同窓会
「よっ、大先生!」
「やっぱり、有名になったらお金に困らなくなるんだろう?」
「ハハハ、昔はあんな奴がこんなにすごい人になるなんて、誰が想像した?」
「昔はただの間抜けだったのにな。」
「俺たちみたいに誰からも期待されなかった連中の中から、お前みたいな例外が出るなんてな!」
先生の周りには、グラスや皿を手にした元同級生たちが集まり、昔の思い出や羨望を込めて楽しげに語り合っていた。
「ありがとう……。」
先生は、誰から話しかけられても礼儀正しく静かに応じた。
だが、正直なところ——
多くの同級生は顔も覚えていないか、そもそも在学中ほとんど接点がなかった相手だった。
それでも、自然な態度で話を合わせ、適切なタイミングで素早く会話を切り上げる。
社交の技術は、経験とともに磨かれていた。
そんな中、比較的顔なじみの同級生を見つけると、先生はそちらへ向かった。
「やあ、久しぶりだね。」
すると、相手は軽く肩をすくめて答えた。
「さっきも声をかけたんだけどな?」
先生は一瞬、気まずそうに眉を寄せた。
さっきの混雑した状況を思い出し、内心で小さく舌打ちする。
「そうだったのか……すまない、どうやら年のせいで物忘れが激しくなったみたいだ。」
「冗談だよ。」
相手は笑いながら、軽くグラスを傾ける。
「さっきは別の友達と話してたし、あの人だかりに突っ込む気はなかったからな。」
その気軽な冗談に、先生は肩の力を抜いた。
会話が弾む中、先生の頭の中には、学生時代の些細な記憶がよみがえっていた。
正確に言えば——
9割は「おはよう」や「こんにちは」といった日常的な挨拶程度のやり取りにすぎなかった。
だが、残りの1割には、確かなつながりがあった。
その記憶をたどるように、先生はふと口を開く。
「……あいつ、来てるのか?」
その問いに、相手は一瞬、視線をそらした。
——それだけで、十分だった。
「来ているんだな?」
先生の問いに、相手は何も言わず、ただグラスの中身を軽く揺らした。
「お前たちは、会わない方がいい。」
低く、重い声だった。
「ハハ、俺たちもいい大人だぞ?」
先生は軽く笑いながら答える。
「お前か、それともあいつか?」
「俺たち両方さ。」
「だったらなおさら、会わせない方がいいだろ?」
相手は、腕を組みながら静かに言う。
「同窓会が台無しになる。」
先生は、一瞬だけ目を細める。
「でも——主催者は俺とあいつを招待したんだろう?」
その一言に、相手は深いため息をついた。
「そりゃ、お前は成功者だからだよ。」
彼は静かに続ける。
「昔の暗い顔とは違って、今は立派になったしな。」
「一方——あいつは。」
言葉が詰まる。
先生はじっと相手を見つめた。
「……もう会ったのか?」
「……ああ。」
短い返事の後、相手はグラスの中身を軽く揺らした。
「さっき見かけたよ。」
「今は、泣きわめく子供をあやすのに忙しくてな。」
彼はちらりと会場の隅を見た。
「会場の端にある小部屋に行ったはずだ。」
先生は、目を伏せて静かに頷く。
「ありがとう。」
足を踏み出そうとした瞬間——
「待て。」
相手が、手を伸ばして先生の腕をつかむ。
先生は、ゆっくりと振り返る。
「場所を教えたのに、行かせたくないのか?」
静かに問いかけると、相手は眉を寄せた。
「……意味があるのか?」
彼の声は、低く、少しだけ悲しげだった。
「お前の存在は、あいつにとってただの棘にしかならないだろう。」
先生は、その言葉を黙って聞く。
そして、軽く息をつく。
「ずいぶん容赦ないな。」
相手は苦笑する。
「容赦するつもりなら、最初から行かせない。」
先生は、その言葉にふっと笑う。
「言っただろう?」
静かに言う。
「俺たちは、もう大人なんだ。」
沈黙が落ちる。
しばらく視線が交錯し——
相手は、再び深く息を吐く。
そして、ゆっくりと道を譲った。
「喧嘩しても、止めないからな。」
「それが、一番の助けだよ。」
先生は、淡く笑う。
「ハハ、昔の自己嫌悪にまみれたお前が、こんな風に変わるなんてな。」
「人は変わるものさ。」
言いながら、先生は静かに歩き出した。
「……でも、変わらないこともある。」
タッ、タッ……
会場の喧騒の中、足音だけが次第に鮮明になっていく。
遠ざかる笑い声。
グラスが触れ合う音。
何十、何百もの人がいるこの場所で、自分の歩く音だけが響いていた。
タッ!
——静寂。
先生は、角の部屋の前に立った。
右手を上げる。
扉をノックしようとした、その瞬間——
「……。」
流れるような動作が、扉まで数センチのところでピタリと止まった。
——何を言えばいい?
