魔女の秘薬の副作用
とてもいい夢を見ていた気がする。
濡れた枕の気持ち悪さに、夢から覚めてしまった事への不満を持ちながらゆっくり瞼を押し上げると、私の知らない天井があった。
「え? ……ここ、どこ?」
場所を把握するには、ベッドをぐるりと囲ったクリーム色のカーテンに遮られている。窓際だったから外の景色は見えるが、私の知っている場所ではなかった。
一度落ち着いて状況を確認しよう。私は知らない場所で寝ていた。腕には太い管が刺さっていて、枕の近くにナースコールがあった。服装も寝間着じゃなくて病人服。というかこれ……。
「入院していた? なんで?」
私は引きこもりで、家から出ようとしなかった。まさか家で倒れた? 両親と会話はなかったけど、毎日食事はしていた。運動不足だったかもしれないけど、そこまで健康は悪くないと思っていた。それとも怪我? そういえば身体に包帯を巻かれていて――。
「……少しずつ、思い出してきた。私、なんで」
身体の奥底に、復讐のために燃えた炎の残滓があった。一時はこの炎が私の全てを燃やした。だから私はここにいるんだ。
もう私に復讐の意思はないと思えば、炎の残滓は簡単に消えた。こんなちっぽけな炎だったのに、飲み込まれてしまった自分が情けない。
溜息を漏らしつつナースコールを押した。看護師さんがやってきて、それからのことはよく覚えていない。だってすぐに寝たから。いい夢の続きが見たかったんだもん。だけど、もうその夢の続きを見ることは叶わなかった。
「夏美!」
「お母さん」
私がなんで入院していたのか、詳しく知ることができたのは、お母さんが病室にやってきてからの事だった。
「よかった……、本当によかった」
「ごめんなさい。バカなことをしちゃった」
「ううん、バカなのはお母さんの方。夏美の事、何も分かっていなかった」
私が入院した原因は、飛び降り自殺を図ったためだ。
「私が兄離れできなかったから。こんなの、お兄ちゃんも望んでいないのに」
兄を自殺に追い込んだくせに、最低限の反省の意思しか見せなかったあの高校が憎かった。
お兄ちゃんが飛び降りたあの場所に忍び込み、私も飛び降りた。同じ日、同じ時間に。
「やっぱりあんたたち、兄妹なんだね。同じことなんかして」
「一回で死にきれないところも似ちゃったかな」
「雪広がまだこっち来るには早いって、帰してくれたんだよ、きっと」
「そうかな? ……そうかも。お兄ちゃんシスコンだし」
お母さんとは久しぶりに話したのに、嫌悪感はない。お兄ちゃんを話題に出して円滑に話せている。
たまに口を利くときは暴言を吐いていたし、勝手にお兄ちゃんの後を追って飛び降りた。私、迷惑しか掛けていない。こんな私のために泣いて優しく話してくれるお母さんがいてくれることが嬉しくて目頭が熱くなった。
「お母さん、あ、あのね。寝ている間、とってもいい夢を見たんだよ」
「どんな夢?」
「異世界に転生したお兄ちゃんと一週間一緒に過ごした夢」
お母さんは異世界とか転生とかよくわからなくて、私の説明を聞いてギリギリ理解してくれたけど、多分、外国に行って帰って来たくらいに改変されていそうだ。
「あまり細かいところは覚えていないけど、お兄ちゃんはとても幸せそうだったよ」
「そう。雪広は元気だったのね。それは安心したわ」
お母さんは私の夢の話を茶化さず最後まで聞いてくれた。涙をぼろぼろ流しながら話す私に飽きず、ゆっくり話しなさいと落ち着かせてくれた。
「あ、あと、あとはね! お兄ちゃん、彼女いたよ」
「ふふ、落ち着きなさい。身体に障るわよ」
泣きながら話していたせいか興奮していた。起こしていた身体をベッドに寝かせる。
夢に出てきた灰色の少女のことを思い出す。お兄ちゃんの彼女だと思っているあの人は一体誰だったのか、もう一度話したいと思うけど、たぶん、もう同じ夢は見ないだろう。
夢の中で何か、薬を飲んだような気がする。もしいい夢が見られる薬なら、大事な人の事を思い出せないのはきっと薬の副作用なのだろう。
「そんなものを作れるとしたら、彼女はきっと魔女なんだろうな」
「ん? 夏美、何か言った?」
「ううん、何でもないよ。それよりさ、お母さん」
「なあに?」
「私、退院したら学校に通うよ。問題を起こしたから転校はしなきゃいけないだろうけど、もう引きこもるのは止める」
「夏美……」
「お兄ちゃんと約束したから。もう逃げないよ。それと、友達に謝らないと」
ずっと引きこもっている間もお見舞いに来てくれた友達に、そして、私が飛び降りようとするのを察して止めに来てくれたことへの感謝と謝罪をしなくちゃいけない。
「そうね。だけど、しばらくは身体を治すことに集中しなさい」
「うん。早く治すよ」
たぶんこの後やってくるお父さんがやかましくするから、体力温存のために、私は目を瞑った。
〇
いざ謝ろうと思っても、これまでしてきた事を考えると、なかなか声を掛けられなかった。
退院して、学校の先生に謝って、単位制の高校への編入手続きをした。怒られるかと思ったけど、お兄ちゃんの元担任の先生が説得していたらしく、お咎めは軽く、逆に謝罪されて私が困惑したくらいだった。
お兄ちゃんにも、味方がちゃんといたんだなって思いながら、ロッカーの奥に仕舞われていたセーラー服を捨てた。これであの学校への未練はない。
