感が澱のように溜まっている。
何か、大切なものを忘れている。
自分だけが、どこか遠い場所から「帰ってきた」ような、薄ら寒い空虚感。その欠落の正体は、どれだけ思い出そうとしても霧の向こう側だった。
「おーい、湊! またこんなところで固まって。熱中症か?」
背後から飛んできた能天気な声に、湊は思考を遮られた。
振り返ると、同級生の新里風太が、額の汗を拭いながら駆け寄ってくるところだった。その後ろからは、宮城ひかりが、快活な足取りで続いている。
「また考え事? 湊、あんまり一人でぼんやりしてると、マブイ落とすよ」
ひかりが、いたずらっぽく笑いながら湊の顔を覗き込んだ。
湊とは幼馴染で、物心ついた時から隣にいた。彼女の明るさは、湊の胸にある空洞を、時折ほんの少しだけ埋めてくれるような気がした。
「マブイ……。またおばあちゃんの話か」
「あはは、ひかりのおばあ、最近またうるさいんだよね。最近、マブイを落とした人が増えてるから気をつけろってさ」
風太が苦笑いしながら付け加える。
「なんかな、東江の方で、急に反応が薄くなった人がいたらしいぜ。呼びかけてもダメ。大好物の食べ物を出してもダメ。ただぼんやり、自分の足元をずっと見てるらしい。まるで、中身がどこかにいっちゃったみたいにさ。おばあたちは『魂が抜けたんだ』って騒いでるけど、ちょっと不気味だよな」
「……中身が、どこかに」
湊は、その言葉を反芻した。
マブイ。沖縄の言葉で、魂。
驚いた時や強いショックを受けた時、魂が体からこぼれ落ちてしまう。それを呼び戻す儀式が「マブイグミ」だ。この島では、それは生活に溶け込んだ、ありふれた概念だった。
「おばあはね、マブイは帰るところがあるから戻れるんだ、って言うの」
ひかりが、少しだけ真面目な顔をして言った。
「名前を呼ぶのは、縛るためじゃない。『帰ってきていいよ』って教えるためなんだって。だから、もしマブイを落とした人がいたら、誰かが名前を呼んであげなきゃいけないの。……でも、最近のは、なんだか呼び声が届かない気がするって、おばあは怖がってた」
その時、ガジュマルの太い根の隙間から、するりと「それ」が現れた。
「……ニャア」
低く、鈴の音を転がしたような声。
白地に灰色の模様が混じった、不思議な毛並みの猫だ。
「あ、またいた。ナギサ」
風太が声を上げる。
ナギサ。数年前からこの界隈に住み着いている野良猫だ。名護の子供たちの間ではちょっとした有名猫で、湊もこの猫とは数年前からの腐れ縁だった。
初めて会ったのは、湊が例の「欠落感」にひどく苛まれ、一人で海を見ていた時。気がつくと、この猫が隣に座っていた。以来、湊が何かに行き詰まった時、決まってナギサは姿を現す。
言葉は通じないが、湊が何かを見落としている時にそれを教えに来る、奇妙な知人のような存在だ。
何より目を引くのは、その両目の色。
片方は澄んだ青、もう片方は深い琥珀色。オッドアイの瞳が、じっと湊を見上げた。
「また湊のところに来た。この猫、本当に湊以外には愛想悪いよね」
ひかりが笑いながらナギサに手を伸ばそうとするが、ナギサはひらりと身をかわした。
ナギサは、湊に対してだけは、馴れ合うでもなく、ただ「観察」するように一定の距離を保つのだ。
ナギサは、湊の足元を一度だけ鋭く一瞥すると、そのまま海の方へと歩き出した。
数歩歩いては立ち止まり、しっぽをゆらりと揺らして湊を振り返る。
「……ついてこい、ってことか?」
湊は、吸い寄せられるように足を動かした。
胸の奥で、嫌な予感が疼いていた。潮の匂いが、急に濃くなった気がしたからだ。
*
大通りを抜け、しばらく歩いて名護湾沿いの防波堤へ。
穏やかな午後の光が降り注いでいたが、その日の波音は、湊の耳に少し遅れて届いた。
ザザ、という音が、視覚的な波の砕け方と一致しない。
