No.3「もらってしまった」
もう秋だというのに暖気の残る、人通りのさほど多くない穏やかな昼下がりだった。こんなに喧噪の中で音を感じる事が、今まであっただろうか。外回りのサラリーマンの靴音やら、観光客のキャリーバッグのキャスターが鳴る音やら、券売機のやたらと機械的な案内音声やら、それほど普段は騒がしく感じずとも、一度気になってしまえば眩暈がするほど駅前は音に満ちていた。
「おねがいしまーす」
目の前でティッシュを配る人物は、恐らくはそう発したのだろう。あまりくっきりしない言葉で、その人は道行く群衆にティッシュを差し出していた。
一体俺は何をしにここまで来たんだっけ。ティッシュ配りから受け取ったものを眺めながら考える。昼飯を食べに?いや、昼飯は家で昨日の残りを食べた気がする。それも昨日の昼の記憶だったか?無くなったレポート用紙を買いに来たんだったんだろうか。あぁ、そういえばケチャップも今朝切れたんだっけ。捉えどころのない思考が流れゆくまま、俺は自分に近づく他人の足音にいちいち怯え、離れていくその足音に安堵していた。それでも俺の視線は動かない。
ティッシュ配りの顔は一瞬しか見なかった。
「ありがとうね」
差し出されたものを俺が受け取った時、確かにそいつはそう言った。少し高く、喉に引っかかりのあるような声だったが、目立つような声ではない。そのトーンはにやついているように聞こえた。背格好はやせ型だが身長は低く、気だるげな黒いオーバーサイズのパーカーにボトムスは青いデニムパンツで、その黒髪は肩にかからない程度のショートで艶は無いが荒れてもいない。男性なのか、女性なのか。妙齢なのか年増なのか、何一つこの人物が分からない。まさか声をかけられるなんて思わなかったから、一瞥もせずただ受け取って歩き去るつもりが振り向いてしまい、その時に手に持った物に違和感を感じた。
「おねがいしまーす」
それは、重さはティッシュと変わらない。だが違う。よくあるビニールの袋ではなく、白い無地の包みだった。開け口のようなものは見当たらない。ふとティッシュ配りの手を見ると、それは間違いなく広告の紙が入った普通のポケットティッシュだった。一心不乱というわけでもなく、ただ言われたから配っている、そんな熱意の無さを感じた。
一体これは何だろう。手に持った何かを裏返す事すらも躊躇われた。ティッシュ配りは何事も無く、自らの勤めをこなしていた。すぐ隣を、邪魔そうにこちらを睨みながら初老の男が通り過ぎていった。遠くで、信号機が通行可能を知らせる鳥の鳴き声を発していた。包みの中身は何なのか考えたが、何故か頭に浮かんだのは遠方の母の顔で、次はいつ実家に帰れるだろうなんて思った。
一体これは何なのだろう。俺はまだ、一人で考えていた。