第2章-4
シリルは黙って私の後についてきた。
葬儀場の扉は閉まっていた。私は立ち止まる。
「えと、基本的に現世の物には触れられませんので、扉は通り抜けちゃって下さい」
「そう、よね」
なんとなく解っていたけれど、私はためらいがちに扉に触れた。いや、触れたつもりの手が擦り抜ける。そのまま体ごと通過した。
「お上手です」
上手いも下手もないんじゃないかと思いつつ、私は辺りを見回す。人の姿は既にまばらになっていた。
「あ…、すみません。すでに、終わられたようで…」
「いいよ」
見たら、よけい辛くなっただろう。終わっていてよかったかもしれない。
奥の部屋から声が聞こえる。覗くと通夜ぶるまいをしていた。
親戚の中に父と母の姿を見つける。憔悴しきった母。真っ赤な目で気丈に母を支える父。
数日前に会ったはずの両親が急に老けた気がした。
「親不孝者だね、私」
「そんな事…」
ぱちぱちと瞬きをして、一生懸命なぐさめの言葉を探すシリル。
その続きを待たず、私は、私がいるはずの部屋に向かった。
何もしてあげられないのに、両親の顔を見ているのが辛かった。
そして、一つの扉の前で私は立ち止まった。
「あの」
気遣うように、シリルがおずおずと声をかけてくれる。私は目を伏せた。
「通り抜けられるのは分かってるよ」
「あ、はい」
この向こうに私がいる。そして、きっと彼も…。
私は大きく深呼吸をする。幽体に効き目があるのか疑問だったが、覚悟を決めたかった。
「よし」
つぶやいて、私は扉を抜ける。
蝋燭で照らされた部屋の中に、柩があった。いつか写した、微笑む私の写真があった。
そして、愛しい背中が見えた。
いつも大きく感じていた秋人の背中は、今はとても小さく見えた。
常に纏っていた穏やかな空気も、今は虚ろだ。
「秋人…」
ゆっくりと近づく。と、先程まで微動だにしなかった秋人が立ち上がった。
そして柩の頭の方に立ち、顔もとの小さな扉を空けた。
「……」
私は、横たわる自分の顔を見た。ぞくっと悪寒が走る。
死化粧をし綺麗にしてくれているものの、血の通わない土気色の肌は、生気を全く感じない。
私は現実を突き付けられ、どくんと心臓が跳ね上がる。
いや、もう心臓は動かないのだからそんな気がしただけかもしれない。
ただ、今までどこかで夢かもしれないと思っていたのが打ち砕かれたのは確かだった。
「アコ…」
秋人が小さな声でつぶやく。もう動かない私の頬にそっと両手で触れる。
「目、覚ませよ」
震える声。
そして秋人はそっと、横たわる私にキスをした。
ゆっくりと唇を離し、私を見つめる。
「アコ…。王子様のキスで目覚めるんじゃなかったのかよ」
保健室での出来事が頭を過ぎる。胸が、苦しい。
「アコっ…」
うつむいた秋人の背が震える。鳴咽がもれる。
秋人が泣いたのを見たことがある。でも、こんなに苦しそうじゃなかった。
こんな風に泣く姿を想像すら出来なかったくらい、震えて、崩れ落ちそうな秋人。
「秋人…」
思わず背中から抱き締めようとして、その両腕が秋人の体を擦り抜けた。
絶望が走る。
私はもう秋人に触れることも、温かさを感じる事もできない。
私は、死んだんだ…。
声を殺して泣き続ける秋人の後ろで、私は動く事ができなかった。
突然ふわっと温かい物が私を包む。
驚いて顔を上げると、シリルが私を抱きしめていた。
「シリル…くん」
「温もりって心を癒しますよね。今は僕しかいないから…」
私はその温かさに、目頭が熱くなった。
「亜沙子さん、まだ一度も泣いてないです。泣いて、いいんですよ」
シリルの穏やかで優しい声に、私の目から涙がこぼれ落ちた。
優しい小さな腕の中で私はいつまでも泣き続けた…。