今日から新しい高校へ通うことになって、セーラー服からブレザータイプの制服になった。
ローファーってこんなに窮屈だったっけと疑問に思いながら、カバンに教科書とお弁当が入っているのを確認して玄関のドアノブに手を掛けた。
「それじゃ、……いってきます」
私の登校を見送ってくれるお母さんに微笑みながら、私は真新しい気持ちで外へ出た。
少し駆け足で玄関を出て、門に手を掛けると、そこに誰かがいた。
「……柚木ちゃん?」
私が不登校になっても毎週様子を見に来てくれていた友達の柚木ちゃんが、そこにいた。
頭の低い位置で左右に結んだ髪、前は私より少し背が低くて可愛がっていたけど、身長を越されてしまったからか、久しぶりに見る彼女は少し大人に見えた。
柚木ちゃんは、私の顔を見ると、くしゃりと顔をゆがめ、平手打ちしてきた。
――パーンッ! と弾けるような音が私の左頬から響く。突然のことに口内を嚙み切った。
どうしていきなりと私が聞く前に、柚木ちゃんは私のブレザーを両手で掴み、一言叫んだ。
「バカッ!」
「…………」
「夏美、どうしてあたしのことを振り切ってまであんなことしたのよ」
「……ごめん」
「理由は分かっているよ。どうせお兄さんのことが大好きだったからってことくらい分かっているし、だって、私よりお兄さんを選んであんなことまでしたんだからね。一生勝てないって思うよ」
「柚木ちゃん、あのね、私、もう兄離れしようと思って」
お兄ちゃんと同じ道を辿り、私は多分、お兄ちゃんに拒絶されたんだと思う。だから今も生きているし、夢の中でお別れを告げた。そろそろお兄ちゃんの背中を見るのを止めて、私の世界を歩みたいと思った。
「兄離れ? しなくていいでしょ」
「え?」
「というか、夏美からお兄さん取ったら何が残んの? 引きこもりで運動できない、不登校で勉強できない。私も人のことはあんまり言えないけど、夏美って大して美人でもないじゃん。ブラコンという取り柄が無くなったらつまらない女になるよ」
私にはお兄ちゃんしかいないみたいな言い方に流石にイラっときた。
「なにそれ? 柚木ちゃんだってそれなりにブラコンじゃん!」
「そうだよ。別に悪くないでしょ」
「何開き直ってんの! 私のことは悪く言ったくせに」
「ブラコンを悪いなんて言ってないよ。あたしの兄貴はさ、“生きている”から」
「…………」
「夏美は悪くない。すべてはクソ顧問と、そいつを連れてきてほったらかしにした学校が悪いんだから」
込み上げていた怒りがスッと引いていく。
どうして柚木ちゃんがずっと私の様子を見ていてくれたのか、その理由は私のお兄ちゃんにあった。
「あたしの兄貴は夏美のお兄さんに救われたんだよ。当時のバスケ部は皆、雪広さんに救われたんだから。その妹である夏美が引きこもってしまったと聞いて、どれだけの人が心配したか分かる? 夏美に謝罪するために押し掛けようといていたのをあたしが止めたんだからね!」
柚木ちゃんには改めて感謝しなければならない。精神的に追い付けられていたあの時にお兄ちゃんの事で謝罪されれば、間違いなくその人に酷い言葉をぶつけてさらに引きこもっていた。飛び降りまでした私の事だ、最悪包丁片手に学校へ特攻していたかもしれない。
「あの日、夏美が飛び降りたことは間違っていた。そればっかりは、あたしは譲らない。だけど、夏美の行動で学校側が変わってくれた」
私の手を握った柚木ちゃんは、そのまま手で包み込み、祈るように額に近づけた。
「おばさんに聞いたよ。今日から編入なんだってね」
「うん。もう未練はないし、騒ぎを起こしちゃったからね」
「……そっか。夏美の事心配していた子も多いし、一緒に通いたいって子もいたから、残念だな」
「遥ちゃんと風香ちゃんは、元気?」
「夏美が不登校になって、前より元気なくなったかもね」
「そうなんだ。今度謝らないと」
私が俯くと、柚木ちゃんは私の手をぶんぶん振った。
「だーかーらー! 夏美は悪くないの。夏美のことを知っている人は全員引きこもりに納得しているし、私たちに内緒で復学しようとしたことも悪いとは思っていないから。……だから、さ。今日の放課後、あたしの家に来なよ。遥と風香もうちに呼ぶから」
ニコリと笑った柚木ちゃんは、スマホで時間を確認すると「ヤバッ! そろそろいかないと遅刻!」と騒いだ。
「というか来てくれないと困る! すでに呼んでいるし、夏美に渡してくれって預かっている物もあるんだからね!」
バタバタと駆けだした柚木ちゃんの背中を見送り、小さく手を振る。
「あっ! 言い忘れてた!」
柚木ちゃんはその場で駆け足をしながらこちらへ振り返り、ニカッと不揃いの白い歯を見せた。
「夏美、おかえり!」
とてもいい夢を見た。それはとても心地よくて、ずっとその夢に浸りたいと思うほど。だけど、私は目覚めた。心地よい夢から覚めて、誰かが私の背中を押してくれた。
だから柚木ちゃんの言葉には笑顔で返した。
「ただいま!」
まだ伏線として残っているところや、今後広げてみたい話もありましたが、ここで一度幕を閉じさせていただきます。ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
もし二人の物語が綴られることがあればまたお会いしましょう。それまで読者様がよい夢を見られますように。




