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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

上から目線の氷結王子、取扱います。

作者: 多田灯里

うわっ…。まただ。

 朝の通勤電車の中、お尻をいやらしい手つきで撫でられ、割れ目に指が沿う。一週間ほど前から、僕は毎日のように痴漢に遭うようになった。

「やめて下さい」と言う勇気も出ずに、痴漢のやりたいようにやられる日々。スーツを着てるし、僕が男だって分かっているはずなのに、何でこんな目に遭わなきゃいけないんだよ…!

 お尻の穴へと食い込むように、痴漢の指先に力が入ったその時、

「おい、おっさん。いい年こいて、男のケツなんて触ってんじゃねーよ」

 低い声がすると同時に、僕のお尻から手が離れた。

「指輪してるし、結婚してんだろ?今度同じことしたら、警察に突き出してやるからな」

 僕は、混雑した電車の中、顔だけを後ろに向けた。

 背の高い、顔立ちの整った男の人が、中年サラリーマン風の男の手首を掴んで高く掲げていた。

 ああ…。何てカッコいい人なんだろう。まるで国宝級イケメンと言われる俳優さんのような、キレイな顔をしていた。こんな人に助けてもらえるなんて、何だかすごく得した気分になる。

 電車が止まり扉が開くと、中年男は慌てて電車から降りて行った。

「あの、ありがとうございます」

 お礼を言うと、

「お前、男のくせに、自分の身も自分で守れないのか?男にいいようにケツ触られて、バカじゃねぇの?」

 そう言うと、痴漢から助けてくれた男も、電車を降りた。見かけないブレザー姿。学校の制服だろうか。肩からかけている重そうなバッグには「雄峰高校 空手部」という文字があった。

 そんなことより、今、何て言った?

 仮にも年上に向かって「お前」とか「バカ」とか?

 あの男、絶対にあり得ない!!


「おはようございます」

 職場に着き、ムスッとした表情のまま、僕はカバンを机の上に荒々しく置いた。

「どうした?めずらしく荒れてるな」

 同僚の高倉が、驚いたように声を掛けてきた。

「今朝の電車の中で、ものすごく失礼な高校生に会って」

「失礼な高校生?」

「そう。初対面の僕に向かって、お前とか、バカとか言ってきて。本当に信じられない!」

 少しでも、カッコいいと思って見惚れた自分が、それこそバカらしくなる。

「え?何で?理由もなく、急にそんなこと言ってきたのか?」

「いや、ちょっと電車内でいろいろあったのは、あったんだけど…」

 さすがに、男に痴漢に遭っていたことは、いくら仲の良い高倉にもバレたくはなかった。

「ふぅん。まっ、今の若い奴らって、そういうの多いのかもな。ここにインターンで来る大学生も、タメ口とかで話したりするしな。あんまり気にするなよ。とりあえず、作業点検してしまおうぜ」

「…うん」

 僕は電気関係の専門学校を卒業後、いろんな施設の電気管理の仕事をしていた。パソコンを触りながら、高倉に向かって呟いた。

「なあ、高倉」

「ん?」

「空手でも習おうかな…」

「は?何だ、突然」

「僕、女みたいってよく言われるだろ?外見や体付きは直せないにしても、せめて心身だけでも強くなれたらな、と思って」

「テレビか何かの影響か?それとも、今朝のことと関係あるのか?」

 高倉は勘が良い。そういう面では、仕事でも頼りになるし、ずいぶんと助けてもらったりもしている。

「うん。まぁ…」

「いいんじゃね?何でも経験するって、大事なことだろ」

「そうだよね…。うん!よし、決めた。今日、家の近くにある空手道場に見学に行ってみるよ」

 僕は、いつも帰り道に通る空手道場へ、仕事帰りに寄ることを決心したのだった。


 そして、その日、いつも通勤の時に何気なく前を通っていた空手道場の中を、少し開いていた窓から覗いてみた。その広い道場の前の方では、黒帯をした練習生たちが、揃って型の練習をしていた。あまりにもの華麗な型の動きと、その優雅さに、僕は息を呑んだ。

 すごい…。何てカッコいいんだろう。空手の型って、あんなに綺麗なんだな…。思わず見惚れていると、道場の先生らしき人と目が合った。その人が僕へと向かって歩いて来る。そして「どうしました?」と声を掛けてくれた。体がとても大きくて、はだけた空手着から、はち切れそうなくらいの筋肉が見えた。

「あの、ちょっと見学に、と思ったんですけど、中に入る勇気がなくて…」

 僕みたいな華奢な人間は、すごく場違いのような気がして、急に恥ずかしくなった。

「どうぞ。中に入って下さい。ここで指導している林と言います。息子と二人で、指導にあたっています。ここは、小・中学生が多くて。一般の方は大歓迎ですよ」

 僕は促されるまま、正面に回り、道場の中へと入った。空手の練習の説明を一通り受け、そのあとの練習を最後まで見学し、僕の決心はついた。先生も、その息子さんの純平さんと言う方も、とても親切で気さくだったので、その日のうちに申し込み用紙をもらって、今度の練習から参加することになった。練習日は、水曜と土曜の週二日というのも、自分のペースに合っているような気がした。

 もう、痴漢なんて自分でやっつけてやるんだからな!その時の僕の意気込みは、たぶん、痴漢よりもあの失礼な高校生に対しての方に向けられていたに違いない。


「今日から一緒に空手をすることになった、松原葵君だ」

 小・中学生を中心とする門下生たちの前で紹介される。

「松原葵です。よろしくお願いします」

 僕は軽く頭を下げた。ガヤガヤと、小学生や中学生たちが話したり笑ったりしている。やっぱり場違いなのかも知れない…と、早くからめげそうになる。

「とりあえず新入りなので、一番右側の端に並んで下さい」

「はい」

 僕は先生に言われた通り、一番右端の、背の低い白帯の小学生の男の子の横に並んだ。

 空手の練習は、全員で輪になり、準備体操から始まる。そのまま、突き、受け、蹴りの練習が続く。それが終わると、しばらく小休止に入る。そこに、二人の男女がやってきた。その二人が持っていたバッグには「雄峰高校 空手部」の文字が入っていた。一瞬、ギクリとする。

「美園、聡史、ちょっと来てくれ」

 僕の横に立って、先生が手招きする。

「今日から入門した、松原葵君だ。いろいろ教えてやってくれ」

 先生が言うと、

「えーっ!よろしく!女の子いなかったから、すごく嬉しい!」

 美園と呼ばれた女の子が目を輝かせる。

「あ…、僕、男なんです…」

 僕が言うと、

「マジで?俺も女の人かと思った。美園よりキレイじゃん」

 と、聡史と呼ばれた男の子が言うと、美園と言う子に、思いっきり背中を拳でどつかれていた。

「私、伊原美園。美園でいいよ。大人の人が入ってくれて本当に嬉しい。ありがとー」

 と、とてもかわいい笑顔を見せる。

「美園…ちゃんでもいい?女の子に急に呼び捨ては、ちょっと…」

「じゃあ、美園ちゃんで!一緒に頑張ろうね」

 美園ちゃんの言葉が嬉しくて、つい僕も笑顔になった。

「俺、岡田聡史。美園と同じ高校三年生。よろしく」

 ニコッ、と嬉しそうに笑う。

「聡史君…。よろしくお願いします」

 良かった、二人とも優しそうで。それに、こんな風に高校生と話すなんて、何だかすごく新鮮かも。

「この二人は、毎週土曜日、部活が終わったあとにここの支部にも練習に来てるんだ」

 先生が言う。

「へぇ。すごいね」

 僕は感心した。

「うちの空手部、全員そうだから。みんな部活が終わってから、家から一番近い支部に練習に行ってて。さすがに平日は部活終わるの遅いから、なかなか来られないけど」

 美園ちゃんの言葉に、ふとある思いがよぎった。ってことは、あの失礼な男も今頃どこかの支部に…?良かったぁ、ここの支部じゃなくて。

「さぁ、お喋りはここまでにして、移動基本の練習を始めるぞ」

 先生が、パンパンと大きく手を叩いた。

「とりあえず、松原さんは、今日は初めてなので、流れを掴むために、移動基本はみんなの真似をしながらやってみて下さい。次回からきちんと指導しますので」

 先生が言うと、今度は全員が二列に並び、前進しながら突きや受け、蹴りの練習をし、それを三十分続けたあと、また小休止を挟む。

 次に、帯の色ごとに別れ、組み手と型の練習を三十分する。僕は白帯の小学生たちと一緒に、純平さんに指導を受けることになった。久しぶり体を動かしたせいか、僕はその日、一時間半の練習でヘトヘトになってしまったのだった。


 空手を習い始めて一ヶ月ほど過ぎた、水曜の練習日の出来事だった。制服姿の美園ちゃんと聡史君が突然やって来た。美園ちゃんは、そのまま女子更衣室へと入って行った。

「どうしたの?今日、部活は?」

「中間テスト一週間前だから、部活動停止なんだ」

 聡史君が、カバンから空手着を出し、制服を脱ぎ始める。

「どうせ家にいても、二人とも勉強しないからな。体も鈍るし、ここの練習は、部活に比べるとかなり緩いから、息抜きにちょうどいいんだろ」

 純平さんが、優しい口調で言って笑う。

「そういうこと」

 聡史君も、笑顔を見せる。そこに着替えを済ませた美園ちゃんがやって来て、練習が始まった。

 そして、移動基本の練習が終わってからの出来事だった。不意に先生が、

「純平。修平を呼んできてくれ」

 と、純平さんに声を掛けた。

「どうしてですか?」

「一般の大人の人と小学生が一緒に練習をするのは、やっぱり無理があるだろう。松原君の指導を修平に頼もうと思うんだ」

「…分かりました。呼んできます」

 そして純平さんは、道場と隣接している自宅へと向かって歩いて行った。

「あの、修平…って?」

 僕は美園ちゃんと聡史君に尋ねた。

「先生の息子で、純平さんの弟。俺らと同じ高校の空手部で、小学生の頃から、出る試合ほとんど優勝してるくらい強いんだけど…」

 そこまで言った聡史君を切なそうな表情で美園ちゃんが見る。そして、聡史君が話を続けた。

「去年の世界選手権の決勝戦の途中で、純平さんが倒れて。検査したら、今まで空手が出来てたのが不思議なくらい、肺の状態がかなり悪いってことが分かって。そのせいで純平さん、空手が出来なくなっちゃって。それが原因で、修平も空手に対しての意欲を失くした、って言うか…」

「修平、二年連続で世界選手権で優勝した純平さんを目標にして頑張ってたからさ。五歳年が離れてるから、中・高の試合で一緒になることもなかったし、一般の部で試合できるのをお互いに楽しみにしてたのに、純平さん、引退するしかなくて…」

 そう話す美園ちゃんの声が少し震えていた。

「修平、純平さんが一人の時に相当泣いてたのを見てしまったみたいで。そんな姿見たせいか、推薦で高校に入ったから部活は続けてるけど、こっちの練習も出なくなったし、高校三年になってから、一度も試合に出てなくて。純平さんに遠慮してるのもあるとは思うんだけど、部活も今年で引退だし、修平強いし、実力もあるからもったいなくて…」

「そうなんだ…」

 何だか、すごく切ない話に、胸がキュッとなる。

 そこに「そういう面倒くせぇの、マジでイヤなんだって!」と、声が聞こえてきて、首ぐらを掴まれた制服姿の男が純平さんに連れられてやって来た。

 僕は、思わず声を上げそうになった。そう、その修平と呼ばれていた男は、先日、僕に対して失礼なことを言ったあの高校生だったのだ。

 この男に空手を教えてもらうとか、絶対に無理だ!でも、向こうは、僕のことには気付いていないようだった。

「とりあえず、空手着に着替えろ」

 純平さんの手から、修平という男の胸に空手着が押し付けられた。

 電車の中でも思ったけど、ネクタイはゆるめてあるし、カッターシャツはズボンの中に入れてないし、髪も明るく染めてるし、両耳にピアスもしてるし、ポケットに手を突っ込んだままで、何だかすごく怖く見えるんだけど…。

「修平、自己紹介ぐらいしたら?」

 美園ちゃんが言う。

「ああ?うっせ、美園。俺はこんなことしたくねぇんだよ」

「葵さんて言うんだぜ。こんなカワイイ人を教えられるなんて、幸せだろ?」

「黙れ、聡史。俺のことからかうなら、今すぐここでブッ飛ばしてやる」

 うわあああっ!口は悪いし、態度も悪いし、最悪だ!

 僕をジロリと睨む。僕は聡史君の後ろに隠れるようにしながら、

「松原葵です。よろしくお願いします」

 と、一応挨拶をした。

「また男にケツ触られたくねぇから、空手やんの?」

 修平という男の言葉にカアッと顔が赤くなる。

 しかも、みんなの前でそんなこと言うなんて、何て無神経な奴なんだ!本っっっ当に大嫌いだ、こんな奴!!


「へぇ。で、再会した高校生に教えてもらってんだ」

 高倉が笑う。

「うん。向こうの部活の関係で土曜日だけだけど、もう最悪だよ」

「でも、続いてるじゃん、空手。4月から始めただろ?」

 そう。4月・5月はみんなで一緒に練習していたところに、6月に入ってすぐに、修平君から基本動作や型と組手を教えてもらうことになり、続けられるか不安にはなったけど、空手は真剣に教えてくれていた。教え方もすごく分かりやすくて上手で丁寧だった。そして、空手の奥深さがとてもよく伝わってきた。たぶん、修平君は本当に空手が好きなんだろうな…と思った。空手の指導に真摯に取り組む姿に、意外性を感じ、感心はしているものの、あの口の悪さって…。

「お前の突きは遅すぎて虫が止まる」とか「次の動作に行く時にいちいちフラつくなよ!ひ弱か!」とか。習った通りに型をやっているのに、なぜか修平君と向き合い「足の運びが逆なんだよ!こっち向いてんじゃねぇ!」と注意され、基本組手の練習をすれば、修平君の突きが顎に当たり「受ける手が逆だ!どんくせぇな!」と怒られ…。毎回の練習が散々だった。それでもめげずに通ってはいるけれど…。


 ある日の練習を終えたあと、美園ちゃんと聡史君、そして修平君といつものように残って話をしていると、 

「こんなに教えがいのない奴、本当に初めてなんだけど?小学生のほうが飲み込み早いし、まだマシ」

 と、修平君がぼやいた。

「まだ始めたばっかりだし、気にすることないよ」

 と、聡史君がすかさずフォローしてくれる。

「修平、もう少し優しく教えてあげたら?」

 と、美園ちゃん。

「ごめん。なかなか上手く出来なくて…」

 謝る僕に、

「もう年だから仕方ねぇのかもしれないけど、型とか組手って、頭で考えるよりも、体で覚えたほうがいいと思うぜ?」

 修平君のキツイ一言。年って…。僕、まだ二十二歳なんだけど?いや、高校生から見れば、そりゃ四つ上なんてオジサンかもしれないけどさ…。

「でも、葵さん、今月の昇給審査受けるんでしょ?」

 聡史君に聞かれて、

「うん。受けるように先生に言われた。自信ないけど」

 と、答えた。

「心配しなくても大丈夫だよ。審査委員長、林先生だから」

「え?」

「ここの県で一番偉い先生ってこと。美園も俺も、小学生の頃にコネで黒帯もらったようなもんだから」

「そうなんだ」

 何だか安心したような、そうじゃないような…。

「甘やかすな、って親父に言っといてやる」

 修平君が意地悪を言う。

 そこに、

「修平が支部の練習に出てるって、マジだったんだ」

 と、声がした。

「小嶋…?何で?」

 美園ちゃんに小嶋と呼ばれた男は、三人と同じ空手部のTシャツを着ていた。

「いや。うちの支部の先生が、この前の空手協会の会合の時に、林先生から修平が支部の練習に出てるって聞いたらしくて。確かめに来た」

「練習なんかしてねぇよ。親父命令で新人に型と組手を教えてるだけだ」

 修平君が一気に不機嫌になる。

「何だ。また一緒に試合に出られると思ったのに」

「しつけーな。試合には二度と出ないって言ってるだろ。帰れよ」

「俺にずっと優勝されたままでいいのか?まぁ、試合に出たところで、部活以外の練習なんてろくにしていないお前が俺に勝てるとは思えないけどな」

「それでいいんじゃねーの?」

 修平君は立ち上がると、自宅へとつながる廊下へと向かって歩き始めた。

「そんなに兄貴が大事か?兄貴のために試合に出ないのが兄貴のためだって、本気で思ってんのか?今時、悲劇の主人公じゃあるまい、バカじゃねーの?自分が弱いこと棚に上げてチキってるだけだろ!負け犬が!」

 その瞬間、パンッ!!と道場内に乾いた音が鳴り響いた。そして僕は言った。

「言って良いことと悪いことがあるだろ!高校生にもなって、そんなことも分かんないの?修平君に謝れよ!」

 頭に血が上った僕は、思わず小嶋君とやらの頬に一発ぶちかましてしまっていたのだった。一瞬、空気が張り詰め、道場内が静まりかえった。

「葵さん、何もぶたなくても…」

 聡史君が、驚いたように呆然としながら、静かに呟く。

「だって、今の言い方は、ひどすぎるよ」

「小嶋のこういうセリフ、いつものことだから気にすることなかったのに。修平のこと試合に出したくて煽ってるだけだから」

 美園ちゃんが、動揺する様子もなく、淡々と説明する。

「えっ?そうなの…?」

 また道場内が静まりかえる。ついムキになってしまった自分が恥ずかしくなって、一気に顔が熱くなったのが分かった。

「あ、あの、ごめんなさい。小嶋君…だっけ?叩いちゃって、本当にごめんなさい」

 僕は小嶋君の頬を撫でながら、平謝りだ。その手をグッと掴まれる。

「気に入った」

「え?」

「あんた、名前は?」

「…松原、葵…です」

 もしかして、訴えられるとか?急に不安になる。

「葵、ね。決めた。今度の地区大会、俺が優勝したら、俺と付き合え」

 はあっ!?

