第4章-2
彼女は椅子に腰掛けると、伏せてあった写真立てをおこした。
写真の中にいたのは、少し幼い笑顔の秋人。きっと中学の時のバスケの試合の物だろう。
彼女はそれをじっと見つめたまま動かない。
「……」
私はそっと彼女に手をのばす。誰にも笑顔を見せない彼女の中で、秋人はどんな存在なのか知りたいと思った。きっと、私の秋人への気持ちとは全く違うのだろう。
私は深く深呼吸すると、彼女の肩にそっと触れた。
「…!?」
とたんに、大量の何かが私の中に流れ込んできた。まるで大きな渦に巻き込まれたかの様に、周りの景色も分からなくなり、平行感覚もなくなる。
「??」
パニックになりそうな心を必死に平静に保とうとするが、どうすればいいのかわからない。もう彼女の肩に触れているのか、触れていないのかもはっきりしなかった。
「シ、シリル君!?」
助けを呼んでみるが、反応は無し。肝心な時に頼りにならない。
「…さん」
「え?」
どこかから声が聞こえ、私は辺りを見回したが誰もいない。
「お父さん」
今度ははっきり聞こえた。幼い、そして哀しそうな声。
すると、突然目の前に男の人の笑顔がまるで映画のスクリーンに映し出されたかのように現れる。
どこかで見たような顔。しばし考え、はっと思い出す。
「原島さんのお父さん!」
と、いう事は、やはりこの得体の知れない場所は原島さんの心の中なのだろう。
私は心が読めると言っても、もっとシンプルなものなのかと思っていた。嫌だと思っていれば手を触れたときに〈嫌だ〉と聞こえるくらいに。
「お父さん…どうして?」
再び哀しげな声。
と、笑顔の父親が消え、土気色の横たわった父親が現れる。
それは、この前見た私自身と同じ様だった。つまり、遺体なのだろう。
「なんで、私たちをおいて死んじゃったの?」
これは、彼女が今考えているのだろうか?でも、声が幼い。もしかすると、彼女の記憶なのかもしれない。
「お父さん…」
身が裂かれるような悲痛な思いが私の中に流れ込む。これが、彼女の想いなのだろう。
苦しくて、身動きが取れない。今、私の家族もこんな想いをしているのだろうか?
「お父さん…」
もう一度、彼女が弱々しく呼ぶと、突然辺りの景色が変わった。
そこは小学校の校庭のようだった。子供達が元気よく走りまわっている。
そばにシリルがいないという事は、やはりここは彼女の意識の中なのだろう。
「何黙ってんだよ」
嫌な感じの子供の声が直ぐそばで聞こえた。横を見ると、男の子数人が綺麗な女の子を囲んでいる
「母親に似てお前も男好きなんだろ?俺らにかまってもらってほんとは嬉しいんじゃねーの?」
声変わりもまだの可愛い声で、随分ひどいことを言う。
女の子、おそらく子供の頃の原島さんは、黙って彼等を睨みつけた。
「うわっ。こえ~!さすが妻の愛人殺して自分も自殺しちゃう奴の子供だよなぁ」
その言葉に、彼女の瞳は光を失う。
力なく、彼女はうつむいた。
「男好きと、殺人者と両方の血をひいてんだぜ、こいつ」
彼等はどっと笑う。
容赦ない言葉。自分の言葉がどれだけの凶器かわかりもしないのだろう。
きっと、数日後には彼らはなんと言ったか忘れているのだ。
彼女は、一生残る傷を負っているかもしれないのに…。
彼女はただ泣かないように、必死に唇を噛んで堪えていた。
否定しないのは事実なのだろうか?あの母親に愛人がいるというのはわからなくもなかった。でも優しく微笑む父親の写真からは、殺人など想像もつかない。だからこそ、彼女のショックは計り知れないのかもしれない。
「おまえさぁ」
中心となっていびっている少年が、彼女に一歩近づく。
「せっかく優しい俺らが、殺人者の娘と親切に遊んでやってんだからさぁ」
後ずさる彼女を捕まえるかの様に、彼は腕をのばす。
「もっと楽しい事しようぜ?」
どこで覚えたんだそんな台詞と疑問に思いながら、ぞっとする。
言葉の暴力だけでも許せないのに、これ以上彼女に何をして傷つけようとするのだろう。
「やめなさい!」
記憶は変えられない。だが、無駄と知りつつ、私は彼女へ延ばされた手を掴もうとした。
その時だった。
「うがっ」
彼の後頭部に、飛んで来たボールが見事にヒットする。
てんてんと転がり、他の人の足にあたって彼女の足元で止まったのは、バスケットボールだった。
それを見て、私はどきっとする。
「悪い!手元くるった」
柔らかな声。声変わりする前でも分かる、秋人の声。
「いってーな。井沢」
悪ガキは振り向いて睨み付ける。私も一緒に振り向き、思わず顔がほころぶ。今と変わらぬ優しいとび色の瞳を持つ小さな秋人は、すごく可愛かった。
「校庭の隅で何してんのかと思ったらミスってさ。悪いな」
悪びれもせず微笑みを浮かべる秋人。でも、目は笑ってない。
「で、女囲んで何してんの?」
笑顔でプレッシャーを与える。絶対わざとぶつけたとしか思えない。
「何って…遊んでやって…」
「へぇ…」
秋人は微笑みの中に怒りを燈した瞳で彼をじっと見る。
悪ガキはたまらず視線を逸らせた。
「…い、行こうぜ」
「あ、おぅ」
リーダー格の少年が逃げるようにその場を離れると、周りの少年達も後に続き、秋人と原島さんだけが残る。
彼女はうつむいたままだ。
秋人は去って行く少年達の背中を見つめ小さく溜息をつく。そして、彼女の足元に転がったボールをひろい、彼女を見つめた。
「原島、あんなの気にすんなよ」
今度は優しい眼差しの微笑み。
「そんな顔してると、お父さん心配するぞ」
その言葉に、うつむいていた彼女が顔をあげる。
「元気出して、お父さん安心させてやれよ」
にっこり微笑み、秋人は原島さんの頭をぽんっとたたく。
「無理しなくていいけど、負けんなよ!」
そう告げると、秋人はバスケットコートに向かって走って行った。
秋人のちょっとかっこつけで、でもすごく優しい所は昔から変わらないみたいだ。
原島さんは秋人の後ろ姿をじっと見つめている。悲壮感が漂っていた彼女の瞳に、何か温かいものが灯った気がした。
原島さんが秋人を想い始めたのはこの時かもしれないと、私は思った。