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2、綾菜と千春

 シャワーを浴び終わると、洗濯機が回っていて、床の上がすっかり片付いていた。


「あ、終わりましたか。ごくろーさんです!」


 掃除機をかけていた千春が顔を上げて、ニカッと歯を見せて敬礼した。


「下着とスウェット用意してくれてありがとう」


 綾菜は素直にペコッとおじぎする。


「いやだなぁ、照れるじゃないですか。これくらい気がきかないと、社会で生きていけませんよ」


 ダッハッハと豪快に笑った。

 社会で……。

 その言葉に、綾菜はグサッと心を貫かれたような気持ちになった。

 人間として生きている以上、社会で他者と関わり合いを持つことは必然だ。お互いに気を使うことで人間関係が潤滑になる。

 だが、自分にそれはできているだろうか、いや出来てない。だから、人生のレールから外れて会社を無断欠勤し、年下の女の子にお世話されているのだ。

 こんなダメ人間が生きている価値などあるのか。誰かに迷惑をかけるだけの存在なんて、この世からいなくなった方がいいのではないか。

 そうだ、死のう。どうやって死のうか。包丁で腹を刺すのは怖いから嫌だ。崖から飛び下りても、中途半端に死ねなくて息をするのも辛いなんてごめんだ。とすると、毒物か。今や、ネットを開けば家庭によくある洗剤をどう混ぜれば危険物に変わるのか、すぐに分かる。そうしよう。血も飛び散らないし、後処理が楽なはずだ。


「……さん。……菜さん」


 どこか遠くから声がする。


「綾菜さん!」


 気がつくと、千春に肩を揺さぶられていた。三十センチしか離れていない所に、彼女の顔がある。

 その表情は、世界にただひとり残されたかのように不安そうだ。


「どうしたんですか? なんだかすごく思いつめた顔してましたよ? ねえ、そろそろあたしに話してくれてもいいんじゃないですか?」


 話す? 何を話す?


「決まってるでしょ。あなたが今何に苦しんでるか、です。あたしがここまでしてあげてるんですよ。打ち明けてください」


 珍しく、千春が真剣な表情をしている。しっかり綾菜の肩をつかんで離さない。

 あの、えっと……。綾菜は言い淀む。

 こんなこと話しても大丈夫だろうか。面倒だ、なんて思わないだろうか。


「もし話してくれないと、服も下着も全部はぎ取って、素っ裸のあなたを外に放り出しますから」

「わ―! 話す話す! 話すから!」


 まったく、千春の冗談はいちいち心臓に悪い。

 結局、脅される形になって告白することになった。

 綾菜は口を開こうとしたが、


「待ってください。それはご飯を食べ終わってお風呂に入って、お酒でも飲みながら聞きましょう」


 千春に唇をつままれた。


「わふぁし、おふぁふぇは……」

「え、お酒嫌いですか? まあ、一応ジュースも買ってきますけど」


 いまいち話が見えなくて、綾菜は首をかしげる。


「あたし、今日はここに泊まります。今日は金曜日ですし、綾菜さんは大丈夫ですよね。あたしは明日も仕事ですけど、問題ないので、深夜までじっくりお付き合いします」


 じゃ、一回家帰って買い物してから戻ってきますんで。

 千春は疾風の如く去っていった。

 物事が早く進展しすぎて、頭の中で整理するのが追いつかない。



 それから一時間後、アパートの階段を上がってくる音がして、ドアが開いた。


「いやー、夜だっていうのに暑いっすねー。もう汗だくですよ」


 千春はラフな格好に着替えていた。それに、高さ三十センチほどのリュックサックを背負っていて、両手には中身の詰まった買い物袋がある。彼女は適当に靴を脱いで上がり、台所に袋を持っていった。