「あの、僕、男なんですけど…」

「そんなこと、分かってるよ。でも、今ので完全に落ちた。もう決めたから」

「そんな、勝手に…」

「もし断るなら、今のこと訴えるけど?」

 先程の不安を小嶋君に指摘され、つい言葉に詰まった。

「よっしゃあ!今度の地区大会、マジで気合い入れて頑張るぜ!じゃあな」

 僕の意見など聞く様子もなく、小嶋君は、両手を組んで伸びをしながら、その場を去って行った。

「冗談…だよね?」

 僕は三人を見た。

「いや、本気だろ」

 聡史君が言う。

「うん。本気だね。小嶋、一度決めたら結構しつこいし。修平に対する執着を見てたら分かると思うけど」

 美園ちゃんが答える。修平君は目を合わせてくれなかった。

「でも、地区大会って、そんなに簡単に優勝できないんでしょ?」

「高校の部で、今一番、県で強いのは小嶋なんだ。俺、葵さんのこと守ってあげたいけど、今まで小嶋には一度も勝てたことなくて…」

「私も女だから、男子とは試合できないし。小嶋に勝てるのって、修平ぐらいじゃないの?」

「そんな…。じゃあ、僕、あの人と付き合わなきゃいけないってこと?」

「だね」

「だな」

 美園ちゃんと聡史君が目を合わせて頷く。

「うそ。どうしよう…」

 美園ちゃんが、着替えの入ったカバンを持って立ち上がる。

「小嶋の奴、それを分かってて、そういう条件出したんだと思うよ。だいたい学校でも、かわいい子なら、見境いなく追っかけ回してるし」

「女の数でも、修平に負けたくないんだろ」

 聡史君も、そう言いながら、空手着を脱ぎ始める。

 女の数…?何か、今、すごい言葉を聞いたような…。

 そこに、

「お前が挑発にのってどうすんだよ」

 修平君が腕を組んで壁にもたれたまま、僕を睨んだ。

「そもそも、葵さんは修平のために怒ってくれたんだぞ?」

 聡史君が修平君に向かって真実を突き付けてくれる。

「そうだよ。修平が試合に出れば、葵さんが小嶋と付き合わなくてもいい可能性が、少しは出てくるじゃん」

 美園ちゃんが、修平君に焚き付けた。

「はあ?何で俺が。こいつが小嶋とどうなろうが、俺には関係ねぇし」

「うっわ、薄情!それでも男?信じらんない」

 美園ちゃんは続けて容赦なく修平君に対してキツイ言葉を投げ付ける。

「もういいよ。自業自得だから。迷惑かけてごめん。お疲れさま。また来週よろしくね」

 僕はそう言うと、着替えの入ったバックを持って、重い足取りで更衣室へと向かった。何よりも、修平君の言葉に胸が痛んだ。僕が、小嶋君とどうなったところで、修平君には関係のないことなんて当たり前のことなのに、どうしてこんなに胸がキュッと締め付けられるような切ない気持ちになるんだろう。不思議な感情に、思わずため息がもれた。


 更衣室で着替えを済ませ、出口に向かって歩き出した腕を不意に掴まれる。ビックリして振り向くと、修平君が立っていた。いつものポーカーフェイス。あまりにもの整ったシャープな顔立ちに、一瞬ドキッとする。

「あ、何?どうしたの?」

「今回だけ…」

「え?」

「俺、マジですんげぇイヤだけど、今回だけ試合に出てやる。美園にも聡史にも、この先散々責められるの、面倒くせぇから」

 うそ…。修平君がそんなことを言ってくれるなんて信じられなくて、耳を疑った。いつもは何に対しても無関心なのに、何だかすごく感激してしまう。でも、本当は事情があって試合に出たくないだろう修平君の気持ちを思うと、じわりと目頭が熱くなった。

「ごめんね、僕のせいで。本当は試合に出たくないのに、本当にごめんなさい」

 僕が謝ると、

「今回だけだ。もう二度と俺に迷惑かけるな」

 と言って、修平君は自宅へと続く廊下を歩いて行った。相変わらず上から目線だけど、僕の胸がふわりと温かくなり、先ほどとは真逆と言えるほどの何とも言えない柔らかな感情に、全身が包まれたような気がした。


「兄貴、ちょっといいか?」

 修平が、純平の部屋のドアをノックする。

「何だ?入れよ」

 純平の声がして、扉を開ける。

「あのさ、俺、試合に出ようと思うんだ。今度の地区大会」

 純平は修平の目をみたまま、しばらく黙った。そして笑顔になると、修平の頭を自分の胸へと抱え込んだ。

「お前がそう言ってくれるのをずっと待ってた。前から言ってるけど、俺に遠慮することなんてないんだからな。小嶋にずっと優勝なんかさせておくな。お前には才能があるんだから、頑張れよ」

 ガシガシと修平の髪を掻き回す純平は、本当に嬉しそうで、喜びで興奮しているのが伝わってきた。

「…兄貴、ありがとな」

「今、数値も安定してて肺の調子も良いし、少しなら激しく動いていいって医者が。どれだけでも組手の練習に付き合うから、いつでも言えよ」

「マジで?」

 純平の言葉に、修平もつい笑顔になった。

 そこに、着替えを済ませた美園が純平の部屋へとやって来た。

「どうしたの?めずらしい。修平が純平さんの部屋にいるなんて」

「別に何でもねぇよ。お前こそ、兄貴とイチャイチャしすぎて帰り遅くなんなよ」

 ぶっきらぼうに言う修平の背中に拳が飛ぶ。

「いって…」

「バカ!修平!ほんと、無神経!」

 バタン、と勢い良く扉が閉じた。


「何で来るの?」

 昇給審査当日、道場には修平君、聡史君、美園ちゃんの姿があった。

「応援だよ、応援!テスト期間中で、ちょうど部活なかったし。ね?聡史」

「え?ああ。頑張ってね、葵さん」

「俺は朝早くに起こされて、いい迷惑だよ。だいたい美園は兄貴が目的だろ?」

 あくびをしながら言った修平君のお腹に、美園ちゃんの拳が見事に決まった。

「うっ…!てめ…」

 お腹を抱えて、修平君がうずくまる。

「バカ!修平!」

 美園ちゃんがプイッとそっぽを向く。

 この二人、本当に仲が良いんだな、と思うだけで胸がギュッとなる。それがどうしてなのか、僕にはまだ理解ができなかった。

「葵さん専属の先生、葵さんに何かアドバイスは?」

 聡史君が冗談ぽく修平君に尋ねた。

 修平君はしばらく黙っていたが、

「基本に忠実に。型は、いつも言ってるけど、ちゃんと相手が攻撃してくることを想定して、一つ一つの技を丁寧にやれ」

 真面目な回答に、思わず戸惑った。聡史君と美園ちゃんは「おーっ!さすが空手部キャプテン」と言いながら、拍手をしていた。

「じゃ、帰るわ」

 修平君はそう言うと、本当に道場を出て行き、自宅へと戻って行った。

 その日、僕は無事にミスすることなく昇給審査を終えた。それだけでも満足なはずなのに、修平君が僕の審査に全く興味を持ってくれなかったことが、とても悲しかった。もっと聡史君や美園ちゃんみたいに、最後まで残って、少しは褒めてくれたっていいのに。

 大人げのない、膨れた感情。気付くといつも修平君のことばかり考えている自分がいた。それが何故なのかは分からなかったけど、ここ最近は、土曜日の練習がとても楽しみになっていたことだけは、確かだった。


 そして、そんなモヤモヤした気持ちを抱えながら、いよいよ地区大会当日を迎えた。

「修平は?」

 試合会場は、大きな県営体育館だった。開会式を済ませ、美園ちゃんが、高校ごとに割り当てられた観客席へと戻って来る。僕はそこから少し離れた場所に座っていた。

「まだ来てない」

 僕が答えると、

「もう試合始まるのに!来たら、すぐに下に降りるように言っといて」

 焦ったように言いながら、美園ちゃんは階段を足早に降りて、試合会場へと向かう。

「何やってるんだろ、本当に」

 まさか、このまま試合に出ないとか…?あんなふうに、人に期待させるようなこと言っておいて、棄権するなんてこと、ないよね…。言いようのない不安に襲われる。そこに、

「ふぁ~あ…」

 と、どこからともなく、声がした。

 観客席の椅子の足元から突然手が出てきて、

「ひっ…!」

 と、声にならない声が出た。

 椅子の下にいた人物が、のそり、と出てくる。

「修平君、何して…」

「何か、暗いところ探して横になってたら、寝てたみてぇ…。試合は?」

「寝てたの!?もう試合始まるよ!早く行かないと」

 椅子の下から出てきた修平君の道着は、胸がはだけていた。しなやかな筋肉の付いた、綺麗な細身の身体。一瞬、目のやり場に困る。

 修平君が、バッグの中を探る。その間に、僕は修平君の髪や空手着についているほこりを一生懸命に払った。

「あ…。帯、忘れた」

「ええっ!どうするの?」

「大丈夫だろ。どうせ、試合の時は青か赤の帯するし」

 そして、そのまま試合会場へと降りて行った。

 修平君は、自分の番が来るまでの試合待機中、胸がはだけたままの姿で、あぐらをかいて、ずっとウトウトしていた。

 何、あれ!本当に、何なんだよ、あの態度は!あんな奴が、今までの試合、ほとんど優勝してるくらい強いだなんて、絶対に信じられない。みんな、ちゃんと背筋を伸ばして座って、自分の試合の順番を待ってるのに。

「あ、良かった。修平、間に合ったんだ」

 と、美園ちゃんが戻って来た。

「試合、どうだった?」

「一回戦は勝ったよ!」

「おめでとう!…あのさ、修平君て、いつもあんな感じなの?」

「あんな…って?」

「何か、時間通りに動かないし、帯も忘れてきたみたいだし。試合を待つ時の態度も行儀も悪いから…」

「マイペースなんだよ。葵さん真面目だからビックリするかもだけど、慣れると、あんなもんか…って感じになってくるから大丈夫」

 美園ちゃんが、さして気にしてなさそうに軽く流す。今の高校生って…。今の若者って…。もはや僕は、もう時代についていけていないのだろうか…と、つい頭を悩ませてしまったのだった。

「あ!修平の試合始まるよ!」

 美園ちゃんが僕の手を引いて、試合が良く見える席まで連れて行ってくれる。そこに、一回戦を終えた聡史君も戻って来て、僕のすぐ側の椅子に腰掛けた。両者、向かい合って礼をする。審判の掛け声で、二人が気合いを入れ、構える。修平君が素早く動いたかと思うと「やめっ!」の声がかかり、審判が勢い良く修平君の方へと水平に腕を上げ、

「青、中段蹴り、技あり!」

 と、声を張り上げた。二人が元の位置に戻る。

「え?何、今の…」

「修平の中段の蹴りが決まったんだよ」

 審判の「始め!」の掛け声と同時に、双方の気合いの声が響き渡った。

「やめっ!青、上段突き、技あり!」

 審判が、また修平君の方の腕を上げる。

「え?え?」

 僕が戸惑っているうちに、試合はあっという間に終わってしまった。

「動きが早すぎて、全然見えなかった…」

 すごい。すごすぎる。あんなに俊敏に技って出るものなんだ。僕はまださっきの試合の修平君のすごさに気持ちが追い付かず、呆然としていた。

「修平君て、本当に強いんだね。僕には全く見えなかったんだけど、二人には修平君の動きは見えてたの?」

「え?そりゃ、俺も美園も一応現役だからね。でも、確かに修平は動きも早いし、フットワークも軽いから、攻撃も一発で決まりやすい。そこにきて確実に相手の急所を狙ってくところが、やっぱり修平のすごさかな」

「そうなんだ」

「試合の時の修平、カッコいいでしょ?」

 美園ちゃんがいたずらっぽく、こちらを見て笑った。

「うん…。意外だったけど」

「でも純平さんの方がカッコいいって言いたいんだろ?お前、小学生の頃から純平さんのことずっと追っかけ回してたもんな」

 聡史君がからかうと、美園ちゃんの拳が聡史君の背中に命中した。拳をくらった聡史君が背中に手をやり、倒れ込んで膝を付く。

「心配しなくても、修平なら決勝まで行けるよ」

 そんな聡史君のことを気にすることもなく、美園ちゃんが笑顔を見せる。

「でも、あんなに強くても、小嶋君に勝つのは難しいんだよね?」

「うん。かなりね。小嶋、修平の試合、全部録画して、めちゃくちゃ研究してるし」

 そう言った美園ちゃんからは笑顔が消え、深刻そうな顔付きになる。

「いくら部活で練習してたとはいえ、二ヶ月ちょっと、試合にも出てないし、他の練習にも行ってなかったブランクもあるしな」

 聡史君が、自分の背中をさすりながら話す。その言葉に、僕の心の中と、そして体にも緊張が走った。


「おめでとう!」

 美園ちゃんが、見事準優勝を勝ち取って、戻ってきた。

「ありがとう!今年も何とか全国大会出られて良かったー!」

 額から流れる汗をタオルで拭いながら、とびきりの笑顔を見せる。

「聡史君もおめでとう!三位決定戦、すごかった!感動したよ」

「あざーっす!何とかギリギリ三位に入れて良かったよ」

 言いながら、ボトルの中のスポーツドリンクをがぶ飲みする。そこに、

「美園」

 と、声がした。

「純平さん!来てくれたの?」

 美園ちゃんが嬉しそうに純平さんへと駆け寄る。

「仕事が早く終わったからな」

 純平さんは、市役所のイベント課に配属されているらしく、土日の休みも仕事だったりと、不規則な勤務だと聞いている。ちなみに、純平さんの父親である先生も市役所の市民課勤務だと聞いて、あんなにすごい筋肉の人が市役所の窓口にいたら、みんな萎縮するんじゃないのかな、と、つい思ってしまった。

 普段とは違う笑顔。純平さんの前でだけは女性の顔になる美園ちゃんは、本当にいつも以上にかわいくて、素敵な女性に見えた。そんな純平さんの周りに人だかりが出来る。そっか。この人は、世界選手権で二度も優勝しているアスリートなんだ。改めてその偉大さを目の当たりにし、自分がいかに素晴らしい人に師事しているのか、今になって気付かされる。

「もうすぐ修平の試合が始まるよ」

 聡史君が僕に声を掛けてきた。いよいよ決勝戦。相手はもちろん小嶋君だ。美園ちゃんが、僕の横の席に戻って来た。

「緊張するね」

「うん」

 僕の喉が、ごくりと動く。

 純平さんは椅子に座らずにギャラリーから立って試合を見るようだった。


「お前、何で急に試合に出ることにしたんだ?」

 拳サポーターを付け、スタンバイしている最中に、小嶋が修平に話かけてきた。

「別に」

「ふぅん。まあ、俺が試合に勝ったら、まず葵ちゃんのあのピンクの柔らかそうな唇にチューして、白い肌に思いっきり吸い付いて、もうめちゃくちゃにしようと思ってるから。だから、お前なんかには絶対負けねぇ」

 そう言って、小嶋が修平を挑発するように鼻で笑う。

「好きにしろ」

 修平は全く気にしない様子で、拳サポーターを装着し終えた両手の拳を胸の前で、バンッ!と力強く合わせると、

「久しぶりの試合、楽しませてもらうから、覚悟しとけよ」

 と、片手を上げ、自分の配置場所へと向かってゆっくり歩き出した。

「めずらし…」

 小嶋は、いつもなら一言も発することなく、冷静で無表情なまま配置に付く修平が、試合直前に言葉を発したことに、ひどく驚いたのだった。


 試合時間は三分。その間に八ポイントを先取した方が勝ちとなる。一本だと三ポイント。技ありなら二ポイント。有効は一ポイント。両者がコートに入り、配置に付く。審査と副審にお礼をし、二人が向かい合った。修平君は青色の帯をしていた。

「始め!」

 審判の掛け声と共に、デジタルの大きな時計で、タイムが刻まれ始めた。しばらく両者とも動かずに間合いを取っていた。先に動いたのは、小嶋君の方だった。突きの連打のあと、素早く蹴りが入る。

