10、休職生活
病院へ行った次の日の水曜日から、綾菜は休職となった。
スマホから鳴った朝のアラームを止めて、彼女は気づいた。
「今日から休み……」
いつもの習慣で昨晩、アラームをセットしていたようだ。
また、夢を見ていた。
遅刻をして先輩に怒られている夢を。
実際に言われたことはないけれど、いつもイライラしているあの人ならこういう風にこっぴどく自分を叱るだろう、という感じだった。
イヤな夢を見た日の朝は、変な汗をかいている。
シャワーを浴びないといけない。
一人暮らしをしていた頃は、パッと汗拭きシートで拭うだけで済ませていたが、今は千春と同居している。
あの子は、しょっちゅう抱きついてくるから、臭いにおいを嗅がれるのは抵抗があった。
寝不足でものすごく重たい体を何とか起こしてベッドから出ると、カーテンを引いて薄暗い室内をのそのそと歩き、給湯器のスイッチを入れた。
スイッチを入れると、「ピロン♪」という高い音が鳴る。
その音で、隣の部屋で寝ていた千春が目を開けた。
数分後、「給湯できます」という音声が聞こえてきて、綾菜は部屋着と替えの下着を持って、お風呂場へ向かった。
「綾菜さん、汗かいたのかな……」
シャワーの音が聞こえてきた頃、千春は四つん這いで部屋から出てきて、お風呂場の方を見た。
ダボダボの白い半袖の襟が、重力で下に垂れ下がっていて、中に付けている下着と、それが支えているわずかな大きさの胸の上部が見えている。
「あたしも、汗かいたなぁ。シャワー浴びようかな……」
本当のところ、千春は今すぐにでもお風呂場に行きたかった。
「自分も寝汗をかいてしまいまして! 一緒に浴びてもいいですか! もう裸になって入ってきてしまってますけど!」と、元気よく浴室に飛び込みたい。
でも、それをしたら綾菜はどう思うだろうか。
仕事を休むくらい精神が追いやられている人間に、あまりベタベタすると、疲れさせはしないだろうか。
「今は、やめておくか」
そうつぶやいて、お風呂場とは反対方向を見た。
そこには、綾菜のベッドがある。
タオルケットを足の方にまでどけていて、青いシーツが露わになっている。
確か、最後に綾菜のシーツや枕カバーを洗ってあげたのは、一週間前だ。
ゴクリ、と千春はつばを飲んだ。
間接的に甘えるのは、綾菜にとって負担にはならないはずだ、と千春は思う。
何より、彼女はシーツと枕カバーのにおいが気になっていた。
はたして、汗のキツいにおいがしてくるか、はたまた綾菜の癒やしの匂いに包まれるか。
別に罪なことではない。
これまでに何回も、綾菜の寝ている所に潜り込んで、匂いやぬくもりを堪能している。
ただの戯れなのだ。
静かに、綾菜のベッドに仰向けに寝転んだ。
「おお……」
さっきまで綾菜がここで寝ていたから、綾菜の体と同じ大きさのぬくもりを強く感じる。
小さな千春の体をスッポリと包んでくれる。
まるで、ベッドの上で抱きしめられているようだ。
早く本当に、強く抱きしめてほしい。
一方、においは――
「ああ……」
洗った方がいいかもしれない。
意識があったのは、そこまでだった。
十五分後、綾菜が戻ってくると、
「千春ちゃん……?」
自分のベッドでタオルケットもかけずに仰向けで寝ている千春がいて、綾菜は困惑している。
シャワーを浴びに行ったとき、まだ千春は隣の部屋で寝ていたはずだ。
知らぬ間にテレポートしている。
口をポカンと開けて本格的に寝ていた。
千春も寝ている間に汗をかいていたようで、顔がテカテカしている。
シーツや枕カバーから自分の汗臭いにおいがしていないだろうか。
それを千春が感じていないか不安になった。
綾菜は、あわてて千春の体を揺すって起こす。
「おふぁようごじゃいます-」
ふわぁ、とあくびをした千春は、のんびりと体を起こし、自分の部屋に戻っていった。
白いブラウスと青いジーンズと替えの下着を持って、お風呂場に行く。
「今日は仕事なの? のんびりしてて大丈夫?」
綾菜が不安そうに尋ねた。
「職場は歩いてすぐの所なんで、問題ナッシングです」
お風呂場のドアを開けかけたところで千春は、「あっ」と思い出して、着替えを急いで脱衣所のカゴに入れると、ズンズンと足音を鳴らして綾菜のベッドまで戻ってきて、シーツと枕カバーをはがした。
「えっ、えっ?」と戸惑う綾菜は無視する。