同窓会の通知を受け取った時から、この状況は想定していた。
様々な可能性。
考えられるすべての対応策。
何度もシミュレーションした。
さっき同級生たちと話したように、自然に振る舞えばいい。
予想通りに動けばいい。
それなのに——
なぜ、今は足を止めてしまったのか?
その疑問に気付き、先生は思わず苦笑した。
「そういえば……俺は一体、何を言えばいいんだ?」
扉を見つめたまま、手は宙で止まったまま。
——突然、さっきの同級生の忠告が正しかったように思えた。
もしかすると、会わない方がいいのかもしれない。
だが——
その考えを振り払うように、先生は軽く息を吐く。
「何のために、ここに来たんだ?」
そう考えながら、もう片方の手を無意識に胸元へと持っていく。
誰にも見られないように、拳を強く握りしめた。
指先が手のひらに食い込む。
爪が皮膚を刺し、鋭い痛みが脳に突き刺さる。
だが、それがかえってよかった。
この感覚を、体に深く刻み付ける。
「あなた、ここは私に任せて。」
突然、扉の向こうから優しい声が響いた。
「久しぶりに会う友達がいるんでしょ? 早く行って話してきなさいよ。」
「でも……。」
「もう、たまには奥さんのすごさを見せてあげるわよ! ほら、早く行ってきなさい。」
彼女は笑いながら言う。
「ここにいても邪魔なだけだから。」
「……悪い。」
男の声が、少し申し訳なさそうに響いた。
「帰ったら、ちゃんと埋め合わせする。」
——カチャ。
先生がノックしようとした瞬間、扉が先に開いた。
目の前にいたのは、かつての友だった。
頬は少し痩せ、以前よりも大人びた印象を与える顔。
だが——
その輪郭も、雰囲気も、昔と何も変わっていなかった。
——あいつだ。
彼もまた、先生の姿を見て一瞬驚いたように、呆然と立ち尽くした。
扉の奥からは、赤ん坊の泣き声と、それをあやす母親の声が聞こえてくる。
「……よう。」
思わず、先生は声をかけた。
彼は、一瞬驚いたような表情を浮かべたが——
すぐに、ふっと扉を閉め、軽く言った。
「よう。」
——沈黙。
お互い、何を話すべきかわからず、数秒間ただ向かい合っていた。
やがて、先生は口を開く。
「子育ては大変だろう?」
「逃げ出して実家に戻ったりするなよ?」
その言葉に、彼は乾いた笑いを浮かべた。
「嫁さんに逃げ帰るなんて言われたら困るなぁ。」
彼は肩をすくめながら、軽く息を吐く。
「それだと俺が、ダメな夫みたいじゃないか。」
「……まあ。」
彼は苦笑し、冗談めかして言った。
「もし俺がどうしようもなくなったら、あんたの家に泊めてくれよ。」
先生は、少しだけ目を細める。
「ハハ、もちろんさ。」
静かに答えた。
「行き場がなくなったら、いつでも歓迎するよ。」
「……そんな時が来ないように願うばかりだな。」
二人は、自然と人混みの方へ歩き出した。
「久しぶりだな。」
先生は、横目で彼を見ながら言う。
「結婚して、子供までいるとは思わなかったよ。結婚式には呼んでくれなかったのか?」
彼は、少し苦笑した。
「呼ばなかったんじゃなくて——」
ポケットに手を突っ込み、肩をすくめる。
「金がなかったんだよ。」
「ああ。」
先生は、微かに頷く。
「結婚式は、数か月後にやる予定さ。」
彼は、ちらりと会場の隅を見る。
「その時は必ず招待するよ。」
「そりゃ、楽しみにしてるよ。」
二人は、軽く笑い合う。
「子育てはやっぱり大変だろ?」
「そりゃあな。」
彼は、大きく息を吐く。
「でも、幸せだよ。」
先生は、少し目を細める。
——「幸せ」。
大学時代の彼の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
「昔は感じたことのない感覚だ。」
彼は、遠くを見つめながら続ける。
「父親としての使命感ってやつかな。」
「家族を支えなきゃって、思うんだ。」
先生は、その言葉を聞きながら静かに笑った。
未来を自分の手で切り開こうとしていた、あの頃の彼。
理想と野心に満ちていた、あの頃の彼。
——あいつは変わったな。
「お前はどうだ?」
彼は、ふと先生に視線を向ける。
「大先生ともなれば、この場では主役扱いされただろう?」
「ああ、でも逃げる術は完璧に身につけたからな。」
先生は、肩をすくめて冗談めかす。
「そりゃ残念だ。」
彼は笑いながら言う。
「もう帰るところか?」
人混みが、すぐそこまで近づいてきていた。
視界の端で、他の同級生たちが楽しげにグラスを傾け、笑い合っているのが見える。
このまま彼がその中に紛れ込めば——
もう二人きりで話す機会は、二度と訪れないかもしれない。
「——ちょっと待ってくれ。」
先生は、思わず口にした。
「……どうした?」
彼は、疑問の表情を浮かべる。
先生は、自分が余計なことを言った気がした。
だが、同時に——