「やめっ!赤、中段蹴り、技あり!」

 ピッ、とデジタル板に二という点数が表示される。

「続けて、始め!」

 審判の声と共に、二人がすぐに動いた。

「やめっ!」

 コートの四隅にそれぞれ座っている副審の赤の旗が一斉に上がっていた。

「やばくない…?」

 美園ちゃんが言うと、

「こんなに早く小嶋に三ポイント取られるとか、今までなかったのに…」

 聡史君が真剣な眼差しでコート内を見ていた。膝の上に置いてある、握りしめた僕の掌は、汗でじっとりと濡れていた。

 二人がコート内の正位置に戻る。

「赤、中段突き、有効!」

 主審が小嶋君の方へ手を水平に伸ばす。

 小嶋君が審判にお礼をし、

「始め!」

 の合図で、また二人が構える。

 小嶋君の激しい攻撃が始まる。あんな早い技、よけるので精一杯なんじゃ…。

「やめっ!」

 今度は副審の青の旗が一斉に上がる。

「青、上段突き、技あり!」

 修平君が主審に礼をする。

「よしっ!」

 聡史君が声を上げた。

「さすが修平。攻撃をかわしつつ、体制を崩しながらも上段を狙うところがすごい」

 美園ちゃんが言う。

 そのあとも、修平君は小嶋君の容赦ない攻撃に、体制を崩しながらも、有効ポイントを積み重ねて行った。

 それでも、小嶋君はひるむことなく攻めの技をしかけてくる。修平君が足を掛けられ、倒れた。その瞬間、小嶋君の突きが修平君を仕留めた。

「やめっ!赤、一本!!」

 審判が手を上に向けて高く掲げた。

「やばい、どうしよう…。圧倒的に小嶋の方が有利だよ。もう六ポイントも取られちゃった」

 言いながら、美園ちゃんが祈るように手を組んで、気持ちを落ち着かせるかのように、ふうっ、と息を吐く。

 ピピピ…とホイッスルが鳴り、副審の赤い旗がクルクル回る。

「赤、忠告!」

 審判が小嶋君の足元を指さすと、小嶋君はコートの端の方に行き、コート側を背にしたまま正座をした。

「何?どうしたの?」

 僕は意味が分からず、聡史君に尋ねた。

「ちょっと過度な攻撃だったからな…」

「ポイントは?」

「小嶋には、そのまま入るんだ。しかも一回目の忠告はポイントがなくならなくて、二回目から減点されるようになってる」

「そんな…」

 修平君が、なかなか起き上がらない。救急箱を持って、救護の人が走ってコート内に入る。

「修平、血が出てる」

 美園ちゃんが気付いた。

「本当だ。目の上か。瞼が切れたんだ」

 処置をしてもらい、修平君がコート内の自分の位置に戻ると、小嶋君も試合体制に戻った。

「始め!」

 試合が再開された。

 修平君は、小嶋君の攻撃をよけることに必死で、先ほどまでより、動きが鈍く見えた。

「やめっ!赤、中段突き、有効!」

「修平、ケガした方の目が見えてないんだ」

 聡史君が呟く。

「あと一ポイントで負けちゃう。今まで小嶋に負けたことなんてなかったのに。時間もないし、どうしよう」

 美園ちゃんが、組んでいた手に頭を付けて俯いた。僕はもう、喉の奥が苦くて、とても声を出せる状態じゃなかった。

 審判の合図で試合が始まる。修平君が急にしゃがみ込み、油断したところに、中段の突きが決まった。

「よし!あと二ポイント!頑張れ、修平!」

 美園ちゃんが立ち上がって大声を出した。

「でも、時間がない。あと二十秒。小嶋なら逃げ切れると思う」

「バカ聡史!!あんた、どっちの味方!?」

 美園ちゃんが怒鳴る。

「始め!」

 時間が刻み始められる。小嶋君は案の定、攻撃を仕掛けずに、修平君の技をかわして行くだけだった。

「あと、十、九、八…」

 美園ちゃんが掠れた声で呟き始めた。

 ピーッ!!と、試合終了を知らせるけたたましい機会音と同時に、

「やめっ!」

 審判の大きな声。

 副審四人の青い旗が、一斉に上へと高く掲げられていた。

「青、上段回し蹴り!一本!!」

 一瞬、場内が静まり返ったが、すぐに歓喜とも取れる歓声と拍手が会場内に響き渡った。

「すごい!さすが修平!めっちゃすごすぎる!」

 美園ちゃんも立ち上がったまま、ずっと拍手を続けていた。

 時間ギリギリ、修平君の上段回し蹴りが小嶋君に決まり、見事に逆転優勝したのだった。


「大丈夫?」

 先生に頼まれて、病院に付き添った帰り道、修平君の荷物を持ちながら尋ねた。 

「大丈夫じゃないだろ。三針も縫ったんだぞ。三針も」

「うん…。ごめんね。僕のせいで、本当にごめん」

 修平君が立ち止まる。不機嫌そうにこちらを見ると、

「いい大人がいつまでもウジウジしてんな。さっきから何回謝ってんだよ」

「だって、僕のせいで試合に出ることになって、ケガまでして。傷痕が残っちゃったら、僕、本当にどう償っていいか…」

 何度も何度もグズグズ言う僕に、修平君は大きなため息を吐いた。

「別に、空手やってたら、傷痕の一つや二つくらい、誰だって普通にあるだろ」

「でも、僕が小嶋君のことぶったりしなかったら…」

「しつこい!俺が試合に出たかったから、いいんだよ」

「え…?」

「試合に出ることを決めたのは俺だ。だから、もう気にすんな」

 左瞼のテーピングが痛々しい。でも、そこからの眼差しは、とても優しげに見えた。修平君が、また歩き出す。

「修平君…」

「ああ?」

 面倒くさそうに返事をして、振り返る。

「ありがとう…。今日だけじゃなくて、あの時も…」

「あの時?」

「電車で、痴漢から助けてくれた時…」

「ああ。あの時ね」

「修平君、僕…」

 修平君が、好きだ。

 喉まで出かかって、必死に言葉を飲み込んだ。いい歳して、高校生相手に告白なんて、バカげてる。

「いい心がけだよ」

 修平君が言う。

「何が?」

「空手始めたの、それがキッカケなんだろ?」

「え…?あ、うん。少しでも強くなりたくて…」

「いい心がけだよ。自分で努力しようとしてんだから。いつまでも弱っちいけどな」

 相変わらず、上から目線ではあるけれど、そんな優しいこと言わないでよ。僕の心が、ますます君に惹かれてしまう。僕は黙ったまま、背の高い修平君のあとをゆっくり付いて行ったのだった。


「で?何でお前がいるんだ?」

 修平君の低い声。

「今日からこちらの支部でお世話になることになったんで、よろしく」

 小嶋君が明るく答える。

「いやぁ。ライバルがいると、練習にも覇気が出ていい!」

 豪快に笑う、修平君の父。基、県で一番偉い、道場の師範。

「アホ親父め」

 修平君が呆れたように呟き、そして、

「何が目的だ?」

 と、小嶋君に尋ねた。

「何って…。そりゃ、もちろん、葵ちゃんの恋人の座に決まってるだろ。ね?葵ちゃん」

「修平が優勝したんだから、普通は諦めるんじゃないの?」

 練習前のストレッチをしながら、美園ちゃんが呆れたように言った。

「そう思ったんだけどさ。人のことなんて無関心で、全く相手のことを考えない、冷た~い人間の修平を試合に出す気にさせた葵ちゃんて、どんな子なんだろう、って、どうしても気になっちゃって」

 小嶋君が修平君をチラリと見た。

「確かに!」

 聡史君が会話に割って入る。

「お前と美園が、あまりにもうるさく言うからだ」

 修平君が言うと、

「いや。どんなに俺と美園がうるさく言っても、今までの修平なら、絶対に試合なんて出ない。本当のところ、どうなんだよ?」

 聡史君に突っ込まれると、修平君は少しだけ間をおいて、冷めた様子で、

「アホなコイツが、あまりにもかわいそ過ぎたんだよ。いくら頭に来たからって、人の頬に平手打ちぶちかますとか?マジでアホすぎるだろ」

 と、答えた。

 ブッ、と吹き出して、聡史君は拳を手にやり、僕に背中を向けた。美園ちゃんは、口を一文字にして、必死に笑いを堪えているようだった。

 僕はその時のことを思い出して、真っ赤になる。

「だから、それはちゃんと反省してるよ…。それより、みんな修平君のこと悪いふうに言うけど、僕は、口が悪いだけで、本当は優しいと思ってるんだけど、学校では違うの?」

 と、僕が言うと、

「えっ?コイツが優しいなんて、絶対にない!冷徹、冷酷、鉄仮面!特に女に関しては、ヤれるだけのゴミとしか思ってないし」

 と、小嶋君が力説した。

「そうなの?」

 僕より早く反応したのは美園ちゃんだった。

「修平って最低!純平さんと同じ遺伝子だなんて信じらんない!」

「ゴミとは思ってない」

「でも、単なる性欲のはけ口だとは思ってるだろ?修平は、黙ってたって女なんてイヤって言うほど寄って来るんだから」

 聡史君の突っ込みに、反論もせずに黙る修平君。

「まあ、体だけの関係でいいなら、って公言してるのに、そこに寄って来る女も女だけどな…」

 と、聡史君が、すかさず、よく分からないフォローにもなっていないフォローを入れる。美園ちゃんは、その間ずっと「最低」と「最悪」を連呼していた。

 修平君はモテるんだな、と確信した瞬間だった。前に聡史君が言っていた、女の数…の意味は、やっぱりそういうことなんだ。分かってはいたけれど、実際にそういう話を耳にすると、落ち込んでしまう自分がいた。修平君は、一体、どんな女の子たちと、どんな風に…。そんな話題に動揺して、そんなことを考えてしまう自分がたまらなく情けなく思えて、辛くなる。そして、その日はずっとため息交じりの練習だった。練習が終わり、優れない気持ちで、更衣室へ行こうとした時だった。

「葵ちゃん、ここで着替えないの?」

 小嶋君に声を掛けられた。

「あ、うん。僕、みんなみたいに、人前で脱げるような体じゃないし…」

「じゃあ、俺も更衣室に一緒に行くよ。葵ちゃんの白い肌、拝みたいし」

 小嶋君が荷物を持って立ち上がる。

「変態」

 美園ちゃんはそう呟くと、着替えを持って、女子更衣室へと向かった。

「おい。俺の部屋使っていいから、そこで着替えてこい」

 練習後に座り込んでいた修平君が、立ち上がる。

「何だよ。邪魔すんなよ。何?まさか、葵ちゃんの裸、見てほしくないとか?」

「は?バカの相手は、マジで疲れる」

「お前、本当は葵ちゃんのこと気になってんじゃねぇの?何か、いつもと様子が違うだろ」

 修平君が、小嶋君を睨むように見た。

「だったら?」

 えっ…?今、何て…?

「俺がコイツのこと気になってるって言ったら、お前は引き下がるのか?ちょっかい出すの、やめるのか?」

 しばらくの沈黙。僕は耳を疑った。

 小嶋君が鼻で笑う。

「いいや、やめない。お前にそんなこと言われたら、なおさら手を出したくなる」

「だろうな。お前、俺とコイツのことからかって、楽しんでるだけだろ?」

 修平君が言うと、小嶋君が、

「だって、修平がめずらしく感情を表に出してる感じだからさ~」

 と、いたずらっぽく笑った。

 その言葉がまるで聞こえなかったかのように無視する修平君の肩に、小嶋君が手を回して、ニヤニヤしながら、下から修平君を覗き込んだ。その顔を思いっきり両手で挟み「やめろ」と、表情一つ変えずに、強い力で引き離す。

 何だ。そういうことだったんだ。ただ、からかわれていただけだったのか…。しかもこの二人、結局のところ、ものすごく仲が良いんだな…と、ようやく気付くことができた。

「俺の部屋、二階の一番奥だから。早く着替えて来い。お前も早く着替えて帰れよ。邪魔くせぇ」

 修平君が、僕と小嶋君に向かって言う。

「あ、うん」

 僕は着替えを胸に抱えてその場を離れた。心臓の鼓動が、耳の奥深くまで響いていた。修平君の言葉が嘘でも嬉しかった。その上、修平君の部屋という、少しプライベートの部分を見ることが出来た僕は、着替えの間中、自然と頬が緩んでいた…。本当に、小嶋君に感謝しなきゃ、とまで思ってしまったのだった。


 そして、次の練習日から、もう小嶋君は来なかった。聡史君によると、こちらの支部に練習に来ていたことを自分の所属する支部の師範に言っていなかったらしく、親にめちゃくちゃ怒られて、自分の支部に連れ戻されたらしい。

「アホな奴」

 聡史君が言うと、

「だからいつまでも修平に勝てないんだよ。ツメが甘いっていうかさ」

 と、美園ちゃんも追い打ちをかけた。

「良かったな、修平」

 聡史君が、あぐらをかいて座っている修平君に声を掛けた。

「何がだよ」

「ライバルがいなくなって」

「ライバルとも思ってないし、あんな奴」

「いや、空手のことじゃなくてさ」

「は?」

 修平君が怪訝そうに顔をしかめた。

「いや、何でもない。さ、練習、練習」

 聡史君が、意味深に僕の肩に手を置いた。修平君が僕を見た瞬間、ドクン、と心臓が跳ねた。カッと全身が熱くなる。やばい、僕。修平君のことが、好きで仕方なくなってる。四つも年上の社会人が、高校生相手に本気で恋なんて、絶対に叶うわけがない。僕はものすごく自己嫌悪に陥ってしまったのだった。


 ある日の仕事帰り、電車から降りてアパートへと向かって歩いていると「おい!」と、声が聞こえた。何度か「おい!」と聞こえ、それが自分に向けてだと気付くのに、数十秒かかった。振り向くと、制服姿の修平君が立っていた。

 ああ…。相変わらず、いい男だなぁ…。

 しばらく見惚れてから、

「同じ電車だったの?」

 下を向く僕の顔と耳は、きっと赤い。

「テスト前で、今は部活オフだからな」

「そっか。じゃあ、しばらくは帰りの電車、一緒になるかもね」

「ああ」

「聡史君と美園ちゃんは?」

「あいつらは、親が仕事終わって迎えに来るまで、学校で残って勉強してる」

「修平君は、残らないの?」

「学校にいると、いろいろ面倒くせぇし。家の方がラクだろ」

「あ、女子が寄って来るから?確か、地区大会の時も、修平君の応援に来てる子たち、いっぱいいたもんね」

 違う。こんなことを言いたいわけじゃない。これじゃ、ただ、否定して欲しくて、修平君の気持ちを試そうとしてるだけだ。自分の器の小ささに、嫌気がさす。

「担任とか、いちいち口出して来るから。家だと、寝てても何も言われねぇだろ」

「…そっか。そうだよね。家だと何してても自由だもんね」

 修平君の返答に、安堵する。

 この日から、駅から修平君の家までの、二人きりで歩く帰り道が、一日の中での一番の至福の時間となった。


 どうしたんだろう。昨日も今日も、修平君は帰りの電車に乗っていなかった。

「学校に残ってるのかな…」

 土曜の空手の練習日は明日。明日には会えるのに、寂しさのあまり、心にポッカリ穴が開いたみたいで、すごく息苦しくなった。どうしよう、僕。こんなにも修平君のことが、好きで好きでどうしようもなくて。切なさが込み上げてきて、自然と目に涙が滲んできてしまう。

「相手になんて、されるわけないのに…」

 呟いて、立ち止まる。

 その時、

「あの、すみません」

 と、背後から声を掛けられたかと思うと、突然勢い良く腕を引かれ、狭い路地へと引きずり込まれた。コンクリートの壁に、体ごと激しく押し付けられ、片手で口を塞がれる。

 一瞬、何が起きているのか全く理解できなかった。その人が僕のネクタイに手をかけ、勢い良く引っ張ると、次にYシャツを乱暴にズボンから引きずり出した。Yシャツのボタンが、いくつも引きちぎられ、そこで、間違いなく、僕の服を脱がそうとしていることに気付いた。怖くて、動けない。

 僕は、その人物が、以前僕に痴漢していた人だということにも気が付いた。そして、ものすごく興奮しているのも分かった。必死に抵抗しようと、体を動かそうともがいても、相手が体を密着させ、力の全てを僕へと本気で向かわせていた。

 唇が首筋を這う。ゾワッと鳥肌が立った。

「ずっとあんたのことを見てた。やっと俺のものにできるチャンスが巡ってきたよ」

 耳を舐められ、胸のあたりまで舌が降りてくる。

「うーっ!」

 声を出そうにも、手で塞がれていて、全く響かない。逃れようと、何度も何度も体を動かそうとしても、相手の力が強すぎて、一切身動きが出来なかった。僕は空手をやっていても、結局はこんな時に抵抗もできず、されるがままだった。ベルトに手がかり、緩んだところに、相手の手がズボンの中へとスルリと入り込む。

 嫌だ!こんなの!誰か!!

「何してる!!」

 大きな声がして、何人かの走る足音が聞こえたかと思うと、僕を襲ってきた男が大きな男に羽交い締めにされ、引き離された。その途端、僕は腰が抜けたかのように一気に脱力し、その場にしゃがみ込んだ。

「大丈夫ですか?」

 一緒に走ってきたもう一人の男性が、僕の腕を持ち、そっと立ち上がらせてくれる。

「あ…はい。ありがとうございます」

「お礼ならあの子に言って下さい。あなたが路地裏に連れ込まれるのを見て、通報してくれたので。また後日、話を聞かせてもらうことになると思うので、連絡先だけ教えて下さい」

 そう言って、警察官二人は僕を襲った男をパトカーに乗せ、連行して行った。

 警察官が、あの子、と言っていたのは、修平君だった。

「大丈夫か?」

「あ…」

 急に恥ずかしくなって、はだけた衣服と、ベルトを直す。でも、その手は、恐怖からか、カタカタと震えていた。

「あの、ありがとう。助かったよ。カッコ悪いところ見られちゃったね。全く抵抗できなくて、自分でも呆れちゃう」

 情けなさと恥ずかしさのあまり、つい、早口になってしまう。

「無理すんな」

 修平君が、白いTシャツの上に羽織っていた自分のシャツを脱いで、僕にかけてくれた。

 僕は安堵感からか「ごめん」と言いながら、恐怖で震える体と、気持ちが落ち着くまで、修平君の胸にしがみついてしまったのだった。


「ちょっと先にシャワー浴びてきていい?気持ち悪くて…」

「ああ…」

 修平君が僕のアパートまで送ってくれ、僕は一人になるのが怖くて、アパートに上がってもらえないかお願いしたのだ。ショックが大きくて、今日は眠れそうにない。明日が休みで本当に良かった。

 シャワーを浴び、着替えて部屋に戻る。破かれたYシャツは、見ると思い出しそうで怖くて、ごみ箱の奥底に捨てて処分した。

 修平君は、ソファーにもたれかかって、静かにテレビを見ていた。

「あ!ごめん。飲み物も何も用意してなくて」

「いいよ、別に」

「借りたシャツ、洗濯して返すね」

「いいって。持って帰る。それより、あの男だけど」

 記憶がよみがえって、僕の体が、硬直した。

「うん…。あの時の痴漢の男だよね…」

「付けられてたの、気付いてなかったのか?」

 修平君の突然の言葉に、声を失った。修平君が続ける。

「俺は、お前と帰りの電車が一緒になった時から、気付いてた」

「そんな…。じゃあ、ずっと前から狙われてたってこと?」

「たぶんな。何ヵ月間か掛けて、お前のこといろいろ調べてたんだろーけど、急に俺が一緒に帰る日が続いたから、焦ったのかもな。実際、地区大会で三位以内に入賞できなかった三年生は、全国大会に出場できないし、部活は引退だから。これからずっと一緒に帰るかもって、勝手に思い込んだ、とか」

