3、過去の夢①
綾菜が千春と出会ったのは、三ヶ月前の春頃のことだった。
彼女は、大型総合スーパーの店舗勤務だったのだが、人事異動で本社の総務部にやってきた。
「都会だ……」
数年ぶりに東京を訪れる彼女は、天高くそびえ立つ本社ビルを見上げて、圧倒されていた。
「四年目研修以来だなぁ。最近はリモートばかりで、実際に来ることはなかったし……」
綾菜はワクワクしていた。
店舗勤務では経験できない業務が、このビルにはある。
お店で一緒に働いていたパートさんとお別れするのがさみしくて、おばちゃん達の前でボロ泣きしてしまったのだが、快く送り出してくれた皆さんの期待に応えなくてはならない。
初勤務のこの日、綾菜は高揚感をいっぱい胸に抱えて、ビルの入り口をくぐった。
一言で言えば、本社勤務は地獄だった。
店舗勤務の時にも感じていたが、本社も慢性的な人手不足であった。
直接、お客様と接して売り上げを立てられる店舗とは違い、オフィスの中で会議をしたりパソコンをカタカタするだけの仕事に、あまり人件費はかけられないのかもしれない、と彼女は思った。
その職場は、いわゆる少数精鋭で成り立っているのだが、綾菜はそこにおいて足かせとなってしまった。
「まだ終わってないの!? あなたが終わらせてくれないと、私の仕事が進まないんだけど!?」
「部長が催促してくるんだ。慎重に仕事するのはいいことだけど、もう少し速くならないか? 僕も怒られちゃうから」
「寺崎さん! 備品の発注、先週やってなかったの!? 使いたくても無かったじゃない! え、送信し忘れてた? バッカじゃん。ふざけんなよ」
みたいな会話が日常茶飯事だった。
元々、メンタルが弱い彼女にとって、それがボロボロになるのに、時間はあまりかからなかった。
それでも、彼女が何とか毎日仕事に行けていたのは、週末に図書館へ通っていたからだった。
「広い図書館……」
館内に入ると綾菜は、蔵書がギッシリ詰まった棚がどこまでも続くフロアに、圧巻された。
異動が決まった時彼女は、徒歩で行けるところに図書館がある、という条件でアパートを探した。
どの区立・市立図書館も魅力的だったが、その図書館に決めたのは、ある宇宙飛行士の出身地だったからだ。
宇宙飛行士を輩出した区だけあって、通年で宇宙の不思議コーナーが大々的に展開されているという。
宇宙コーナーには、緑色のエプロンを着けた、二十代前半ほどの女性職員しかいない。
職員は、利用者が読んで乱雑に置いた本を、綺麗に整理整頓していた。
綾菜が、彼女から二メートルほど離れたところに来て立ち止まると、
「いらっしゃいませ。ごゆっくりご覧くださいね」
佐藤千春、と書かれたネームプレートを首にかけた職員は、ニコッと笑った。
チラッとのぞいた八重歯と、童顔も相まって、とても可愛らしい人だ、と綾菜は思った。
コミュニケーションが得意ではない綾菜は、軽く会釈だけし、蔵書を舐めるように見始める。
夢中で色んな本をペラペラめくっているうちに、女性職員はどこかへいなくなっていた。
次の週末も、綾菜はその図書館に足を運んだ。
先週来たときは、宇宙コーナーにいただけで数時間過ごしてしまっていたので、今日は館内をゆっくり歩いてみることにした。
ワクワク感で、彼女の肺活量は上がっていた。
鼻腔で感じられる、蔵書からただよう匂いが、心地いい。
地元の図書館とは、規模が全然違う。おそらくフロアはここの方が二倍ほど大きい気がする。
自分の背丈よりも大きな本棚の間を、のんびりと散策する。
三メートルはある大きな窓ガラスが、壁一面に張り巡らされていて、白くて薄い遮光カーテンのおかげで、外の景色は何となくぼやけて見え、日差しがちょうど気持ちいいくらいになって、窓から数メートルほど内側までを照らしている。
