第8章-3
翌日、原島さんは朝から家事を淡々とこなしていた。
弟さんと妹さんに昼食を食べさせ、それぞれの友人宅へ送っていくと、家に戻ってやっと一息つく。 冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注ぐと少しだけ口にして、コップを指で弄びながら彼女は何かを考えているようだった。
しばらくすると、彼女は仏壇の前に行き、父親の写真をじっと見つめる。
どれくらいの間、そうしていたのだろう。
それはまるで笑顔の父親と無言で会話をしているようだった。
やがて彼女は目をとじ、深く長く息を吐くと瞳に決意の光りを燈し、ゆっくりと立ち上がる。
「行ってきます、父さん」
凛とした声で写真の父に声をかけ、彼女は家を出た。
「秋人なら…、きっとあの公園にいるよ」
玄関を出た所で少し思案していた彼女に、私は声をかける。
あそこには、バスケットコートがある。
日曜日で部活がない時は、秋人とそこでバスケをしている人たちを見ていたり、時には私も秋人も一緒にバスケをした。
私との思い出の場所にいるなら、きっとそこにいる。
原島さんは自転車に乗り、颯爽と走り出した。
公園に着くと、彼女は最初に先日秋人がいたベンチに向かった。
しかし、そこには秋人はいない。
「あっちの隅の、バスケットコートじゃないかな?」
声をかけると、彼女はバスケットコートの方向に歩き出す。
少し早足だった彼女の歩調が、コートの近くでゆっくりとなる。
バスケットコートから少し離れた木陰に、秋人の後姿が見えた。
大好きなバスケを見ているはずなのに、その背は虚ろだ。
私といても、バスケットのことになるとそっちに夢中になっていたのに…。
「井沢…くん…」
ゆっくりと秋人のそばまで行った原島さんは、ためらいがちに声をかける。
秋人は視線だけわずかに動かし原島さんを確認すると、またすぐにコートの方に目を向ける。
まるで、何もなかったかのように…。
秋人の態度に、原島さんの決意の光が不安げに揺れる。
ぎゅっと手を握り締め、視線を足元に落とす。
賑やかなバスケットコートとは対照的に、二人の間を重い沈黙が支配していた。
それに耐え切れなくなったのか、原島さんは一歩、後退さる。
「行かないで!」
今にも身を翻し、駆け出していってしまいそうな彼女の細い腕を、私は思わず掴んでしまった。
とたんに、押しつぶされそうなほどの膨大な量の感情が私の中に流れ込む。
過去や現在、未来への想い。
不安や絶望、諦め、そして希望や願い。
父親や秋人、私や板垣くん、家族への感情。
言葉ではなく感覚で、そのたくさんの想いを私の心が感じ取る。
思わず、それに飲み込まれそうになる。
でも、今は彼女の気持ちを知ることが目的じゃない。
直接、気持ちを知らなくてもいい。
伝えたいことがあっただけ。
「どんなに強く決意しても、いざとなるとそれが揺らぐ時は誰にでもある。決意するだけでもとても勇気がいるけれど、それを実行するには、もっと大きな勇気がいるよね」
彼女の流れ込む想いに負けないように、私は叫ぶように彼女に語りかける。
「不安な気持ちに負けないで。ここまで来た想いを無駄にしないで。私には何もできないけど、心から願うから。秋人も、原島さんも、幸せでいて欲しいって願うから!原島さんの想いは、きっと秋人の救いになる。だからお願い。あとほんの少しでいい。勇気を出して!!」
原島さんは、再びぎゅっと手を握り締めた。
そして顔を上げ、まっすぐに秋人を見つめた。
その瞳を見て、私はそっと手を離す。
彼女の瞳から、迷いが消えていた。