秋月さんの視力
身体測定の日は、午前中の授業が全部つぶれる。
男子は体育館、女子は教室で測定。終わった組から自由時間になるので、実質午前中は半休みたいなものだ。桐生は「最高の日」と叫んでいたが、俺は別にどっちでもいい。授業がなくなっても弁当を作る時間は変わらないし、放課後のスーパーの特売に影響があるわけでもない。
男子の測定はさっさと終わった。身長172cm。去年から1cmも伸びていない。体重も変わらず。視力は右2.0、左1.5。去年と同じだ。
桐生は身長が175cmで、「俺の方が高い」と嬉しそうに報告してきた。こいつの身長に対する執着はよくわからない。
「つーか蒼太、視力2.0って何が見えんの? 未来?」
「お前の成績が下がるのは見える」
「やめろ!! 当たりそうで怖いんだよそれ!!」
桐生が頭を抱えた。的確に弱点を突いてしまったらしい。
* * *
結果は午後に廊下へ貼り出される。名前と数値だけの簡素な一覧表だ。
桐生が女子の方の一覧表に張りついていた。
「おい蒼太、秋月さんの身長162cmだって。スタイルいいよな!」
「興味ねえよ」
「えー? 隣の席なのに?」
「隣の席だから何なんだよ」
「いやぁ、ロマンがねえなー」
ロマンの意味がわからない。他人の身体測定の結果をじろじろ見る方がどうかと思うが。
俺は自分のクラスの男子の結果だけ確認して、その場を離れようとした。
ちらっと、秋月の名前の行が目に入った。見ようとしたわけじゃない。ただ、自分の名前の近くに秋月の名前があって、視界に入っただけだ。
視力──右0.7、左0.6。
あの位置から黒板を見るには少し心もとない数値だ。窓際の後ろから2番目は、教室の中で黒板から最も遠い席の一つだ。
桐生はまだ女子の一覧に張りついていた。俺は黙ってその場を離れた。
* * *
5時間目の数学。
担任の花園先生が黒板に二次関数のグラフを描いている。チョークの音が教室に響く。
隣の席で、秋月がわずかに目を細めていた。
普通なら気づかない程度の変化だが、俺は最近、秋月の微細な表情変化に敏感になっている。理由は知らない。卵焼きの火加減を見るのと同じで、些細な変化が自然と目に入るようになった。
秋月はノートにペンを走らせているが、時折顔を上げて黒板を見る。その度に、ほんの少しだけ首を前に出す。目を細める。ノートに視線を戻す。書いて、消して、また書く。黒板の右端に書かれた公式を写す時、ペンの動きが明らかに遅くなった。見えていないのだ。
授業が終わった後、俺は何気なく聞いた。
「秋月、黒板見えてるか?」
「......見えてる」
即答。だが声のトーンが0.5段階くらい低い。秋月が嘘をつくときの特徴を、俺はこの数日で覚えてしまった。声が低くなって、語尾が短くなる。「たまたま」と言う時と同じパターンだ。
「ふうん」
それ以上は突っ込まなかった。視力のことは本人の問題だ。見えてると言うなら、そういうことにしておく。
* * *
休み時間。ひなたが教室に来た。
「そうくん! ひなた伸びた?」
「知らねえよ。何の話」
「身長! ひなた158cmだったの! 去年より1cm伸びたんだよ!」
「おう、よかったな」
「えー、もっとリアクションしてよー。1cmだよ、1cm!」
「1cmはすごいな」
「棒読みじゃん!」
ひなたはぷっくり頬を膨らませたが、3秒で元に戻った。この切り替えの速さはひなたの長所だと思う。怒っても膨れても、すぐに元の笑顔に戻る。
「あ、そうだ。そうくん視力いくつだった?」
「2.0と1.5」
「えーすごい! ひなたなんか右も左も1.2だよ。そうくんの目すごいね!」
ひなたの感嘆が教室に響く。俺は「普通だろ」と返したが、ひなたは「普通じゃないよ! 2.0ってアフリカの人じゃん!」と謎の例えを出してきた。アフリカの人に失礼だろう。
ひなたが自分のクラスに戻った後、隣から小さな声が聞こえた。
「......ずるい」
聞き間違いかと思って横を見ると、秋月が自分のノートに目を落としていた。頬杖をついて、シャーペンの先で机をとんとんと叩いている。
「今、何か言ったか?」
「......言ってない」
「ずるいって聞こえたけど」
「......空耳」
「視力2.0の耳は確かだぞ」
「......それは視力の話で、聴力は関係ない」
正論を返された。
秋月は相変わらず俺を見ないが、シャーペンを叩くリズムが少しだけ速くなっていた。
* * *
放課後。
俺は鞄を持って立ち上がりながら、隣に声をかけた。
「秋月」
「......何」
「板書見づらかったら、ノート見せるぞ」
秋月が俺を見た。いつもの透明な目。だが、わずかに眉が動いた。
「......いい」
「そうか」
俺はそれ以上言わなかった。断られたら引く。秋月の壁を無理にこじ開ける気はない。困った時に向こうから言ってくるのを待てばいい。今までもそうだった。LINEで一言送ってくるのを待って、案内する。それだけだ。
「......別に、見えてるから」
「ああ、わかった」
「......本当に見えてる」
「ああ」
「......」
秋月は何か言いかけて、やめた。鞄を掴んで立ち上がる。長い髪が揺れて、夕日を反射した。
教室を出る直前に、一度だけ振り返って俺を見た。何か言いたそうな顔をして、でも何も言わずに出ていった。秋月の「何か言いたそうな顔」は、微細だが確かにある。唇がわずかに開いて、すぐに閉じる。あの一瞬だけ、壁の向こう側が透けて見える。
まあ、断られたならそれでいい。無理に手を貸す必要はない。
* * *
翌日の1時間目。現代文。
花園先生が黒板に文章の要約ポイントを書き出している。
俺はノートに書き写しながら、ふと違和感に気づいた。
隣の秋月が、いつもより俺側に身体を傾けている。ほんの少しだけ。角度にして5度くらい。
そして俺のノートに視線を落としている。
自分のノートに書く。顔を上げて黒板を見る。目を細める。俺のノートをちらっと見る。自分のノートに書く。このサイクルを繰り返している。
俺は少しだけ、自分のノートを秋月側にずらした。
秋月の手が一瞬止まった。それからまた書き始める。ペースが上がっている。
授業が終わるまで、俺たちはそのことについて一言も触れなかった。
ノートを閉じる時、秋月の手が止まった。ペンを机に置いて、小さく言った。
「......ありがとう、とは言わない」
3回目だ。この言い方ももう慣れた。否定形で感謝を伝える秋月独自の表現。辞書で引いたら「ありがとう」の項目に秋月の例文として載っていてもおかしくない。
「言ってるようなもんだろ」
秋月は答えなかった。ただ、耳が少しだけ赤かった。髪で隠れているから正面からは見えない。隣の席だから見える角度だ。
この特等席の価値が、少しずつ上がっている気がした。
いや。気のせいだ。たぶん。