「あ…。昨日と今日、電車に乗ってなかったから…」

「今、テスト期間中で、学校が午前中で終わるんだよ。俺がいないから、チャンスだと思ったんだろ。って言うか…」

 言うか言わないかのうちに、腕を持たれる。

「こんなに赤くなるまで体を擦って洗ったのか?」

 そして、突然T シャツを捲り上げられた。

「ちょっ…」

「そこらじゅう皮がめくれてる。バカか、お前」

「だって、気持ち悪い感触が取れなくて」

「背中見せろ」

 無理矢理、体を反転させられる。

「こっちも擦り傷がたくさん出来てるじゃねーか。アザにもなってるし」

「あ…。背中を押し付けられた時に一生懸命抵抗しようとしたんだけど、相手の力が強くて…。どうりでヒリヒリすると思った」

 僕が言うと、Tシャツを丁寧に直してくれる。

「口の周りにも、手形ついてるし。マジで容赦なかったんだな。本気だったってことか」

「何か、本当に恐怖を感じた時って、人間って全く何も出来なくなるもんなんだね…。そういえば、何で修平君がいたの?警察に通報してくれたの、修平君なんだよね?」

 修平君は、再びソファーにもたれかかると、テレビに目をやり、そこから目を逸らさずに、

「心配で見に行ってた」

 と、小さな声で言った。

「え?」

「帰りの電車の時間に合わせて、駅まで行ってた」

「え…?うそ。わざわざ?」

「で、路地裏に連れ込まれたのを見て、すぐに警察に通報した。現行犯逮捕の方がいいと思ったから」

「じゃあ、僕が襲われてるところを見てたってこと?」

「仕方ないだろ。あそこで逃げられたら、また今度いつ襲われるか分かんねーんだぞ?確実に逮捕された方がいいに決まってる」

「そんな…。だって、僕、あの時本当に怖くて…」

「そんなこと、分かってるよ。お前にそれだけの傷を追わせてたなら、マジで警察来る前に二・三発、食らわせときゃ良かった」

「え…?」

 それって…。いや、違う。期待なんてしたらダメだ。修平君は、きっと誰に対してもこんな感じなんだろうから。それでも僕は、僕を心配して駅まで来てくれていたことや、今の言葉に、淡い期待を抱いてしまう自分を止められなくなり、黙って俯いた。

 そのうちに胸が苦しくなってきて、それが苦く喉の奥に上がってきたかと思うと、とうとう自分の手の甲に、いくつもの涙の滴がポタポタと落ちた。

「は?何?」

 修平君が、僕の涙を見て、驚いたように体を起こす。

「辛い」

 僕が言うと、

「何が?」

 すかさず修平君が尋ねてくる。

「修平君にとってはただの親切なんだろうけど、僕にとっては、心配されたり助けられたりする度に、修平君の優しさに変な期待をしてしまって、ものすごく辛くて苦しくなる。だから、もう僕のこと、気にかけたりしないで…」

 僕が言うと、修平君は深くため息を吐いた。

「お前、いくつだよ?ちゃんと分かるように話せ」

 僕の方を見たまま、上から目線で説明を求められる。僕は、いよいよ観念した。

「もう、修平君のことが好き過ぎて辛い。会いたくて仕方ないのに、会うと、うまく息が出来なくて、高校生相手に本気になってバカだなって、いつも自分を責めて、しんどい」

 涙が次から次へと溢れて止まらなくなる。

「辛い、って言われて告白されたの、初めてなんだけど?」

 修平君が呆れたように呟いた。

 僕は修平君の顔を見るのが怖くて、顔を上げられなかった。しばらくして、

「あいつに、何された?」

 修平君からの突然の質問に、僕は思わず顔を上げてしまった。

「見てたんでしょ…?」

 両手を持たれて、ソファーへと押し倒される。修平君の顔が僕へと近付き、

「その感触、俺が全部消してやるよ」

 と、至近距離で言った。

「ちょっと待って!」

 そのまま唇が重なりそうになった寸前で、僕は少し大きな声を出して、躊躇してしまった。

「何だよ」

 修平君の顔が近い。

「その、き、緊張しちゃって。心臓が爆発しそう…」

 自分の心臓がこんなにも激しく鼓動を打つなんて、初めて知った。修平君にも伝わるくらいの音が鳴り響く。

「は?知るか、バカ」

 再び、唇を奪われそうになる距離まで顔が近付く。

「ま、待って!」

「何だよ!」

「で、電気、消してもいい?」

「無理」

「え!僕も無理!」

「何なんだよ!」

 そう言いながら、修平君がリモコンで電気の明かりを薄暗くしてくれる。

「あ、ありがとう」

 修平君が僕の上へと覆い被さるように、体を倒してきた。顔を一気に僕へと寄せてくる。

「あの…!」

「もう喋るな」

 両手で勢い良く頬を包まれ、とうとう唇を奪われた。修平君の温かく柔らかい唇の感触が、僕の唇に伝わる。まるで夢心地のようだった。激しく口付けを交わしているうちに、僕の呼吸が少し荒くなって、緊張の鼓動が、興奮の鼓動へと変化して行くのが分かった。

「修平君…大好き」

 唇が離れた瞬間、今までにないくらいの力で修平君にギュッと抱きついた。

「背中、大丈夫か?」

 修平君からの、僕を気遣う優しい言葉が心の中を掻き乱す。

「うん…。大丈夫」

「じゃあ、俺も容赦しないからな」

 頬や唇、そして胸に修平君のキスが降りてくる。恥ずかしくて、顔を覆う。

「顔を隠すな」

「だって…」

 首筋を舌で舐め上げられ、そして、耳たぶを吸い上げられる。

「ん…」

 自分でも驚くぐらいの、甘く鼻にかかった声が漏れ、次は両手で口を塞いだ。こんな声、恥ずかしすぎて、聞かれたくない。

「塞ぐな」

「だって…」

「葵。いいから、口から手を離せ」

 初めて名前を呼ばれ、僕の鼓動はより早くなった。

 恐る恐る口から手を離すと、修平君は容赦なく僕の体を攻め始めた。喘ぎが洩れる息遣いの中、僕はしなやかな筋肉の付いた修平君の細身の体に、そっと掌で触れた。

「…何だか、夢みたい」

 感じるままに身を任せ、うつろになりながら言う唇を優しく吸われ、そしてキスがどんどん深くなり、激しさを増した。修平君の長く細い指が僕の指に絡まり、強く握り合う。

 かなり怖い思いをしたけれど、修平君との甘い時間に、僕はその日、とろけてしまいそうなくらいの幸せを手に入れたのだった。


 二人の呼吸が落ち着いたところで、修平君は体を起こすと、床に落ちていた衣服を身に纏い始め、僕の服も拾って手渡してくれる。

「あ…ありがとう」

 恥ずかしくて、目を合わせられない。僕もすぐに自分の服を着て、髪や身なりを手で整える。

 修平君は、何も言わなかった。もしかして、僕を抱いたことを後悔してるとか…?急に不安に駆られた。

「あの…」

 僕は一番気になっていたことを修平君に尋ねた。

「その…、僕も、不特定多数の、一人なの…?」

 修平君はソファーに腰かけると、

「ふざけんなよ。体だけの関係なら、最初にちゃんとそう言ってからヤるし」

 と、ハッキリ答えてくれた。

「…じゃあ、恋人に昇格…?」

「俺のことが好き過ぎて辛いなら、そうしてやるしかないだろ?」

 僕は、ゆっくりと修平君の横に腰掛けた。

「相変わらず、上から目線だね…」

 そう言いながらも、僕の頬は思わず緩んだ。

「修平君は、いつから僕のこと、気になってたの?」

「は?何だよ、急に」

「聞きたい。教えてよ」

「それが、本当に分かんねーんだよ。あの日、寝坊して一本遅い電車に乗ったら、好きなように男にケツ触られてんのに、身動き一つせずに我慢してるお前を見て、すげぇイラついて。俺は今まで言いたいこと言って、やりたいようにやってきたから。だから、お前みたいな奴見ると理解できなくて。悪いのは痴漢してる奴なのに、何で我慢する必要があるんだ、みたいな」

「うん…」

 それは何となく分かる。だから、初めて会った時に、あんな言葉が出たのだろうと、今なら納得できる。

「なのに、小嶋の言葉に腹立てて、小嶋のことぶつとか?何だ、コイツと思って。自分のことは我慢できんのに、人のことになるとムキになって本気で怒るんだな、と思った」

「あれは、つい…」

「俺、お前が更衣室に行ったあと、一人で腹抱えて笑ってた。めっちゃおかしくて」

「うそ!最悪…」

 修平君が、その時のことを思い出したように笑う。僕は、修平君の笑顔を初めて見た。あまりにも新鮮すぎて、胸が弾けた。

「でも、それで試合に出ようと思った。あんな話、スルーすりゃいいのに、あの時、本気で落ち込んでるお前を見て、何かしてやれるなら、って」

 僕は嬉しくなって、修平君の背中に手を回して、胸に顔を埋めた。

「大好き、修平君」

「お前、最初の頃、俺のこと嫌ってただろ?」

「え?バレてたの?」

「当たり前だろ」

「だって、初対面であんなこと言われたら、誰だって苦手になるよ」

「だから、なおさらかもな」

「え…?」

 僕は顔を上げて、修平君を見た。

「俺と話したこともない奴らが、付き合って、とか簡単に言ってきて。俺の何を知ってんだ?って思ってた。一回きりの体だけの関係ならいいって条件出したらドン引くかなと思って、冗談のつもりで言ったら、ほとんどが乗り気になって。すげぇムカついた。あの時、試合に出るのもやめて、ヤケになって荒れてたのもあるけど」

「きっと、関係を持ったら彼女になれるかも、って期待してた子もいると思うよ」

 そんな事情があったなんて、知らなかった。言い寄って来る子がたくさんいる中で、修平君なりに、悩んだり嫌な思いをしてきたのかもしれない。

「お前は逆だったけどな」

「え?」

 修平君が言いたいのは、僕がきっと、修平君という人を知った上で、好きになったから、ということなんだろうと、鈍感な僕でも少しばかり理解できた。

「小嶋がさ、試合前に、恋人になったら、お前の薄いピンクの唇にキスして、白い肌に吸い付いて、めちゃくちゃにしてやる、って俺に言ってきて」

「試合前にそんなこと言ってきたの?」

「からかってるだけだ、って分かってたけど、らしくもなく、少し頭に血が上った。冷静なフリしてたけど、いつもなら、あんなギリギリの試合なんてしない」

 カアッと全身が熱くなる。まるでどこかでせき止められていた全身の血液が一気に流れ出したかのように、鼓動が早くなる。

「…嬉しい」

 耳まで赤くなった僕が言うと、

「お前、俺が近付くと、すぐに顔が赤くなるから、みんなにも俺のこと好きなのバレてるぞ?」

 と、修平君が教えてくれる。

「うそ…。どうしよう」

 僕は、慌てて修平君から離れて、目を合わせた。

「いや、今さらだろ」

 修平君が笑う。ああ、ダメだ。もう、修平君が好きすぎる上に、滅多に見られない笑顔を見せられたら、もう何を言われても頭に入ってこないよ。僕は幸せを噛みしめるように、もう一度修平君の胸にゆっくりと顔を埋め、時間の許す限り、修平君のぬくもりを感じていたのだった。


 全国大会も無事に終わり、高校三年生の三人が部活を引退し、進学に向けての本格的な準備が始まった。週2回の支部の練習には来ていたけれど、そのうち修平君が姿を見せる日がほとんどなくなった。10月に入ってからは、一度も会うこともなく、気付くともうすぐ11月に入るところだった。

 僕たちは、初めて関係を持ってから4ヶ月間、修平君の方が空手の練習や学校行事などに時間を取られ、ゆっくり二人きりになれる時間もなく、まだ二度目というものが…なかった。初めての時も、余韻に浸ることもなく、すぐに服を着たのは、やっぱり、一度きりの体だけの関係だったからなのかも…、という疑いが、日を追うにつれ、拭えなくなってきていた。


「最近、修平君、全く練習に来なくなったね」

 しばらく練習に顔を出せないとは、最後に会ったここでの練習日に、一応本人から聞いてはいたけれど、理由を聞いていなかった僕は聡史君にそれとなく尋ねた。

「修平、色んな大学から推薦の声が掛かってるからな。今年も全国大会優勝したし、どこの大学も、躍起になって訪問してきてるから。決めかねてて、放課後、担任といろいろ話してるみたいだし」

「推薦?」

 初めて聞いた、そんな話。でも確かに、そういう時期に差し掛かっているのは間違いない。

「聡史君は、もう進路決まったの?」

「俺は空手部のある県外の大学に指定校推薦で行くことにしたから、もう決まった感じ」

「美園ちゃんは?」

「あいつは、この先、本格的に空手はしたくないって。純平さんと離れたくないのもあるんだろうけど、地元の看護専門学校、もう受かってる」

「看護師目指すんだね。すごい」

「めちゃくちゃおっかない看護師になるぜ。俺なら絶対に違う人に看病頼むな」

 と、話してるところに、

「聡史が入院したら、マジで覚えとけ」

 と、美園ちゃんが現れた。

「修平は?今日も練習来ないのか?」

「知らない。クラス一緒だけど、ほとんど話すことないし」

「修平君の進路について、何か聞いてる?」

 僕は恐る恐る美園ちゃんに尋ねた。

「純平さんからしか聞いてないけど、東京の大学に行くように説得はしてる、って」

「東京?ここからだと、かなり遠いよね」

 ショックで、一瞬、血の気が引いた気がした。思わず足元から崩れてしまいそうな感覚だった。

「空手で有名な大学だろ?オリンピック出てる奴も、ほとんどそこの出身だもんな。顧問が修平にその話してるの、俺もたまたま聞いて。考えておきます、って返事してた。もしかしたら、本当に東京の大学に行くかもな」

 そんな大事な話、僕は一切聞いていなかった。恋人なら、普通は一番に相談するべきことだと思うのに。

「最近、小嶋とつるんでるみたいだし。毎日のように、小嶋が教室まで修平のこと迎えに来てて。駅まで一緒に帰ってるから」

 美園ちゃんが、サラッと話す。

「小嶋君と?どうして?」

 あの二人の仲の良さを知っているせいか、つい胸がざわつく。

「同じ大学から声かかってるのかもなー。地元じゃ、空手部のある大学なんてないし。続けるなら、どうしても県外になるしな。でも、もしかしたら純平さんみたいに…」

 聡史君の話の途中で、先生の「集合!」の声が掛かった。


 練習が終わってから、

「葵さん、何か元気ない?」

 聡史君から、声を掛けられた。

「え?そうかな?」

「あ、俺がいなくなるから寂しいとか?大丈夫だよ。春休みとか夏休みの長期休暇には、ちゃんと帰省して、ここの支部の練習には来るからさ」

「うん。そうだよね。会えなくなるワケじゃないもんね」

「そうそう。修平も、もし県外に行ったとしてもちゃんと帰って来ると思うから。元気出しなよ」

 聡史君が笑う。何も触れてはこないけれど、僕の気持ちなんてお見通しなんだろうな。

「ありがとう」

 聡史君の優しさが、ものすごく心に沁みた。

「そういえば、美園ちゃんと純平さんて、付き合ってるんだよね?結構、長いの?」

「いや。葵さんがここの道場に入るちょっと前くらいからかな」

「え!?じゃあ、まだ一年経ってないってこと?あんなに仲良しなのに?何も言わなくても、意志疎通が出来てるし、お互い信頼し合ってる感じなのに…」

「いや、純平さん、美園のこと全く恋愛対象として見てなかったから。5歳も下だとさ、純平さんが高校生でも美園はまだ小学生だろ?純平さん、あの容姿だし、優しくて温厚で性格もいいから、やっぱり彼女とかも、途切れない感じだったし」

 そうなんだ。それを知ってた美園ちゃんは、いつもどんな想いでいたんだろう。

「純平さんが社会人になってから付き合った人が、すごく綺麗で優しい人でさ。全部の試合観に行ってたし、ここの練習にも差し入れ持って、しょっちゅう来てたから、結婚するんだろうな、って思ってたんだけど…」

 聡史君が、少し周りを気にしながら、誰もいないことを確認する。

「純平さんが倒れて、空手が出来ないって分かった途端、ここに来なくなっちゃって。俺、何も思わずに、最近、あの人来ないんですね、って聞いたら、空手が出来ない弱い人に興味はないから、って振られた、って、純平さんが笑いながら言ったんだよ」

「え?それって、ひどくない?空手が出来なくなって一番辛い思いしたのは、純平さんなのに…」

「そう。本当に俺もそう思った。そしたら美園がさ…」


『そんなの、本当に純平さんのことが好きなんじゃなくて、空手で世界一っていう、肩書きが好きだっただけでしょ!私なら、純平さんが車椅子になったとしても、寝たきりになったとしても、絶対にそばにいる!ずっと一緒にいるもん!本当に好きなら、その人がどんなことになったとしても、普通は離れないよ!』


「って、泣きながら純平さんに向かって言ってさ。何か、マジで感動したって言うか、心が打たれたって言うか…。純平さん、いつも、からかい交じりで美園の気持ちを軽くあしらってたから、それも切なく感じちゃって」

「泣きながらそんなこと言う美園ちゃんの気持ちを考えると、辛すぎて、泣けてくる…」

「そうなんだよ。そこで、何故か、修平の父ちゃんがすげぇ泣いちゃってて」

「先生が?」

 ヤバい。真面目な話なのに、意外すぎて笑えてしまう。

「そこからかなー。しばらくしてから、純平さんから、美園が18歳になったら、付き合ってほしい、って言ったみたいで。運が良いことに、美園4月が誕生日だったから。で、今に至る…って感じかな」

「美園ちゃん、カッコいいね。もしかして看護師目指すのも、純平さんのため、って言うのもあるのかもしれないね」

「たぶんな。美園はキツイけど、一途だから。あ、遅くなったね。長く話してごめん。着替えて帰ろうか」

「ううん。こっちこそ、いろいろ聞いて、ごめんね。何だか、すごく感動する話を聞けて良かった。純平さんと美園ちゃん、本当に幸せになってほしいな」

「なるよ。絶対」

 聡史君が、笑顔を見せ、空手着を脱ぎ始める。

「そうだね。じゃあ、また」

 僕も着替えを持って、更衣室へと向かった。


「寒い」

 着替えを済ませ、外に出ると、あまりにもの空気の冷たさに思わず肩をすくめ、首もとのマフラーに顔を深く埋める。そこに、見覚えのあるシルエットが、こちらに向かって歩いて来るのが見えた。修平君だった。