フロアの内側から窓に向かって歩いて行くと、まるで本の海の中を水上に向かって泳いでいる感覚になる。
白いカーテンは、水上で揺らめく水しぶき。
それを超えて、海の中に優しくて温かい光が注ぎ込む。
それだったら自分は、クジラかイルカだろうか。
そんなことを考えながら、所狭しと並ぶ本の背表紙を眺めていた。
ちょうど本棚の角を曲がった時だった。
綾菜は、本を胸に抱える誰かとぶつかった。
「キャッ!」
小さい悲鳴を上げて、綾菜は尻もちをついた。
相手は転んでおらず、その場に立っていた。
綾菜はフラフラと歩いていたため、地面を踏ん張れなかったのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
右手で三冊の本を抱えながら、こちらに左手を差し出してきた。
その手の持ち主は、先週宇宙コーナーで本の整理をしていた、二十代前半の女性職員だった。
白いブラウスと青色のジーパンの上に、膝辺りまである緑色のエプロンをしている。
他人と話すのが苦手な綾菜は、何を答えれば良いかとっさに分からず、自分の左手で職員の手を握った。
小さくてふっくらしていて、とても温かい手だった。
「どこかケガしてないですか?」
綾菜を立ち上がらせた、佐藤千春と書かれたネームプレートをした職員は、彼女の体を隅から隅まで観察し始める。
「え、ええと……」
お尻をちょっと痛めたくらいで、他にどこも違和感はないが、一応自分の体を見てみる。
右手の中指の真ん中辺りがちょっとだけ切れていて、じわっと血が出ていた。
その部位をぼんやりと見ていると、
「あ、すみません、もしかしてあたしのせいで切っちゃいましたか? ごめんなさい! すぐに手当てするので、事務所に来てもらえませんか」
佐藤は、持っていた本を適当な本棚の中に横向きにねじ込んで、再び綾菜の左手を握り、ズンズンと引っ張って歩いて行く。
「え、あ、ちょっ……」
絆創膏持っているから別に大丈夫です、と綾菜は言いたかったが、ギュッと強く手を握られていて、佐藤の手がわずかに震えているのを感じたため、言い出せなかった。
利用者が本の貸し出し手続きをするカウンターが見えてきた。
カウンターの正面は、透明なプラスチックの壁で仕切られていて、宝くじ売り場のように長方形に穴が開けられていて、そこで本や貸し出しカードのやりとりができるようになっている。
佐藤は、右手で自分のネームプレートを持つと、それを事務所のドアの横にある読み取り機に当て、セキュリティを解除し、綾菜と一緒に中に入った。
綾菜は、カウンターの裏側が珍しくて、まず最初にそちらを見た。
貸し出しカードを読み取る機械とデスクトップパソコン、事務作業に使う文具が入っているプラスチックの筒……。
観察できたのはそれだけで、カウンターの椅子の後ろを通り過ぎ、佐藤に奥にある給湯室へ連れ込まれた。
「あの……」
こんなところで何をするんだろう、ただ絆創膏を貼ればいいだけなのに、と思っていたら、
「あっ」
佐藤は蛇口をひねって水を出し、綾菜の右手首をつかんで、血のにじんでいる所を流水に突っ込んだ。
「うっ」
綾菜は、傷にしみる痛みではなく、冷たい水の刺激に驚いて、少し体をビクッとさせた。
だが、佐藤が強く手首を握って離さないので、三十秒ほど水をかけられ続けた。
その後は、近くにあるティッシュ箱から一枚勢いよくシュッと取り出して、傷口の水滴を軽く吸い取らせ、キッチンの棚を開けて絆創膏を一枚出し、保護紙を取ってグルグルと綾菜の指に巻いた。
「ごめんなさい!」
巻き終わると、佐藤は腰を九十度に曲げて頭を下げた。彼女のさらさらしたショートヘアーがふわりと浮いて沈んだ。
「い、いえ、もう大丈夫なので……」
