第6章-4
ずぶ濡れのまま傘もささず、原島さんは家に帰ろうとしていた。
いつにも増して、表情のない瞳。
閉ざされた秋人の心に、彼女も相当ショックを受けたに違いない。
私もショックだった。
でも、さっきからずっとつないでいる小さな温かい手が、私の心を壊さずにいてくれた。
「風邪…ひかなければよいですけど」
シリルが彼女を心配そうに見つめて言った。
「うん。体の調子が悪いと、心まで弱くなるもの」
傘を差し延べる事すら出来ない自分が、やるせなかった。
しばらくその切ない背中を見つめて歩いていると、ふと、背後から足音が聞こえた。
最初はゆっくり。そして、突然駆け足になる。
振り向く前に、私とシリルを大きな体が通り抜ける。
そして彼は、原島さんの前に立ちはだかり傘を差し延べた。
「なにやってんだよ」
ちょっと怒ったような声。板垣くんだった。
「傘持ってるのに、なんでささない。風邪ひくぞ」
何も言わずうつむいている彼女に、彼は溜息をつく。
「お前は、ほんとにもぅ…」
ぶつぶつ文句をいいながら、板垣くんは片手で鞄をあさりタオルをとりだすと、原島さんの頭に被せる。
「一応拭いとけ」
それでも彼女は動かない。
板垣くんはむっとした表情でくしゃくしゃっと彼女の髪をふき始める。
「秋人に会ったのか?」
ぼそりと言った彼の言葉に原島さんはびくっと反応する。
「なるほどな。秋人の家いったら今日は出掛けたって言ってたから」
そして、タオルをとり彼女を見つめる。
「その様子じゃ、秋人は重症か」
「…私じゃ無理よ」
小さな声で原島さんが呟く。
「何が?」
「私の言葉じゃ、井沢くんの心に届かない」
悲痛な声の彼女を、板垣くんは穏やかに見つめる。
「なんて言ったんだよ」
「…」
彼女はきゅっと唇をかんだまま口を開こうとしなかった。
「…話した方がいいよ」
たまらなくなって、私は彼女の背中に語りかける。
「一人で心に溜め込んでも、その心の重さはなかなか消えないよ。誰かと一緒に背負うことで、その辛さを癒す一歩となるはずだよ。板垣くんなら大丈夫。一緒に考えてくれるよ」
静かに彼女を見つめている板垣くんは、彼女の苦しみを支えるだけの強さも優しさも持っているように見えた。
「……」
原島さんは瞳に迷いの色を浮かべながら、そっと板垣くんの目を見つめた。
自分は半分濡れながら原島さんを傘で守りつつ、暖かな眼差しで見つめる板垣くん。
彼女はぽつりぽつりと先程の出来事を話しはじめた。
黙って全てを聞き終えてから、板垣くんは少し思案する。
「それは、原島の言葉が届かないんじゃない。だって、それは秋人の言葉を借りただけだろ?それで原島がどう思ったか、ちゃんと伝えたか?」
小さく首を振る彼女。
「それじゃ自分の言葉とは言えないだろ。どんな素晴らしい偉人の言葉を借りるより、自らが悩んだり苦しんだりして気がついた事を、感じた事を、自分らしく伝える方が心に届く。俺はそう思う」
暖かく力強い声。
「それにな、一度くらい伝わらなかったからってめげるなよ。自分の意見を否定されたって、それは自分自身を否定されたわけじゃない。誰だって、どんなに仲がよくたって、全ての意見を受け入れられるわけじゃない。分かり合えるもの、分かり合えないものが誰とでもあるさ。お互いの気持ちをぶつけ合って、お互いを知って、仲良くなるもんだろ」
原島さんは黙って板垣くんを見つめていた。
「自分の本当の気持ちをさらけ出すのは勇気がいることかもしれない。どうでもいい奴にそれを見せることはないさ。でも、大切な人が相手だったら怯えちゃ駄目だ。自分から心を開かなきゃ、相手の心を開かせることなんてできないからな。特に、心を閉ざそうとしている奴が相手じゃ、中途半端な気持ちじゃ届かないぜ」
板垣くんの言葉を聞き終えて、原島さんはそっと瞳を閉じた。
「……そうなのかもしれないわね」
静かに呟く。そして、再び板垣くんを見上げた。
「ありがとう」
原島さんの言葉に、板垣くんは驚いた表情を浮かべる。
「あぁ、いや。俺こそ、説教くさくて悪かったな」
急にしどろもどろし始める板垣くん。
「と、とりあえず…ちゃんと傘をさして家帰って、あと…熱い風呂にでも入って、風邪引かないようにしろよ。考えるのはそのあとでいいからな。健康第一だ!」
「そうするわ」
きっと初めて見たのだろう、素直な原島さんに板垣くんは動揺を隠せず、少し赤い顔をして頬をぽりぽりかいている。
「それじゃ…」
閉じていた傘を開き、歩き始める原島さん。
私の隣で、シリルが嬉しそうに微笑む。
「優しい想いが伝わりましたね」
そう言って、私のほうを見上げた。
「そばにいる亜沙子さんの優しさも、きっと彼女を少しずつ変えていらっしゃいますよ」
「そんなこと…。板垣くんの気持ちが伝わったんだよ」
何が本当の理由かわからなかった。
でも、彼女の閉ざされていた心の扉が一つ、開かれたような気がした…。