秋月と数学
5月の中旬。教室の空気がどことなくぴりついてきた。
原因は明白で、来週から中間テストだ。廊下の掲示板にはテスト範囲表が貼り出され、図書室は放課後になると満席になる。桐生は「俺はテスト前日に本気出すタイプだから」と豪語しているが、それは本気を出さない言い訳だろう。
昼休み。弁当を食べながら、俺はテスト範囲のプリントを眺めていた。数学は三角関数、英語は関係代名詞、古典は枕草子。どれもそこそこ準備はしているが、数学だけは自信がある。中学の頃から数学だけは得意で、定期テストはいつも90点前後を取っていた。
「......藤宮」
隣から声がかかった。秋月だ。
振り向くと、秋月がノートを開いて机に向かっていた。いつもは本を読んでいるか窓の外を見ているかのどちらかなのに、珍しくノートに何かを書いている。
いや、書いているというよりは、止まっている。シャーペンの先がノートに触れたまま動いていない。
「どうした?」
「............」
秋月は3秒ほど黙ってから、ノートを少しだけ俺の方にずらした。
「......ここ、わかる?」
声が小さい。いつもより更に小さい。聞き逃しそうなくらいだった。
ノートを覗き込む。三角関数の加法定理の問題だ。sin(α+β)の展開から始まる証明問題で、途中まで書いてあるが、3行目で止まっている。
「ああ、ここか。ここはsinαcosβのまま置いといて、先にこっちを──」
俺はシャーペンを借りて、秋月のノートの余白に式を書いた。加法定理の問題は手順さえ覚えれば機械的に解ける。ポイントは変形の順番だ。
「ここでsinとcosを分離して、こっちの項と合わせると──」
秋月が俺の手元をじっと見ている。真剣な目だ。授業中よりも集中している気がする。
「......なるほど」
「わかったか?」
「......順番が違ってた」
「そう。先に分離するのがコツなんだよ」
秋月は自分のシャーペンを持ち直して、俺が書いた手順を見ながらもう一度最初から解き直した。今度はすらすらと進んでいく。3行目の壁をあっさり越えて、最後の答えまで辿り着いた。
「......できた」
「な。やり方さえわかれば秋月なら余裕だろ」
秋月がペンを置いて、俺を見た。
「......藤宮、数学得意なの」
「まあ、数学だけはな。他は普通だけど」
「......他は?」
「英語がやばい。古典はもっとやばい」
「......そう」
秋月の口元がわずかに動いた。笑ったのか、呆れたのか。
「秋月は全部できるだろ。学年5位以内って聞いたけど」
「......数学以外は」
「え、数学苦手なのか?」
秋月の眉がぴくりと動いた。「苦手」という単語に反応したらしい。
「......苦手じゃない。得意じゃないだけ」
「それを苦手って言うんだよ」
「......違う」
違わないだろ。でもまあ、秋月のプライドの問題だ。深追いはしない。
* * *
放課後。
教室に残って帰り支度をしていると、秋月がまだ席にいた。ノートを開いている。数学だ。さっきと同じ範囲の、別の問題。
シャーペンが止まっている。また、同じパターンの問題で詰まっているのだろう。
俺は自分の鞄を机に置き直した。
「教えようか」
秋月が顔を上げた。
「......いい」
「いいって、さっき聞いてきたじゃん」
「......あれは、一回だけ」
「一回も10回も同じだろ」
秋月が黙った。シャーペンを握ったまま、ノートと俺を交互に見ている。
俺は秋月の返事を待たずに、隣の自分の席に座った。テスト範囲のプリントを広げる。
「俺も勉強するからさ。わからないとこあったら聞いてくれよ」
秋月は5秒ほど黙ってから、小さく頷いた。
放課後の教室は静かだった。窓から入る西日が、机の上を橙色に染めている。廊下からは部活に向かう生徒の足音が遠くに聞こえるが、この教室には俺と秋月だけだ。
秋月はしばらく自分で解いていたが、やがてノートを少しだけ俺の方にずらした。
