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13、本の海の惑星

 十月初旬のある日、出勤前の千春に、綾菜は言った。


「復職しようと思う」


 コーヒーを口に含んでいた千春は、ブーッと吹き出して、むせた。


「え、え、急にどうしたんですか? 大丈夫ですか? 課長さんに何か言われたんですか?」


 綾菜は、まっすぐ千春を見て、言う。


「この前、上映会で出会った人の働いている店舗に、配置換えをお願いしようと思ってて。課長も前に、その話をしていたし。ここから通いやすいし」

「へえー。その女性とは連絡先交換したんですか?」

「それはしてない。でも、あの人が言う『ズル休み』っていう言葉、なんかいいなって思ったの」

「ズル休み、ですか?」

「うん。もっと気楽に生きてみてもいいのかなって思ったの。わたしがズル休みしてた時は、罪悪感ばかりだったのに、あの人堂々としてたから」

「ふーん、ふーん。あたしがきっかけで復職しようという考えに至ったわけじゃないんですね。ふーん」

「え、何か機嫌悪い?」

「当たり前でしょ。あたしたち恋人なのに、相手からいきなり他の女の話されて、気分いいわけないじゃないですか」

「えっと、えっとね。千春ちゃんと一緒に暮らしていると気分が楽になるから、それが一番のきっかけだよ」

「ふーん、何かとってつけたような言い方ですね」

「えー、違うよ? 機嫌直して。ごめんね。えっと、えっと、千春ちゃんがいなかったら、病院に行くとか、休職するとか考えなかったと思うから、とても感謝してる。ありがとう」

「……あたしから、あの女に鞍替えしないって、約束してくれますか?」

「そんなことしないよ! これからもずっと一緒だよ!」

「じゃあ、キスしてください。唇に。今すぐ!」

「い、今すぐ……?」


 突然キスしろと言われて、しどろもどろになった綾菜だったが、静かに目を閉じた千春をまっすぐと見ると、軽く唇を合わせた。


「今からエッチしましょう。服を脱いでください」

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってちょっと待って! もうそこまでやっちゃうの? というか、千春ちゃん、これから仕事じゃ……」


 すると、千春は職場に電話すると、風邪を引いたから休むと言って電話を切った。


「これであたしは休みになったので、いっぱいエッチができますね」

「そ、それってズル休みじゃ……」

「あれー? ズル休みはいいことだって、さっき言ってませんでしたー? あれはウソだったんですかー?」

「エッチするために休むのは……」

「あー、あたし、他の女の話をされて心が風邪を引いてしまったかもしれません。綾菜さんに治してほしいなー」

「…………分かった。いいよ」

「もう一度、キスしてください」


 二人は、長い時間唇を合わせた。



 別の日。

 通院して主治医に今の考えを伝え、その足でそのまま本社へ行って課長に配置換えの件を話し、綾菜はビジネス街を歩いていた。

 課長はその日、一日出張だったので、夕方頃に本社で会う約束をし、面談を受けた。

 連絡を取って、本社近くのカフェで待っていた千春を呼ぶ。


「休職期間が明けたら、店舗勤務になるって。休職明けだから、最初の二週間は四時間勤務になるみたい」


 綾菜は、課長から言われたことを話した。


「本当にいいんですか? 綾菜さん、無理してませんか? 休みたかったら、まだ休んでいていいんですよ? 食いぶちはあたしが稼げるんですから」

「お金のことは、本当に千春ちゃんに感謝してる。ありがとう。そういうことに引け目を感じていることは確かだけど、でもそれだけが復職するきっかけじゃないよ。もっと気楽に生きていいかなって思ったから」

「……分かりました。応援します。あたしがついてますから。一緒に気楽に生きましょう」

「うん、仕事を始めても、ちゃんと図書館には通うから。寂しくないでしょ?」

「べ、別に寂しいと思っては…………いますけど。図書館に来てくださいね? 宇宙の本やDVDをたくさん用意して待ってますから」

「絶対行く」


 日が落ちるのが早くなってきて、空には星が光り始めている。


「もう星が見えるね」

「秋ですねぇ」

「あの星の中には、わたしたちの知らない星がいっぱいあるんだろうね」

「もしかしたら、本で埋め尽くされた星もあるかもしれませんね」

「そ、そんな星あるかな……。さすがにないと思うけど」

「えー、綾菜さん、自分の目で確かめましたかー? もしかしたら、高度な知的生命体が収集した本を集めた惑星が、どこかにあるかもしれませんよ」

「すごい発想だね……。つまり、本が地球の海みたいに惑星の大半を覆っていて、宇宙人はわずかの大陸に住んでる感じ?」

「そう、そんな感じです。ねぇ、もしそんな惑星があったら行ってみたいですか?」

「もちろん。人生を全て捧げて読んでみたいよ」

「あたしもお付き合いします」


 二人は、ビジネス街の光の中に消えていった。

以上で作品は終わりです。お読みいただきありがとうございます!

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