ユキヒロ6
キィリスさんが持たせてくれた弁当を馬車の中で食べながら、揺られること丸一日と少し。キィリスさんの家を朝に出て、翌日のお昼過ぎに研究所へ帰って来た。
元の世界で飛行機に乗って海外へ行った時よりも疲労の残っている身体に鞭を打って研究所へ入る。
案の定、室内は散らかっていた。一日でよくも散らかしてくれたものだ。これはわざと散らかしていないか?
「ただいま、グレイ」
「あら、思ったより早かったわね」
「そうか? 途中道が悪くて回り道したから予定より遅く……何食ってんの?」
昼は過ぎているというのに寝間着のままソファに寝転がって専門書を読んでいたグレイは、本を読みながらテーブルの皿に手を伸ばし、掴んでは口に運んでいた。
「何って、見れば分かるじゃない」
俺がいない間の作り置きはしていたはずだが、グレイはなぜか、キィリスさんから貰った野菜のうち、キュウリだけを選んでポリポリと齧っていた。……ハチミツをかけて。
「なんできゅうり? それもハチミツって……」
「ユキヒロがお菓子を切らしているのが悪いのよ。私は断腸の思いでキュウリにハチミツをかけるしかなかったの、この責任は重大よ?」
お菓子兼昼食とか言わないだろうな?
「いや作り置きあったじゃん、ほら、まだ残っているし」
冷蔵庫を開けると、俺が作った料理がいくつかそのままになっていた。ちゃんと食べた料理もあるようだが、嫌いな野菜が入った料理は一切手つかずにされていた。
「ナスとニンジンとピーマンが嫌いって、子どもか?」
「成人済みよ。昨夜は久しぶりにワインを飲んだわ」
「は? 俺が楽しみに取っておいたやつ?」
こいつ俺がいないからって好き勝手しやがって。残り物も今日の夕飯で俺が食べるんだろ?
……今に始まったわけではないが、本当にグレイを一人にさせちゃ駄目だなと改めて痛感した。
溜息を漏らして冷蔵庫を閉める。グレイはその間に小瓶を取り出して中の薬を飲んでいた。
「グレイが薬を飲むなんて珍しいな。どこか悪いのか?」
「いいえ、薬の効果を私が実感してみたかっただけよ。それより、私に渡す物があるのではないかしら?」
「はいはい、お土産はありますよっと」
俺はカバンから市場で買ってきた焼き菓子とチョコレートを取り出した。両手サイズほどの缶に入っていて、これだけあればグレイも満足してくれるだろう。それとついでに手紙も渡す。
「これ、キィリスさんからグレイに手紙。さっき飲んだ薬って、どんな効果があるんだ?」
俺から手紙を受け取ったグレイは、不気味な笑みを顔に張り付けて俺の全身を舐めるように見た。それが危険だと何か脳で訴えかけている。
「前に作った薬を改良したのよ。量産は難しいけど、なかなかに優良ね」
グレイが手紙に視線を落としてやっと落ち着く。なんだ? 俺の何を見たんだ?
俺はこの場から逃げてキッチンに避難する。こういう時はご機嫌を取ればいい。コーヒーを淹れてあげよう。どうせすぐにお菓子を食べるのだから。
グレイのいるあたりからカパッと缶を開ける音がする。俺がコーヒーを淹れるのが分かっているのだろう。おそらくだが、今はお菓子の香りを楽しんでいるに違いない。
「ほら、コーヒー淹れたぞ」
「手紙読んだわ。ユキヒロ、女性を紹介してくれる話を断ったそうね?」
「ん? ああ、グリン嬢のお礼のやつか。そうだよ、俺なんかじゃ紹介されたところですぐ愛想尽かされるだろうし、グレイをほったらかしにするのはちょっと怖いからな」
「なによ、私のせいで女性とは付き合えないというのかしら?」
「うーん……いや、それは違うな。グレイのせい、というよりかは、俺自身の問題? グレイと研究している方が楽しいのかもな」
「…………へぇ?」
コーヒーだけを啜っていた俺の前にお土産のクッキーが一枚とチョコレートが一つ置かれる。……なんの真似だ?
「まさか、くれるのか?」
「いらないなら私が食べるわ」
「いや、いる! 食べる!」
グレイの指先がお菓子を狙わないうちにクッキーを齧った。
自分用にわずかに取ってあるが、バレないようにしていたため数は少ない。多く味わえるならそれに越したことはない。
いつもなら頑なにお菓子を寄越さないグレイが、一体どういう心境の変化があったのやら。
「あー、これが高級の味か、俺が作るクッキーと比べ物になんねぇ。同じ豆のコーヒーでも美味く感じるな」
「そういえば、ユキヒロ、私に言わなきゃいけないことがあるのでなくて?」
「言わなきゃいけないこと? あ、転生者症候群の報告か? それなら――」
「薬の副作用」
「…………」
逃げろ。俺の直感が警告してきた。
――早く逃げろ!