「葵?今から帰るのか?」

「うん。修平君こそ、毎日、こんなに遅いの?」

 久しぶりに会った修平君は、髪も黒くなっていて、ピアスもしていなかった。推薦に向けて、身だしなみも整えているんだと思うと、いつもは見惚れてしまう制服姿の修平君の顔が、一切見られなかった。本当は、聞きたい。こんな遅い時間まで、毎日どこで何をしてるの?って。でも、重いとか、面倒くさいって思われるのが怖くて、どうしても聞き出せなかった。胸が痛くて、やりきれない。

「あ、そうだ。お前の連絡先…」

 話し出そうとする修平君の言葉を遮って、僕は急き立てるように話始めた。

「推薦の話、聞いたよ。東京の大学に行くかもしれないんでしょ?そんな大事なこと、どうして黙ってたの?僕が止めるとでも思った?」

「は?」

「まだ恋人だと思ってくれてるなら、ちゃんと相談して欲しかった。僕って、そんなに頼りない?そんなに足手まといになる?」

「何だよ。何で急にそんな話…」

 わざと誤魔化してるように感じて、僕はめずらしく苛立って感情が抑えられなくなった。

「もういいよ。勝手に東京でも、どこにでも行けば。僕には関係のないことだし、好きにすればいいよ」

 僕は修平君の顔を一度も見ることなく、背を向けて歩き出した。

「葵」

 腕を掴まれる。

「離して。修平君とは、今日で別れてあげるから。もう会わない。修平君が大学に行くまで空手にも来ないから、安心して」

 腕を振り払って、僕は足早にアパートに向かって歩き出した。頬を伝う涙を何回拭っても、あとからあとから溢れて止まらなかった。

 アパートに着くと、僕はその場にしゃがみ込んで泣き続けた。追いかけて、弁解もしてくれない修平には、もう不信感しかなかった。こんなことになるなら、まだ会える距離にいられた片想いの方が、ずっとずっと良かった。それから僕は、しばらく仕事が忙しいという理由を付け、先生に連絡をし、空手に行かなくなってしまった。


 修平君と別れてから、一ヶ月が過ぎようとしていた。いつも週に2日は必ず練習で会っていたせいか、お互いの連絡先を交換すらしていなかった僕たちは、本当に空手という共通点がなくなった今、全く会うこともない。ただただ、毎日同じような時間だけが過ぎて行く。

「明日から12月だなー。マジで一年早くないか?松原、来週の忘年会、出るだろ?俺、今年幹事なんだよな」

 少し残業になった金曜日の仕事終わり、高倉が声を掛けてきた。

「そっか。もうそういう時期なんだね」

「最近、何か元気ないし、来週は思いっ切り飲んで、いろいろ発散しろよ。あんなに楽しそうだった空手にも、行ってないみたいだし」

 ずっと何も言わなかったのに、気付いてたんだ。

「ありがとう。でも大丈夫。もう吹っ切れたから」

 そう。僕が自分から言い出したことなんだ。どんなに辛くたって、我慢して耐えしのぐしか、術がない。

「そっか。それならいいんだけど…」

 そう言いながら、高倉と二人で事務所の戸締まりを始めると、突然、高倉の携帯が鳴り出した。相手は奥さんのようだった。

「悪い。何か子供が急に熱出したとかで、今から急患センター連れてくって。心配だから、俺も一緒に付いてこうと思って」

 高倉は、先月子供が産まれたばかりだった。

「分かった。あとの戸締まりは僕がしておくから。早く行って」

「悪いな。頼むよ」

 片手で、ごめん、と手で合図するようにして、高倉は急いで帰って行った。僕は一人、ゆっくりと戸締まりをして、会社をあとにした。

「忘年会か…。本当に早いな。いろんなことがあった一年だったな」

 4月に初めて修平君に出会ったこと。修平君が僕のために試合に出てくれたこと。そして付き合うことになったこと。八月の全国大会で優勝したこと…。

 あの時、あのまま試合にずっと出ていなかったら、推薦の話もなかったのかな…。

 そんなことを考えながら、一人、帰路に付く。電車を降りてからの帰り道、修平君と歩く時間が本当に幸せだった。どんなに願っても、時間は残酷に過ぎて行く。いつまでも、聡史君や美園ちゃん、そして修平君と過ごしていた楽しい時間に留まることなんて出来ないことぐらい、僕にだって分かる。

「もっと冷静に話をすれば良かった…」

 あんなの、ただの駄々をこねてる子供と一緒だ。いい大人が恥ずかし気もなく高校生につっかかって、情けないにも程がある。あの時、修平君が「お前の連絡先…」と、言いかけてたことに、少し気持ちが落ち着いてから気が付いた。

「お互いの連絡先も知らなかったのに、相談して欲しかったなんて、無茶苦茶な話だよ。本当に僕ってバカすぎて、自分でも呆れる…」

 でも、もう今更、どんなに後悔しても遅いということも分かってる。修平君も、こんな僕に嫌気が差してるに違いない。

「しかも、自分から別れるって言っておきながら、未練タラタラ…」

 ため息が漏れる。毎日、毎日、イヤと言うほど修平君のことを考えている自分がいる。本気で好きだったからこそ、なおさら勝手に進路を決めようとしていた修平君をどうしても許せなかった。

 

アパートに着いて、鍵を開けて玄関の扉を開くと、突然背後から、その扉を一気に開けられる。ビックリして振り返ると、そこには修平君が立っていた。

「え!?何?」

「お前、この俺を怒らせておいて、ただで済むと思うなよ」

 僕の体ごと部屋へと押し入ってくる。玄関の扉が勢い良く閉じた。

「ちょっ…」

 乱暴に寝室のベッドへと押し倒される。冷え切った衣服。修平君の手が、とても冷たかった。残業で少し遅くなった僕を外でずっと待っててくれたのだろうか?

「明日、座れないようにしてやるから、覚悟しとけ」

 乱暴な口調とは裏腹に、僕のことを抱いた修平君は、とても優しかった。


「市役所の内定?」

「そう。10月にもらった」

「東京の大学は?」

「そんなの、初めから行く気なんてねぇし。勉強嫌いだし、市役所の空手部に行くって最初から決めてた。支部の練習に出られなかったのは、毎日学校帰りに市役所の練習に参加してたからで、毎週土日は遠征でほとんど県外に行ってて。今日から期末テスト始まって、やっと練習休めた」

「それなら、最初から言ってくれれば」

「9月の公務員の試験にも受からなきゃだったし、面接もあったし、内定も決まってないのに、言えるか。もしかしたら、ぬか喜びになるかもしれなかったんだぞ?」

 修平君は、僕が思うよりも、ずっとずっと大人だった。もし、その話を先に聞いていたら、内定をもらっていないのに、僕は嬉しさのあまり、一人ではしゃいでいたに違いない。

「人の話もろくに聞かずに、勝手に一人で先走りやがって。あの日、あの野郎…マジで覚えとけ、時間できたら、ただじゃおかねぇからな、って思ってた」

 こっ、怖い…。まるで初対面の日を思い出してしまうような発言だ…。

「だって、あんな話を聞いたら、誰だって勘違いするよ…」

「俺の兄貴も空手の推薦で市役所に入社したって、肝心なところは聞いてないんだな」

 そう言えば、あの時、聡史君が何か言いかけていたのを思い出した。

「あの時は、動揺してて…」

 言い訳しようとする言葉を

「で?」

 と、遮られる。

「え?」

「別れてあげる、って、めっちゃ上から目線で言ってたけど?俺とどうしたいんだ?」

 うっ…。上から目線返し…。

「そんなの、聞かなくたって分かってるくせに…。毎日、ずっと修平君のことばかり考えてた。本当に後悔しかなくて、修平君に、ものすごく会いたかった」

 言うか言わないかのうちに、涙が零れた。

「泣くな」

 細く長い綺麗な指で、涙を拭ってくれる。

「ごめんね。何も知らずに、修平君のこと責めて」

「いいよ。もう。お前の気持ち、分かったから」

 額に優しく唇を押し当ててくれる。すごく温かくて、柔らかい感触が広がる。

「やっぱり僕、修平君のこと、好き過ぎて、辛い」

 涙が止まらない僕を優しく抱きしめてくれる。

「じゃあ、そろそろ本気で行くからな」

「え?」

「さっき言っただろ?覚悟しとけ、って」

「そんな…。今のもかなり激しかったし、僕の体が持たな…」

 言うか言わないかのうちに、明らかに先ほどより激しいキスをされる。抵抗なんて、出来るワケがない。絶対に言えないけど、ずっとずっと、こうされるのを待っていたのだから…。


 修平君はテスト勉強のこともあり、夜遅くにはなったけれど、その日のうちに家に帰って行った。ちゃんと連絡先を交換したあとで。

 翌日、何度も何度も擦りに擦られた粘膜が、椅子や床に座ることを許さず、僕は一日の大半を、立つか、横になって過ごすこととなったのだった。


 2月に入る頃には、進路が決まった生徒は学校が自由登校になり、市役所の練習には行き続けていた修平君は、土日の練習だけは午後5時に終わることもあり、遠征などがない日は、土曜は支部の練習に出てくれ、日曜日の夜はアパートに来て、泊まってくれるようになった。

 そんなある日、月曜日が祝日の、僕の仕事も休みで、市役所でも大きなイベントがあり、空手部の練習がオフという、奇跡的に二人きりでゆっくりできる時間ができた、朝のことだった。

「え?小嶋君も市役所の空手部の推薦で内定決まったの?」

「ああ。大学から推薦も来てたみたいだけど、断ったみたいだな。だから学校から毎日一緒に練習に行ってた」

 そこまで聞いて、いくら鈍感な僕でも、何となく気付いてしまった。

「僕さ、小嶋君、修平君のことが好きなんだと思うんだけど。友達としてとかじゃなくて、恋愛の対象として見てるような気がする」

 僕が言うと、修平君がめずらしく驚いたように僕を見た。

「そんなワケないだろ。くだらねぇ」

「だって、わざわざこっちの支部にまで来て、練習に出てること確認しに来たり、試合に出るように、けしかけたり、絶対に修平君に気がないと、そこまでしないよ」

「葵のこと狙ってたからだろ?」

「違うよ。最初は修平君が本当に練習に来てるかどうか確認するのが目的だったはず。そこに、たまたま僕がいただけで。きっと、ずっと修平君のことが気になってたんだよ。美園ちゃんも、修平君に対する執着がすごい、って言ってたし」

 僕がそう言うと、修平君が頬杖をついて、黙り込んだ。その姿がまた、すごくサマになっていて、僕は目が離せなかった。何をしても、どんな姿も、本当にカッコよすぎて困る。


 つい最近、30分番組の全国放送のテレビで特集されるくらい、修平君は今、注目を浴びていた。今までの大会でずっと優勝してきていたのに、高校三年生になってから、突然試合に一度も出なくなり、復活した途端に全国大会で優勝したせいで、余計に世間の興味を引いたようだった。

 それに、相手がいくら小嶋君だったとしても、僕の心の中は穏やかでいられない。修平君は自分の興味のないことに関しては、全く気にもとめない性格だし、なおさら心配になる。

「今はこうやって一緒にいる時間を作れるけど、修平君が働き出したら、仕事も練習も遠征もあるし、世界中の大会にも出ることになるかもしれないし、小嶋君と過ごす時間の方が絶対に多くなるよね…」

 ああ…。また大人げないことを言ってる。僕の方が年上なのに、相変わらずの自分の器の小ささに、本当に嫌気がさす。

「また出た。小嶋が俺のこと好きかどうかも分かんねーのに、先走りやがって」

「でも…」

「今度会ったら聞いといてやるよ。俺のこと好きなのかどうか」

「え?」

「気になるんだろ?」

「でも、もし本当にそうだったとしたら?」

「こっぴどく振ってやる」

「そんな…。それはかわいそうだよ」

「どっちだよ!」

 キツイ口調。修平君がイラついているのが分かった。

「ごめん…」

「もし小嶋が俺のこと好きだったとしたら、お前はどうしたいんだよ」

「そんなの、分かんないよ…」

「何だ、それ」

 修平君が立ち上がる。

「どこ行くの?」

「帰る。そういうの、マジでダルい」

 そう言って、玄関へと向かって歩き出す。

「お前、本当に俺のこと好きなのか?」

「え?」

「俺のこと信じてなさすぎて、マジでムカつくんだよ」

 バタン!と玄関の扉が閉じた。

 どうしよう。修平君を怒らせてしまった。就職して本気で空手に力を入れ始めたら、一緒にいる時間なんてますます限られてくるし、今は二人の時間を一番大事にしなきゃいけない時期なのに。

 

 修平君はいつも芯が通っていて、何に対してもブレない強さを持っている。僕との関係に対してもそうだ。だけど、僕は全然ダメだ。修平君のことが好き過ぎるからこそ、些細なことでもすぐに不安になったり心配になったりする。

 二人の価値観に少しズレがあることも、分かりきってることだった。修平君は何があっても僕を信じてくれている。だからこそ、僕の気持ちが、ちょっとしたことで揺らいでしまうことなんて、全く理解できないんだろうと思う。

「どうしたらいいんだろう…」

 僕は玄関の扉を見つめたまま、小さな声で呟いた。


「何だよ。せっかくのオフに急に呼び出して、こんな激しい本気試合の練習させやがって」

 小嶋が、息を切らしながら倒れ、大の字になって道場の天井を仰ぐ。

「どうせヒマしてたんだろ?体、なまるぜ?」

 修平が、その横に座り、あぐらをかきながら淡々と言ってのける。

「は?毎日空手ばっかりしてんだぞ?たまには休ませろよ」

 返答のない修平に、小嶋が続ける。

「あー、なるほど。葵ちゃんと何かあったんだ?」

 修平は、空手着で汗を拭うと、黙って一点を見つめたまま、動こうとしなかった。

「分かりやすっ!何があったか知らないけど、俺を巻き込むな」

 言いながら、小嶋が体を起こす。それでも修平は口を開かなかった。

「お前さ、普段は冷静で何考えてるか分からないくらい表情も変わんねぇくせに、葵ちゃんのことになると、思いっきり感情が表に出るんだな。地区大会の時もだったけど」

 小嶋が悪態を付いた。

「そうか?」

 修平は、平静を装うように静かな声で言った。

「今日だって、俺のこと呼び出すとか、いつもならあり得ないだろ」

「聡史が捕まらなかったからな」

「だからって、俺をストレス解消に付き合わせるな」

 小嶋が言うと、修平は黙ったまま、再び空手着で汗を拭う。小嶋は小さなため息を吐くと、立ち上がり、置いてあるカバンからタオルを出し、修平に投げ付けた。

「空手着じゃ、汗なんか吸わねぇだろ」

 そして、小嶋は、もう一つのタオルで自分の汗を拭った。

「何枚持ってんだ?」

「いつも4、5枚は持ち歩いてる」 

「女子か」

「お前が、ガサツなだけだろーが」

 修平は小嶋が貸してくれたタオルで汗を拭きながら「お前ってさ、好きな奴とかいんの?」と、不意に尋ねた。

「は?何だよ急に。恋愛の相談なら、俺よりもお前の兄貴の方が経験豊富で詳しいだろ。しかも誠実だし」

 小嶋の突っ込みに、修平はまた黙り込む。

「汗引いたら、早く着替えろよ。体、冷えるし」

 言いながら、修平が立ち上がると、

「俺だって、好きな奴ぐらい、いるよ」

 小嶋が、バックから、着替えを取り出しながら言った。

「ふぅん。葵じゃなくて?」

「葵ちゃんのことは確かに気に入ってるけど…。でも、お前ら、付き合ってるんだろ?」

 小嶋の問いに、修平は返事をせずにいた。

「否定しないってことは、そういうことなんだろうけど。マジで葵ちゃんも大変だな。お前みたいな奴と…」

 そこまで言った小嶋が黙る。それから一切の言葉が出なくなり、バックを見つめたまま、俯いていた。そのまま肩を落として動こうとしない小嶋の顔を上げようとして、修平が小嶋の肩に手を置いた。

「お前、まさか本気で葵のこと…」

 言うか言わないかのうちに、小嶋が修平の胸ぐらを掴んだ。

「お前と葵ちゃんの話なんて、本当は聞きたくない!俺がどんな気持ちで、いつもお前のそばにいたと思って…」

 そう言う小嶋の頬に、涙がつたっていた。

「俺の方がずっとずっと昔からお前の近くにいたのに…。なのに、何で…」

 小嶋の目から、次から次へと涙が零れる。そして、胸ぐらから手を離すと、

「着替えたら、帰る」

 そう言って、俯いたまま着替えの入ったバックを持って、更衣室へと入って行った。

 小嶋が着替えを済ませて出てきたところに、すでに着替えを終えた修平が、壁にもたれかかって、両手を厚手のパーカーのポケットに入れた状態で立っていた。

「大丈夫か?」

 修平が小嶋へと尋ねた。

「何が?」

「いや。大丈夫ならいい」

「ああ。じゃあな」

 小嶋が道場の出口に向かって歩いて行く。

「小嶋」

 修平が、その背中に向かって声を掛けた。小嶋は足を止めたが、振り返らなかった。しばらくの沈黙。

「今まで通りで…」

 小嶋が、掠れた声で呟いた。

「え?」

「今まで通りで、頼む」

 そう言いながら振り向いた小嶋の表情が、今にも泣き出しそうに歪む。

「分かった」

 修平が言うと、小嶋はゆっくりと道場の扉を開け、外へと出て行った。修平がため息を吐く。小嶋もまた、後悔のため息を吐いていた。

「どうして我慢できなかったんだよ。ただ好きでいられただけで幸せだったのに…。俺って、本当にアホすぎるだろ…」

 そう呟きながら、小嶋はゆっくりと歩き出した。

 そこに「小嶋!」と、声が響いた。ダウンジャケットを羽織った修平が、小嶋に追い付いて、横に立った。

「何だよ」

「駅まで送る」

「は?何か気持ち悪いぞ、お前。いつもなら絶対にそんなことしないだろ。同情とかいらねぇからな」

 目を赤くした小嶋が、しかめっ面で修平を睨んだ。

「同情なんてしてねぇよ。失恋したお前の情けない顔を拝もうと思っただけだ」

「ほんと、イヤな奴。お前、マジで性格悪いぞ」

 修平が、自分より少しだけ背の低い小嶋の目を真剣な眼差しで見る。小嶋は目を反らし、斜め下の方へと視線を移した。

「修平はさ、小学校の頃からどの大会でもほとんど優勝してただろ?俺もお前みたいに強くなりたい、って、ずっと憧れてた。やっと県代表に選ばれて、週に一回、強化練習で一緒に空手が出来るようになった時は本当に嬉しくて。そのおかげで、中学校の校区外通学も認められて、お前と同じ空手部に入れたけど、知ってる奴もいない中学校だったし、クラスで田舎者ってからかわれて。そしたらお前が…」


