夢想と能力
広々としたオフィス。
明るい白色の照明が、無機質な空間を照らしている。
プロジェクターもなければ、プレゼン資料すらない。
ただ、長いテーブルにはたった二脚の椅子が使用され、一台のノートパソコンが開かれていた。
操作しているのは、眼鏡をかけた真面目で厳格な雰囲気の女性。
そして、その隣——
無表情で、正確にはぼんやりと椅子に座っている男がいる。
「編集さん、なんでこの仕事を選んだんですか?」
「……は?」
女性は、一瞬キーボードを叩く手を止める。
まさに**「今の顔がそのまま言葉になった」**ような返答だった。
「このバカはこんな時に何を言い出すんだ?」
そんな露骨な表情を浮かべながら、女性は眼鏡を押し上げる。
さすがに「バカなの?」とは言えない。
感情を抑えつつ、冷静に言葉を選んだ。
「先生、今私たちが何をしているか分かっていますか?」
「分かってますよ。この大会の選手たちの成績評価ですよね?」
男は適当な調子で言うが、意外にも状況は把握しているらしい。
女性は一瞬だけ彼を見つめ、それ以上の追及をやめた。
再び視線をパソコン画面に戻し、キーボードを叩きながら答える。
「理由なんてありません。ただ、この仕事を見つけて、面接官が私を選んだ。それだけです。」
「転職したいと思わないんですか?」
「もっといい給料の仕事があれば、すぐにでも。」
「そしたら、僕たちはもう一緒に仕事できなくなりますね?」
「それは……残念ですね。」
女性は淡々と答えたが、ほんの一瞬だけ、戸惑いの色を浮かべた。
そして、その小さな変化を、隣の男は見逃さなかった。
「ハハ、気にしないでください。」
男は満足げに微笑む。
「僕たちなんて、確かに問題児みたいなものですから。」
「自覚はあるんですね。」
「もちろん。それで、編集さんには夢とかないんですか?」
女性は振り返らないまま、パソコンを操作し続ける。
「夢?」
その言葉を、まるで無意味なものでも扱うかのように、淡々と口にした。
「必要ありません。」
「お金を稼いで、食べて、遊ぶ。それだけで十分です。」
「……強いて言うなら、仕事をしないことが夢ですね。」
「そうなんですね。」
男は苦笑しながら、軽く肩をすくめる。
「満足しました?」
静かなオフィスに、キーボードを叩く音だけが響いていた。
「ただ、ちょっと意外でしたね。」
男は、ゆったりとした口調で言った。
「編集さんなら、何か大きな夢があると思っていましたよ。だって、能力が高いじゃないですか。」
女性は軽く眼鏡を押し上げ、無表情のままキーを叩く手を止めない。
「先生が言う『能力』がどの部分を指すのか分かりませんが、とりあえずありがとうと言っておきます。」
それだけ言うと、再び視線を画面へ戻した。
「でも、夢は能力だけで叶うものじゃない。」
男は少し首をかしげる。
「ほう?」
女性は、ため息のように息を吐き、静かに続けた。
「私たちは、美しい世界を描き、努力すれば成し遂げられる青写真を作り上げることはできます。でも、それはあくまで**『物語の中』**の話。」
指先でキーボードを軽く叩く。
「現実じゃない。」
「……つまり?」
「普通の人間は、自分の限界を受け入れ、無理をせずに生きること。」
女性は淡々とした口調で言い切った。
「それが誇るべきことなんですよ。」
「すごく率直ですね。」
男は薄く笑う。
「自分の限界を受け入れて、もがかないなんて……逆に強すぎますよ。」
彼は軽く肩をすくめながら、言葉を続ける。
「それって、普通の人間じゃないでしょう?」
女性は、一瞬だけ手を止めた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「先生は、苦しみ、もがくことが普通の人間の姿だと思っているんですか?」
男は軽く息をつきながら、微笑を浮かべた。
「人間である以上、夢があれば常に苦悩ともがきの渦に巻き込まれるものですよ。」
女性は、ふっと鼻で笑った。
「先生って、そんなに悲観的な人なんですか?」
「ハハ、すみませんね。」
男は笑いながら、軽く両手を広げる。
「つまらないことを言いました。」
「つまらないですね。」
女性は淡々とした口調で返す。
だが、男は気にした様子もなく、続けた。
「でも、だからこそ、成功の果実はより貴重で甘いんです。」
「その成功……普通の人は、他人が成し遂げるのを見ているだけですけどね。」
女性はそう言い放つと、ふっと息を吐き、椅子の背にもたれる。
そして、すぐに仕事モードへと切り替えた。
表情を引き締め、ノートパソコンの画面を男の方へ向ける。
画面には、編集部の審査と議論を経て決定された最終順位が表示されていた。
「先生、私たちは先生の分析とご意見をいただき、この順位が問題ないか判断していただきたいと思います。」
今のやりとりが無かったかのような、冷静で淡々とした声。
男は、ちらりと画面を見やる。
──これが、ここに呼ばれた本当の目的だ。
編集部にアドバイスをするため。
通常、こういった作業に彼の協力は不要だ。
だが、先生自身の経験をもとに意見をもらうという条件で、編集部はこの依頼を受け入れていた。
彼の名声を利用することで、コンテストの評価の信頼性が高まり、苦情や抗議のリスクも分散できる。
編集部にとっては、メリットしかなかった。
数年が経ち、この形式はほぼ恒例行事となっていた。
「非常に良い結果ですね。」
先生は議論の結果を見ながら、迷うことなく大きくうなずく。