「仕事に行く前に飲んだ薬の副作用、まだ聞いてなかったわね。まさか魔法の組み合わせから思わぬ副産物が生まれていたとは思わなかったわ」
「な、なんのことだろう? 副作用なんて」
「確かにあれは副作用と呼ぶにはふさわしくないかもしれないわね。別の薬として作ることが出来たのだもの」
グレイがさっき飲んでいた薬。もしかして――。
「乙女の肌を覗いた罪、償ってもらおうかしら?」
「すみませんでしたあぁああ!」
全力の土下座。そうでないと廃人にされる、薬の実験台にされる。
「ふふ、必死ね。でもいいわ、今の私は気分がいいの。だから乙女の柔肌を覗き、下着に興奮していたのは許してあげてもいいわ」
「いや乙女て……、それに下着で興奮するとかないだろ、俺が洗濯してんのに」
「どの薬が飲みたい?」
「なんでもありません!」
グレイがさっき薬を飲んだということは、もしかして、グレイの目には俺がパンツ一枚に見えているのか?
「そんな小さいナリしているくせに、隠し事なんかできるわけないわ」
「全部見えてやがる! なんでそんなもの改良してんだよ! というか見るな! あと小さくない!」
人体までは透視できなかったはず。だから俺は手で必死に股間を隠した。
「いいじゃない。あなたのそれは使う相手がいないでしょう」
「い、いつかは使う日が来るんだからな! それまで温存しているだけだ!」
「温存のしすぎでうっかり魔法使いになってしまわないことね。そうなるくらいなら私が――」
「異世界の迷信で馬鹿にしやがって! ……ん? なんか言った?」
見間違いだろうか? グレイの頬がわずかに赤い気がする。薬の効果かもしれない。
「なんでもないわ。今回はこれで許してあげる。次、薬の副作用を隠そうとしたらお仕置きね」
「わ、分かったよ。正直に話すから」
お菓子に手を付け、コーヒーを口にしたグレイを見てやっと安堵した。
いつかはバレるとは思っていたけど、お菓子を用意してあるタイミングでよかった。食いつくされたとはいえ、作り置きのクッキーさえなかった日には薬漬けにされるだけでは済まないかもしれない。
〇
深夜、研究を続けたがるグレイを無理やり寝かせ、俺はコソコソと自分の部屋でカバンを開ける。
グレイに隠していたお土産の開封の儀、グレイにも渡していない少量でいいお値段がした超高級クッキー。楽しみは早めに済まさないと魔の手がすぐに伸びてくるからな。
今回の報酬額を聞いてつい手を伸ばしてしまった。
「……あれ? ない。たしかカバンの奥底に仕舞っておいたはず」
手を入れても見つからないため、カバンの口を大きく開いて中を覗き込む。しかし、豪奢な装飾が施された小さな缶はどこにも見当たらない。なんなら他に隠していたお菓子も見当たらない。
「ま、まさか! 透視で見られて――」
『今回は“これ”で許してあげる』
薬の副作用を報告しなかった際のやり取りを思い出す。その時、グレイの視線はどこを向いていた?
「うっそだろ!? あの時にはもうバレてた!?」
慌ててグレイがいつも魔法薬を作っている机に急ぐ。膝をソファにぶつけたが痛みなんてどうでもいい。それよりも俺の高級クッキー!
グレイがお菓子を仕舞っている引き出しは机の一番下、いつもは俺への反抗とばかりに魔法で鍵をしているのに、今だけはスッと開いた。
予想通り、俺が買ったクッキー缶がそこにあった。なんならそれ以外のお菓子の缶も見つかった。
「中身は――」
パカッと蓋を開けると……、まあ、予想はしていた。コロンと出てきた小さなクッキーの欠片と、ノートをちぎったような紙片が一枚。
字の形を見て、グレイが書いたのだとすぐにわかる。だけど、書いてあることはすごく幼稚で、だけど今の俺にはすごく効いた。
『ユキヒロのばーか』
紙片を握りしめ、高級クッキーの欠片を泣く泣く口に運ぶ。
「……うめぇ」
隠し事は、もうしません。
ここまでが二章です。