『お前らも同じ県に住んでるんだから、田舎者だろーが。どの目線でモノ言ってんだ?逆に恥ずかしすぎるだろ。コイツ、県で二位の実力があったから、ここの中学校にわざわざ来たんだ。しかも全国ベスト8で、遠征や試合で、お前らよりよっぽどいろんな県に行ってるしな。また変なこと言ったら、マジで全員ブッ飛ばされるぞ』


「って…。それからクラスの奴らが少しずつ話かけてくれるようになって、友達もできて。お前はただ本当に思ったことを言っただけなんだろうけど、そん時の修平が、めちゃくちゃカッコ良く見えて…。たぶん、それからだったと思う。憧れが、いつの間にか…」

 そこまで話して、その時を思い出しながら、自然と笑みがこぼれていた小嶋がハッと我に返る。

「そんなことはどうでもよくて!ただ、俺は、お前と一緒に空手が出来て、そばにいられるだけで幸せだった。それなのに、三年生になってから、兄貴のために、今までずっと選ばれてた日本代表も辞退して、試合に出るのも辞めた時、俺も何を目指して空手を続けていったらいいのか分からなくなって。試合に出てても、全然楽しくなくて、毎日が辛くて苦しかった。そんな時に葵ちゃんが現れて…」

 小嶋が顔を上げて、修平を見つめた。

「俺は、お前のこと好きだけど、お前を試合に出るようにしてくれた葵ちゃんには、本当に感謝してる。俺には、お前を挑発するようなことしか出来なかったから。ずっと憧れてた修平の試合がまた見られて、修平と試合が出来て、それだけで俺は今、十分幸せだから」

「小嶋…」

「ただ、今から俺が仕掛ける技だけは、かわさないで欲しい」

 言いながら、小嶋が修平の頭を勢い良く引き寄せた。体勢を崩し、少し前かがみになった修平の唇に、突然、小嶋の唇が重なった。そして、ゆっくりと唇が離れる。

「葵ちゃんには絶対に言うなよ。傷付けたくない」

小嶋が俯きながら、静かに呟いた。

「…言えるか。こんな汚点」

修平が言うと、小嶋がフッと笑い、口元を緩めた。

「修平の唇って、薄いくせに、柔らかいんだな」

「は?バカか、お前」

「…怒らないのか?」

「怒ったところで、今さらだろ」

修平がぶっきらぼうに言うと、

「俺、今日でお前のことは思い出にする。そんで、お前が嫉妬するくらいの相手をすぐに見つけてやる」

修平が、穏やかな表情で小嶋を見る。そんな修平に小嶋が手を差し伸べた。

「これからも、同志として、ライバルとして、一緒に、てっぺん目指して頑張ろうな」

「ああ」

修平が、その手を強く握り返した。

そして、二人は駅へと向かってゆっくりと歩き出した。駅まで、まだ半分のところで小嶋が「ここでいい」と、立ち止まった。

「明日からの遠征、長期間になるし、お前は早く帰って葵ちゃんと仲直りしろ」

修平を気遣う、小嶋の悲しそうな表情と声。それでも修平は「分かった」とだけ言って、その場で一緒に立ち止まった。

「じゃあ、また明日な」

小嶋が、背を向けて、駅へと向かって歩き出す。

その背中を見送りながら、修平は、ダウンジャケットのポケットからスマホを取り出した。

『はい。柳原整骨院です』

「あ、伸哉さん?修平だけど。祝日なのに診療所にいるんだ」

柳原伸哉。修平の兄の同級生である、行きつけの整骨院の院長だ。土日祝でも、緊急であれば、対応してくれることが多く、修平だけではなく、通っている患者は、いつも頼りにしている。その上、市役所空手部の専属と言っても過言ではないくらい、ほとんどの選手が、ここで世話になっていた。

『電話してきておいて、何だよ。まあ、自宅の一階だし、ここが自分の部屋みたいなもんだからな。何かあったのか?』

「今、小嶋と練習してて。ちょっと激しくやり合ったもんだから」

『なるほどね。分かった。電話してみるよ。痛みがあってもいつも我慢して、自分からは、なかなか来ないからな。確かカルテに携帯の番号書いてあったと思うんだけど…。あ、あった』

修平が黙り込んだことに気付いた伸哉は、

『明日には元気に練習に参加できるように、しっかりケアしとくから、心配しなくていい』

と、声を掛け、電話を切ったのだった。

そして、修平が家に戻ると、道場の出入口の前に、葵が立っていた。


修平君が、僕に気付く。

「何してんだ?寒いだろ?」

「その…。謝りたくて」

「入れよ」

修平君が、自宅の方の玄関の扉を開け、僕は一緒に修平君の部屋へと続く階段を上がって行った。部屋へ入るとすぐに、エアコンの暖房を入れてくれる。修平君がダウンジャケットを脱ぐ。厚手のパーカーを着ているにも関わらず、細身のスタイルの良すぎる姿に、また胸がキュッとなり、つい、ときめいてしまう。

僕は、そんな気持ちがバレないように、すぐに俯いた。ずっと黙ったままでいると、修平君が簡素な学習机の椅子に座った。

「聞いてたのか?小嶋との会話」

ビクッと、体がすくむ。

「ごめん。修平君に謝りたくてここに来たら、ちょうど二人が外にいて。聞くつもり、なかったんだけど…」

涙が出そうになって、声が震える。修平君への小嶋君の気持ちを思うと、二人を責める気にはなれなかった。

「別にいい。俺も葵に隠しとくの、イヤだったし」

僕は黙って俯いたまま、声を出せずにいた。握りしめた手の甲に、自分の涙がいくつも落ちてくるのをただただ見ていた。

「我慢するな。言いたいことがあるなら、言えよ」

言いたいことなんて、たくさんある。でも、小嶋君が僕を傷付けたくないと言ってくれていたことも、僕に感謝してくれていることも、全部聞こえていた。そして、修平君のことを今日で諦めると決めたことも…。だからこそ、小嶋君のことも、修平君のことも、責めることができなかった。

「悪かった」

修平君が、突然、謝った。そんなこと、今までなら絶対にあり得ない。

僕が驚いて顔を上げると、その表情は、悲しくて苦しそうだった。修平君のそんな表情を僕は初めて見た。

「めずらしく、少し動揺した。小嶋が俺のことを好きだったってのもだけど、俺が試合に出るのを辞めたことで、小嶋があんなに苦しんでたと思ってなくて」

修平君が、辛そうに顔を背けて俯いた。

「俺って、本当に自分のことしか考えてねぇから…」

覇気のない声。

「そんなことないよ。試合に出なくなったのは、純平さんのことを思ってのことだし、僕のことだって心配して助けに来てくれたし、今だって、小嶋君の気持ちを真剣に考えたから、話を聞こうと思って駅まで送ろうとしたんでしょ?修平君は、ちゃんとみんなのこと考えてるよ。…ただ…」

修平君が、顔を上げて、僕を見た。

「修平君が、他の人とキスしてるところなんて、見たくなかったよ…」

嗚咽が漏れる。僕は両手で口を塞いだ。涙がどんどん溢れて止まらなかった。誰が悪いワケじゃない。ただ、どこに持って行っていいか分からない感情が、抑えきれなかった。

 人を好きになるって、幸せなことばかりじゃないんだと、思い知らされる。小嶋君のように、想いが通じない人だってきっと世の中にはたくさんいる。僕がもし小嶋君の立場だったら…と考えるだけで、胸が痛くて、押し潰されそうになる。

 修平君が椅子から立ち上がり「マジで、悪かった」と言って、僕を優しく抱き締めてくれる。僕は修平君に抱き付いて、思いっきり泣いた。修平君の腕に力がこもる。僕は、修平の胸の中で、溢れる涙を止めることなく、流し続けていた。


しばらくして、修平君が僕の両肩を持って胸から離した。

「葵に話しておきたいことがある」

めずらしく、真面目な低いトーン。僕は緊張して、その空気感に体が強張った。正座をして、両手を膝の上に置く。

「な、何…?」

「俺は、本気で空手をしようと思って市役所に入った。とにかく試合に勝ち続けて、日本代表にも戻りたいと思ってる」

「うん…」

僕は、修平君が小学生の頃から日本代表選手だったと、恥ずかしながら、この前の特番で初めて知った。

「そうなると、ほとんどここにはいられない。一年中、遠征にも行くし、かなりの数の大会に出場することにもなるし、日本にすらいられる日も少なくなる」

突き付けられる現実。修平君にはその才能があることが分かっているからこそ、考えるだけでも胸が締め付けられて、苦しくなる。

「それでも、俺と付き合う覚悟はあるのか?」

修平君が、僕の目をしっかりと見つめる。その表情は、どこか悲し気だった。


言いたいことは、分かる。些細なことで嫉妬したり、別れるとか簡単に口にしてしまう僕のせいで、いつも修平君を不快にさせてしまう。その度に、修平君がこうやって僕の気持ちを落ち着かせてくれていた。だけど、距離ができると、それもきっとうまくいかなくなることくらい、僕にも分かりきったことだった。

「僕は…修平君を信じる。離れてても、会えなくても、連絡が取れなくても。修平君と別れたくないから、信じて待つ覚悟を決めるから…。だから、この先も、ずっと一緒にいたい」

修平君に会えなくなるなんて、本当はすごくイヤだ。切なくて、息が詰まるくらい辛くて、また涙が溢れそうになる。でも、修平君の夢の邪魔をしたくない。

「分かった。それならいい」

修平君が、僕の頭に手をやり、

「よく言った、葵。強くなったな」

と、ガシガシと掻き回される。

「今も、よく怒って帰らずに俺のこと待っててくれたよな。ちゃんと成長してんじゃん」

言いながら、優しく、切なそうに目を細める。

僕はそんな修平君に思いっきり抱き付くと、修平君の柔らかくて温かい唇に、力強く自分の唇を押し付けた。

唇が離れたところで、

「小嶋君とのキスなんて、忘れてよ。修平君の頭の中も心の中も、僕でいっぱいにして、もう僕のこと以外、考えないで」

僕が勇気を出して言うと、そのまま床に押し倒される。

「お前、自分から誘っておいて、真っ赤になってんじゃねーよ」

首筋に唇が這う。その唇が、僕の唇へと戻り、キスが深くなり、舌を吸われながら、ゆっくりと衣服を脱がされる。僕は、さっきの胸の痛みの感情も吹き飛んでしまうくらい、修平君の抱擁に、いつも以上に翻弄されてしまったのだった。


修平君が、また余韻を味わうことなく、衣服を纏う。僕はまだ全裸で、修平君がかけてくれた毛布に身を包んでいた。

「あの…。変なこと聞いてもいい?」

すでに着替えを済ませた修平君が、僕の方を見る。

「その…、何でいつも、すぐに服…」

言いかけた僕に、修平が近付いて来て、今度は床に散らばっていた服を僕に着せてくれる。

「何?ヤったあと、裸で抱き合ってたいのか?」

図星を突かれ、カッと顔が赤くなる。

意地悪な笑みを浮かべて、僕のことを下から覗き込む。

「僕と、その…したくないのに、無理してるとか、さっさと終わらせたいから、とか…」

つい、いろいろと悪いふうに考えてしまう気持ちを吐き出した。

「俺、ほとんど脂肪ないから」

「え?どういうこと…?」

「汗が引くと、すげぇ寒いんだよ。脂肪あるとそうでもないだろ?お前、プヨプヨしてるし」

着せてくれた服を捲って、僕のお腹の肉をつまむ。

「肩とかも冷やしたくなくて。筋肉強張ると、練習の時、動きにも影響でるし」

「そうだったんだ…」

良かった…。

「また先走って、体だけかも、とか変なこと考えてたんだろ?」

「うん…」

「バーカ。裸で余韻に浸るとか、ドラマの見すぎだろ。お前も、こんなちっせぇ細い体で、すぐに風邪とか引きそうだし。服着てからでも、余韻には浸れるだろ?」

そう言って、僕をベッドへと上げてくれたのだった。


「寒っ!」

修平君が僕をアパートまで送ってくれるのに、二人で外に出た瞬間、かなり冷え込んだ空気に包まれた。

「僕一人で帰れるから、修平君、無理に送ってくれなくても大丈夫だよ。体が冷えて、明日からの練習に差し支えると大変だし…」

「は?別に日常生活には影響とかねぇし。汗が引くと、って言っただろ?汗をかいたあとに気を付けてる、ってだけだ」

「今度、あの、首に巻く、肩まである、冷えないグッズ買っておくよ。冷たい空気が入ってこないように、寝る時とかに使うやつ」

「俺が、裸でそれだけ巻くのか?」

「え?」

想像して、つい笑ってしまった。修平君も、笑う。

「お前、どんだけ裸でイチャイチャしたいんだよ?ヤってる時、あんなに肌くっつけてんのに」

「違っ…。そういうワケじゃ…」

恥ずかしくなって、俯いてしまい、話せなくなる。

「何?前の男がそうだったとか?」

「前の男って…?」

「知らねぇよ。お前が誰と俺を比べてんのか」

「比べてなんかないよ。僕、付き合うのも、修平君が初めてだから。ただ、昔から憧れのシチュエーションだったから。あんなふうに…」

「ふぅん。じゃあ、こーゆーのも?」

修平君が僕の手を握りしめ、自分のダウンジャケットのポケットへと潜り込ませる。温かい手の感触。つい顔がニヤけてしまう。バレないように、必死で口元に力を入れる。アパートになんて、着かなくていいのに…。本気でそう思った。だけど、楽しい時間は本当に早くて、アパートに着いてから、

「明日から、長期間、遠征に行く。たぶん、1ヶ月くらいは帰って来れない」

修平君が、突然、言った。

「そんなに?」

僕は思わず本音を漏らしてしまった。

「そんな顔すんな。覚悟決めたんだろ?」

「決めたけど…」

こんなにも早くに試練が訪れるとは、思っていなかったのだ。

「毎日、LINE、してもいい?おはようと、おやすみだけでいいから、送りたい」

「ああ。俺、マメじゃないから、返信なくても怒らないならいい」

「修平君は、寂しくないの?」

「何が?」

「そんなに長く、ここを離れること」

それと、僕と会えなくなること…。

「小学校の時からずっとだから、もう慣れてる。遠征や練習試合、大会やらで、ほとんどこっちにはいなかったからな。今年一年は、日本代表辞退したから、ゆっくり出来てたけど」

「そっか…。また忙しくなるんだね」

「ああ。じゃあ、またな」

「うん。帰って来る時は、連絡して」

「分かった」

僕は、修平君と握り合っていた手をダウンジャケットの中から、抜いた。

「送ってくれてありがとう。気を付けて帰ってね」

僕はアパートの鍵を開けると、玄関の扉を開けた。明日から修平君にしばらく会えなくなると思うだけで、寂しくて、今度は涙が出ないように、唇を噛みしめる。

「じゃあ、おやすみ」

「ああ」

僕は、俯いたまま玄関の扉を閉じた。やっぱりダメだ。涙が零れる。これから、ずっとこんな思いをして、修平君を見送らないといけないのかと思うと、胸がえぐられそうなくらい、痛く、苦しかった。足音が遠ざかる。

「行かないで…」

ずっと一緒にいたいよ。ずっとそばにいたい。


特番のあと、修平君の人気に一気に火が付いた。本人は取材やインタビューをNG としていたけれど、周りが放っておかなかった。無表情で冷静で冷淡な彼を「氷結王子」と名付け、週刊誌やワイドショーなどでも、かなり白熱して取り上げていた。見ないようにはしていたけれど、情報はいろんなところから入ってきて、それが、余計に僕の不安を煽っていた。


もし、修平君が僕のところへ戻って来なかったら…?誰か、他に良い人が現れたら…?

