臆病と言い訳
暗がりのレストランは、控えめな照明が上品な雰囲気を引き立てていた。平日のためか、いくつかのテーブルは空席のまま。客足はまばらで、食事を楽しむ人々にとっては落ち着いた時間が流れていた。
「先生、こちらがデザートでございます。」
スーツ姿のウェイターが、小さなネクタイをきっちりと締めながら、シングルサイズのバニラレモンケーキをそっと角の席へと差し出す。ケーキを置いた後、彼はそのまま周囲の客の様子を見守っていたが、不意に声をかけられた。
「ありがとう。もし女性のスタッフが持ってきてくれたら、もっと嬉しかったかもしれないね。」
「では、そのケーキを悲しい気持ちで召し上がってください。」
プロフェッショナルな笑顔を崩さず、ウェイターはほぼ間髪を入れずに答えた。その軽妙な返しに、先生と呼ばれた男は思わず「ハハ……」と苦笑し、ナイフとフォークを手に取る。そして、コースの最後を締めくくる一品をゆっくりと味わい始めた。
「どうせ暇なんだろう? 少し俺と話でもしないか?」
「申し訳ありません。この数卓は私の担当ですので。」
「隣のスタッフに任せればいいじゃないか。あの人、新人だろ? 多くの客を任せてみるのも経験になる。」
「それは職場のいじめでは?」
「いじめっていうのは、不当な圧力をかけることだ。でもこれは、彼の能力に見合った訓練だよ。経験を積ませなければ、彼はいつまでも新人のままだ。いつか『なんで成長の機会を与えてくれなかったんだ?』なんて恨まれるかもしれないぞ。それこそ職場では重い罪だろう?」
「……どうせあなたは話をやめないんでしょう?」
「ハハ、だから君と話すのが好きなんだよ、ダンネル。」
「……私の名前はダニーです。」
先生は少しずれた眼鏡を押し上げ、ウェイターの胸元の名札をじっと見つめる。
「もっと目立つ場所に名札を付けるべきだな。」
「胸元に付けていますが。」
「じゃあ、名前をダンネルに変えるべきだ。ダニーは言いにくい。誰か他にもそう言われたことは?」
「いいえ、あなたが初めてです。」
「それは光栄だ。」
「何十回もサービスしたお客様に名前を間違えられるのは初めてですよ。」
先生は口元をほころばせ、目尻に笑いじわが浮かぶのも気にせず、心からの笑みを見せた。そして、満足したように頷いた後、ゆっくりと話し始める。
「心を慰めるためにケーキを一切れどうだ? 砂糖は感情を和らげるものだよ。」
その言葉を聞いたダニーの笑顔が、わずかに崩れた。
それはプロとしての笑顔ではなく、諦めが混じった苦笑だった。同時に、少し離れた同僚に目配せし、手振りで「この卓も任せた」と合図する。
当然のことながら、その同僚は「冗談じゃない」という顔でダニーを睨んだ。
「先生、前回の話し合いの結果を忘れましたか?」
「もちろん覚えてるさ。君は失敗が怖いし、ここは福利厚生も悪くない。」
「覚えていてくださって、ありがとうございます。」
ダニーは丁寧に感謝の言葉を述べるが、その表情はどこか複雑だった。
そんな彼を前に、先生はナイフとフォークでケーキの一部を切り、口に運ぶ。そして、しばらく味わった後、ぽつりと呟くように言った。
「誰かが自分の進路を他人に相談するとき、本当に求めているのはアドバイスじゃない。ただ、認められたい気持ちと、少しの勇気が欲しいだけさ。」
「……でも、あの同僚には、まだ何も教えられていません。」
「君は自分を欺くのが好きだな。安定って、そんなに素晴らしいか?」
先生は少し間を置き、独り言のように小さく呟いた。
「……まあ、確かに快適だな。いっそのこと、ここに一生いる方がいいかもしれない。」
微かだったが、その声は確かにダニーの耳に届いていた。
「私がいなくなれば、この店は——」
「何事もなく続く。」
「……」
「最初は多少の混乱があるかもしれない。でも、二、三か月、遅くても半年もすれば、また運営は元通りになる。君が長くここにいたところで、何か特別なことがあるわけじゃない。」
沈黙するダニーを前に、先生は続けた。
「だからこそ、自分のためにもっと考えるべきなんだ。」
その声色は先ほどまでとは違い、どこか優しく、穏やかだった。
ダニーが視線を上げると、先生は変わらぬ表情のまま、一口分のケーキをゆっくりと口に運び、自然な動作で飲み込んだ。