「また寝てるのかと思ってましたけど、起きてたんですね」


 千春は、テレビをぼーっと見ている綾菜をちらっと視界に入れる。何となく、放っておけばふらっとどこかへ行ってしまう気がして、常に監視していないと気が済まない。


「……寝てたら、素っ裸にされて家から閉め出されそうだったから」


 綾菜はぶるぶるっと身震いした。


「そーですね。今度からそうします」


 クククッと笑い、千春はリュックを下ろして綾菜の近くに放り投げた。そしてせっけんで手を洗い、買い物袋の中身を台所に広げ始める。


「あの、千春ちゃん。何してるの……?」


 立ち上がって台所を遠くから見る。そこにはじゃがいもやたまねぎ、人参や豚肉があった。そしてカレールー。


「カレーを作るんです。せっかくのお泊りですし、でも綾菜さんは料理作らないみたいですし」


 千春は、部屋の片隅に集められているゴミ袋をあごで示す。コンビニ弁当の容器がたくさん入った袋が多い。


「千春ちゃん、コンビニの方が楽だし、最近はレストラン並みにおいしいものもいっぱいある……よ……?」

「まあ、一人でご飯食べる時は、お金に余裕があるんだったら何を食ってもいいとは思いますけどねー。でも、二人で食事するのにコンビニ弁当じゃ味気ないでしょっていう話です」


 じゃがいもを水洗いしながら真顔でそう答えた。


「綾菜さん、ヒマだったらゴミを出してきたらどーですか? あれが視界に入ると食欲落ちちゃいます」


 千春はそれを指さす。


「そう……だね。でも、明日は資源ゴミの日だから、他のゴミは物置に入れておかないと」


 重い体を引きずるようにして歩き、ゴミを持ち上げる。


「じゃあ、そうしてください」


 顔を上げずに千春はつぶやく。



 三十分経って洗濯物を干し終わると、ちょうどご飯が炊いた知らせが鳴った。

 綾菜にはローテーブルの前で待ってるように言うと、千春はご飯をよそってカレーをかける。特にアレンジはしていないが、シンプルが一番いいと思えるようなカレーになったはずだ。

 いただきます、と二人は手を合わせた。そしてほとんど同時に口へ運ぶ。


「……おいしい」

「うん! 上手くできた。良かったー」


 テレビの前で横に並んでいる二人は、互いの顔を見てクスッと笑った。

 食べ終わったころには、千春はさらに汗だくになっていた。綾菜も、せっかくシャワーを浴びたのに額が汗で光っている。


「……暑いね」

「そーですねぇ」


 年寄り夫婦のようなかけ合いになったのがおかしくて、また二人はフフフと笑いあった。

 洗い物を済ませると、千春はリュックを漁ってある物を取りだした。


「これ、レンタルしてきたんです。一緒に見ましょ」


 千春は、DVDを綾菜の顔の前でちらつかせた。『プラネットマーズ~火星に人は住めるのか~』というシミュレーション映画だ。

 それを見たとたん、お腹いっぱいで眠くなっていた綾菜の目が大きく見開いた。


「ええ!? 千春ちゃん、ありがとう!」


 綾菜は千春にすばやく抱きついた。千春の体は小さいけど温かくて柔らかい。


「綾菜さんの……大きな胸…が……苦しい……」


 千春は綾菜の背中を叩いて、息が苦しいことを伝える。


「ああ、ごめんなさい。つい興奮しちゃって」


 慌てて千春を離す。綾菜の息はすっかり荒くなっている。

 DVDをひったくるように受け取ると、綾菜はテレビにセットした。



 一時間くらいの映画だった。女性ナレーターがCGを駆使した映像を使って分かりやすく説明してくれて、綾菜はもちろん、あまり惑星に詳しくない千春でも理解できる内容だった。