綾菜がいつもパジャマをしまっている所は分かっているので、そこをガバッと開けてつかんで、一旦床に置き、隣の部屋に行って、自分のシーツと枕カバーを持ってきて、すべて両手に抱え、お風呂場へ持って行った。
そして、今来ている寝間着と下着も一緒に洗濯機へ入れて、洗剤も注ぎ込み、スイッチを入れる。
リビングでアワアワしている綾菜に向かって、体をドアから出して、叫んだ。
「綾菜さん、課題です! 洗濯物を干してください! 朝ご飯は、昨日のうちに作っておいたおにぎりが冷蔵庫に入ってます! 以上!」
千春は、バタンと勢いよくドアを閉めた。
「わ、分かった……」
綾菜は小さく返事した。
千春には聞こえなかった。
こちらに叫んでいるとき、千春はもちろんスッポンポンで、細い首筋や鎖骨や華奢な右肩だけでなく、控えめな右胸もハッキリと肌が露出しているのが見えた。
もし自分がそうしていたら、間違いなく恥ずかしいだろうなぁ、と綾菜は少し顔を赤くする。
でも、それが千春ちゃんなのだ、と理解しつつある自分も、確かにいた。
シャワーを浴びておにぎりを頬張って色々朝の支度を済ませた千春は、嵐のように部屋を出て行った。
一人になった綾菜は、部屋をゆっくりと見回す。
外から小さく車の音が聞こえてくるくらいで、静かだ。
急に寂しくなって、テレビを付ける。
基本、平日の昼間に働いていた綾菜は、この時間に放送されている番組を見たことはあまりなかった。
なんだか、学生時代に風邪を引いて学校を休んだときにテレビを見ていたことを思い出した。
あの日のテレビ番組は、特別感があった。
普段見ていればたいしたことのない企画でも、学校を休んでいるときに見るとすごく面白いものに感じた。
その時の感覚を、今も感じている。
朝ご飯を済ませて、洗濯物を干し、歯磨きをしたら、ドッと疲れが出てきた。
予備のシーツと枕カバーを巻くと、仰向けに寝転んだ。
ベッドの上で、体が少しバウンドする。
もう、眠ることしか考えられない。
仕事に行かなくてもいいのだ、と分かっていると、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。
欠勤の連絡を入れた後、申し訳ないという気持ちが強く出て、朝食べたものを吐いてしまったこともあった。
もちろん、自分のしていた仕事を他の人がこなしている罪悪感は相変わらずあるが、上司や医師から三ヶ月休んでいてよいと言われていることが、救いになっていた。
とりあえず、寝よう。
水色のキャミソールと灰色のスウェットのズボン姿で、彼女はそのまま眠りに落ちた。
遠くから、アパートの鍵を開ける音が聞こえる気がする。
ドアが開いたり閉まったり、千春がよく履いている靴をトントンと玄関で整えたり、タッタッタっと廊下を小走りしてくる音がする。
玄関からリビングに行くまでに、ドアは存在しない。
軽快な足音を立てる人物は、バンザイと両腕を上げて寝ている綾菜を、ベッドのすぐ脇に立って見下ろした。
その人物は、綾菜の右のわきを、人差し指でツウっとなぞる。
「ひゃああんん!?」
一気に覚醒した綾菜は、ベッドの上で飛び起きた。
「……もしかして、あたしが仕事に行った時からずっと寝てました? あ、いや、洗濯物は干してるか」
千春はバッグを床に投げ出すと、コンビニで買ってきたあんぱんとコロッケとコーンサラダをローテーブルに広げた。
「び、びっくりした……」
綾菜はベッドの下に足を垂らして座り、自分の体を両腕で抱き、わきを締めている。
「あたしが剃ってあげましょうか?」
パンの袋をバリッと勢いよく破って一口食ってから、そう尋ねた。
「な、何を……?」
まだ綾菜の心臓は、いつもより速く脈打っている。
「わき毛」
レジ袋から紙パックの牛乳を出してストローでチューチュー吸い、それをテーブルに置いた後、自分の右のわきを上げて、左手の人差し指で示した。
ブラウスに少し汗染みが出来ている。
「うそっ……!?」
綾菜はまたベッドに登り、千春に背中を向け、右腕を上げて、窓から入ってくる光にさらす。
光を浴びて、水分を多く含んだきめ細かな肌が、キラキラと光っている。
「あたしは別に、綾菜さんに少しくらい生えててもいいんですけどねー。露出する季節だから、一応お伝えしようかと思いまして」
千春はニヤニヤしている。
「油断してた……」
綾菜は、ハアっとため息をついた。
「ところで、ちゃんと洗濯物を干しててエラいです」