世界の再生速度が、ここだけ狂っているかのような違和感。
(やっぱり、おかしい。何かが、ズレてる)
「あ……。あそこに誰かいる」
ひかりが指差した先。
防波堤に腰掛けた、一人の男性がいた。かりゆしウェアを着た中年の男性だ。けれど、その様子は明らかにおかしかった。
上半身を不自然に折り曲げ、地面を――自分の影を、取り憑かれたようにじっと見つめている。
「待て、ひかり。……近づかない方がいい」
「でも、具合が悪そうだよ! おじさん、大丈夫ですか?」
ひかりは湊の制止を振り切り、男性の肩に手を置こうとした。
その瞬間。
男性の影が、ぐにゃりと歪んだ。
太陽の位置からはあり得ない方向へ、影が長く伸び、防波堤を這い上がる。
影は、本人よりも先に、ひかりの方を向いて立ち上がった。
「……え?」
ひかりの動きが止まる。
男性の顔はまだ下を向いたままだ。なのに、足元の黒い影だけが、巨大な獣のような形を成して、ひかりに覆いかぶさろうとしていた。
『……かえ……して……』
頭の中に、直接響くような声。それは声というより、擦れた砂嵐のような音だった。
「ひかり、離れろ!」
湊が叫ぶ。
それと同時に、男性の体が、まるで糸の切れた人形のように激しく痙攣した。
男性の目の下や指先に、墨をこぼしたような黒い染みがじわりと滲み出し、影と肉体の境界が曖昧になっていく。
目の前の光景を、脳が拒絶していた。
それは湊の知る「人間」の挙動ではなかった。
影が、鋭い鉤爪のような形に変化し、ひかりの胸元へ向かって振り下ろされた。
湊の体が、勝手に動いた。自分の意思ではない。内側から誰かに体を操られたような感覚。
湊はひかりを突き飛ばそうと手を伸ばす。
間に合え。間に合ってくれ。
けれど、現実は無情だった。
影の爪が、ひかりの体を、まるで紙細工のように容易く貫いた。
「……ぁ」
短い吐息。ひかりの胸から、鮮血が舞う。赤い飛沫が、湊の頬にかかった。
驚くほど熱かった。
「ひかり……っ!」
「湊……逃げ……て……」
ひかりの体が、防波堤に崩れ落ちる。
彼女の瞳から光が消えていく。その直前、彼女のマブイ――淡い光の塊のようなものが、肉体からこぼれ落ちるのを、湊は確かに見た。
だが、嘆く暇さえ与えられない。ひかりを貫いた影が、次は湊へと狙いを定めた。
『……かえ……せ……おまえのも……かえせ……』
黒い腕が、湊の視界を覆いつくす。
逃げる場所なんてなかった。心臓を、冷たい何かが貫通した。
痛みは、一瞬遅れてやってきた。肺が潰れ、呼吸ができなくなる。
視界が急速に狭まり、世界がどろりと黒い絵の具に溶けていく。
(ああ、またか)
死の淵で、湊はなぜかそう思った。
初めて経験するはずの「死」が、妙に既視感を伴って彼を包む。
その時、湊の足元で。湊の影が、二重にぶれた。
波紋のような潮の跡が、虚空に浮かび上がる。
誰かが、湊の手を握ったような、微かな温もり。
そして――。
時計の針が逆回転するような、耳障りな音が響いた。
*
「……ひかりっ!!」
湊は、勢いよく上半身を起こした。
喉の奥からせり上がる、焼けるような熱。心臓が激しく、肋骨を内側から叩き壊さんばかりに脈打っている。
「……はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
汗が、滝のように顔を伝い落ちる。胸を貫かれたはずの場所を手で押さえた。傷もなければ、血の一滴もついていない。
「……え?」
「わはははは! なんだよ今の叫び声!」
「比嘉くん、すごい寝言! どんな悪夢見てたの?」
教室中に、爆発的な笑い声が広がった。
湊は呆然と周囲を見渡した。
西日に照らされた、見慣れた教室。掃除の時間前の、気だるい放課後の空気が漂っていた。
「ひ、比嘉くん、大丈夫……? 先生が教室出た途端に飛び起きるからびっくりしたよ」
