表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

イマジナリー

作者: 雉白書屋

 ――今日は一人だな……よし。


 ある夜、馴染みのバーで酒を飲んでいた彼は、グラスをテーブルに置き、意を決して立ち上がった。柔らかな照明に照らされたカウンター席には、琥珀色の液体を静かに揺らす男が一人いた。彼はその隣に歩み寄り、声をかけた。


「こんばんは。隣、よろしいですか?」


「え、ああ、まあ……」


「ありがとうございます。今日はお一人なんですね」


「ああ、まあね……」


 男は少し驚いたらしく間を置いたが、拒む気配はなかった。

 軽い世間話から始まり、数杯の酒を交わすうちに男の表情は少しずつほぐれ、やがて自然な笑みがこぼれるようになった。

 そろそろだな――彼は小さく息を吐くと、無意識に背筋を伸ばした。実は以前から、この男にどうしても訊いてみたいことがあったのだ。 


「あの……」


「ん?」


「実は、このバーで何度かお見かけしていて……。いつも違う女性とご一緒ですよね。しかも、美女ばかり。どんなお仕事をされているんですか?」


「ああ、どんなと言われても……まあ、普通の会社員だよ」


 男は軽く肩をすくめ、グラスを口に運んだ。


「では大企業勤めとか、それとも芸能界と繋がりがあるとか……」


「いやいや、とんでもない。本当にごく普通。平凡な人間だよ。ははは」


「あの……どうか教えてくれませんか? モテる秘訣を、ぜひ……! 僕、女性と距離を詰めるのがどうにも苦手で……」


 彼はそう言いながら頭を下げた。男は一瞬戸惑い、苦笑して小首を傾げた。


「いやあ、秘訣なんて大げさなものは……」


「お願いします! ヒントだけでもいいんです! このままだと、天涯孤独で終わりそうな気がして……」


「そう言われてもね……。私なんて大したもんじゃ……いや、実はね……」


 最初はぐらかそうとした男だったが、彼の真剣さに心を動かされたのか、あるいは共感を抱いたのか、静かにグラスを置き、彼と向き合って声を潜めた。


「君が見たという美女たちのことなんだけどね……、実はあれ、イマジナリーガールフレンドなんだ」


「イマジナリーガールフレンド……? えっと、店の名前か何かですか?」


 彼の問いに、男は小さく首を横に振った。そして、少し高揚した様子で言葉を続けた。どうやら、誰かに語りたかったらしい。その声には誇らしさと、長く秘めてきたものを吐き出す解放感が滲んでいた。

 かつて、男もまた女性と縁がなく、結婚をあきらめていたという。夜ごと孤独を慰めるために、女を思い浮かべては抱く妄想を繰り返していた。やがてそれは習慣となり、日常の中に静かに溶け込んでいった。

 食事をするとき、帰り道を歩くとき、ふとした瞬間に隣に“彼女”の姿を思い描く。そこにはいやらしさなどなく、ただ恋人同士としての甘く温かな関係であった。

 するとある日、声が聞こえるようになった。最初はとうとう精神を病んだのかと思い、身震いしたが、すぐに開き直った。むしろ望むところだと。耳を澄まして返事をし、匂いを探しては瞳にその姿を映そうと、必死に集中した。


「そうやって続けていたら、ある日本当に彼女が現れたんだよ。それから何十年も経った今では、もう自由に何人でも呼び出せるようになったのさ」


 にわかには信じがたい話だった。だが、その語り口には虚飾は感じられず、作り話にあるような軽薄さもなかった。ただ狂気じみた誇りと、奇妙な温もりが同居していた。

 さらに男はそのやり方を丁寧に教えてくれた。

 彼は男の話を信じ、帰宅するとさっそく取り組むことにした。声、口調、仕草、服装、匂い――細部に至るまで徹底的に思い描いた。まるで脳の奥で新しい命を形作るように。始めは小さく、それはすくすくと育ち、やがて――。


