選択
「その友達は、その後、このことを知りましたか?」
「もちろんだ。隠そうとしても、どうせいつかはバレるさ。」
「その友達……大丈夫でしたか?」
「大丈夫じゃなかった。」
先生はワイングラスを指でなぞりながら、静かに言った。
「それからだな、俺たちの会話が減ったのは。」
リーピンは自分の夢に向かって進み続け、俺はただゲームを続けていた。
でも、部屋の雰囲気は確かに変わった。
その後、契約を更新する話すらしなかったし、そんな相談もしないまま、自然と別々に暮らすようになった。
たまに授業で顔を合わせる程度だったよ。」
「……彼は辛かったでしょうね。」
ウェイター――まだ「ダンネル」と呼ばれている彼は、残念そうに軽くため息をつく。
「夢を追う途中で、先生のような存在に出会うなんて。」
その表情には、どこか無念さと挫折感がにじんでいた。
「それで、諦めたんですか?」
彼は先生をじっと見つめながら、静かに尋ねた。
レストランの入口では、少女とその母親が去っていく。
先生は軽く手を振って見送りながら、ぽつりと呟いた。
「諦める? それは夢だぞ。歯を食いしばってでも進むべきものだろう?」
「働いているあなたも、夢を追い続けられるといいですね。」
ダニーは穏やかな笑みを浮かべながら、静かに言う。
「『歯を食いしばってでも進む』と言ったダンネルさん。」
「……すまない。」
先生は一瞬、言葉に詰まった。
そして、ワインを一口飲みながら、静かに続けた。
「軽率だったな。簡単に判断してしまった。諦めるのも悪いことじゃない。損切りして、別の道を行くのも間違いではない。」
「損切り? そんなの負け犬の言い訳だろう。」
「それはひどい言い方ですね、先生。」
「そうだな。俺もそう思う。」
先生は淡々とそう言いながら、ワイングラスをゆっくりと傾ける。
沈黙がしばらく続いた。
ダニーはじっと先生の顔を見つめる。そして、静かに言葉を口にした。
「でも、先生はそれでも話してくれましたよね……」
ダニーの声は、どこか優しかった。
「その友達は、その後どうしたんですか? やっぱり前に進み続けたんですか?」
先生は、目を伏せて小さく笑った。
「……ああ、進み続けたさ。」
それは夢であると同時に、他人が決めた未来のレールから抜け出す唯一のチャンスだった。
「どうしても、進むしかなかったんだ。」
先生は微笑みながらも、どこか苦笑を含んでいた。
「授業でたまたま顔を合わせても、最初は軽い挨拶を交わす程度だった。それすらもしなくなった頃……ある日、向こうから話しかけてきたんだ。」
先生はグラスを置き、静かに言った。
「『物語を書くコツを教えてほしい』ってね。」
「……それが二人の関係を修復するきっかけになったんですね?」
先生は、大きくうなずいた。
「そうさ。それで、どうやって物語を書いていたかを必死に考えたよ。」
先生は少し視線を落とし、ゆっくりと思い出すように言葉を紡ぐ。
「正直、俺は何も考えず、思いつくままに書いていただけだった。でも、彼が自分から話しかけてきたんだ。何かしらのアドバイスをしなきゃと思った。」
先生はワインをもう一口飲む。
グラスがほぼ空になったのを見て、ダニーがすぐに注ぎ足した。
「その友達は、きっと嬉しかったでしょうね。」
ダニーは静かに微笑む。
「決心して先生に声をかけて、同時に自分も救われたんですから。」
先生はグラスの中のワインをゆっくり回しながら、低く笑った。
「たくさんのアドバイスをしたよ。たくさんね。本当にたくさん。」
そして、ふっとため息をつく。
「良かったか悪かったかはわからない。でも、その時は何か言わなきゃって思ったんだ……」
「……ただ、たった一言だけ、どうしても言えなかったことがあった。」
ダニーは先生をじっと見つめた。
「それは?」
先生は、かすかに微笑みながら答えた。
「『続けろ』って言葉さ。」
一瞬の沈黙が流れる。
店内には、片付けを始めた同僚たちが皿を拭く音だけが響いていた。
「……その言葉が言えなかったのは、先生が彼に傷を与えたことを理解していたからですね。」
ダニーの言葉に、先生は苦笑しながらうつむく。
「……あいつには、才能がないと分かっていた。」
彼の声は、どこか遠い。
「どれだけ続けても、成功することはないだろう。それでも、偽善で祝福するべきか……本当のことを言って二重の傷を与え、関係を完全に壊すべきか……どちらも辛い選択だった。」
先生は静かにグラスを置いた。
「先生は、悪者になれない人ですよ。」
ダニーの言葉に、先生はわずかに眉を寄せる。
「どちらを選べば悪者になるかなんて分からない。」
先生は、ゆっくりと首を振る。
「いや……もしかすると、俺は最も許されない、最も悪人らしい選択をしたのかもしれない。」
「えっ?」
ダニーが驚いて顔を上げた。
先生は、視線を落としたまま、ぽつりと呟く。
「……あいつの覚悟や希望を聞いて、何も言わずに、ただ黙っていた。」
「……先生、ここはレストランであって、懺悔室じゃないですよ?」
ダニーが、わずかに苦笑しながら言った。
「ハハ、本当に厳しいな。」
先生は軽く肩をすくめ、グラスを揺らす。
「懺悔する機会すらくれないのか?」
「先生は確かに彼を傷つけたかもしれません。でも、それは先生の責任じゃないと思います。」
