陰と陽 ③
陰陽寮。
国の陰陽師を育てる、石と札の匂いがする場所だ。
正門の敷居石を跨ぐと、足裏がきゅっと締まる。
注連縄の影が一瞬だけ冷たく、息が細くなった。
回廊の板を踏む音がやけに小さい。
戸をくぐった途端、教室のざわめきが肌に触れた。
二年次の初日で、教室は浮ついていた。
期待と緊張が混ざり、誰もが少しだけ背伸びをしている。
教壇に立つのは蘆屋道満だ。
言葉は短いのに、居るだけで場が整う。
「二年次の昇学、おめでとう。今日から担任の蘆屋道満だ」
「御意!」
「一年で叩き上げる。二年次は式神について学ぶ」
その瞬間、扉がバンッと鳴った。
「失礼します! 遅れました!」
音子が飛び込む。
視線が一斉に刺さった。
皮膚の上に針が並ぶみたいで、背中がむずむずする。
道満は眉ひとつ動かさない。
「前だ。そこで立ってろ」
「は、はい……!」
返事が出た瞬間、喉がきしんだ。
「また寝坊なのだよ。ゼロ音子」
司馬巻の声だった。
成績首位で、姿勢と目線だけで正しさを押し付けてくる。
笑っているのに温度がない。
(同い年なのに、なんでこんなに遠い)
(近づいたら、切れるやつだ)
ゼロ音子。才能ゼロ扱いのあだ名だ。
初日からそれは、胸の奥へ真っ直ぐ刺さった。
音子は睨む。
司馬巻は薄く笑う。
「……ば」
「……か」
出てから遅れて、やべ、と気づく。
舌の先がひりひりして、なお腹が立った。
道満が空気を一刀で落とした。
「質問だ。陰陽師が術を使うのに必要なものは何だ」
司馬巻が即座に手を挙げる。
「水晶です。媒介がなければ術は成立しません」
「正解だ」
道満は水晶を掲げた。
透明なのに重い。
道具というより臓器みたいな存在感がある。
「水晶がないと術は使えない。全員、携帯しろ。落とすな。割るな」
誰かが小声で訊く。「割れたら?」
道満は即答した。
「泣け」
教室が小さく笑い、すぐ静まる。
生徒たちが一斉に自分の水晶へ触れた。
道満が形代を一枚取り、指先で挟む。
「急急如律令」
紙が跳ねた。
教壇の上を元気に走り回る。
「願いをイメージし、生力を水晶へ注げ」
「注がなければ動かない。注ぎすぎれば壊す」
「簡単だが外すと痛い」
「全員やる。まず――お前」
道満の指が音子へ向く。
「え、私!?」
小さな笑いと、小さな軽蔑が背中へ落ちた。
音子は水晶を握り、形代を掴む。
(逃げたい)
(でも逃げたら“ゼロ”が完成する)
「……やります!」
音子は覚えた通りに唱えた。
「急急如律令!」
紙が、ほんの一瞬だけ跳ねかける。
次の拍で、ぴたりと止まった。
指の中で耐えるみたいに震え、縁だけが熱で反り返る。
「……この紙、おかしいなぁ……」
笑いで誤魔化して、袖へ押し込む。
道満が形代を受け取る。
同じ言葉を落とした。
形代は何事もなかったように跳ね回った。
道満は短く言う。「注ぎ方が乱暴だ」
責める音ではない。
「願いと生力の釣り合いを外すな。水晶は受け皿だ」
それだけ言って、道満は形代を戻した。
音子の胸に、熱いものが残る。
司馬巻が勝ち誇る。
「成功ゼロ、才能ゼロ。言い訳などこの道に向いていないのだよ」
悔しくて、奥歯が鳴りそうになる。
音子は噛み締めて、息だけで持ちこたえた。
道満が音子の額を軽くつつく。
意外に雑で、意外に温度があった。
「茶番は後だ。明日、校庭で召喚実習をやる」
教室がざわつく。
道満が音子を見る。
「……期待してるぞ、御饌音子」
――名前で呼ばれた。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「……はい! 召喚してみせます!」
司馬巻の笑みが、一瞬だけ消えた。




