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逆走勇者  作者: kaya
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第一話 逃げた勇者、帰宅する

魔王は、強すぎた。


それはもう、笑ってしまうくらい強かった。もちろん、その時の勇者レオには笑う余裕など一切なかったが、あとから思い返せばそれくらいしか感想が出てこない。


扉を開いた瞬間だった。


最初に飛び出したのは剣士だった。迷いのない踏み込み。最速の一閃。レオですら目で追うのがやっとの斬撃だった。


だが魔王は、ただ気づけば半歩だけずれていて、そこに剣先は届かなかった。


空を切った一撃のすぐ後を、武闘家が駆けた。


床を砕く勢いで踏み込み、全身の気力を一点に込めた渾身の一突き。まともに入れば山でも砕く技だった。


けれど、その瞬間だった。


魔王の足元から黒い波が走り、武闘家の踏み込みをほんのわずかに狂わせた。たったそれだけで十分だった。必殺の一撃は魔王の脇をかすめるだけで終わる。


「下がれ!」


誰かが叫ぶより先に、魔法使いの詠唱が完成した。


熱が集まる。光が膨れ上がる。空気が震える。部屋そのものを焼き尽くしかねない大魔法が、ついに解き放たれた。


いける、とレオは思った。


だが魔王は動かなかった。


避けるどころか、静かに片手を上げる。


次の瞬間、その手のひらから黒い魔法が放たれた。まるで前もって術式を展開していたかのような魔王の魔法は魔法使いの大魔法と真正面からぶつかり合い、空中で激しく噛み合って、轟音とともに相殺される。


爆風が玉座の間を揺らした。


「は……?」


レオは息を呑んだ。


剣士の一閃は届かず、武闘家の突きは逸らされ、魔法使いの切り札は正面から潰された。


あまりにも一方的だった。まるで、誰がどこで何を出すのか、最初から全部知っていたみたいに。


「レオ!」


仲間の声に押されるように、レオも剣を抜いた。


勇者の力をまとい、踏み込もうとする。ここで自分がやらなければ終わる。そう思った。勇者としては正しい判断だったと思う。


ただし、その相手が悪かった。


「速っ」


勇者の力をまとおうとした、その瞬間にはもう遅かった。


次の瞬間には魔王の手が目の前にあった。


衝撃。視界が回る。床。痛い。息ができない。勇者の覚悟も威厳も、まとめて吹き飛んだ。


薄れる視界の向こうで、仲間たちが崩れていく。


魔王は玉座の前に立ったまま、ただ静かにこちらを見ていた。怒っているわけでも、嘲っているわけでもない。ただ、全部終わったものを見るような目だった。


その目が、いちばん怖かった。


レオは立ち上がった。


そして逃げた。


驚くほどきれいに逃げた。


「いや無理だろ!」


来た道を全力で駆け戻りながら叫ぶ。


「ちょっと勝ち目ってものがあるだろ普通! なんで最初の一分で全部終わるんだよ!」


返事はない。背後から追ってくる気配もない。


それがまた怖い。


「なんで追ってこないんだよ! 逆に怖いだろ!」


怖さに文句を言いながら、レオは必死に走った。勇者のマントは途中で木の枝に引っかかって破れた。


「あっ」


一瞬立ち止まりかけたが、すぐにやめた。


「今それを惜しんでる場合じゃない!」


剣は重かった。伝説の剣と聞いていたが、いま必要なのは伝説ではなく逃走力である。


しばらくして、レオは剣を道端にそっと置いた。


「すまん、伝説」


別れは思ったよりあっさりしていた。


森を抜け、橋を渡り、街道を転びそうになりながら走り続ける。途中で水を飲み、草むらで寝て、また走る。誰も追ってこない。それなのにレオは五日間、ずっと逃げ続けた。


止まったら死ぬ気がしたのだ。主に気持ちが。


五日後、レオは故郷へ帰ってきた。


王都から遠く離れた小さな村。土の道、木の柵、見慣れた畑。村はずれの古びた家を見た瞬間、レオはその場にへたり込みそうになった。


「……帰ってきちゃったなあ」


達成感はない。誇らしさもない。あるのは空腹と疲労と、どうしようもない情けなさだけだった。


戸を開けると、台所にいた母が振り返った。


「ただいま」


「ああ、レオ。ついにやり遂げたのね」


「え、あー……やり遂げたと言えば、やり遂げたかな」


「うん?」


「魔王からの逆走を」


母は無言で布巾を投げつけた。


「このバカ息子が!」


「痛っ! いやだって強すぎたんだって、魔王! 大事な息子が帰ってきただけでもいいじゃないか!」


「よくないよ! どうするんだい、この世界!」


「えーい、うるさい、何も聞こえない! もう世界なんて滅んじまえ!」


「なんか息子が魔王みたいなこと言ってるわ」


「違う、これはやさぐれてるだけ!」


レオはふらふらと靴を脱ぎ、そのまま奥の部屋へ向かった。


「じゃあ俺、もう引きこもるから。村の人が来たら適当に鍛錬中って言っといて。あとごはん」


「なんか息子が魔王級のニートになろうとしているわ」


「ニートじゃない、敗走後の休養だ」


「言い換えてもだめよ」


それでも母はスープをよそってくれた。温かい湯気を見た瞬間、レオは少し泣きそうになった。人の心は案外単純で、優しい言葉より先に温かい食事に救われることもある。


席につき、スープを口に運ぶ。


うまい。


びっくりするほどうまい。


魔王城で食べた乾いた携行食とは比べものにならない。固いパンですら泣けるほどうまい。


「……うまい」


「そりゃよかったね」


「もう少しこう、労いみたいなのない?」


「生きて帰ってきたんだから、それで十分でしょ」


「そうかもしれないけど!」


母はそれ以上何も言わなかった。レオも何も話さなかった。


その晩、レオは久しぶりに屋根のある場所で眠った。


安心できるはずだった。


なのに夢の中では、また扉が開いた。


剣士が踏み込み、武闘家が回り込み、魔法使いが詠唱する。自分も剣を抜く。そして次の瞬間には、全員が崩れ落ちている。


レオは飛び起きた。


「最悪だ……」


朝だった。最悪の朝だった。


その日から、レオは部屋にこもるようになった。


朝起きて、食事をして、部屋に戻る。昼も、夜も同じだった。村人たちは「本当に勇者のレオが戻ってる」とひそひそ噂したが、レオは聞こえないふりをした。


たまに母に「薪を運びな」「水を汲みな」と言われれば渋々動いたが、それ以外はほとんど部屋か縁側にいた。


部屋の隅には持ち帰った荷物が置かれている。土まみれの装備、傷んだ靴、空になった水袋。勇者らしいものはほとんど残っていない。そもそも伝説の剣は途中で置いてきた。


「最低だな……」


自分で言って、自分でへこむ。


窓の外からは子どもの声が聞こえる。鳥の声もする。畑を耕す音もする。世界はまだいつも通り回っている。


なのに目を閉じると、あの部屋が蘇る。


剣士の一閃。武闘家の一突き。魔法使いの大魔法。自分の勇者の力。


全部、何も届かなかった。


「寝るときまで反省会するなよ……」


布団を頭までかぶっても、自分の記憶なので逃げられない。


もう勇者ではなかった。あの場から逃げた瞬間に、自分の中の何かはきれいに折れてしまったのだ。


こうして逃げ帰った元勇者レオは、故郷の片隅で引きこもった。


今のレオにできることといえば、それくらいだった。


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