「先生、私は……」
ダニーは言いかけたが、すぐに口を閉じた。そして、再びプロらしい笑顔を浮かべ、何事もなかったかのように立ち直った。
だが、その様子を見た先生は、何かが彼を止めたのだと直感的に感じた。
タッ、タッ、タッ。
軽やかな足音が、二人の間に響いた。
振り向くと、白とピンクが交差する装飾の小さなワンピースを着た少女が、一冊の本を抱えて先生のそばへと歩み寄る。
身長差があるため、少女は見上げ、先生は見下ろさなければならなかった。
彼女の小さな体に対して、その本はまるで巨大で重たいもののように見えた。
「おじさんは、この本の持ち主ですか?」
緊張と恥じらいが入り混じった声。その一方で、期待に満ちた瞳が先生を見つめている。
先生は手にしていたナイフとフォークをそっと置き、できるだけ目線を合わせようと腰をかがめた。
「この本は君のものだよ。ただ、書いたのは僕だけどね。」
「そうなんだ……」
少女は理解したような、でもまだ少し戸惑っているような顔をして、遠くのテーブルにいる母親の方を見た。
先生も視線を上げ、その母親を見つける。
彼女は少し恥ずかしそうに笑いながら、軽く会釈をしたが、こちらへ来る様子はない。
恥ずかしいのだろうか? それとも、子供の特権を活かそうとしているのか?
「サインをもらってもいいですか? ママが先生の名前を書いてほしいって。」
少女の頼みに、先生は考えるまでもなく、胸元からいつも携帯しているサインペンを取り出し、すらすらと本に名前を書き込む。
「ありがとうございます!」
少女は満足げに本を抱きしめると、くるりと振り返り、そのまま帰ろうとした。
だが、先生は彼女を呼び止めた。
「お嬢ちゃん、この本は好きかい?」
「わかりません。字ばっかりで、読めないから。」
――それもそうだ。
彼女の身長からして、年齢はだいたい想像がつく。普通の小さな女の子に長編小説を読み切れというのは無理な話だろう。
「じゃあ、お話の本は好き?」
「好き! 毎日ママが読んでくれるんだ!」
遠くにいる母親への印象が、一気に良くなった。
「それなら、君も自分だけのお話を作ってみたいと思ったことはある?」
「自分のお話?」
「そうさ。」
「ないよ!」
少女は短く答えると、本を抱えたまま母親の元へ駆け戻っていった。
先生はその姿を見送りながら、ふっと微笑む。
「……先生、大丈夫ですか?」
「ハハ、僕が大丈夫じゃないように見える?」
椅子に深く腰を掛け直し、先生は悠然とケーキを口に運ぶ。その穏やかな様子に、ダニーはかけようとした慰めの言葉が、なんだか余計なものに思えた。
「でも、そんなにはっきり否定されたら、少しは傷つくでしょう?」
「いや、むしろスッキリしたよ。現時点で彼女が作家になる可能性はない。それに、競争相手が一人減ったと思うと、少し嬉しいくらいさ――なんだ、その軽蔑した顔は。言いたいことがあるなら言えばいい。」
「先生は、子供をその道に進むように励ますと思っていましたよ。夢を持つようにとか、応援するとか……何しろ、先生はその道で成功した人ですから。」
「君は二つの点で間違っている。」
先生はフォークを置き、ダニーを見ながら静かに言った。
「まず、僕は決して成功者ではない。実際、多くのライバルがどんどん人気を上げている。どれだけ頑張っても追いつけない……くそったれの才能め。」
「もう一つは?」
「ハハ、僕の愚痴を無視するんだな。」
ダニーは黙って見つめている。
先生は少し姿勢を正し、軽くため息をつく。そして、まるで過去を思い返すように、ゆっくりと語り始めた。
「夢か……」
先生はフォークを持ったまま、ふっと視線を落とす。
「確かに、夢があれば、どんなに辛くても這い上がる力になる。かつて、夢を抱き、尽きることのない情熱を持っていた人がいた。」
低く、静かな声だった。
「その人が最後にどうなったか、知っているかい?」
ダニーは一瞬考え、慎重に答えた。
「成功したんですか?」
先生はその言葉に、何とも言えない表情を浮かべた。
失望、悲しみ、平静——あるいは、単なる無表情?
ダニーはその微妙な表情を読み取ろうとしたが、何の感情が込められているのかは分からなかった。
そして、沈黙の中、先生は静かに言った。
「僕の目から見れば、その人は死んだよ。」