迷子の天才
始業式から3日が経った。
隣の席の秋月凛について、俺が知ったことはほとんどない。朝は俺より少し遅れて教室に来る。昼はコンビニのサンドイッチかおにぎり。放課後は誰よりも早く帰る──と思っていたが、たまに教室に残っている。窓の外を見ている。
それだけだ。
話しかけても「......そう」か「......別に」しか返ってこないので、会話が成立しない。桐生は「攻略難易度SSだな」とか言っていたが、ゲームじゃないんだから攻略とかない。
まあ、隣の席だからといって仲良くならなきゃいけない法律はない。俺はいつも通り弁当を作り、いつも通り授業を受け、いつも通りの日常を過ごしていた。
* * *
その日の放課後、俺は教室に体操服を忘れた。
明日は体育がある。取りに戻らないと詰む。ひなたに「先に帰ってていいぞ」と伝えて、昇降口から引き返した。
2年3組の教室がある3階に上がり、廊下を歩く。放課後の校舎は部活に行く生徒の声が遠くに聞こえるくらいで、この階はもう静かだった。
教室の手前で、足が止まった。
廊下の真ん中に、人が立っている。
黒髪のストレートロング。制服のスカート丈は膝ぴったり。腰まで届く髪が、窓からの西日に照らされている。
秋月だった。
立ち止まって、きょろきょろと左右を見ている。左を見て、右を見て、もう一度左を見る。それから天井を見上げて──いや、天井に何の情報もないだろう。
明らかに迷っていた。
自分の教室まであと20mもない場所で。
「秋月?」
声をかけると、秋月がこちらを振り向いた。一瞬だけ目が大きくなって、すぐにいつもの無表情に戻る。戻るのが速い。
秋月は俺を見て、それから廊下の先を見て、もう一度俺を見た。何かを言おうとして、口を開いて、閉じる。
「......」
沈黙が5秒くらい続いた。
俺は待った。急かしても秋月の口は開かないだろうと、なんとなくわかっていた。
「......職員室は、どっち」
小さな声だった。視線は俺の肩のあたりに向いていて、目は合わせない。
職員室。ここからだと1階の東棟だ。まっすぐ行って階段を2つ降りて右に曲がれば着く。説明は簡単だが──秋月の様子を見ると、口で説明しても辿り着ける気がしなかった。
「案内するよ。俺もこっちに用事あるし」
嘘だ。体操服を取りに来ただけで、職員室に用事はない。でも「道がわからないの?」と聞くのは、なんとなく違う気がした。
「......いい。場所を教えてくれれば」
「この廊下をまっすぐ行って、突き当たりを右に曲がって、階段を降りて──」
「......右」
「そう。突き当たりを右。それで階段を──」
「......突き当たりというのは、どっちの突き当たり」
今いる場所から見て、廊下の突き当たりは一つしかない。
俺は悟った。これは口頭での説明が通じるタイプの人間ではない。
「やっぱり案内する」
「......別に、一人で行ける」
「いや、行けないだろ」
秋月が俺を睨んだ。睨んだというか、わずかに眉を寄せた。秋月の表情変化としてはかなり大きい方だと思う。
「......行ける」
「じゃあ職員室がどっちの方角にあるか言ってみろ」
「............」
12点の沈黙。新記録だ。
秋月は視線を逸らした。それから小さく、本当に小さく、唇だけで言った。
「......案内、して」
俺は黙って歩き出した。秋月が半歩後ろをついてくる。足音がほとんどしない。靴底が床に触れるか触れないかくらいの歩き方だ。猫みたいだな、と思った。
階段を降りる。1階に出て、東棟へ向かう。放課後の廊下は人が少なくて、俺と秋月の足音だけが響いていた。
沈黙が重い。いや、秋月にとっては普通なのかもしれないが、俺は無言で歩くのがあまり得意じゃない。
「今日、暑かったな」
我ながら最悪の話題の切り出し方だと思った。天気の話。これ以上つまらない話題があるだろうか。
「......そう」
やっぱりそうなった。知ってた。
でもまあ、沈黙よりはましだろう。
「4月なのに25度超えてたらしいぞ」
「......そう」
「明日はもっと上がるって天気予報で言ってた」
「......そう」
3連続の「そう」。会話のキャッチボールというより、壁に向かってボールを投げている感覚に近い。
職員室の前に着いた。「ここだ」と言うと、秋月は俺の横を通り過ぎて職員室のドアの前に立った。
振り返る。
「......藤宮」
「ん?」
「......このことは、誰にも言わないで」
秋月の目が、初めてまっすぐ俺を見た。透明な瞳の奥に、かすかな緊張が見える。これは頼んでいるのではなく、念を押している目だった。
「何を?」
「......私が、道に迷ったこと」
言い切るまでに2秒くらいの間があった。「道に迷った」という言葉を口にすること自体が、秋月にとっては相当な譲歩なのだろう。
俺は少し考えて、答えた。
「別に、誰にも言わねえよ。言う理由もないし」
秋月の肩から、わずかに力が抜けた。本当にわずかだ。見間違いかもしれない。
「......そう」
今日何回目かの「そう」だったが、これだけは少し柔らかく聞こえた。気のせいかもしれないが。
秋月が職員室のドアに手をかけたところで、俺はつい聞いてしまった。
「秋月ってさ、方向音痴なのか?」
秋月の手が止まった。
振り返った秋月の表情は、もう無表情に戻っていた。
「......違う」
「いや、だって職員室──」
「......今日は、たまたま」
それだけ言って、秋月は職員室の中に消えた。
ドアが閉まる。
たまたま。
自分の教室から20m離れた場所で立ち尽くしていたのが、たまたま。
まあ、本人がそう言うならそういうことにしておこう。
* * *
体操服を回収して昇降口に降りると、秋月がまた立っていた。
今度は昇降口のど真ん中で、下駄箱の列を見回している。自分の下駄箱の場所がわからないのだろうか。それとも出口がわからないのだろうか。どっちにしても重症だ。
声をかけようか迷ったが、秋月が先にこっちに気づいた。目が合う。
「............」
秋月は何も言わず、さっと視線を逸らして、真っ直ぐ──下駄箱とは反対の方向に歩き出した。逃げるような足取りだった。
3歩で壁にぶつかった。行き止まりだ。
秋月はゆっくり振り返って、俺を見た。無表情のまま。だが、耳がかすかに赤い。
「......たまたま」
いや、もう無理がある。
俺は何も言わず、秋月の下駄箱の場所を指さした。秋月は黙ってそちらに向かい、靴を履き替えて、俺を見ないまま校門の方へ歩いていった。
小さな背中が夕日に照らされている。腰まで届く黒髪が、歩くたびに揺れている。
曲がらなくていい道を右に曲がりかけて、立ち止まって、戻ってきて、正しい方向へ歩いていった。
たまたま。
本人がそう言うなら、そういうことにしておこう。たぶん、明日も明後日も。
帰り道、合流したひなたが「遅かったね。何かあった?」と聞いてきた。
「いや、別に。体操服取りに戻っただけ」
「ふうん? そうくん、なんかちょっと笑ってない?」
「笑ってねえよ」
笑ってない。たぶん。
ただ、隣の席のあいつが「たまたま」を連呼しながら壁にぶつかっていた光景が、なんとなく頭から離れなかっただけだ。