「……俺も、自分が悪いとは思っていない。」
一瞬の沈黙が流れる。
先生は、ワインをゆっくりと回しながら、揺らめく液体をじっと見つめた。
客の出入りが途絶えた店内には、皿を拭く音だけが響いている。
そして、ぽつりと呟いた。
「もっと辛いのは、あいつが落ち込んだことで、俺が……少しだけホッとしてしまったことだ。」
ダニーの眉が、かすかに動く。
「先生……」
「才能がある者が、才能のない者を打ち負かすのは当然だ。」
先生は、乾いた笑いを漏らす。
「それでも、感情を完全に切り捨てることは……俺にはまだできない。」
言葉の最後を、かすかに噛み締めるように言った。
グラスの最後の一口を飲み干し、ダニーが注ごうとする前に、先生は手を上げて制止した。
「つまらない話を聞いた後でも、辞職するつもりか?」
「先生は、俺の退職を応援してくれると思っていました。」
「もちろんだ。」
先生は、すぐにそう答える。
「だが、未来をどう歩くかは君次第だ。」
そして、ワイングラスを指で転がしながら、静かに続ける。
「辞めた後、夢の道で才能ある競争相手に出会うか——」
「……あるいは、誰にも覚えられずに終わるか。」
ダニーはその言葉の続きを、呟くように言った。
先生は、静かに頷いた。
「その重圧に耐えられるか?」
ダニーは少し考えるふりをして、だがすぐに答えた。
「たぶん。」
そして、視線を先生に戻し、淡々と言葉を続ける。
「でも、ここにいる限り、前には進めない。」
「未来がどうなるか、永遠に分からない。それが俺の望む未来じゃない。」
二人はしばらく視線を交わす。
そして、先生は、ゆっくりと語りかけた。
「これまでの大まかな統計ではな……」
指先で軽くグラスを鳴らしながら、淡々とした口調で言う。
「音楽家一万人のうち、音楽で生計を立てられるのは五十人。そして、その中で有名になれるのは……わずか一人。」
「それでも辞職して挑戦するつもりか?」
ダニーは、一度目を閉じ、息を整える。
そして、苦笑しながら、もう逃げられないと悟ったように——
ゆっくりと、頷いた。
「俺が先生の友達みたいになるかどうかは分からない。」
ダニーは静かに言った。
「でも、俺は彼じゃない。少なくとも、一度は賭けてみたい。」
視線をまっすぐ先生に向ける。
「先生が言ったように、俺も感情を捨てて冷徹に確率を計算し、挑戦しないと判断するなんてできない。俺も人間だから。」
先生は静かに頷いた。
そして、グラスをテーブルに置き、椅子から立ち上がる。
「次にここで君に会わないことを願っている。」
ダニーは軽く笑った。
「ハハ、自分をここに戻らせるつもりはない。もう十分に安穏と過ごしたから。」
少し間を置き、胸を張って言う。
「次に会うときは必ず先生を招待しますよ。」
先生は微かに口元を緩める。
「楽しみにしている。」
「絶対来てくださいね、先生。」
「ああ、ダンネル。」
「ダニーです!」
先生は声を上げて笑った。
ダニーは一瞬呆れたように見つめるが、すぐにつられるように笑い出す。
このやりとりが、今までと何も変わらないのが、どこか心地よかった。
先生は会計を済ませると、ゆっくりとレストランの扉を押し開く。
夜の闇の中へ、歩みを進めていく。
もう振り返ることなく、消えていった。
レストランの薄明かりの下では、後片付けをするウェイターたちが忙しなく働いていた。
「先輩、本当に辞めるんですか? それじゃあ店が困るんじゃ……。」
先生の姿が完全に見えなくなった頃、遠くから見守っていた後輩が、慌てて駆け寄ってきた。
ダニーはその様子に、ふっと笑い、軽く後輩の肩を叩く。
「心配するな。ここにはお前がいるだろ?」
後輩はまだ不安そうな表情を浮かべるが、ダニーはそのままオフィスへ向かおうとした。
「先輩? もう上がるんですか?」
足を止めずに、背を向けたまま答える。
「いや……店長に話がある。」
「えっ、本気なんですか? 少し考え直した方が……もしかして昇給交渉ですか?」
後輩が慌てて聞いてくる。
ダニーは小さく笑い、肩をすくめた。
「この手が効くなら、将来使ってみろよ。」
──だが、その前に、店長はもっと安い給料で新人を雇うだろうな……。
内心で苦笑しながら、ダニーは店長室の扉の前に立った。
目の前には、無機質な木製の扉。
たった一枚の板が、現実と未来を隔てている。
──後悔するなら、今すぐ引き返せばいい。
ダニーは深く息を吸い込み、伸ばした手をゆっくりと前へ――
あと数センチ。
指先が扉に触れるはずだった。
だが、その距離がどうしても埋まらない。
何かに喉を詰まらせたように、「店長」の「店」の一文字すら出てこなかった。
「……熱……」
思わず呟いた言葉に、自分でも驚く。
──給料は少ないが、福利厚生は悪くない。それに、長く働けば経験も積めるし、安定した職だ。
──本当に全てを捨てて、わずかな可能性に賭ける覚悟があるのか?
指先が小刻みに震える。
足が、地面に張り付いたように動かない。
このまま、何もなかったように引き返すのは簡単だ。
「俺は……」
声が詰まる。
扉の向こうには、変わらぬ日常が待っている。
だが、扉の向こうへ行かなければ、変わらぬままの人生が続くだけだ。
──どうする?