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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME


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11/11

秋月と数学

5月の中旬。教室の空気がどことなくぴりついてきた。

 原因は明白で、来週から中間テストだ。廊下の掲示板にはテスト範囲表が貼り出され、図書室は放課後になると満席になる。桐生(きりゅう)は「俺はテスト前日に本気出すタイプだから」と豪語しているが、それは本気を出さない言い訳だろう。


 昼休み。弁当を食べながら、俺はテスト範囲のプリントを眺めていた。数学は三角関数、英語は関係代名詞、古典は枕草子。どれもそこそこ準備はしているが、数学だけは自信がある。中学の頃から数学だけは得意で、定期テストはいつも90点前後を取っていた。


「......藤宮(ふじみや)


 隣から声がかかった。秋月(あきづき)だ。

 振り向くと、秋月(あきづき)がノートを開いて机に向かっていた。いつもは本を読んでいるか窓の外を見ているかのどちらかなのに、珍しくノートに何かを書いている。

 いや、書いているというよりは、止まっている。シャーペンの先がノートに触れたまま動いていない。


「どうした?」

「............」


 秋月(あきづき)は3秒ほど黙ってから、ノートを少しだけ俺の方にずらした。


「......ここ、わかる?」


 声が小さい。いつもより更に小さい。聞き逃しそうなくらいだった。

 ノートを覗き込む。三角関数の加法定理の問題だ。sin(α+β)の展開から始まる証明問題で、途中まで書いてあるが、3行目で止まっている。


「ああ、ここか。ここはsinαcosβのまま置いといて、先にこっちを──」


 俺はシャーペンを借りて、秋月(あきづき)のノートの余白に式を書いた。加法定理の問題は手順さえ覚えれば機械的に解ける。ポイントは変形の順番だ。


「ここでsinとcosを分離して、こっちの項と合わせると──」


 秋月(あきづき)が俺の手元をじっと見ている。真剣な目だ。授業中よりも集中している気がする。


「......なるほど」

「わかったか?」

「......順番が違ってた」

「そう。先に分離するのがコツなんだよ」


 秋月(あきづき)は自分のシャーペンを持ち直して、俺が書いた手順を見ながらもう一度最初から解き直した。今度はすらすらと進んでいく。3行目の壁をあっさり越えて、最後の答えまで辿り着いた。


「......できた」

「な。やり方さえわかれば秋月(あきづき)なら余裕だろ」


 秋月(あきづき)がペンを置いて、俺を見た。


「......藤宮(ふじみや)、数学得意なの」

「まあ、数学だけはな。他は普通だけど」

「......他は?」

「英語がやばい。古典はもっとやばい」

「......そう」


 秋月(あきづき)の口元がわずかに動いた。笑ったのか、呆れたのか。


秋月(あきづき)は全部できるだろ。学年5位以内って聞いたけど」

「......数学以外は」

「え、数学苦手なのか?」


 秋月(あきづき)の眉がぴくりと動いた。「苦手」という単語に反応したらしい。


「......苦手じゃない。得意じゃないだけ」

「それを苦手って言うんだよ」

「......違う」


 違わないだろ。でもまあ、秋月(あきづき)のプライドの問題だ。深追いはしない。


 * * *


 放課後。

 教室に残って帰り支度をしていると、秋月(あきづき)がまだ席にいた。ノートを開いている。数学だ。さっきと同じ範囲の、別の問題。

 シャーペンが止まっている。また、同じパターンの問題で詰まっているのだろう。

 俺は自分の鞄を机に置き直した。


「教えようか」


 秋月(あきづき)が顔を上げた。


「......いい」

「いいって、さっき聞いてきたじゃん」

「......あれは、一回だけ」

「一回も10回も同じだろ」


 秋月(あきづき)が黙った。シャーペンを握ったまま、ノートと俺を交互に見ている。

 俺は秋月(あきづき)の返事を待たずに、隣の自分の席に座った。テスト範囲のプリントを広げる。


「俺も勉強するからさ。わからないとこあったら聞いてくれよ」


 秋月(あきづき)は5秒ほど黙ってから、小さく頷いた。


 放課後の教室は静かだった。窓から入る西日が、机の上を橙色に染めている。廊下からは部活に向かう生徒の足音が遠くに聞こえるが、この教室には俺と秋月(あきづき)だけだ。