不安で胸が押し潰されそうになる。

そこに、ガチャリ、と、玄関の扉が開いた。

僕はビックリして、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。

「泣いてんじゃねぇよ、バーカ。一人で我慢するな」

修平君が、力強く、僕を抱き締めてくれる。

「だって…」

僕は、その背中に、躊躇なく腕を回した。 

「葵が好きだ」

らしくない修平君の言葉に、ドクン、と心臓が跳ねた。

「うそ…」

修平君からの愛情表現に免疫のない僕は、感激のあまり、体中の力が抜けて、足元から崩れてしまいそうだった。

「葵、遠征から帰ってきたら、俺がここに一緒に住めるように準備しとけ」

「え…?」

「一緒に住んでやるって言ってんだよ。4月から、仕事もここから通うし、ここに帰って来る」

悲しい涙が、嬉しい涙へと変わる。

「うん…。ちゃんと準備しとく。歯ブラシも、茶碗も、布団も、全部。二人で生活できるように、準備しとく」

修平君の胸へと、顔を埋める。

「だから、泣かずに待ってろ」

「うん。大好き、修平君」

「いつもなら、何も感じずに、平気でどこへでも行けたのに。お前のせいで、らしくもなく感情が乱れる。いつも心配ばかりかけて、放っておけないせいで…離れたくなくなる」

「ごめんね…」

「1ヶ月の間に、ちゃんと準備しとけよ」

「うん。任せて」

僕たちは、今までにないくらい、激しく何度も何度も、唇を重ね合わせた。


その週の水曜の練習日のことだった。道場へ行くと、美園ちゃんがすでに空手着姿でストレッチをしていた。

「お疲れ様。今日は早いんだね」

僕が声を掛けると、黙ったまま、じっと僕の目を見る。何か様子が変だ。

「どうしたの?」

「ごめん、葵さん。私、見ちゃったんだ…」

「何を?」

「月曜日、純平さんが仕事終わるだろうなーと思って、純平さんの家に行こうとしてた時に、こうやって…」

美園ちゃんが、手を下に向け、それをグッと握り、自分の腰の方へと寄せた。それが、ダウンジャケットのポケットに手を入れてくれた時のジェスチャーだと、すぐに分かった。

「修平と葵さんが、イチャイチャしてるところ、見ちゃった」

美園ちゃんが、両手で自分の頬を挟み、嬉しそうにニコッと笑う。僕は、真っ赤になるのが自分で分かり、何か話そうとしても、口がモゴモゴするだけで言葉が出てこなかった。

「葵さんぐらいだよ、あんな気難しい修平のこと、取り扱えるの。修平のあんな嬉しそうな顔、初めて見たもん。試合で優勝しても、喜んでんのかどうか分かんないくらい、いつも無表情だからさ」

「へぇー。俺も見たかったな。その、デレデレした修平の顔。葵さん、氷結王子の仮面を溶かす、唯一の融雪の女神って感じ?いや、二人がうまくいって、マジで良かった。これで安心して、来週から県外の大学に行けるな」

後ろから声がして、ビックリして振り向くと、そこには聡史君が口元に笑みを浮かべながら立っていた。

「いや、その…」

僕が、しどろもどろになってると、

「なるほどな。修平、今回の遠征から戻ってきたら、家を出るって言ってたのは、松原さんと一緒に住むためか。俺でも手に負えない時があるのに、よくあのどう猛犬を飼い慣らしたな」

いつの間にか、美園ちゃんの横に、純平さんが腕を組んで立っていた。

ああ…。うまく誤魔化すことも出来ずに、僕は、ただただ真っ赤になりながら、三人が僕たちのことで盛り上がっている話を聞いて、恥ずかしすぎて、俯いていることしかできなかった。


その日の夜、修平君に、月曜日に手を繋いでいたところを美園ちゃんに見られてたこと、聡史君と純平さんにも二人の関係がバレてしまったことをLINEで報告した。

『分かった。そっち戻ったら詳しく聞く。てか、マジで、しくった。余計なこと、しゃべるなよ』

と、返信が来た。

『いろいろ聞かれると、誤魔化せなくて…』

『とにかく、何を聞かれても、黙ってろ』

『分かった。練習、お疲れ様。おやすみ』

と、僕は、笑顔になりながら、LINEを終えた。

ただ、隠さなければいけない関係なんだ、ということを目の当たりにして、少し悲しくもなってしまったけど、修平君は、二人の関係を隠したかったワケじゃなく、らしくもなく、自分がガチな恋愛をしていることが恥ずかしすぎることと、そして、イジられることがイヤで、バレたくなかっただけだった、ということをあとになって教えてくれた。


その後、修平君は無事に市役所へと就職し、日中は市役所の業務をこなし、仕事が終わってから、夜遅くまで空手の練習をする日々を過ごしていた。夜の帰宅は、いつも9時30分を過ぎていた。もちろん、遠征や大会に出場することも増え、月のほとんどは、こっちにはいなかった。それでも、修平君の帰って来る家はここなんだ、と思うだけで、僕は安心して毎日を過ごすことができていた。


「修平」

昼休み、机にぶっ潰して寝ていた修平に、小嶋が声を掛けてきた。

「あ?」

思いっきり機嫌悪そうに、顔を上げる。

「ちょっと話が…」

修平が面倒くさそうに立ち上がり、二人は市役所の屋上へと向かった。

「何だよ」

修平が、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、柵を背に、もたれかかり、不機嫌そうに聞く。

「俺さ、付き合うことになった」

「は?誰と?」

「伸哉さんと…」

小嶋が、嬉しそうに、はにかむ。

「へぇ。良かったじゃん」

「あの日、お前、あのあと伸哉さんに電話してくれたんだろ?それから、毎日、練習帰りに、少しの時間、ケアしてもらいに寄るようになってさ」

「俺は別に。お前、間接固いし、ケガも多いから。あの日も、足を少し引きずってたからな。伸哉さんなら兄貴の友達だし、時間外でも連絡すれば診てくれるから」

「何か、俺の試合、いつも観に来てたみたいで」

小嶋が嬉しそうに目を細めた。


 高校に入って、修平が整骨院に行くたびに、伸哉は必ず小嶋のことを聞いてきていた。一度、純平に、試合中にケガをした門下生のケアに急きょ呼び出された時に、会場で試合をしていた小嶋から目が離せなくなった、と話していたのだ。いくら人に興味のない修平でも、伸哉が小嶋に好意を抱いていていることには、イヤでも気付いてしまうくらいだった。

「伸哉さんてさ、18歳で初めて柔道でオリンピックに出て、そこから二回金メダル獲ってるだろ?ケガが原因で引退したけど」

「ああ。だから、整骨院始めたって。自分みたいに、ケガをしてるのに、無理に試合に出て選手生命をダメにする奴を少しでも減らしたいって言ってた」

「俺も、痛みがあっても、無理に練習とか試合に出るしなー。伸哉さんにいつも注意されるけど」

「ノロケか?で、話って、それだけ?」

修平があくびをする。

「そ、それが、明日、俺たち久しぶりにオフだろ?それで、今日の夜、練習が終わってから、初めて泊まる約束してて…」

小嶋が、ゴニョゴニョと、聞こえるか聞こえないかの小さな声で喋る。

修平が、もじもじする小嶋に、

「何だ。そんなことか」

と、軽くあしらった。

「そんなことって…。俺には、そんな簡単に流せる話じゃないだろ?こんなことになるなら、俺のファーストキス、修平にやるんじゃなかった」

と、柵に肘を付いて、両手で頭を抱えた。

「俺も別に欲しくなかったけどな」

と、呆れたように呟く。

「ってか、お前、あれが初めてだったのか?彼女とか、何人かいただろ?」

そっちの方に修平が食いついた。

「黙れ。変なとこ突っ込むな。俺は意外と純粋なんだ。初めてのキスだけは、好きな奴としたかったんだよ。そこはもう、逆に聞き流せ」

小嶋が恥ずかしそうに俯いた。修平が拳を手に当てて、肩を揺らして笑う。

「何か、悪かったな。初めてが俺って」

「笑うなよ。俺も今はマジでそう思ってっから」

小嶋も、そう言いながら、つられて笑う。

修平は、こみ上げる笑いを抑え、それ以上は何も言わなかった。小嶋との、この柔らかい空気感が、とても心地よく感じたのだ。昔、中学の時に、お互いに切磋琢磨しながら、先のことなんて何も考えずに一緒に練習に励んでいた時に戻ったような感覚だった。 

そして、小嶋が口を開く。

「絶対に、今日だよな?」

「何が?」

「だから、その…」

また顔を赤くしながら、声を小さくする小嶋に対して、思わず修平が吹き出す。

「お前って、本当にアホだな」

「俺は本気で悩んで、仕事も手につかないんだぞ」

顔を上げた小嶋は、首のあたりまで真っ赤だった。

「お前が幸せそうで良かったよ。せいぜい頑張れよ」

修平が小嶋の肩を軽く叩くと、屋上を降りて行く階段へと向かって歩き出した。ドアノブに手をかけ扉を開き、振り向くと、

「まぁ、俺が伸哉さんなら、間違いなく、今日ヤるけどな」

小嶋へと、そう言い残して、扉を閉じた。

うろたえる小嶋の姿が想像できて、修平は、また吹き出して、そして階段を降りて行ったのだった。


「ただいま」

大きなリュックを担いで、修平君が帰ってきた。

「お帰り。お疲れ様」

僕は玄関へと向かい、その荷物を受け取る。

「明日、久しぶりにオフだから」

「うん」

「今晩、するだろ?」

「帰って来るなり、それ?」

僕は耳まで真っ赤になる。からかわれてるだけだ、って分かっているのに、いつも素直に反応してしまう。修平君は、その反応を見て楽しんでいるようだった。

「先にお風呂にする?」

「いや、ご飯食べてからにする」

「じゃあ、準備するね」

僕がテーブルに食事を並べたあとに、リュックから、修平君が練習で使った空手着や洗濯物を出していると、

「小嶋、彼氏できたって」

と、不意に修平君が言った。

「え?そうなの?」

僕はビックリしたと同時に、とても嬉しくなった。

「柳原整骨院の先生。兄貴の同級生の」

「あ、小嶋君のことよく聞いてくるって言ってた?確かオリンピックに出てた人だよね?あのイケメンの」

「そう。あの二人、絶対にくっつくと思ってた」

どこか嬉しそうに見えるのは、きっと気のせいじゃない。修平君なりに、小嶋君のことを心配していたのだろうと思った。

「でも、良かった。小嶋君に良い人が見つかって」

どっちの意味でも、僕としては、内心ホッとした。そして、小嶋君には本当に幸せになって欲しいと、ずっと心から願っていた。

「今日、初めてのお泊まりらしいぜ」

「えっ!」

「その話聞いて、めっちゃウケた」

修平君が楽しそうに笑う。あまり見せることのないその笑顔が、たまらなく可愛くて、愛しくて、つい見惚れてしまう。

「小嶋君、ああ見えて、すごく純粋そうだから、ずっとソワソワしてそう」

「俺が伸哉さんなら、絶対に今日ヤるけどな、って言っといた」

そう言って、また笑う。ああ、ダメだ。何度見ても、胸がキュッとなる。

「小嶋君、話す人、間違えたと思ってるよね、絶対に。かわいそう」

きっと、真っ赤になってうろたえてたに違いない、と思った。そして、修平君の笑顔にときめきすぎている僕の頬が熱い。

「じゃあ、俺と葵がどんなことしてるか、教えてやれば良かったか?」

いたずらっぽい笑みを見せる。また赤くなる僕を見て、修平君が優しい表情で僕を見た。僕は恥ずかしくなり、思わず目を背け、洗濯物を持って、脱衣所へと向かおうとした。修平君は、そんな僕の腕を引くと、椅子から立ち上がり、僕をそっと抱き締めてくれる。トクン、と心臓が跳ねた。

「あさってから、また遠征と試合で、しばらく会えなくなるな」

耳元で囁かれ、僕の全身が、カッと熱を持つ。

「うん。世界選手権の代表選考会を兼ねた日本選手権の大会が近いって、純平さんから聞いてる」

「そうだな。もし優勝できたら、兄貴の夢だった五輪出場にも手が届く可能性が出てくる」

純平さんの夢は、いつしか修平君の夢になっていた。

「応援してる」

僕は修平君の背中に、そっと手を回した。


修平君は試合中も、試合に勝っても、ほとんど表情を変えない。そんな「氷結王子」は、未だに取材などを全て断っているせいで、謎多き選手としてメディアや週刊誌が、より執着するようになった。そんな中、修平君のめったに見られない笑顔を激写して掲載したり、放映すると、週刊誌の売上も、ワイドショーの視聴率も爆上がりすると、何かの番組でやっていた。そのせいで、僕は、SNSはもちろん、テレビもあまり見ないようにしていた。修平君の人気を目の当たりにすると、きっと嫉妬したり、不安になってしまって、自分の感情が揺れ動いてしまうから…。


以前、取材を受けない理由を聞いたことがあった。

「あ?だって面倒くせぇだろ?言葉選んで話すとか、まず無理だし」

「確かに。その口の悪さじゃ、反感を買うか、炎上するか…だもんね」

「お前…」

「ごめん、つい」

睨み付けられて、俯いた。

「修平君、試合って、緊張しないの?かなり大きな大会は、テレビとかでも放送されてるよね」

「しない」

「どうして?僕、ただの昇給審査でも緊張するのに」

「別に、試合に負けようが勝とうが、自分の問題だろ?空手は好きだからやってるだけで、試合もその延長みたいなもんだと思ってるから」

「プレッシャーとか、ないってこと?」

「全然ない。自分が楽しけりゃいい。勝つと、やっぱりモチベーションも上がるし、めちゃくちゃ爽快感あるし、快感も半端ないけど。でも、マジで、それだけ。世間の期待とか、俺には全く関係ねぇから」

「やっぱり取材は受けなくて正解かも…」

僕は、思わず呟いたのだった。


「修平君、タクシー来たよ」

「ああ」

大きなスーツケースを持って、玄関へと向かう。

「試合、頑張ってね」

靴を履いて、立ち上がり、僕を見る。

「帰れる日が分かったら、連絡する」

「うん…」

「そんな顔すんな」

僕の頬を片手で包んでくれる。僕はその手を強く握りしめた。修平君が、僕の額に唇を押し当てた。

「じゃあな」

「うん」

ダメだ。手が離せない。

「唇にも、して、って顔してるぞ」

「えっ!し、してないよ!」

「帰ってきてからしてやるよ。そのほうが、待つ楽しみが増えるだろ」

「意地悪…」

修平君の手が、頬から離れ、玄関のドアが開く。

「行ってくる」

「うん。気を付けてね」

バタン、と扉が閉じた。やっぱり、まだまだ慣れそうにない。修平君を悲しまずに見送るなんてこと…。僕は一人取り残された部屋で、しばらく俯いたまま、溢れる涙を止めることなく立ち尽くしていた。


それから、6年の月日が流れた。

「おい、修平!お前、二回金メダル獲ったからって、調子にのってんじゃねーぞ。俺が大人になったら、修平なんか、一発でやっつけてるんだからな!」

オリンピックを終えて帰国してきた修平君が、土曜の練習日、突然道場へと顔を出しに来た時のことだった。

 お迎えに来ていた保護者たちが周り中の窓から道場内を覗き込んでいて、修平君の姿に悲鳴とも取れる歓声が沸き上がる。スマホで写真を撮っている人もたくさんいた。市役所も、とにかくすごい人でごった返すらしく、修平君は、しばらく練習を休むように言われたらしい。

「は?この生意気なクソガキめ。口の聞き方を知らねーのか?」

三歳児の両頬を片手で掴み、グリグリと横へと振る。

「ちょっと!何してんの!」

美園ちゃんが、後ろから怒る。

「親のしつけがなってねーぞ」

「は?昔のあんたより、全然マシだけどね」

「ママ!」

三歳児の、美園ちゃんと純平さんの子である耀平君が、美園ちゃんに抱き付く。美園ちゃんは、純平さんの家で同居していて、耀平君を純平さんのお母さんが働く保育園に預けながら、個人病院で看護師の仕事をしていた。

「あんたの血が混ざってんだから、仕方ないでしょ。純平さんだけの血だったら良かったのに」

「性格の悪さは、お前に似たんだろーが」

美園ちゃんの拳が、世界一の男の背中に飛んだ。

「いって…、てめ…」

懐かしいこの感じに、思わず笑顔が零れてしまった。

「ママ、持って来てくれた?」

「うん。持ってきたよ」

美園ちゃんが、耀平君に何かを手渡す。

「葵に、これ、やる。保育園で作った」

「え?」

僕はしゃがんで、耀平君に目線を合わせた。

僕に差し出してくれたのは、折り紙で作った指輪だった。

「俺が大きくなったら、葵と結婚する。だから、これ大事にしとけよ」

「本当に?ありがとう。嬉しい。大事にするね」

何てかわいいんだろう。自然に頬が緩んで笑顔になってしまう。

「あと、これ。いつものお花。100個になったら、約束通りほっぺにチューしろよな」

そう言いながら、耀平君は、いつも、練習日に僕へと必ず折り紙の花をくれる。

「この、マセガキが」

修平君が、先ほどより強く頬を掴み、耀平君の唇が、より尖る。

「って言うか、人数多すぎねぇ?」

修平君が立ち上がり、帰って行く門下生達を見る。

「修平のせいで、空手ブームだからな。俺も仕事終わりは必ずここに来て指導に駆り出されるし、美園も二人目妊娠中なのに、まだ指導に出てるしな」

大学を卒業して理学療法士の資格を取得した聡史君は、こっちに戻り、規模を大きくした伸哉さんの整骨院で働いていた。

「何よりも、葵さんが黒帯を取って、小学生の指導してるっていうのがすごいよな」

聡史君が、修平君の肩に手を置き、顔を近付けて笑う。

「修平、いつまでいる?」

耀平君が、修平君の側に来て、下から見上げる。

「あ?何だ?寂しいのか?」

「ううん。ママが、修平がいる間は、葵の家に行ったらダメって言う」

「は?お前、葵の家に来てんのか?」

「うん。土曜は次の日お休みだから、お泊まりしに来ていいって葵が言うし。お風呂も寝るのも一緒で、楽しいから、修平、早くまた遠くに行けよ」

「この、クソガキ。俺ですら、まだ一緒に風呂なんて…」

言いかけた修平君の言葉を遮って、

「あのっ!僕、着替えたら先に帰るね。修平君、実家でゆっくりしてきていいから。じゃあ、またね」

「葵、周りにいる保護者たちがはけたら、すぐに帰るから」

そう言った修平君の声を背に、僕は更衣室へと向かった。


「葵さん、健気だよなー。ほんと、我慢強いって言うか。見てて、かわいそうになる時があるよ」

聡史が葵の背中を見て言った。

「私も、しんどそうだな、って思う時がある…」

美園が同調する。

「葵が?何で?」

「お前、マジで何も分かってないんだな。自分の人気の凄さを。無駄にイケメンすぎるし、取材もインタビューも拒否してて、上から目線の俺様な性格を知られてないせいか、テレビで修平に会いたいって言ってる、女子アナとか女優とか、女芸人も、めちゃくちゃ多いんだぞ?」

「そうそう。修平の追っかけとかもめっちゃ増えてるし、隠し撮りのインスタ上げてたり、YouTubeに上がってるいろんな動画の再生回数もかなりだもんね。しかも、タチの悪い女子アナいて。オリンピックの会場で、修平の近くに行って、ツーショットの写真何枚も撮って『すごい近くて感激~』とかインスタ上げてて。心配にもなるよ」

