8、図書館デート
図書館に着いた。
千春はマスクをした。
「なんでマスクを……」
と尋ねたら、
「だって、万が一職場にバレたら大変じゃないですか。一応、隣の区の図書館ですし」
「この図書館に知り合いがいるの?」
「知り合いというか、何回か一緒に仕事で会ったことがある人がいるってだけです。マスクしてたらバレないと思います」
「こう暑いのにマスク付けてるの、目立ちそう……」
「なんか綾菜さん、図書館に着いたとたん、元気にしゃべるようになりましたね。いいぞいいぞ~」
千春は背伸びして、綾菜の頭をよしよしとなでる。
マスクの中の顔はすでに汗をだいぶかいている。
「建物、ずいぶん綺麗だね」
「二年前に新築して移転したみたいです。その時に、カフェもオープンしたようで」
入り口は、カフェと図書館に一つずつある。
カフェ側の入り口は国道に面していて、ガラス張りで店内の様子が外からでも見え、多数の車や歩行者が行き交っていてにぎやかだ。
一方、図書館側の入り口は国道から一つ路地に入った所にあり、道路と建物の間には青々とした芝生のある庭があって、車などの騒音が建物の中に響きにくいようになっている。
暑さに我慢できなくて千春は、ボーッと建物の外観を見ている綾菜を引っ張って中に入った。
図書館側のフロアは、千春の職場よりも少し狭く、蔵書数も少ないが、それでも十分利用者を飽きさせないほどの本が並んでいる。
平日だが、利用者は多い。
「いつも行ってる図書館で、こんなに利用者が多いの、あまり見たことないかも……」
「……もっと利用者が増えるようにがんばりまーす」
千春は苦笑いする。
「わたし、しばらく一人で館内を見て回りたいんだけど、いいかな?」
「いいですよ! あたしも仕事の参考になりそうなものを探したいと思っていたので」
綾菜に少し明るい表情が戻ってきたことに安心した千春は、軽く手を振って館内の奥の方に歩いていった。
一方、綾菜はカウンター近くにある新刊コーナーをのぞく。
どんな本を仕入れているんだろう、とワクワクする。
ハードカバーの小説を一冊手に取り、分厚い表紙をめくると、そのすぐ裏に本の帯を切り取ったものが貼り付けてあった。
綺麗に切って貼られているなぁ、と感心する。
しかもこの本の場合は、ただキャッチーな言葉だけ四角く切り取るのではなく、ちゃんと文字を際立たせるように淵にそって切られている。
この文言を利用者に伝えたい! という職員さんのメッセージが伝わってきた気がした。
内容も気になるが、この区に住んでいないので借りられないし、今ここで読んでいくにはページ数が多すぎる。
これは近所の図書館で借りるとして、彼女は大人向けの蔵書が並ぶ方に向かう。
「あった……!」
図書館なので、キチンと小声だが、隠しきれない喜びが顔にあふれている。
「綺麗だなぁ」
それは、一ページがノートパソコン並みに大きい図鑑で、両手で抱えてもフラつくほど重たい。
近くにあった木製のテーブルにドスンとのせ、表紙に印刷されている地球の写真にウットリする。
真っ暗な宇宙の中に、白い雲の筋や緑色の大陸、そして多くを占める青い海という、バラエティ豊かな色が浮かんでいることに感動する。
つい、表紙をなでなでしてしまう。
それは、太陽系の全ての星のイラストや実際の写真がのった大図鑑だ。
本当は、ほっぺたをくっつけてスリスリしたいが、さすがにやめておく。
金星の分厚い雲の下に広がる大地は超高温で、生物は生きていけないという。
火星は大気が薄く、赤茶色の寒々とした世界が続いている。
地球の両隣にある星なのに、ここまで環境が違うというのが、彼女にとって興味をそそられる。
そして、時間をかけて図鑑を見ていると、
「あのお客様、そんなに顔を近づけると、本がつばで汚れて他の方の迷惑になります」
いつの間にか、千春が左隣に立っていて、図鑑をのぞき込んでいた。
「えっ?」
綾菜は、鼻先が触れそうなくらい本に顔を近づけて見ていた。
「あたしがここの職員だったらそう言いたくなるでしょうね。実際にそんなことを直接言う勇気は、まだないですけど」
「なんだ、千春ちゃんかー。びっくりした」
「なんだ、じゃないですよ。デートなんですから、そろそろそれっぽいことしなくちゃと思いまして」
千春は、隣に置いてあるイスを綾菜のすぐ近くに引き寄せて座り、一緒に図鑑を眺め始める。