「合理的な順位です。」
有望な作品については、すでに事前に目を通している。
答えは、もう出ていた。
今やっているのは、ただの確認作業に過ぎない。
「先生にご認めいただけるのは光栄です。」
編集者は淡々とした口調で言いながらも、どこか安心したようだった。
「特に、この二位の作品……」
先生は資料に視線を落としながら、ふと呟く。
「今回で三度目の投稿でしょう? 前の二回は、些細な欠点で落選していましたね。」
この言葉を聞いた編集者は、一瞬驚いたように目を見開く。
そして、すぐに表情を引き締めた。
「……はい、その通りです。」
「先生がこの投稿者を覚えていらっしゃるとは。」
編集者の目が、興味深そうに細められる。
「もしかして、その才能に気付かれたのですか?」
限られた時間の中で、先生の目に留まるのは最終選考を通過した作品だけ。
それにもかかわらず、彼はこの投稿者の情報を特に記憶していた。
先生は、軽く肩をすくめる。
「そんな大げさな話ではありません。」
そして、書類を軽く指で弾きながら、淡々と続けた。
「ただ、たまたま気になっただけです。強いて言えば、目に刺さるような作品でしたね。」
編集者の表情が、わずかに動く。
「もしかして、先生はこの二位の作品が優勝するべきだと思われますか?」
先生は、資料を指でなぞりながら、軽く首を振る。
「いや。」
彼は静かに言った。
「バランスと衝突の深さでは、一位の方が優れている。」
「二位の作品は、経験不足が明らかだ。この順位は非常に妥当だよ。」
編集者は、その言葉をじっと噛みしめるように聞いていた。
しばしの沈黙。
そして、編集者はパソコンの画面を閉じ、ゆっくりと言った。
「では、これでお仕事は終わりでしょうか?」
先生は、その問いかけにちらりと視線を向ける。
そして、「もう帰ってもいいですか?」と言いたげな表情を浮かべた。
だが——
編集者は、まるでその表情を無視するかのように、話を続けた。
「もう一つ、お願いがあります。」
編集者は、ノートパソコンを閉じながら静かに言った。
「今回は先生に、選手たちへの激励のスピーチをお願いしたいのです。」
その申し出に、先生はまるで嫌いな食べ物を口にしたかのような苦々しい表情を浮かべた。
「……それは私の仕事の範囲外では?」
「先生の要望のせいで、私たちは三日間連続で徹夜になったんですよ。」
証明するように、女性の目の下には濃いクマがくっきりと刻まれていた。
先生は、ちらりと彼女の顔を見て——
「……申し訳ありません。」
短く謝罪した。
「ということは、出席してくださるのですね?」
編集者はすかさず切り込む。
「考えておきます。」
「先生が提案された件について、うちの編集長は怒鳴り散らしそうになりましたよ。」
「……真剣に検討します。」
「この件は社長まで驚かせてしまい、過労で倒れるのではと心配されましたが——」
先生はため息をつき、両手を軽く挙げる。
「……時々、そういう貴女は意外と魅力的ですね。」
編集者の背後に浮かんでいた鬼のような圧が、ようやく消えた。
代わりに、淡い微笑みが浮かぶ。
「スピーチは二〜五分程度で済むので、どうかよろしくお願いします。」
編集者は念押しするように、にっこりと微笑んだ。
先生は、敗北を悟ったように肩を落とし、ゆっくりとうなずく。
「それから、先生が以前から気にしていた投稿者についてですが——」
編集者は静かに続きを告げる。
「今年も投稿はありませんでした。」
淡々とした口調で述べられた事実。
それに対し、先生の表情には失望も喜びも浮かばなかった。
ただ、すでに予想していたことだったのかもしれない。
「ご尽力いただき、ありがとうございました。」
「先生、例の投稿者は数年前から投稿がありません。」
編集者は、画面を見つめながら静かに言った。
「もしかしたら、別の出版社や……別の道を探しているのかもしれません。」
先生は、一瞬考え込むように指でテーブルを軽く叩く。
そして、ゆっくりと首を振った。
「いや。」
彼は短く否定する。
「そんなことがあれば、気付くはずだ。」
視線を宙に彷徨わせながら、ぽつりと続けた。
「あいつの文体や特徴は強烈だったからね。」
──たとえ別の場所で書いていたとしても、必ずどこかで目にするはずだ。
「ということは、もしかして……」
編集者は言いかけたが、それ以上続けるのは不適切だと察し、口を閉ざす。
だが、先生は気にすることなく補足した。
「もう、小説を書いていないのかもしれない。」
その言葉は、まるで静かな夜に落ちる一滴の水のように、重く響いた。
「心が死んだ者は、意味のないことを続ける気力など湧かないからな。」
編集者は、思わず息を呑む。
「先生、その言い方は……。」
「すみません、失言でした。」
先生は苦笑し、軽く片手を挙げる。
「私が言うべき言葉ではありませんでしたね。」
沈黙が落ちる。
それ以上、編集者は何も言わなかった。
「では、これで失礼します。」
先生は、時計をちらりと見て席を立つ。
「明日は珍しく、同窓会があるのでね。そろそろ電車の時間です。」
軽く手を振りながら、出口へ向かう。
エレベーターが開くと、そのまま中へ入り、ゆっくりと扉が閉じていく。
編集者は、去っていく背中を見つめながら、小さく息をついた。
「……それでも先生、来年もまた同じお願いをされるのでしょうね。」
ノートパソコンを閉じると、自分の席へ戻り、表彰式の準備に取りかかった。