たまたまじゃなかった
始業式から4日目。3時間目の体育のために、男子が教室で着替えていた。
俺は体操服に袖を通しながら、ポケットの中でスマホが震えたのに気づいた。マナーモードにしてあるから音は出ない。桐生からの「体育だるい」スタンプだろうと思って、着替えを終えてから画面を開いた。
桐生ではなかった。
秋月凛。
昨日、職員室に案内した帰りに、念のためLINEを交換していた。「また迷った時に連絡しろ」と俺が言ったら、秋月は6秒くらい黙って、無言でQRコードを差し出した。あの沈黙は抵抗だったのか迷いだったのかわからないが、結果としてQRコードを出したのだから了承なのだろう。
秋月のアイコンは初期設定のまま。プロフィール名も本名そのまま。飾り気がないというか、LINEに興味がないのがまるわかりだ。
メッセージは一言だけだった。
『......体育館』
三点リーダーから始まるLINE。テキストでも秋月は秋月だった。
体育館。男子は体育館でバスケ、女子はグラウンドで陸上のはずだ。つまりこれは場所の報告ではなく、体育館がどこかわからないというSOSだろう。女子の集合場所はグラウンドだから、秋月が体育館を探す理由はない──いや、グラウンドと体育館を間違えている可能性もある。どっちにしても迷っていることに変わりはない。
俺は桐生に「先行っててくれ」と言って、教室を出た。
* * *
体育館は校舎の東端にある。渡り廊下を進んで突き当たりを左に曲がれば着く。シンプルな一本道だ。
だが、秋月は反対方向にいた。
西棟の廊下の突き当たり。窓際に立って、きょろきょろと左右を見ている。体操服姿の秋月を初めて見た。白いTシャツに紺のハーフパンツ。長い黒髪をポニーテールにまとめている。
こっちに気づいた秋月が、一瞬だけ目を見開いて、すぐにいつもの無表情に戻る。もう慣れたが、この切り替えの速さは毎回すごいと思う。秋月の表情には初期値があって、何かに反応して動いても、0.5秒以内にリセットされる。感情のオートセーブ機能でもついているのか。
「秋月、体育館は逆」
「......知ってる」
「知ってたらなんでこっちにいるんだ」
「......確認してた」
「何を」
「......こっちが体育館じゃないことを」
消去法で目的地を探すタイプらしい。校舎のすべての行き止まりを潰していたら、授業が終わる。
「ついてこい」
俺が歩き出すと、秋月は半歩後ろをついてきた。昨日と同じ距離感だ。足音がほとんどしない。ポニーテールが歩くたびに左右に揺れる。
渡り廊下を抜ける。窓の外に桜が見えた。もう散りかけだ。
体育館の入口が見えた。女子の何人かがストレッチを始めている。秋月が行くべきだったのはグラウンドだが、まず体育館を探していた時点で、そもそもの目的地を間違えている。だが今さらそれを指摘する気にはならなかった。
「ここ。ちなみにお前の集合場所はグラウンドな。体育館の裏を抜けた先だ」
「............」
秋月の耳がかすかに赤くなった。目的地自体を間違えていたことに気づいたのだろう。
「......ありがとう、とは言わない」
秋月は俺を見ないまま、小さくそう呟いた。声量はいつもの半分くらいで、廊下の反対側にいたら聞き逃していたと思う。
「言ってるようなもんだろ」
秋月の足が一瞬止まった。それからすぐに歩き出して、グラウンドの方へ消えていった。背中が見えなくなるまで5秒。振り返ることはなかった。
* * *
その日の5時間目、理科の授業があった。理科室は2階の中央棟にある。移動教室だ。
授業開始の5分前、スマホが震えた。
『......理科室』
またか。
俺は教科書を持ったまま廊下に出た。秋月は3階の階段前で立ち尽くしていた。上に行くか下に行くか迷っているらしい。今いるのが3階で、理科室は2階だから、普通に下りればいい。
「下だ」
「......わかってた」
「じゃあなんで上を見てたんだ」
「............」
12点の沈黙。秋月の辞書に「素直」という単語はないらしい。
秋月を理科室まで送り届けた。到着すると秋月は何も言わず、すっと教室に入っていった。後ろ姿を見送って、自分の席に戻る。
6時間目。音楽室。
『......音楽室』
今日3回目だ。
音楽室は4階にある。秋月は当然のように1階にいた。この校舎は4階建てだが、秋月にかかると8階建てくらいの迷宮になるらしい。
黙って案内して、黙って自分の席に着いた。
* * *
昼休みの時点で、桐生が異変に気づいた。
「お前、今日スマホばっか見てね?」
「別に」
「えー、なんか気になるなあ。もしかして彼女できた?」
「できてねえよ」
「だよなー。お前にできるわけないもんなー」
桐生のこのナチュラルな失礼さには定評がある。俺は「うるせえ」と流して、弁当の残りを片付けた。
午後の授業は移動教室が2回。その度にスマホが震えて、その度に俺は秋月を迎えに行った。もはやルーティンになりかけている。
放課後。俺は荷物をまとめて教室を出ようとした。
「......藤宮」
声が聞こえたのは、隣の席からだった。
秋月が俺を見ている。窓からの夕日が秋月の横顔を照らしていて、黒い髪が少しだけ赤みを帯びて見えた。
「どうした」
「......あなた、笑わないのね」
唐突な言葉だった。秋月の表情は相変わらず読みにくいが、いつもの無関心とは違う何かがあった。
「何が?」
「......私が迷っても」
ああ、そういうことか。
確かに、今日だけで3回も道に迷った奴を案内するのは、普通なら笑うのかもしれない。からかうとか、面白がるとか。
「笑うとこないだろ。困ってんなら助けるし」
俺にとっては、それだけの話だった。道に迷っている奴がいたら案内する。重い荷物を持っている奴がいたら手伝う。そこに笑うとか馬鹿にするとかいう発想が出てこない。
秋月は俺を見ていた。いつもは視線が合うと逸らすのに、このときだけは逸らさなかった。透明な瞳の奥に、何か小さな波紋が広がったように見えた。静かな水面に石を投げた時の、最初の一波みたいな。
3秒くらいだったと思う。長い3秒だった。秋月は視線を落として、鞄を持って立ち上がった。
「......変な人」
それだけ言って、秋月は教室を出ていった。
変な人。褒められているのか貶されているのかわからないが、昨日の「たまたま」よりは正直な言葉だと思った。
窓の外では、桜の花びらが風に吹かれて舞っていた。
たまたまじゃなかった。秋月の方向音痴は筋金入りだ。そして俺は、それに毎回付き合うことを、別に面倒だとは思っていない自分に気づいていた。