「惑星の、どういうところが好きですか?」
「太陽系の惑星はね、同じ星屑から生まれた、地球と兄弟みたいなものだと思うの。遠い遠い距離にいる兄弟のことを、もっと知りたいって思ったの」
「土星や木星って、ガス惑星じゃないですか。でも地球は岩石惑星。兄弟ですか?」
「いとこ、かな?」
「ちょっと遠くなりましたね」
「もーう。そういうのは雰囲気だよー。そういう妄想をしながら楽しむものなんだから」
「怒られちゃった」
「木星はね、太陽系外からやってくる彗星や隕石を重力で引き寄せて、地球にそれが落ちてくるのを防いでいるっていう説があるらしいよ」
「へえー、そうなんですね。まるで、家を守ってくれるお父さんみたいですね」
「お父さんは太陽なの。木星は長男」
「綾菜さんの頭の中には、すでに家族構成ができあがっている……?」
「お母さんは水星で、太陽のそばにずっと仲良くいて、金星はやんちゃでいつも怒ってる。火星は冷静で冷めた性格。火星と木星の間にある隕石群は、ペット」
「おおー。聞いてもいないのにどんどん家族構成が語られていく……!」
夢中になって妄想を続ける綾菜には自覚がないが、今の彼女は子どものような無邪気な笑顔で、ページをめくる度に鼻息を荒くしている姿は、宝探しをしているかのようだ。
千春は、そんな綾菜を見ているのが大好きだ。
その図鑑を読み終わると、すでに十二時近くになっていた。
「そろそろ隣のカフェで食事にしませんか?」
千春が立ち上がる。
「そう、だね。名残惜しいけど……」
別れを惜しむように、綾菜はその大図鑑を本棚にしまう。
「図書館のカウンターの近くに、DVDを視聴できるコーナーがあるんですけど、『宇宙の謎』っていうタイトルのドキュメンタリーも所蔵しているみたいですよ。後で見ませんか?」
「今! 今見る!」
綾菜は、正面から千春の両肩をつかんで、ガクガクと揺らす。
「え、で、でも、もうお昼でお腹が……」
「じゃあ、カフェのご飯をそのコーナーに持ってきて、食べながら見る!」
「それはさすがにダメです」
「じゃあ、人が話しているところは早送りするから! 星が映ったところだけ見るから! カフェはその後で!」
「…………分かりました。根負けしました。そうしましょう」
「やった……!」
二人はカウンターの職員に声をかけ、視聴する手続きをする。
木製のテーブルの上に19型の薄型テレビがあって、DVDプレーヤーとヘッドホンが接続されていた。
テレビは、等間隔に四台設置されていて、それらの間には木製の仕切り板があり、プライベートも確保されている。
「ヘッドホンは……。一つだけみたいだね。どうする? もう一つ借りてきた方がいいかな」
イスから立ち上がろうとする綾菜を、千春は止めた。
「こうすればいいです」
千春は、ヘッドホンの右耳側をクルッと回転させて、スポンジの部分を外側に向けると、それを自分の左耳にあてる。
「ささ。このまま綾菜さんはヘッドホンを付ければいいです」
千春はテレビの方を向いていて、視聴する準備が万端であるかのような表情をしている。
「えっ、でもこれだと顔がほぼゼロ距離な気が……。ほっぺたくっつきそう」
「一緒に見るためにはこうするしかありません! 仕方ないです。ああー仕方ないです」
「ちっとも残念そうじゃないし、むしろ嬉しそうに見えるのは、わたしの気のせいかな……」
「早く早く! 図書館職員として、他の図書館で揉めて目立つのはマズいんですよ」
「女の子二人が顔を寄せ合って一つのヘッドホンを使ってる方が目立ちそうだけど……」
諦めた綾菜は、そっとヘッドホンを付ける。
案の定、顔が三、四センチほどしか離れていなく、千春の汗のにおいを濃く感じる。
シャンプーの匂いも混ざっている。
それらのにおいにドキッとしているのか、あるいはある種の女性ホルモンを無意識に感じているのか、綾菜の心拍数は上昇していて、手のひらに汗がにじんできた。
横目で見ると、千春の顔は汗でテカテカしていた。
二人は別々のシャンプーとトリートメントを使用しているため、匂いも異なる。
千春が、家から余っているシャンプーとトリートメントを持ってきて使っているからだ。
それらが無くなったとき、千春はわたしのを使うようになって、髪からただよう香りも自分と同じになるのだろうか。