「......ここ」
俺は身を乗り出してノートを覗く。秋月との距離が近い。髪から微かにシャンプーの匂いがする。花のような、柑橘のような、よくわからないが良い匂いだ。
問題を見る。今度はcos2αの変換で引っかかっている。
「ここは公式を2つ使い分けるんだ。sinで揃えたい時はこっちの公式、cosで揃えたい時は──」
説明しながら、横を向いた。
秋月が真剣な顔で俺のペン先を追っている。長い睫毛が伏し目がちに揺れて、西日が横顔を照らしている。
近い。こんなに近くで秋月の横顔を見たのは初めてかもしれない。肌が白い。制服のリボンが少しだけ曲がっている。
──何を見てるんだ、俺は。問題を教えてるんだろ。
「で、ここを代入すると答えが出る」
「......わかった」
秋月が自分で解き直す。今度は詰まらなかった。最後まで一気に書き上げて、ペンを置く。
「......ありがとう」
俺は一瞬、耳を疑った。
秋月が「ありがとう」と言った。GWの帰り道では「ありがとう、は言わない」と言っていたのに。
「......何」
「いや、秋月がありがとうって言うの珍しいなって」
「......別に。普通のこと」
「普通のことだな。うん」
秋月の耳がほんのり赤かった。西日のせいだ、と思うことにした。
* * *
翌日から、放課後の勉強が続いた。
秋月は毎日数学の問題を3問ずつ持ってきて、わからない箇所を俺に聞いた。3問のうち1問は自力で解けていて、1問は少しヒントを出せば解けて、残りの1問だけがしっかり教える必要がある、という比率だった。基礎はできている。応用の崩し方が掴めていないだけだ。
俺が教えている間、秋月は一切よそ見をしない。メモを取る速度が速くて、要点を正確に押さえる。頭の良い人間の勉強の仕方だ。数学が苦手──もとい、得意じゃない──のが不思議なくらいだった。
「秋月は理解力あるんだから、やり方さえ知ればすぐだろ」
「......お世辞は結構」
「お世辞じゃないって。マジで飲み込み早いよ」
「............」
秋月がシャーペンのノック部分をかちかちと鳴らした。手持ち無沙汰な時の秋月の癖だと、最近気づいた。
「......藤宮は、誰にでもこうなの」
「こうって?」
「......教えたり、助けたり」
「別に誰にでもってわけじゃないけど、隣の席だし」
「......そう」
秋月はそれ以上聞かなかった。
桐生が教室に戻ってきたのは、勉強を始めて30分くらい経った頃だった。ゲーム研究会の活動を終えて、鞄を取りに来たらしい。
教室に入るなり、俺と秋月が並んで座っている光景を見て目を見開いた。
「え......えっ!?」
「声がでかい」
「蒼太、お前秋月さんと勉強してんの!?」
「見ればわかるだろ」
「秋月さんに勉強教えてもらってんの!?」
「逆だ。俺が教えてる」
「は!?」
桐生の声が裏返った。秋月に教えてもらうのではなく、秋月に教えているという情報が処理しきれないらしい。
「お前が? 学年5位の秋月さんに? 教えてる?」
「数学だけな。秋月、数学だけ──」
秋月の視線が突き刺さった。「苦手」という単語を口にするなという無言の圧だ。
「......数学だけ、ちょっと詰まるとこがあるんだよ」
「へえ......蒼太が教える側とか、世界ひっくり返ってねえ?」
桐生がにやにやしている。
「お前も勉強しろよ。テスト近いんだから」
「俺は前日に本気出すタイプだから」
「それ毎回言ってて毎回赤点ギリギリだろ」
「ぐっ......」
桐生は「まあいい、お邪魔しないよ」と言って鞄を持ち、教室を出ていった。出際に振り返って、俺にだけ見えるようにサムズアップをした。
何のサムズアップだ。
秋月がノートに視線を戻していた。何事もなかったように、次の問題に取りかかっている。
「......続き、教えて」
「おう」
西日が少しずつ傾いていく教室で、俺はシャーペンを握り直した。テスト本番まで、あと4日。




