陰と陽 ⑥
夜。
音子は遅くに家へ戻った。
修行で身体が重い。
息を吐くたび、身体の奥が遅れて軋む。
それでも口が先に言う。
「ただいま〜……くたくた……トト、お茶ちょーだい……」
返事がない。
羽音もない。「ねこさまー!」もない。
家から、いつもの温度が消えていた。
音子は庭へ出る。
箒が倒れている。
羽が一枚、落ちていた。
(……やだ)
喉が乾き、呼吸が浅くなる。
こたつに沈み込み、息を整えようとして逆に詰まった。
その時、こたつの影がほどけた。
次の瞬間、少年の輪郭がそこに立っていた。
畳が鳴らない。足音もない。
それでも、いる。
「……っ!? だ、誰!? なんでうちのこたつに人!?」
「……落ち着け」
声は低い。温度がない。
少年の腹が鳴る。
「……ぐぅ」
「……お腹、すいてるの?」
音子は反射で、みかんを差し出した。
少年は一口で噛みちぎり、無言で食べた。
噛む音だけが妙に大きい。
次の瞬間、音子の頭の中に声が落ちる。
――これは、みかんという食べ物なんだな。
「……え、いまの……」
「交信だ」
「念話!?」
音子の声が裏返る。
「俺は主に召喚された式神だ」
「交信できるのは主のみだ」
主。式神。
混乱しているのに、直感だけが嘘じゃないと言う。
「……私の、式神?」
「そうだ」
(今日、召喚できなかったのに)
(なのに、いる)
音子は勢いで抱きつきかけて、寸前で踏みとどまった。
少年が一瞬だけ身構えたのを見て、咳払いで誤魔化す。
「ご、ごめん! びっくりしたの! あと……嬉しかった!」
少年は目をそらす。
「……主は距離感が極端だ」
「分かってる! いまのはノーカン!」
音子は話題を前へ押し出す。
「ねぇ、キミの呼び名は?」
「……ない」
言い切った後、少年は一拍だけ迷う。
「……呼ぶなら、勝手に決めろ」
音子はその一拍が、なぜか嬉しくて怖かった。
「じゃあ……ゼロ。いい?」
少年は答えない。否定もしない。
音子が深呼吸して、胸を張る。
「私の名前は御饌音子。みんな、私のことゼロ音子とも呼ぶ!」
「……ゼロ音子」
少年の内側の声が、静かに刺さる。
音子は目を擦った。
泣き癖を隠すみたいに。
――俺は主を認める。主は立派だ。
音子は目を見開いた。
喉の奥が熱いのに、涙は出ない。
「……っ、ありがと。いまの、効く……!」
「……効くのか」
「効く! みかんより効く!」
少年は床に落ちていた紙を差し出した。
「……これが、家の前に落ちてた」
決闘書だった。
――お前の式神らしき鳥はこちらの手元にある。救いたければ陰陽寮の校庭に来たまえ。
「……トト……っ!」
家が急に寒くなる。
音子は立ち上がり、水晶を握りしめた。
「待っててトト。すぐ助けるから!」
ゼロの声が追う。
「主、待て」
「止めないでよ!」
ゼロは短く落とした。
「……来る」
音子の背中が一瞬だけ冷えた。