一瞬、変なことが頭に浮かんだ綾菜は、それを頭から引き離すべく、明るくなってきた画面を見始めた。
一時間ほどあるそのDVDを三十五分ほどで見終えた二人は、隣のカフェに行った。
千春はマスクを外し、開放されたすがすがしい表情をした。
図書館とは館内でつながっていて、透明な自動ドアで仕切られている。
カフェには多くのお客さんがいて、たくさんおしゃべりしていてザワザワしていそうなのに、図書館側には一切聞こえてこない。
防音機能がしっかりしているようだ。
自動ドアが開いた瞬間、話し声が洪水のように流れてきて、その雰囲気に綾菜は圧倒される。
「お腹すきました! 早く注文しましょ」
手を引っ張って綾菜を連れて行く。
二人はブラックコーヒーとパンケーキを注文した。
全く同じものを食べた。
「図鑑とDVDを見ているときの綾菜さん、子どもみたいに目をキラキラさせてて、とっても可愛かったです」
ちょうどコーヒーに口をつけていた綾菜は、千春の突然の言葉にむせてしまう。
「え、なんか、ちょっと恥ずかしい……」
むせて咳き込んだのと、恥ずかしさとで、綾菜は顔を赤くする。
「そんな綾菜さんと同じものを見れて過ごせたのは、とても至福な時間でした」
「本当? わたし、自分が楽しむことに夢中で、千春ちゃんがどう思ってたか知ろうとしなくてゴメン。でも、そう思ってくれてて安心した」
「当たり前じゃないですか。図書館デートしようって誘ったのはあたしなんですから」
「また、ここに来てもいいかな? 千春ちゃんも一緒に」
「もちろんです! 病院や薬局に行くのと同じ路線で寄りやすいので、これからもお付き合いします」
「あ、病院……。わたし、これから通院しなくちゃいけないんだよね……」
「そうですね。大丈夫です! 辛くなったらあたしに相談してください。お医者さんも優しそうでしたし、安心して治療を受けられますね」
「あ、そういえば千春ちゃんも通ってたんだっけ。もし良かったら話してほしいな」
「…………まあ、ホームシックってやつです。あたし、実家が田舎で、大学もそこから通えてたので、一人暮らしするのは今の図書館で働き始めたのが初めてだったんです。巨大すぎる都会の冷たい空気にさらされて、寂しくなって、眠れなくなったり動悸がしたり生理が乱れたり……。それで、綾菜さんと出会った少し後まで通ってました」
「あ、わたしと初めて会った時も、通院してたんだ……」
「ですです。でも、綾菜さんの優しさに触れて、綾菜さんの知的で綺麗で大人っぽい顔を見て、毎晩それを思い出していたら、不思議と胸の中にあった重りが軽くなった気がしたんです。もしかしたら、病院の薬よりも、綾菜さんという薬の方が、あたしには合っていたのかもしれません」
「わたし、恥ずかしくて、ちょっとそのセリフを言うのは難しいかな……」
「あたしは恥ずかしくないですよ。事実なので。今でも24時間薬を浴び続けているようなものなので、抜群に効いている気がします。先生からも、『症状が変わったらまた来てください』って言われてて、最近はまったく先生のお世話になってません」
「それはすごいね……」
「だからきっと、綾菜さんにとって、あたしが一番の薬になると思います。いえ、なります! だから、綾菜さんは、あたしのことをもっともっと好きになってください」
「努力するね……」
カフェでの時間を楽しんだ後、
「誰もいないところでやりたいことがあるので、ちょっと来てもらっていいですか」
暑さと緊張で顔を赤くした千春は、綾菜の手をグイグイと引っ張っていく。
図書館の駐輪スペースに連れて行かれた綾菜は、正面から千春にハグされた。
「あたしがついてますから。もう苦しまなくていいですから。辛いことがあったらあたしに言ってください」
「ありがとう……」
綾菜の首の付け根くらいの高さまでしかない千春の頭皮や、小さい背中は、うっすら汗がにじんでいてそのにおいもする。
でも、体全体で感じる千春の熱い体温はとても心地いい。
「ずっと一緒ですよ」
汗のかいた千春の両腕は、しっかりした強さで綾菜の背中に回されていて、綾菜の服がペタッと腕に張り付いている。
背の高い綾菜に上から包み込まれているようになっている千春は、この時間がいつまでも続けばいいのに、と思った。
9へ続きます。