一口サイズのチキンを爪楊枝で刺して口にポイと入れて、咀嚼しながら言った。
「だって、怒られると思って……」
ベッドの上で、両足を横に折って座り、しっかりわきを締めた。
「別に怒りませんよ。できなかったら、あたしがやるだけです。できることから一つずつやればいいんです」
コーンサラダをプラスチックのスプーンでかきこむ。
「うん……」
綾菜はションボリとした顔をする。
今日は洗濯物を干すことしかしていない。
いくら休職しているからといって、こんなのでいいのだろうか。
だんだん、綾菜の表情が深刻になっていく。
「すきありっ」
すばやく駆け寄ってくると、千春は綾菜の脇腹をチョンと突いた。
「あんっ!」
たちまち綾菜の顔が真っ赤になる。
「もし元気があるなら、図書館に来ませんか? あたしは小学校に行って先生と会議があるので、いませんけど」
パンの袋とチキンの厚紙をゴミ箱に捨てて、コーンサラダの入っていたプラスチックの容器をキッチンで洗いながら提案した。
「図書館……」
綾菜の顔の筋肉が少し緩む。
サラダの容器を捨てて、千春はグラスに注いだ水で軽く口をゆすぎ、その後トイレを済ませて、バッグを手に取って玄関に向かう。
「行ってみようかな……」
綾菜のその声が、玄関でわずかに聞こえた千春は、
「わき毛を剃ってからですよ!」
玄関の外にまで聞こえる声で、リビングに向かって言ってから、千春はドアを閉めて鍵をかけた。
「わ、分かってるよ!」
恥ずかしそうに、おなかに力が入っていない声で綾菜は叫んだが、千春には届かなかった。
その後、誰もいなくなったリビングで、彼女は上半身裸になると、洗面台へ向かった。
平日だからか、千春の勤める図書館は空いていた。
普段、週末しかここへ来ないため、すごく違和感がある。
小学生の頃、学校を休んで病院へ行き、その帰りに親の買い物に付き添ってスーパーへ寄ったことがあったが、その時は誰にも見られないようにずっと親の背中に隠れていた。
学校に行っていないのに外をうろついていていいのか、という罪悪感が、小学生ながらあった。
今、綾菜が図書館で感じているこの気持ちは、あの時のものと似ている。
フロアを、ぐるっと見回してみた。
まだ夏休み中のはずだが、子どもの姿はなく、大人だけだ。
働き盛りに見える若い人も、ちらほらいた。
あの人たちは、今日休みなのだろうか。 それとも、自分みたいに仕事に行けずに休んでいるのか。
どちらかなんてことは、見ただけでは分からない。
でも、罪悪感は拭えなくて、彼女は開放的なフロアを避け、背の高い本棚が森林の木のように所狭しと並んでいる場所へ、逃げるように向かった。
やはり、宇宙の本を見ていると落ち着く。
心の重りが、ちょっとだけ軽くなる。
宇宙の広さや怖さに比べれば、自分の悩みが小さなものに思える。
本棚の前に、筒型のクッション性のあるイスを持ってきて、図鑑を開く。
普段なら、今頃働いている時間で、総務部では先輩方や上司が忙しそうにしていることだろう。
罪悪感がまた顔を出すが、なるべく考えないようにする。
四時間くらい経って、宇宙の本を何冊か読み終わった頃、
「あ! 綾菜さん来てくれたんですね!」
仕事姿の千春が、本棚の陰から顔を出した。
「うん……。誰もいない家で一人きりより、ここにいた方が気分が安らぐから」
千春の血色のいい顔を見て、綾菜はフッと笑顔になる。
「それってもしかして、あたしのいる所が落ち着くってことですか? そうですか?」
千春が、グイグイと顔を寄せてくる。
ふわりと、柔軟剤の香りがした。
「それも……ある。本がたくさんある所が落ち着くのもある」
「頭なでなでしてもいいですか?」
「ちょっとだけなら……」
千春は、三回なでた後に、
「実は、今週の日曜日、図書館の中庭でイベントをやるんですよ。事前に区民から集めた古本を並べて、格安で販売するんです。食べ物を売る屋台とか、射的とか、紐くじとかも出します。良かったら来ませんか?」
「イベント? この図書館、そういう事もやってるんだね。……うん、来たい。どんな本が売ってるか楽しみ」
「あー。もちろん、休憩時間に本をじっくり吟味してもらうのはいいんですけど、綾菜さんに主に参加してほしいのは、そっちじゃないんです」
「え……?」
「利用者が買う古本のお会計をしてほしいんですよ」
「お、お会計……」
11へ続きます。