別に痛みはないし(冷たい流水を当てられ続けて若干感覚が鈍いが)、深い傷でもないと思うので、もうこの話をさっさと終わらせて帰りたいと思っていたのだが、
「で、でも……」
佐藤の目が潤んでいるのが見えて、踏み出しかけた足を引っ込めた。
ずいぶん若い見た目の職員さんだけど、新人さんだろうか。
もしそうだとしたら、お客さんとのトラブルはあまり経験がないかもしれない。
だから、泣きそうになっているのだろう。
綾菜はそう思った。
こんな時、どうしてあげたらいいのだろう。
綾菜だって、他のお店や施設の裏側に入って処置を受けた経験などないので、若干パニックになっている。
こういう時、お世話になったパートのおばちゃん達はどうしていただろう。
思い出そうとしていた時、
「あら、どうしたんですか?」
佐藤と同じ格好をした、五十代くらいの女性が給湯室に入ってきた。
女性は、聞き慣れない人の声、つまり綾菜の声を聞いて不審に思い、事務所に戻ってきてすぐ二人の前に顔を出した。
「あ、あたし、利用者さんにケガさせてしまって……」
佐藤が、声を震わせながら説明する。
「え、ああ……。申し訳ありません! おケガは大丈夫ですか?」
ネームプレートに木村という名字の書かれた女性が綾菜の手をのぞき込む。
「問題……ないです。多分、ちょっと本の紙の先端で切っちゃっただけだと思うので」
職員が二人に増えて、さらに緊張した綾菜は、ボソボソとようやく聞き取れる声で答えた。
「もし化膿したり症状が悪化したりしたら、すぐに病院を受診してくださいね。領収書を持ってきていただければ、こちらでかかった費用を負担しますから」
木村は冷静に言った。
利用者とのトラブルを何回も経験してきたように感じる、落ち着いた話し方だった。
「そ、そんな、本当にたいしたケガじゃないので……」
もう本当にこの話を終わりにしたいと綾菜が思って、やんわりと断ろうとした時、
ヒックという声を聞いて、綾菜は木村から佐藤に視線を移した。
「病院……! 一緒に……行きます……。ううっ……」
とうとう佐藤は、大粒の涙を流しながら泣き始めてしまった。
あらあら、と慌てながら木村は、今度は佐藤の心配をし始める。
「落ち着いて。利用者さんが、大丈夫と言ってくださっているでしょ。ケガさせてしまったことは仕方ないけど、次から気をつけたらいいの」
優しい声で木村は、佐藤の背中をさすりながら言った。
まるで親子のように見える。
その瞬間、綾菜は思い出した。
店舗勤務だった時、お客様にご迷惑をおかけして、バックヤードでパートさんになぐさめてもらっている最中、そのおばちゃんが綾菜にしてくれたことを。
「え……?」
佐藤は、涙でグショグショになっている顔を上げた。
綾菜に正面から頭をなでられていた。
背中をさすってあげていた木村も、さすがに利用者のこの行動は見たことがなく、手を止めてしまった。
「もう、泣かないでください……。わたしは、大丈夫ですから……」
綾菜は、自分が公衆の面前で恥ずかしいことをしているのを自覚していた。
その証拠に、佐藤の頭をなでる手の体温が上がっている。
でも、そのさらさらの髪から手は離さなかった。
だって、あの時のパートのおばちゃんは、自分の勤務時間が過ぎてしまっても、綾菜が泣き止むまでずっと、頭をなでてくれたから。
木村は自然と佐藤の背中から手が離れていて、二人の様子を見守っていた。
綾菜の首の付け根あたりまでしかない佐藤の頭頂部から、汗と石けんの混じった香りがしてきて、なでる度に舞い上がる。
佐藤の頭が少し動いて、なでている彼女の手の平が、一瞬佐藤の左頬に触れた。
桃色に染まっていて、カイロのように温かかった。
それから少しして、綾菜は手を止め、引っ込めた。
「ええっと、それじゃ、失礼します!」
綾菜は逃げるように事務所を出て行った。
4へ続きます。