 映画の余韻に浸っている綾菜は、ローテーブルに突っ伏した。満足したから、もう寝たいらしい。


「ちょっと待ってください。次はあたしが好きな映画を一緒に見るんですから」


 そう言って千春は別の映画のDVDをセットした。今度はヤクザモノの映画で、有名な男性アイドルが主演を務めている。

 そのアイドルが画面に登場するたびに、千春は体をもじもじさせ、ヒロインに告白するシーンではキャーと歓声を上げた。

 合計三時間ほど映画を見た二人は、少し疲れた顔をしていた。


「……お風呂沸かすね」


 席を立って綾菜はお風呂場に向かった。


「よろしくでーす」


 千春は気の抜けた声で返事した。



 お風呂からあがった千春は、


「お願いします」


 とリビングに、両足を横に折って座った。

 背の低い彼女が床に座ると、さらに小さく見える。

 火照った背中をこちらに向け、髪の毛を完全に綾菜に預ける。

 綾菜は、毎週のようにこうして千春の髪を乾かして梳いていた。

 最初の頃は、他人の髪の毛を触るのに緊張していたが、何回もやっていて慣れてきた。

 ドライヤーをゆっくりあてて、それから櫛で梳いていく。

 千春の髪はショートヘアーでさらさらで、とても整えやすい。

 その後、綾菜は冷蔵庫からビールとオレンジジュースを一本ずつ取り出して持ってきた。ビールは千春ので、オレンジジュースは綾菜が飲む。


「じゃあ、今日もお疲れっしたー。乾杯っ!」


 千春の音頭で、互いの缶をぶつけあった。


 綾菜はコクッと少しだけ飲んでテーブルに置いたが、千春は豪快に半分ほど飲んだ。

 ビールを流しこむたびに、彼女の細い喉からわずかに出っ張った喉仏が上下に動く。


「プハァ! ……やっぱりこのブランドのビールはいいなぁ。やっぱり生が一番だよね」


 うんうん、と千春は一人で納得する。


「クスクス」


 そんな千春を見て、綾菜は小さく笑った。


「ちょっとー。何笑ってるんすか。ダメなんですよ、人のこと笑っちゃー。何なんですかー?」


 隣に座る綾菜のわき腹をくすぐる。


「キャハッ! やめて……。息が……できなく……なる……」


 綾菜はヒッヒッヒッと息が辛そうにして笑う。

 くすぐるのが終わって一呼吸つき、やっと話せるようになった。


「あのね……。千春ちゃん、昭和の親父みたいな飲み方するなって思ったの」

「いやいや、あたしまだ二十四歳なんですけど。というか、そもそも性別違うんですけど。加齢臭してないんですけど」

「腹巻きしたら、似合いそう……」


 笑いのツボに入ったのか、綾菜はクスクスと再び笑いだす。


「なんだとー! じゃあ、綾菜さんはふんどししてもらいますからね!」


 綾菜の着ているパジャマのズボンを脱がせようと引っ張る。

 キャーキャーと笑い死にそうになりながら、千春に抵抗した。



 それから二時間後、二人は暗い寝室で同じベッドに入っていた。

 暗くなると、どうしても思考も闇に染まっていく。綾菜は、今朝出勤できなかった時の気持ちがよみがえってきた。だんだん体が震えてくる。


「綾菜さん」


 千春の優しい声で、ハッと我に返った。「約束ですよ」


「約束?」


 綾菜は隣に寝ている彼女の顔を見る。


「悩みごとを話してくれるっていう約束です」


 その言葉に、綾菜は納得したように「ああ……」とつぶやいた。


「分かったよ、千春ちゃん。この話、まだ誰にもしたことないんだ……」


 そうして、綾菜は語り始めた――



 話を聞き終えた千春は、綾菜の方を向き、


「イジメじゃないですか!? なんでそんなものが、まかり通っているんですか? ありえないですよ」


 と、鼻息を荒くした。

 荒々しい吐息が、綾菜の頬にかかる。


「わたしの職場、とても人手不足だから……。みんなイライラしてるの。だから、一番ノロマで仕事ができないわたしに、いちゃもんつけてきたり、いたずらしたりしてくるの」

「だからって、そんな小学生みたいなこと、大人の世界で許されるわけが……!」


 暗闇の中で目をギラギラとさせている千春に、綾菜は言った。


「頭が小学生のまま大人になる人も、世の中にはいるんだよ」

「……そんなひどい職場なら、やめちゃったほうが良くないですか?」

「一応大手だから給料は悪くないと思うし、正社員だし、今やめちゃったら、他に条件のいい職場なんてないだろうし、それにわたしなんて他にどこも雇ってくれないもん」

「綾菜さんだって、世の中のすべての仕事を知ってるわけじゃないですよね。ダメですよ、そんな考えじゃ」

「……そうだよね、わたしってダメな人間だよね。もう、疲れたの。もう、何も新しいことをやる気が起きないの」

「…………」

「話疲れた。もう寝てもいい?」

「ええ、もう寝ましょうか。きっと一晩寝たら、悪いこと全部忘れてますよ」

「…………」


 二人はすぐに意識を失った。

3へ続きます。

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