隣の席の秋月さん
俺の朝は、卵焼きの焼き加減で決まる。
甘すぎず、しょっぱすぎず、巻きが均一で、焦げ目がほんのり。これがうまくいった日は、大体いい一日になる。
今朝は我ながら会心の出来だった。フライパンから箸で持ち上げた瞬間の重量感で確信する。断面も綺麗に渦を巻いているだろう。
まあ、毎朝作ってりゃ嫌でもうまくなる。
俺──藤宮蒼太は、目玉焼きではなく卵焼き派だ。弁当に詰めやすいし、冷めても味が落ちにくい。母さんが夜勤で朝いないことが多いから、弁当は自分で作るのが当たり前になった。ついでに母さんの分も作って冷蔵庫に入れておく。これも毎日のルーティンだ。
2つの弁当箱を鞄に収め、玄関で靴を履く。
壁の時計を見ると7時15分。いつも通りの時間だ。
いつも通りの朝。いつも通りの通学路。いつも通りの──と、思っていた。
* * *
4月。高校2年の始業式。
クラス替えの結果が昇降口に貼り出されている。俺は人混みを避けて遠くから確認した。2年3組。去年と同じ棟の、同じ階の、隣の教室だ。わかりやすくていい。
教室に入ると、まだ人はまばらだった。窓際の後ろから2番目──ここが俺の席らしい。位置は悪くない。
鞄を置いて座る。机の上に出席番号と名前が書かれた紙が貼ってある。隣の席の紙をちらっと見た。
秋月凛。
名前に見覚えがあった。正確には名前というより、去年から校内で何度か聞いた単語だ。学年一の美少女。近寄りがたい氷の女王。誰とも群れない孤高の存在──みたいな、大げさな噂。
まあ、噂は噂だ。俺には関係ない。
「蒼太ー! お前2年3組!? 俺もだわ!!」
教室のドアを蹴るように開けて入ってきたのは、桐生遼。去年同じクラスだった唯一の男友達だ。朝から声がでかい。
桐生は俺の席まで駆け寄ってきて、隣の机に貼られた名前を見た瞬間に目を見開いた。
「──お前、隣秋月さんじゃん。やば」
「やばって何がだよ」
「何がって、学年一の美少女だぞ? お前の隣に? この距離に?」
桐生が俺と隣の席の間を手で測る。机一つ分。30cmくらい。
「近い。近すぎる。俺だったら毎日緊張して胃に穴があく」
「お前の胃の話はどうでもいい」
「つーか席替えまでこれだろ? お前マジで──」
桐生の声が途切れた。
教室のドアが開いて、一人の女子が入ってきたからだ。
黒髪のストレートロング。腰まで届く髪が、歩くたびに揺れている。切れ長の目は前だけを見ていて、周囲の視線を一切気にしていない。制服の着こなしに隙がなく、スカート丈は膝ぴったりだ。
教室の空気が一瞬だけ変わったのがわかった。男子も女子も、ちらちらと視線を向けている。だが誰も声をかけない。
秋月凛は真っ直ぐに窓際の席──俺の隣──まで歩いてきて、音もなく椅子を引いた。鞄を机の横にかけ、窓の外に視線を向ける。
「......」
それだけだった。
おはようもなければ、よろしくもない。ただ、窓の外を見ている。
桐生が俺の袖を引っ張った。小声で「やば」ともう一回言った。
うるさい。
* * *
始業式が終わり、HRで担任の花園千歳先生が自己紹介をした。28歳、国語担当、趣味は読書と恋愛映画鑑賞。最後の一つは余計だと思ったが、口には出さなかった。
午前中の授業は半分がオリエンテーションで、すぐに昼休みになった。
「そうくん! お弁当一緒に食べよ!」
廊下から駆けてきたのは柚木ひなた。隣のクラスの2年2組に配属された幼馴染だ。栗色のショートボブに、今日はピンクのヘアピンをつけている。
ひなたは俺の幼馴染で、家が隣同士だ。幼稚園の頃からの付き合いで、昼飯を一緒に食べるのはもう習慣みたいなものだった。
「おう。今日は唐揚げだぞ」
「やった! そうくんの唐揚げ大好き!」
ひなたが俺の向かいの席に座る。俺は弁当箱を開けた。今朝の卵焼きは見た目も綺麗に仕上がっていて、我ながら満足だ。
「......」
隣から視線を感じた気がして、ちらっと横を見る。
秋月が、コンビニのサンドイッチの袋を開けていた。視線はサンドイッチに向いている。気のせいだったか。
「ねえそうくん、秋月さんって隣の席なの?」
「ああ、そうだけど」
「すごいね! 学年一の美少女が隣なんて!」
ひなたの声は、教室中に響くくらいでかい。
秋月の手が一瞬だけ止まった。それから何事もなかったようにサンドイッチを食べ続ける。ただ、その目がほんの一瞬だけ、ひなたの方に向いた気がした。
俺はひなたの声量をもう少し何とかしてほしいと思いながら、唐揚げを口に運んだ。ふと思い立って、隣に声をかけてみた。
「秋月。よかったら、一緒に食うか?」
深い意味はなかった。隣の席の奴が一人で飯を食ってたら、一応声くらいかける。それだけのことだ。
秋月が俺を見た。窓の外を見る以外の表情を初めて見た気がする。暗いわけでも怒っているわけでもない。ただ、透明な目だった。
「......結構です」
それだけ言って、秋月は視線を窓に戻した。
断られた。まあ、そういうこともある。
俺は特に気を悪くすることもなく、弁当の続きに取りかかった。桐生が自分の弁当を持ってこっちに来て、「おい蒼太、今の勇気すごかったな」とか言っていたが、別に勇気とかそういう話じゃない。
* * *
放課後。
荷物をまとめて教室を出ようとした時、ふと振り返った。
秋月がまだ席にいた。窓の外を見ている。朝と同じ姿勢だ。
桜がちょうど満開の時期で、窓から校庭の桜並木がよく見えた。秋月は何を見ているのだろう。桜なのか、空なのか、それとも──何も見ていないのか。
少しだけ気になったが、それ以上の感情は浮かばなかった。
帰り道、ひなたが隣を歩いている。
「ねえそうくん、秋月さんってクールだよね」
「そうか?」
「だって誰とも話してなかったよ。ちょっとかわいそう」
「まあ、初日だしな。これからだろ」
ひなたが「そうだね!」と笑った。
春の風が吹いて、桜の花びらが一枚、ひなたの髪に落ちた。俺がそれを取ってやると、ひなたは「えへへ」と嬉しそうに笑った。
いつも通りの帰り道。いつも通りの日常。
隣の席に学年一の美少女が座ったところで、俺の毎日は何も変わらない──と、この時は本気でそう思っていた。
なんて言っておきながら。
今朝の卵焼きは完璧だったのに、いい一日になったかどうかは、正直よくわからなかった。