「ふぅん」

修平は、全く興味がないという感じで、気のない返事をしただけだった。


「ただいま」

玄関を開き、中へと入る。リビングに、布団が敷いてあった。

「お帰り。お風呂上がったら、お湯抜いて、換気扇回しておいてもらえる?」

「ああ」

「僕、今日こっちで寝るから。修平君、疲れてるだろうし、ベッドで一人でゆっくり寝て」

僕は、そそくさと布団に入った。

「葵…?」

「ごめん、ちょっと疲れてて。先に寝るね。リビングの電気、少しだけ暗くさせてもらうね」

「ああ」

ダメだ。修平君の顔が見られない。見ると、きっとまた感情が表に出てしまう。こんな時、一緒に住んでいることの不便さを感じてしまう。

修平君が、脱衣所へと入り、扉が閉じる。僕は少しホッとして体の力が抜けた。

「今のうちに、眠らなきゃ…」

僕は顔が見えないようにするために、布団へと潜り込んだ。そして翌朝、朝ごはんを準備し、まだ寝室で眠る修平君に「今日、用事で出かけるから、お昼、自分で食べてね。夕飯の時間までには帰って来るから」と声を掛けて、僕は出かけたのだった。


その日の、お昼過ぎのことだった。修平のスマホに着信音が鳴り響く。小嶋からだった。修平は、まだベッドに横になったままだった。

「…何だよ…」

『何だ?寝てたのか?』

「何か用か?」

『今日、葵ちゃんは?』

「は?何だよ急に。知らねーよ」

『一緒じゃないのか?』

「朝早くに、出かけた」

『そっか。いや、今、伸哉さんといるんだけど、さっき葵ちゃんに似た人が知らない男と二人でいるところ見かけて。ジュエリー店で、二人して楽しそうに指輪見たりしてたから。一応、報告しておこうと思って』

「何の報告だよ」

『別に、気にならないならいい。じゃあな』

そして、電話が切れた。


「ただいま。ごめん、遅くなっちゃった。すぐに夕飯の準備するね」

アパートに帰ると、修平君がソファに座り、テレビをつけたまま、スマホをいじっていた。いつもは、僕が帰りを待つ立場だったせいか、その新鮮な姿に、嬉しさと感動で、ニヤけてしまった。

「あれ?朝ごはん食べてないの?」

朝に準備して行った朝食が、食卓に置きっぱなしになっていた。スマホに夢中で聞こえていないのか、修平君は返事をしなかった。

買い物した荷物をリビングの端の方に置き、食材だけを持ってキッチンへと向かう。

「明日、11時だったよね。修平君の家に集まるの。一応、耀平君の誕生日プレゼントと、修平君の家に持って行く用に、菓子箱だけ買ってきたよ」

手を洗いながら声を掛けたけど、返事がない。

僕が振り向くと、急に修平君が真後ろに立っていた。

「ビックリした。何?」

「単刀直入に聞くけど、今日、誰とどこで何してた?」

「え?何って。今も言ったけど…」

「新しい男でもできたのか?」

「新しい男…?」

「さっき、小嶋から、知らない男と葵に似た奴が一緒に買い物してるって連絡あった」

「あ…」

「指輪でもねだってたのか?お前、昨日の夜も、様子おかしかったもんな」

「ち、違うよ。会社の同僚が、奥さんに指輪買うから、買い物に付き合ってほしいって言われて…」

修平君から目を逸らし、しどろもどろになりながら答えると、

「奥さんに指輪買うなら、夫婦なんだから、本人を連れてきゃいいだろ?まぁ、今のお前の態度で、嘘ついてんのバレバレだけどな」

修平君が背を向けて、

「別れたいなら、そう言え。二股とか、最悪なやり方してんじゃねぇ」

そう言うと、玄関に向かって歩き出した。

「どこ行くの?」

「不動産屋。部屋探す」

「ちょっと待ってよ!ちゃんと聞いて」

僕は慌てて修平君の腕を掴み、そしてそのままリビングの端にまとめて置いてあった荷物の中の一つを取り出した。

「会社の同僚に頼んで、これ、一緒に選んでもらってた。高倉って言うんだけど、結婚もしてて、子供も二人いる。だから、耀平君のプレゼントの相談にも乗ってもらってて…。とにかく、座ってよ。お願いだから」

僕は修平君の腕を掴む手に力を入れた。

修平君が、キッチンの椅子に腰かける。僕も椅子に腰かけると、手に持っていた紙袋から、ラッピングしてある箱を修平君に差し出した。

「オリンピック、二度目の金メダルおめでとう。それと、付き合って七年になるのに、一度もプレゼントとか渡したことなかったから。本当は夜に渡そうと思ってたんだけど…」

修平君が、プレゼントの箱に視線を落としたまま、動かない。

「僕が開けてもいい?」

言いながら、箱を開け、そして、宝石店で購入した時計を取り出し、修平君の手首へと嵌めた。

「やっぱり似合うね。すごく悩んだけど、これにして良かった。移動が激しいから、時計が欲しいって、ずっと言ってたから」

僕は、すごく時計の似合う修平君の綺麗な手をしばらくずっと見ていた。

修平君が、ガタン、と椅子から立ち上がる。顔が近付いたかと思うと、いきなり唇が重なった。激しいキスへと変わる。

「ちょ…待って…」

僕の言葉も、修平君からのキスで消えて行く。そこに『ピンポーン』と、インターホンが鳴った。二人して、ハッと我に返る。

「あ、はーい!」

僕は慌てて玄関へと向かった。扉を開けると、美園ちゃんと耀平君が立っていた。

「ごめん、葵さん。耀平がどうしても渡したいって聞かなくて」

「これ、明日の誕生会の招待状。絶対に来いよ」

「ありがとう。明日、楽しみにしてるね」

僕は、耀平君が持って来てくれた封筒を受け取る。

「今日、お泊まりしたらダメ?」

耀平君が聞いてくると同時に、修平君が玄関へとやって来た。

「葵、鍋、火にかけてたんじゃないのか?」

「え?そうだっけ?ごめん、耀平君。ちょっと待っててね」

僕は慌ててキッチンへと戻った。

「耀平、今日はダメだ」

「何で?」

「美園、察しろ」

「はい、はい。あのね、耀平。ずっと葵さんに会えなくて寂しかったから、今日は、修平が葵さんと一緒にお寝んねしたいんだって。だから、耀平は、今日は我慢して、ママとパパと一緒にお寝んねしよう」

「え?修平、大人なのに一人でお寝んねできねーの?」

「おい!言い方」

「仕方ないでしょ。子供に分かるように説明すると、こうなるから。イチャつきすぎて、明日寝坊しないでよね」

「てめ…」

言いかけた途中で、バタン、と扉が閉じた。

「鍋、大丈夫だったよ。あれ?帰ったの?」

「ああ」

「そっか。耀平君、わざわざ招待状持ってきてくれるなんて、本当にかわいいよね。癒されるなー」

夕飯の準備をしようと、キッチンに立つ背後から、突然、修平君に抱き締められる。初めての出来事に戸惑って、心臓が跳ねた。

「ど、どうしたの?」

「夕飯の準備とかいいから」

腕を引かれて、脱衣所へと連れて行かれる。修平君がお風呂にお湯を溜め始めた。

「脱げよ」

「え?」

「いいから脱げ」

僕の服に手を掛け、服を容赦なく脱がす。

「ちょっと…恥ずかし」

その手を止めようとするけど、修平君は僕が口答えできないように、唇をキスで塞いだ。

修平君に促されるまま、僕たちは一緒にお風呂に入ることになり、そしてそのあとベッドへと移動し、今までにないくらい、激しくお互いを求め合った。


息を切らしながら、修平君がベッドの上で仰向けになる。僕も、うまく息が整わないまま、修平君へと寄り添った。

「どうしたの?急に…。いつもとは全然違う行動ばっかりで、戸惑うんだけど…」

「お前こそ、何で昨日は一人で先に寝たんだよ」

「あれは、修平君のプレゼントを買うのが楽しみすぎて、ニヤついてるのバレたくなかったから…」

「あの日、聡史と美園に、散々、お前がしんどそうだって聞かされて。そこであの態度はないだろ」

「しんどそう、って?」

「知らねーよ。インスタがどうとか、女子アナがどうとか…」

修平君が起き上がる。

「僕、SNSは見ないようにしてるから。見ちゃうと、不安で押し潰されそうになるし、嫉妬でケンカになるから…。たまに職場の女の人たちが修平君の話題で盛り上がったりしてるけど、修平君、いつもちゃんと僕のところに帰ってきてくれるって信じてるし。だから、しんどくても頑張れてるよ」

修平君がベッドから降りて、まだ片付けきっていない荷物の中から、ラッピングされた箱を取り出した。

「あっちで買ってきた」

ぶっきらぼうに、僕へと手渡す。その箱を丁寧に開けると、高級ブランド品の、バングルのブレスレットだった。

「うそ…。すごくカワイイ。これ、僕に?」

「ああ」

「ありがとう。大事にする。毎日付けるね。しかもお互いにプレゼント準備してるって…タイミング合いすぎ…」

ヤバい。感動しすぎて、泣けてきてしまう。

「泣くな」

「ごめん。嬉しすぎて…」

もう一度唇が重なって、そのまま押し倒される。

唇が離れ、修平君が言った。

「お前、耀平と風呂入ってんじゃねーよ。しかも一緒に寝てるとか、ふざけんな。あいつ、あのあとも、体も洗ってくれる、とかめっちゃ勝ち誇ったように話してた」

「まだ三歳だよ?」

「いや、あなどれねぇだろ。あの歳で、ほっぺにチューしろとか、結婚するとか言ってんだぞ?」

真面目な顔で話す修平君を見て、思わず笑ってしまった。

「耀平君、小さな修平君みたいでかわいいから、つい。口の悪いところとか、上から目線のところとか…」

「ディスってんのか?」

「ううん。修平君といるみたいで、楽しいってこと」

「何か…すげぇ微妙だな」

僕たちは微笑み合うと、ゆっくりと唇を重ねた。


「葵、昨日は修平と一緒にお寝んねできたのか?」

みんなで食卓を囲んでいると、突然、耀平君が言った。

「お寝んね?」

僕は耀平君に聞き返した。

「昨日、葵の家に泊まりたいって言ったら、修平がダメって言った。修平が葵とお寝んねしたいから、我慢しろってママにも言われた」

僕は思わずむせてしまった。修平君のお父さんとお母さんもいるのに!純平さんが、口の前に拳を当てて、肩を揺らして笑う。

「美園ちゃん、その言い方は…ちょっと語弊が」

「正直に話しただけだから」

「耀平、昨日は、お寝んねだけじゃないぜ?一緒に風呂も…」

話し出そうとする修平君の言葉を遮って、

「あっ!そうだ!耀平君、プレゼント、気に入ってくれた?」

すかさず興味を逸らす。

「うん!めちゃくちゃ欲しかったやつ!葵、ありがとな」

「良かった」

「葵、あとで一緒に遊ぼう」

「俺が遊んでやる」

修平君がすかさず横から口を挟む。

「修平の方が、よっぽどガキじゃん」

美園ちゃんが呟く。

最後にみんなでケーキを食べたあとに、修平君のお母さんが「美園ちゃん、少し休んできたら?朝からいろいろ準備もしてくれたし、妊婦さんは疲れやすいから」と、声を掛けた。

「でも、片付けが…」

「大丈夫。やっておくから。純平、足元心配だから、部屋まで連れて行ってあげて。あと、ソファーで酔い潰れてるお父さんに、あとで毛布でも掛けておいてもらえる?」

「分かった」

そして、臨月に入っている美園ちゃんを連れて、純平さんもダイニングをあとにした。

「僕、手伝います」

僕はテーブルに並んでいるお皿を下げ、洗い物をするのにキッチンに立った。

「そんな。いいのに」

「修平君のお母さんも、疲れてると思うんで、休んでて下さい」

「ありがとう」

そう言って、僕の横に立つ。

「葵さん、修平のお世話、大変でしょ?」

「え?いえ。そんなことないです」

「あの子、昔から人に興味なくて、自分勝手で冷めた子だったから。空手だけは一生懸命やってたけど、純平が空手を辞めることになった時、結構荒れ方がひどくて。キャプテンだったし部活動に迷惑をかけないようにはしてたけど、部活がない時は家に帰って来なかったり、無免で友達のバイク運転してケガして帰ってきたり…。部活を引退したら、この子、どうなるんだろう、ってものすごく心配で。とにかく人の言うこと聞く子じゃないし、いつか、人に迷惑かけるんじゃないか、って。その頃は『俺なんか、別にどうなったっていい』が口癖みたいになってて。本当に危なっかしくて、見てるのが辛かったの」

修平君のお母さんの表情が、同時を思い出したのか、悲し気に歪んだ。

「でも、葵さんに出会ってから、また空手にも真剣に取り組むようになって、人に対しても、以前と比べものにならないくらい優しくなったような気がするって、純平が。私もね、最近は自分のことも大事にしてくれるようになったな、と思ってて。たぶん、葵さんのために、っていう気持ちが、そうさせてるんだと思うんだけど」

「そんなこと…。修平君は昔から優しかったです。実は僕、電車の中でずっと迷惑行為を受けてて、助けてくれたのが修平君で。それが出会いだったんです。小嶋君も、中学生の頃、クラスのみんなから、からかわれていた時に、修平君がその子たちを注意して助けてくれたって言ってました。修平君、口は悪いけど、本当は小さい頃から優しい子だったと思います」

「ありがとう。私は、カワイイ二人の素敵なお嫁さんに恵まれて、すごく幸せね」

「え…?」

「早く日本でも同性婚が認められるといいのに」

修平君のお母さんが、僕を見て、優しく微笑む。

「はい。ありがとうございます」

今が幸せすぎて、修平君との結婚なんて考えたことがなかった僕は、照れながら俯いて、つい笑顔になってしまった。


アパートまでの帰り道の時のことだった。

「やっぱ、一回、お前の親に挨拶に行かなきゃだよな。ガラじゃねぇけど」

突然、修平君が言った。

「え?何で?」

「葵、もう29歳だろ?親に結婚しろとか言われてんじゃねーの?」

「あ…、うん。確かに最近よく言われる、かな。でも、妹が結婚して実家に旦那さんと住んでるし、子供も二人いるから、そこまでうるさくは言われないよ」

「それでも、ずっと葵とこの先も一緒に生活して行くつもりでいること、ちゃんと伝えといたほうがいいだろ?」

修平君が、僕との将来のことを真剣に考えてくれていることに驚きすぎて、僕は修平君のことを凝視したまま、その場から動けなくなった。

「何だよ」

「今の、夢かな…、と思って」

「は?」

「ありがとう。幸せすぎて、胸が痛い」

「すぐ泣く。早く帰ろうぜ。ここじゃ、抱き締めてやることもできねぇし」

道を歩いているだけでも、すれ違う人たちが振り返りながら、小さな歓声を上げる。

「いつがいいか、聞いとけよ」

「うん。分かった。聞いとく。でも、妹も旦那さんも、修平君の大ファンで、子供にも空手やらせてるし、妹家族がいない日の方がいいかな。ほら、市役所で作った修平君の市のアピールポスター、わざわざ市役所まで行って、写真に撮ってプリントアウトしたの、家に何枚も貼ってあったから」

「あのポスター、マジでだるい。でも市長から言われると断れねぇから」

「市の広報だけの取材は受けてるもんね」

「仕事だし、兄貴にも怒られるしな。マジでイヤだけど」

「その写真とか市の広報に載せてる写真、報道関係の人たちが、高額で買い取りたいって、すごく殺到する、って純平さんが言ってたよ。市はそんなことできない、って断ってるみたいだけど」

「まあ、そのうち飽きるだろ?明日から仕事も練習も来ていいって言われたし」

「でも、電車通勤はダメなんでしょ?駅でいろんな人たちに取り囲まれるから」

「遅刻しすぎて、注意されたからな。車通勤の方がラクでいいけど」

「うちの親、ビックリしすぎて、悲鳴上げるかも」

「言ってないのか?俺と住んでること」

「一緒に住んでる人がいる、とは言ってあるけど、それが修平君とは言ってない」

「別に相手が俺でも驚かないだろ」

修平君は、本当に分かっていない。自分の人気ぶりを…。「氷結王子」が、どれだけ世間を騒がせているかなんて、全く興味がない。

まあ、そういうところも好きなんだけど…。

「修平君、ありがとう」

「何が?」

「僕のこと、大事にしてくれて。最近、修平君の方が僕に夢中だよね。耀平君や、同僚の高倉にヤキモチ妬いたり。プレゼントも急にくれたり」

「は?ふざけんなよ」

「ありがとう。修平君に出会えて、本当に良かった。僕、こんなに幸せでいいのかな、っていつも思ってる」

僕が立ち止まって、修平君の目を見て言うと、修平君も立ち止まった。

「葵がいなかったら、俺、本当にどうなってたか分かんねぇし、小嶋のアホがキッカケだったけど、また空手に戻してくれた葵には感謝してる」

そして、僕の手を握る。修平君の左手の時計と、僕の右手のブレスレットが、密着して横に並ぶ。何だか胸がくすぐったくなって、ニヤけてしまうのを我慢しながら、

「ダメだよ。道を歩いてる人たちに、写真、撮られるかも」

と、小さな声で呟いた。

「別に、俺は全然いいけど」

修平君は、気にすることなく、僕と手を繋いだまま、アパートまでの帰り道を歩いて行ったのだ。


僕は実家の駐車場に車を止めると、先に車から降りていた修平君の横に立った。

「緊張してきたかも」

「嘘でしょ?オリンピックでも緊張しないのに?」

「あれは、ただの試合だから」

「いや、ただの試合じゃないよ。全国民の期待、背負ってるから!」

「生まれて初めてかも」

「何が?」

「この、緊張みたいな感じ」

「オリンピックより、僕の両親に緊張って、ウケるんだけど」

いつもなら、ここで「は?ふざけんな」とか反発するのに、僕は、強張った修平君の顔を初めて見て、思わず笑ってしまった。

「表情が全く変わらない氷結王子の、そんな顔を見られるの、恋人の僕だけの特権だね」

ベッドの中で僕を抱いてる時の顔や、整った寝顔や、寝起きの子供みたいな顔も…。

「頼むから、今は、からかうな」

一点だけを見つめ、そう言った修平君が、本当に可愛くて、愛おしいと、心から思う。

「いい?開けるよ」

「ああ…」

修平君が、ふーっ、と息を吐いた。

「ただいま!」

そう言いながら、開いた玄関の扉が、まるで二人の先の未来へと続く扉のように、僕にはすごく眩しく感じたのだった。(完)

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