これでよかったとも思った。
「少しだけ、話がしたい。」
「……俺たち、長い間ちゃんと話していなかったからさ。」
彼は、一瞬驚いたようだったが——
すぐに、軽く肩をすくめた。
「まあ、いいだろう。」
彼は、軽く息をつきながら言った。
「何を話したいんだ?」
先生は、一瞬だけ視線を落とし——
そして、真っ直ぐに言った。
「お礼が言いたかったんだ。」
「……は?」
彼の眉がわずかに動く。
「それなら、少しだけ時間をくれないか?」
先生は続ける。
「10年以上も、こんな機会はなかったから。」
彼は、不思議そうな顔をしたが——
やがて、軽く笑いながら先生の肩を叩いた。
「大げさだな。」
「昔のバカな俺が言ったことなんて、忘れろよ。」
先生は、静かに首を振る。
「いや、本気で感謝してるんだ。」
その言葉に、彼の笑みがわずかに揺らいだ。
先生は、言葉を続ける。
「お前の情熱と執念がなければ、俺は絶対に諦めていた。」
「お前がいたから、自分の道を追い求め続けることができた。」
「本当に——ありがとう。」
彼は、少し照れくさそうに笑いながら、先生の肩を軽く叩いた。
「……あの頃の俺が役に立ったって言うなら、まあ、悪くない気分だな。」
先生は、小さく笑う。
「俺は、お前の昔の生活が無駄だったとは思わないよ。」
少なくとも——
「俺は、自分が適当に生きてきたとは思ってない。」
先生が何か言おうとした瞬間、
彼が静かに、だがはっきりと遮った。
先生は、無意識に口を閉ざす。
彼の口調は穏やかだった。
だが、その言葉に込められた意味は、静かに重かった。
——自分は、言ってはいけないことを言ってしまった。
先生は、そう悟った。
彼は、昔の生活を冗談交じりに語ることはできる。
だが、それを他人に評価されるのは、別の話だった。
「俺さ。」
彼は、ふっと息をつき、遠くを見るように続けた。
「一度も、自分のあの頃の苦闘を後悔したことはないんだ。」
「あの失敗があったからこそ、今の自分を大事に思えるようになった。」
先生は、彼の横顔をじっと見つめる。
そして——
「……そうか。」
静かに、それだけを返した。
遠くで誰かが、こちらを見ているのに気づいた。
彼は、何でもないように手を挙げて応える。
そして、もう片方の手を先生の肩に回した。
——その瞬間、周囲の視線が集中した。
驚き、喜び、不思議そうな表情が次々と浮かぶ。
しかし、それらはすぐに笑顔へと変わる。
数人が手招きをし、「こっちへ来い」と促していた。
「……どうやら、二人きりの時間はここまでのようだな。」
先生は、苦笑しながら呟く。
——せっかくの貴重な機会が、数言の会話で終わろうとしているとは思わなかった。
「ハハ、同窓会だもんな。」
彼は、まるで何事もないように笑う。
「みんなで話す方が楽しいさ。」
先生は、ふとさっきの部屋にいた子供と女性のことを思い出した。
「君の奥さんと子供は、あそこで大丈夫か?」
「ああ、大丈夫さ。」
彼は、軽く笑いながら答える。
「俺の奥さんは強いし、うちの子供もな。」
そのまま何気なく歩き出しかけた彼だったが——
一瞬、何かを思い出したように足を止める。
そして、考え込むように目を伏せ、苦笑を浮かべた。
「……ふと思い出したんだが。」
彼は静かに言った。
「昔、親父に『余計なことはするな』って、よく言われたんだ。」
「その言葉が逆に俺をムキにさせて——自分の人生を必死に切り開こうとした。」
彼は、ふっと息を吐く。
「でもな。」
「今、自分が親の立場になると——なんとも言えない複雑な気持ちになるよ。」
先生は、その言葉の意味を噛みしめるように聞いていた。
「もしかして、もう息子さんの将来を決めてたりするのか?」
先生が冗談めかして聞くと——
彼は、少しだけ笑った。
「ハハ、まさか。」
「親父の圧力を十分に味わったからな。俺は同じことを、自分の子供に押し付けたくはない。」
「ただ——」
一瞬、言葉が途切れた。
彼は、一瞬ためらった後、静かに言葉を続ける。
「それでも、もしうちの子が**『小説を書きたい』なんて言い出したら——**」
「……その時は、本気で脚の骨を折ってやるかもしれないな。」
——昔の道。
——かつての選択。
先生は、その言葉にどう返せばいいのか分からなかった。
「……」
彼は、そのまま話し続ける。
「才能ってのは、普通の人間が持てるもんじゃないんだよ。」
——ハハ、言い過ぎたな。
彼は、照れ隠しのように笑う。
「さあ、行こうぜ。みんなが待ってる。」
そう言いながら、人混みへと向かって歩き出す。
その笑顔は、群れに近づくほどに明るくなった。
だが——
先生は、どう接していいのか分からない距離感を感じていた。
見た目は、昔のままの彼だった。
——だが、やはり変わってしまった。
かつての夢を追う心は、どこにもなかった。
いや、死んでしまっていた。