余ったから
GW明け。5月の第2週。
久しぶりの登校で体が重い。連休中にだらけた生活をしていた代償だ。ひなたのおばあちゃんちの土産である饅頭を3つも食べたのも良くなかった。
教室のドアを開ける。まだ8時前で、中にいるのは数人だけだった。
自分の席に向かう途中、ある違和感に気づいた。
秋月がもう席にいた。
普段、秋月は俺より少し遅れて教室に来る。始業のチャイムぎりぎりではないが、俺より早いことはほとんどなかった。
「おはよ、秋月」
「......おはよう」
挨拶が返ってきた。これだけでも入学当初と比べれば大きな進歩だ。最初は「......」だけだったのが、最近は一応言葉として成立するようになった。
鞄を置いて座ろうとした時、秋月が動いた。
机の上に置いてあったペットボトルを、こちらに差し出してくる。
「......余ったから」
500mlのペットボトル。緑茶。見覚えのあるラベルだった。
伊右衛門。俺がいつも購買で買っている銘柄だ。
「お、サンキュ」
受け取る。冷たい。冷蔵庫から出したばかりのような温度だ。自販機で買ったにしては、ここに来るまでの時間を考えると温くなっていてもおかしくない。つまり、教室に着いてからそんなに時間が経っていないか、あるいは──朝一番にわざわざ買ってきたか。
まあ、深く考えることでもない。
「俺、これ好きなんだよ。よく知ってんな」
何気なく言った一言だった。
秋月の指先がわずかに動いた。ペットボトルを渡した手が、膝の上に戻る。
「......たまたま同じのを買っただけ」
視線が窓の方に逸れる。たまたま。秋月のたまたまは、だいたいたまたまじゃない。GWの迷子も「たまたま」で、職員室の前で立ち尽くしていたのも「たまたま」だった。秋月の「たまたま」は「意図的だけど認めたくない」の翻訳だと、俺は最近学んだ。
ただ、それを指摘する気はない。
「まあ、助かったわ。まだ購買開いてなかったし」
「......そう」
秋月は窓の外を向いたまま、それ以上何も言わなかった。
俺はペットボトルのキャップを開けて一口飲んだ。冷たくて美味い。朝のお茶は格別だ。
* * *
1時間目が終わった休み時間。
桐生が自分の席からものすごい勢いで駆けてきた。教室の端から端までを3秒で走破する男。無駄な運動能力が高い。
「蒼太! お前、さっき秋月さんから何かもらってたよな!?」
「声がでかい。お茶だよ、お茶」
「お茶!? 秋月さんからプレゼント!?」
「お茶一本でプレゼントって大げさだろ」
桐生は目を見開いたまま、俺と秋月の席を交互に見た。秋月は本を読んでいる。桐生の大声が聞こえていないはずはないが、微動だにしない。鋼のメンタルだ。
「いや待て。あの秋月さんだぞ? 誰にも何も渡さないあの秋月さんが、お前にお茶を!?」
「余ったからだってよ」
「余ったから......? お前、それ信じてんの?」
「信じるも何も、そう言ってたし」
桐生が両手で頭を抱えた。
「お前ってやつは......」
天を仰いでいる。何がそんなに衝撃なのか俺にはよくわからないが、桐生にとっては大事件らしい。
「いいか蒼太、普通な、女子が男子に飲み物を──」
「はいはい。授業始まるぞ」
「聞けよ! 大事な話だから!」
「大事じゃないから聞かない」
桐生は「絶対後で話すからな」と指を突きつけて自分の席に戻っていった。後で聞く気もない。
ちらっと隣を見ると、秋月が本のページを一枚もめくっていなかった。読んでいるふりをしていたのだろうか。
気のせいか、耳がほんのり赤い。
* * *
放課後。
荷物をまとめて教室を出ると、秋月がすでに廊下にいた。
最近はこうだ。どちらかが待っているわけでもなく、自然に合流して、自然に一緒に帰る。GW前に俺が「一緒に帰るか」と言って、秋月が「考えておく」と答えた。翌日から、秋月は何も言わずに俺の横を歩くようになった。「考えた結果」がこれなのだろう。言葉にはしないが、答えは行動に出ている。
校門を出て、通学路を歩く。5月の風が気持ちいい。木々の緑が濃くなってきて、桜の季節とはまた違う景色だ。
「GW、どうだった?」
俺が聞くと、秋月は少し間を置いて答えた。
「......普通」
「普通ね。どっか行った?」
「......散歩」
また散歩だ。GW中に俺と会った時も散歩だった。秋月のGWは散歩で構成されていたらしい。
「......藤宮は」
「ん?」
「......GW、暇だった?」
秋月が聞いてきた。秋月の方から話題を振ってくるのは珍しい。
「まあな。ほぼ家にいた」
「......ずっと一人?」
「いや、ひなたが来てたけど」
秋月の歩く速度が、一瞬だけ落ちた。
半歩分くらい。すぐに元に戻ったが、確かに落ちた。
「......そう」
その「そう」は、いつもの「そう」と少し違って聞こえた。温度が低いというか、抑揚が完全に消えているというか。
気のせいかもしれない。秋月の「そう」に違いを見出そうとすること自体が、たぶんおかしい。
「ひなたがさ、格ゲー連打で勝ってくんだよ。技とか一切使わないで」
「......」
「ボタン全部同時押しとかするんだぜ。それで勝てるのが逆にすごいっていうか」
なんとなく、補足していた。ひなたとは幼馴染で、ゲームして飯作ってただけだ、という説明を付け足したくなった。なぜかはわからない。
「......藤宮は、柚木さんと仲がいいのね」
秋月がぽつりと言った。声は平坦だったが、視線は前を向いたままで、こちらを見ない。
「まあ、幼馴染だからな。家が隣で」
「......そう」
また沈黙が落ちた。
分岐点が近づいてくる。いつも別れる場所だ。
「......じゃあ」
「おう。また明日な」
秋月は小さく頷いて、右に曲がっていった。
その背中を見送りながら、ふと思った。
秋月にGWの過ごし方を聞かれたのは、さっきのコンビニの時を含めて2回目だ。俺はそのどちらでも、ひなたの名前を出した。
別にひなたの名前を出すこと自体に意味はないのだが、秋月の歩く速度が落ちたのが、少し引っかかった。
まあ、たまたまだろう。
秋月の「たまたま」がたまたまじゃないように、俺の「たまたま」もたまたまじゃないのかもしれないが──いや、考えすぎだ。
帰ろう。明日の弁当の献立を考えないと。