 秋月(あきづき)はしばらく自分で解いていたが、やがてノートを少しだけ俺の方にずらした。


「......ここ」


 俺は身を乗り出してノートを覗く。秋月(あきづき)との距離が近い。髪から微かにシャンプーの匂いがする。花のような、柑橘のような、よくわからないが良い匂いだ。

 問題を見る。今度はcos2αの変換で引っかかっている。


「ここは公式を2つ使い分けるんだ。sinで揃えたい時はこっちの公式、cosで揃えたい時は──」


 説明しながら、横を向いた。

 秋月(あきづき)が真剣な顔で俺のペン先を追っている。長い睫毛が伏し目がちに揺れて、西日が横顔を照らしている。

 近い。こんなに近くで秋月(あきづき)の横顔を見たのは初めてかもしれない。肌が白い。制服のリボンが少しだけ曲がっている。

 ──何を見てるんだ、俺は。問題を教えてるんだろ。


「で、ここを代入すると答えが出る」

「......わかった」


 秋月(あきづき)が自分で解き直す。今度は詰まらなかった。最後まで一気に書き上げて、ペンを置く。


「......ありがとう」


 俺は一瞬、耳を疑った。

 秋月(あきづき)が「ありがとう」と言った。GWの帰り道では「ありがとう、は言わない」と言っていたのに。


「......何」

「いや、秋月(あきづき)がありがとうって言うの珍しいなって」

「......別に。普通のこと」

「普通のことだな。うん」


 秋月(あきづき)の耳がほんのり赤かった。西日のせいだ、と思うことにした。


 * * *


 翌日から、放課後の勉強が続いた。

 秋月(あきづき)は毎日数学の問題を3問ずつ持ってきて、わからない箇所を俺に聞いた。3問のうち1問は自力で解けていて、1問は少しヒントを出せば解けて、残りの1問だけがしっかり教える必要がある、という比率だった。基礎はできている。応用の崩し方が掴めていないだけだ。

 俺が教えている間、秋月(あきづき)は一切よそ見をしない。メモを取る速度が速くて、要点を正確に押さえる。頭の良い人間の勉強の仕方だ。数学が苦手──もとい、得意じゃない──のが不思議なくらいだった。


秋月(あきづき)は理解力あるんだから、やり方さえ知ればすぐだろ」

「......お世辞は結構」

「お世辞じゃないって。マジで飲み込み早いよ」

「............」


 秋月(あきづき)がシャーペンのノック部分をかちかちと鳴らした。手持ち無沙汰な時の秋月(あきづき)の癖だと、最近気づいた。


「......藤宮(ふじみや)は、誰にでもこうなの」

「こうって?」

「......教えたり、助けたり」

「別に誰にでもってわけじゃないけど、隣の席だし」

「......そう」


 秋月(あきづき)はそれ以上聞かなかった。


 桐生(きりゅう)が教室に戻ってきたのは、勉強を始めて30分くらい経った頃だった。ゲーム研究会の活動を終えて、鞄を取りに来たらしい。

 教室に入るなり、俺と秋月(あきづき)が並んで座っている光景を見て目を見開いた。


「え......えっ!?」

「声がでかい」

蒼太(そうた)、お前秋月(あきづき)さんと勉強してんの!?」

「見ればわかるだろ」

秋月(あきづき)さんに勉強教えてもらってんの!?」

「逆だ。俺が教えてる」

「は!?」


 桐生(きりゅう)の声が裏返った。秋月(あきづき)に教えてもらうのではなく、秋月(あきづき)に教えているという情報が処理しきれないらしい。


「お前が? 学年5位の秋月(あきづき)さんに? 教えてる?」

「数学だけな。秋月(あきづき)、数学だけ──」


 秋月(あきづき)の視線が突き刺さった。「苦手」という単語を口にするなという無言の圧だ。


「......数学だけ、ちょっと詰まるとこがあるんだよ」

「へえ......蒼太(そうた)が教える側とか、世界ひっくり返ってねえ?」


 桐生(きりゅう)がにやにやしている。


「お前も勉強しろよ。テスト近いんだから」

「俺は前日に本気出すタイプだから」

「それ毎回言ってて毎回赤点ギリギリだろ」

「ぐっ......」


 桐生(きりゅう)は「まあいい、お邪魔しないよ」と言って鞄を持ち、教室を出ていった。出際に振り返って、俺にだけ見えるようにサムズアップをした。

 何のサムズアップだ。


 秋月(あきづき)がノートに視線を戻していた。何事もなかったように、次の問題に取りかかっている。


「......続き、教えて」

「おう」


 西日が少しずつ傾いていく教室で、俺はシャーペンを握り直した。テスト本番まで、あと4日。

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