『ねえ、リンゴ買ってきてくれた?』


「えっ」


『買ってないの? お願いしたのに……』


「あ、ああ。ごめん。すぐ買ってくるよ……」


 最初に現れたのは声だった。次に、ふわりと漂うほのかな香り。日を追うごとに女の存在感は強まり、数か月後には、まるで最初からこの世にいたかのように彼の前に姿を現した。

 彼は歓喜し、女との疑似夫婦生活を始めた。

 夜は隣に眠り、朝は向かい合って食卓を囲む。腕を組んで通りを歩き、映画を観ては感想を言い合い、ディナーを楽しんだ。

 もしかすると、あの男のように毎晩女をとっかえひっかえできるのかもしれない。だが、彼はその一人だけを愛した。母がかつて父に捨てられたという記憶が、どこかで影のように残っていた。人を裏切ることに、どうしても抵抗があったのだ。そうして二人は、温かく穏やかな日々を重ねていった。

 だが、ある夜のこと――。


『あのね、話があるんだけど』


「ん? なにー?」


 ソファに沈み、テレビをぼんやり眺めていた彼は、気の抜けた声で応じた。


『妊娠したの』


「おお……え?」


『あたし、妊娠したの』


「え、いや、でも想像だろ……?」


『何それ。嬉しくないの?』


「いや、そういう意味じゃなくて……ははは、いやー、本当かなって、つい信じられなくてさ……」


『本当だよ。ほら……』


 女がシャツの裾をつまみ、静かにめくり上げた。白く滑らかな肌、細く引き締まった腰が蛍光灯の光を受けて淡く艶めている。

 だが次の瞬間、まるで風船に空気を吹き込むように、その腹がぐぐぐと膨れ上がっていった。


「うあ……」


『ねえ、あたしと――』


 彼は思わず声を漏らし、反射的に立ち上がった。

 しばらく呆然としたのち、我に返って玄関のドアを乱暴に開け放ち、外へ飛び出した。向かった先は、例のバーだった。


「に、妊娠!? 本当なのか? いや、それ以前にできたのか? イマジナリーガールフレンドが!」


 カウンターにいた男を見つけるなり、彼は息を荒げたまま駆け寄り、顛末をまくし立てた。

 男は驚きながら彼に酒を勧めた。彼はそれを一息に飲み干し、喉を鳴らして息をついた。そして、震える声で答える。


「は、はい……あ、コツを教えていただいたのに、ご報告が遅れてすみません。つい、彼女との生活に夢中になってしまって……」


「いや、それは構わないが、妊娠って……?」


「本当なんです……。目の前で彼女のおなかが膨れて……それで……」


「それで、どうしたんだ……?」


「その……パニックになってしまい、つい……消してしまったんです」


「消した……? 彼女をか?」


「はい……怖くなって……。まあ、もともと想像ですから簡単に……」


「本当に消えたのか? 家を出ていったんじゃなくて?」


「ええ、『いなくなってくれ!』って願ったら、目の前からスーッと消えたんです。……あの、どうしたんですか?」


 男は額に手を当て、眉間に皺を寄せた。何度か目頭を揉んだのち、低い声を絞り出した。


「実は……私にも似たようなことがあったんだ。ああ、驚いたよ。妊娠だなんて……。だが、私が消す前に、彼女のほうから姿を消した。出ていったんだ。たぶん、消されることを察したんだろう」


「それで、その女性はどこへ……?」


「わからない……ただ、何年かは生きていたように思う。ある日、ふっと……ああ、そうだ。“そういえば彼女、もう生きていないだろうな”と思った瞬間に消えた気がする」


「そうですか……あっ、おなかの子はどうなったんでしょうか……?」


 男はグラスの氷をじっと見つめ、静かに答えた。


「……わからない。いや、さすがに生まれてはいないだろう。もしそうなら、一度でいいから会ってみたかったが……。そういえばこの前、そうだ、君に会った日に、ふとそんなことを考えて――」


 男が顔を上げ、彼のほうを見た。

 しかし、そこには誰の姿もなかった。ただカウンターの上に置かれたグラスから滴る水滴が、一筋の涙のように音もなく流れ落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