陰と陽 ⑨
――御饌音子の家。
音子は戸を開けた瞬間、トトを抱えたまま床にへたり込んだ。
「ただいま……」
「おかえりなさいませ、ねこさまー!」
その声だけで家が戻ってくる。
音子は息を吐き、やっと笑えた。
トトが思い出したように言う。
「ねこさま、お茶は……」
「今それどころじゃ――」
音子は言い切れず、腹が鳴って黙る。
「……飲みたい」
「では急行でございます!」
「急行って何!? 普通でいい!」
トトが慌ただしい羽音で台所へ飛んでいく。
音子の頭の中に声が落ちてくる。
――いる。
こたつの影がほどけて、ゼロが立っていた。
畳が鳴らない。目だけが確かにこちらを向く。
「うわっ! そこから出てくるの禁止!」
ゼロは短く返す。「待機地点だ」
「……力、減り早くない?」
「早い」
「私のせい?」
ゼロは答えない。否定もしない。
音子が頬をふくらませた。
「ねぇ。主じゃなくて、音子って呼んで。練習」
「……音子」
音子は即座に親指を立てる。
「よし! いい子!」
トトが台所から顔を出す。
「ねこさま。今のはお願いという名の命令でございます」
「うるさい!」
ゼロの目が戸の外へ滑った。
家の中の温度が、ほんの少しだけ落ちる。
「……外だ」
音子は息を吐き、指を立てて押し返す。
「今日は分かった」
ゼロが短く問う。「何が」
「守るものがあると、体が勝手に動くってこと」
ゼロは一拍置いて頷く。
「……それでいい」
音子は笑って、ゼロを見る。
「これからも守ってね。ゼロ」
ゼロは初めて、声で言った。
「……守る」
「主を守るのは式神の掟だ」
音子は一瞬きょとんとして、次の瞬間に満面の笑みになる。
「……うん! 最高!」
トトが胸を張る。
「では明日の朝は寝坊なさらぬよう」
「分かってるってばー!」
トトが間髪入れずに返す。
「ばーを付ければ許されると思わないでくださいませ」
家に、いつもの温度が戻った。
――ただ、戸の外だけが、いつまでも冷たかった。
音子の水晶が、一瞬だけ空っぽに冷える。
ゼロの視線が外へ滑る。
「……来る」
(第1話・了)