前の席の女子生徒が、肩を震わせながら笑っている。周囲のクラスメイトたちも、面白そうに湊を指差してくすくすと笑っていた。
「ひどい顔してるよ、湊。そんなに宮城さんのこと呼びたかったわけ?」
茶化すような男子の声に、湊は視線を動かした。
そこには、ひかりがいた。
死んだはずの宮城ひかりが、呆れたような、けれど心配そうな顔をして、湊の机の前に立っている。
「……ひかり……お前、生きてるのか?」
湊の声は、自分でも驚くほど掠れていた。ひかりは、さらに眉をひそめて、湊の額に手を当てた。
「何言ってるの。あんた、さっきまで数学の授業中、死んだみたいに寝てたじゃない。……ねえ、本当に大丈夫? 顔色が真っ青だよ」
ひかりの手は、確かに温かかった。血の熱さではない、生きている人間の、確かな温もり。
湊は震える手で、机の上のカレンダーを確認した。
――四月十四日。
あの惨劇が起きた日から、三日前の日付。
(夢……? でも、あんなに鮮明な……)
頬に残る血の感触。影に心臓を握りつぶされた時の、あの冷たさ。
それらはまだ、湊の皮膚の下にこびりついて離れない。脳が勝手に見せた幻影だと笑い飛ばすには、あまりにも「本物」すぎた。
「あ、見て! ナギサじゃない?」
「うわ、本当だ。珍しい。二階まで上がってくるなんて」
窓際に座っていた生徒たちが、外を指差して声を上げた。
湊が弾かれたように顔を向けると、開いた窓の縁に、一匹の猫が悠然と座っていた。
白地に灰色の模様。そして、左右で色の違う瞳。
「かわいい。こっちおいで」
「ダメだよ、こいつ湊以外には懐かないんだから」
クラスメイトたちが口々に騒ぎ、スマホを向ける者もいる。
けれど、ナギサはそれらの注目を無視するように、ただじっと湊を見つめていた。
いや、やはりその視線は、湊の顔を少しだけ外れ、彼のすぐ隣にある「何か」を凝視しているようだった。
湊の背筋に、冷たい汗が伝う。
さっきの光景の中にいた猫が、今、目の前にいる。
湊が視線を机に戻すと、開いたままのノートの上に、いつの間にか青い線が走っていた。
置いてあったはずの青いゲルインクペンは、その線の終点に転がっている。
先ほどまで、白紙だったはずだ。
湊は、息を止める。
誰も握っていない。
湊自身も、ペンに触れてはいない。
それなのに、紙の上には鮮明な青い跡が刻まれていた。
文字ではなかった。
夜空に打ち上がった花火が、開ききる前に崩れたような、歪な線。
その先に、火種のような小さな点が、ぽつりと残されている。
青いインクで描かれているはずなのに、湊にはそれが、黒く焦げる直前の火花の跡のように見えた。
ノートの紙が、見えない熱でじりじりと焼かれているような錯覚。
「……なんだ、この刻印は」
無意識に、その言葉が口をついて出た。
それが何を意味するのか、今の湊には分からない。
けれど、その図形を直視していると、脳の裏側に冷たい泥が流れ込んでくるような不快感があった。
「……湊くん?」
ひかりが心配そうに湊の顔を覗き込む。
湊は、自分の手がまだ震えていることに気づいた。その手を、強く、壊れるほどに握りしめる。
今起きたことが何なのか、まだ分からない。
自分が狂ったのか、それとも世界の方が壊れたのか。
けれど、あの光景が「これから起こること」なのだとしたら。
湊は、隣に立つひかりの腕を、反射的に掴んでいた。
「湊……?」
「……どこにも、行くな」
「えっ……ちょ、ちょっと、みんな見てるってば!」
周囲が再び冷やかしの声を上げるが、湊は手を離せなかった。
理屈なんてどうでもいい。
あの防波堤で感じた、魂が削り取られるような絶望だけは、二度と味わいたくなかった。
窓の外、名護の空は、嵐の前の静けさのように、不気味なほど青く透き通っていた。
湊の足元の影が、再び、じわりと泥のように不自然に濃くなった。




